フランス王国

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フランス王国
Sin bandera.svg 987年 - 1848年[1] Flag of France 1790-1794.PNG
フランスの国旗
国旗
公用語 オイル語オック語ブルトン語フランス語
首都 パリ
国王
987年 - 996年 ユーグ・カペー(初代)
1328年 - 1350年 フィリップ6世(ヴァロワ朝初代)
1589年 - 1610年 アンリ4世(ブルボン朝初代)
1815年 - 1824年 ルイ18世(ブルボン朝第6代・フランス復古王政初代)
1830年 - 1848年 ルイ・フィリップ(オルレアン朝)(最後)
変遷
成立 987年
フランス革命 1789年
王政廃止 1792年
王政復古 1815年
七月革命 1848年

フランス王国(ふらんすおうこく、le Royaume de France)は、現在のフランス共和国に存在し、その前身となった王国987年カペー朝の成立に始まり、1848年オルレアン朝が倒れるまで、第一共和政第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約860年続いた。

目次

[編集] 歴史

[編集] カロリング朝

フランス王国はかつては、西フランク王国と呼ばれていた。現在では、カロリング朝の時代を指して西フランク王国と呼ぶことが多い。カロリング朝の下における西フランク王国については、西フランク王国を参照。

[編集] カペー朝

詳細は「カペー朝」を参照

カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世ロベール家)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれ、カペー朝(987年 - 1328年)が成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺のイル=ド=フランスを押さえるのみであったが、フィリップ2世フィリップ4世の時代に王権を拡大させ、イングランドローマ教皇の勢力に対しても優位に立った。1328年まで14代の王が続き、またブルボン朝に至るまでフランス王国の歴代の王朝はみなカペー家の分族から出た。

カペー家」も参照

[編集] ヴァロワ朝

詳細は「ヴァロワ朝」を参照

カペー朝断絶後、カペー家の支流ヴァロワ家からフィリップが即位し、ヴァロワ朝(1328年 - 1589年)が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。後期にはイタリアへと領土的野心を向け、1494年からイタリア戦争を開始したが、ハプスブルク家によって挟撃され敗北した。1589年までの間に13代の王が続いた。なお、ルイ12世以降をヴァロワ=オルレアン朝フランソワ1世以降をヴァロワ=アングレーム朝とも呼ぶ。

ヴァロワ家」および「ヴァロワ=オルレアン家」も参照

[編集] ブルボン朝

詳細は「フランスブルボン朝」、「フランス復古王政」をそれぞれ参照

ヴァロワ朝が断絶し、ブルボン家アンリ4世がフランス王として即位したことでブルボン朝(1589年 - 1792年1814年 - 1830年)が成立した。ルイ14世の時代には領土拡大などの成果を上げたが、国民には重税を課しフランス革命を招いた。ブルボン家はフランス革命で王位を追われた後、ナポレオン1世の失脚により王政復古を成し遂げたが、七月革命によって再度王位を追われた。

ブルボン家」も参照

[編集] オルレアン朝

詳細は「7月王政」を参照

七月革命により、新たにブルボン家の支流であるオルレアン家ルイ・フィリップが即位し、オルレアン朝(1830年 - 1848年)が成立した。ルイ・フィリップの王政は七月王政とも呼ばれる。ルイ・フィリップは内閣制度を導入して、立憲王政の成立やフランス経済の発展を目指した。しかし貧富の差の拡大などもあって国民の不満は爆発し、二月革命を引き起こした。この革命で第二共和政、次いで第二帝政が成立し、長きにわたったフランスの王政も終焉した。

オルレアン家」も参照

[編集] サリカ法

詳細は「サリカ法典」、「カペー家」、「ブルボン家」をそれぞれ参照

フランス王国においては、他家(特にプランタジネット家)の干渉を恐れて、サリカ法を根拠として女系を含む女性の王位継承権を廃止したため、フランス歴代国王はすべてユーグ・カペーの男系子孫の男王である。ヨーロッパでは一般に、女系での王位継承や女王が珍しくなく、フランス王国の特徴をなしている。

フランスの王党派は今なお、王政復古への望みを繋いでいるが、ブルボン家の支流のうちオルレアン家を支持するオルレアニスト(オルレアン派)と、現在ではスペイン・ブルボン家を支持するレジティミスト(正統派)の2派が対立している。

[編集] 戴冠

フランス王の戴冠は代々ランスで行われた。ランスはフランククロヴィスの洗礼の地であり、フランス王はその王権の根拠を、ランスに保管されている聖油による聖別を受けてクロヴィスの後継者となることに求めたためである。その背景には、ローマ教皇にローマ皇帝冠を受けてローマ皇帝とカール大帝の後継者となるという方法を、オットー大帝以降、ドイツ王に独占されてしまったという事情がある。百年戦争の混乱の中でシャルル7世は、イングランドからランスを奪還するまで戴冠できなかった。

[編集] 脚注

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  1. ^ 表記はオルレアン朝の滅亡年(七月革命)。1792年 - 1814年を挟む。

[編集] 関連項目