フランス復古王政
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フランスにおける復古王政(ふっこおうせい, 仏:Restauration)は、皇帝ナポレオン1世の失脚によってフランスにおける王政復古を果たしたブルボン家およびオルレアン家による王政である。厳密には1814年のルイ18世の即位からナポレオン1世の帝位復帰までのブルボン第一復古王政と、1815年のルイ18世の復位からシャルル10世退位までのブルボン第二復古王政、オルレアン家のルイ・フィリップ王の七月王政に分別される。
フランス革命によって途絶えていた王政は、1814年にルイ18世が即位し復活した。ルイ18世は選挙権の制限やカトリック教会の復権など反動的な政策を実施した。後を継いだシャルル10世はさらに反動的な政治を志向したため国民の怒りを買い、1830年に七月革命を招いた。代わってオルレアン家のルイ・フィリップは七月王政においてブルジョワ寄りの政治を行うが、これも1848年の二月革命で倒れ、フランスにおける王政の時代は終焉した。
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[編集] 経過
[編集] ルイ18世時代(1814年 - 1815年、1815年 - 1824年)
1792年、フランス革命政府は国王ルイ16世を逮捕し、王権を停止して共和政の樹立を宣言した。翌1793年にルイ16世は処刑された。その後フランスはナポレオンによる第一帝政へ移行したが、ナポレオンは1814年に対仏大同盟諸国との戦いに敗れ退位した。帝政下の実力者であったタレーランは対仏大同盟諸国の意向を察してルイ16世の弟ルイ18世を新国王として支持し、ブルボン朝の復古が実現した。
ルイ18世は即位にあたって1814年憲法を受諾した。これは世襲および任用制の貴族院と選挙制の下院からなる二院制を採用し、選挙権を一定以上の資産を有する男子に制限する内容であった。フランス革命の成果を逆戻りさせようというルイ18世の政策が明らかになったことで王政は国民からの支持を失い、1815年になってナポレオンがエルバ島を脱出したという知らせが入ると、ルイ18世はパリから逃亡せねばならなくなった。
ナポレオンの復活はワーテルローの戦いに敗れたことで百日天下に終わり、ほどなくルイ18世は帰還した。一連の混乱はむごたらしい白色テロを招き、フランス南部を中心に王政の支持者がナポレオンの支持者を殺戮するといった行為が発生した。ルイ18世は暴力への反対を表明したが、暴力を止めるための積極的な対策は何も講じなかった。
ルイ18世とタレーラン、リシュリュー公爵、デュカス公爵ら側近たちは穏健な政策を取り極端に走ることは避けた。1815年の選挙で成立した内閣は超王党派(ユルトラ)が優勢であったが、リシュリューはこれを解散し、1816年にはより自由主義的な内閣が発足している。
しかし1820年2月、ルイ18世の弟アルトワ伯爵の次男ベリー公爵が暗殺されるという事件が発生する。これを契機にデュカスは失脚し、1821年にはヴィレール伯爵を首班とする超王党派内閣が発足した。とはいえヴィレールもルイ18世の存命中は慎重な政策を継続した。
[編集] シャルル10世時代(1824年 - 1830年)
1824年9月16日、ルイ18世は死去し、アルトワ伯爵がシャルル10世として即位した。息子が暗殺された事件のショックも手伝って、シャルル10世は超王党派の中心人物となっていた。シャルル10世はヴィレールと協力して1825年には冒涜禁止法を成立させるなど、政策を反動的な方向へ転換させていった。
1827年にヴィレールの後継首相となったマルティニャック子爵は中道派であったが、シャルル10世は1829年にマルティニャックを辞任させ、代わって超王党派のポリニャック公を首相に任命した。折からフランス経済は農産物の不作と深刻な不況に陥っており、労働者やブルジョワ階級を中心に王政への不満が高まっていった。ポリニャックは国民の不満をそらすため1830年6月にアルジェリア侵略を実施する一方で、7月には「七月勅令」を打ち出した。これは、報道の自由の制限、下院の解散、4分の3の有権者からの投票権の剥奪、新しい有権者による下院選挙の実施という「4つの制限」を国民に課し、フランスを絶対主義の時代に逆戻りさせようとするものであった。
ここにいたって国民の怒りも頂点に達し、七月革命が勃発した。1830年7月27日、民衆は三色旗を翻してパリの街頭にバリケードを築き始める。鎮圧部隊の士気も上がらず、シャルル10世は7月30日に退位を余儀なくされ、イギリスへ亡命した。
シャルル10世の長男アングレーム公爵は国民に不人気だったため、シャルル10世は後継者にベリー公爵の遺児シャンボール伯爵を指名し、アングレーム公もこれに賛同せざるを得なかった。しかしブルジョワ主導の下院はこれを承認せず、代わってオルレアン公爵ルイ・フィリップを新国王に指名した。7月31日、パリ市庁舎のバルコニーにラファイエットとともに姿を現したルイ・フィリップは民衆の歓呼の声に迎えられた。
[編集] ルイ・フィリップ時代(1830年 - 1848年)
詳細は7月王政を参照
ルイ・フィリップは七月王政を開始する。「フランス王」(roi de France)ではなく「フランス国民の王」(roi des Français)であると自称し、国民との宥和を図った。しかし「株屋の王」とも呼ばれたようにその政策はブルジョワ寄りであり、下層市民の支持は得られなかった。結局七月王政も1848年の二月革命で崩壊し、短い第二共和政(1848年 - 1852年)の後にナポレオン3世による第二帝政が開始される。
[編集] 歴代国王
- ブルボン家
- オルレアン家

