アルジェリア侵略

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アルジェリア侵略(アルジェリアしんりゃく)は、1830年から1847年にかけて、復古王政下のフランスが、オスマン帝国領のアルジェリアを侵略した事件である。

理由[編集]

アルジェリア侵略は、当時、第一王政復古の末期で、フランス国王シャルル10世が揺らぎ始めていた王政の威信を外征の断行によって回復し、国民の不満を一挙に解決しようとした対外侵略であるというのが以前の通説だった。

実際は、もっと別の理由があった。フランス軍の派兵資金8000万フラン。その大規模な国家予算を全額調達し提供したのが、後の鉄道王ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド(Jakob Mayer Rothschild またはジェイムズ・ド・ロチルド James de Rothschild)だった。ジェイムズは以前から、北アフリカやその周辺、パレスチナなどの資源について調査していた。そして、鉄鉱石などの有用な資源の存在が報告されたために、このような天文学的な資金を提供し戦争を起こさせたことが今では分かっている。フランス軍派兵の半年以上も前に、そのための莫大な公債発行を引き受けていた[1]七月革命が勃発して国王が交代したとき、ジェイムズは逃げたシャルルが万一戻って来ても良い様に丁寧に謝礼を支払っておいた。そして、新王となったルイ・フィリップとも大金を貸し付けてきた仲であったので、ジェイムズにとっては、誰が国王となってもヴェルサイユ宮殿を意のままに動かせる周到な準備が成り立っていたのだった。

フランスによる侵略の結果、ジェイムズが目をつけていた鉄鉱石は1990年代になっても枯れることなくアフリカ大陸で生産量四位を誇り巨大な富を生み出し続けた。それは工業を整え、広大な鉄道そのものにもなった。1846年、ジェイムズはフランス最大の鉄道「北部鉄道」を開通させる。同社はフランス、ベルギー、ドイツを結ぶロートシルト資産の中枢となり、その後、鉄鋼機械石炭金属石油建設海運電機観光食品を含むフランス最大の企業グループ(コングロマリット)まで成長する。

また、アルジェリアの大地で大量に生産されるようになる大麦、ハード小麦、ソフト小麦、オート麦は、当時の商社や財閥にとって資産上極めて大きな意味を持つようになり、いくつもの多国籍企業を育てる下地となる。後の19世紀末頃からは、石油(アフリカ第3位の生産量)の生産が始まり、1956年11月からは巨大天然ガス田ハッシ・ルメル(Hassi R'mel ロシアを除くと世界第1位の埋蔵量)が発見されて、さらに莫大な富を生み出すこととなった。ジェイムズの目論見は見事に成功したのだと現在では考えられている。[独自研究?]

経過[編集]

アルジェリア侵略の口実となった扇の一打事件英語版1827年)。
アルジェリア侵略に抵抗したアブデルカーデル

1827年アルジェの太守英語版フサイン・イブン・パシャ英語版が、自分を愚弄した駐フランス領事ピエール・ディヴァル英語版に腹を立て、領事の頬を扇(団扇のようなもの)で叩くという「扇の一打事件英語版」が起きた。この事件を口実に、フランスはアルジェリア侵略を決行した。

1830年6月14日、シャルル10世マルセイユの鉄道王ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド(Jakob Mayer Rothschild またはジェイムズ・ド・ロチルドJames de Rothschild)と共謀して、[独自研究?]フランス軍のアルジェリア上陸を成功させる(en:Invasion of Algiers in 1830)。ブルモン将軍率いる3万7000人のフランス軍はアルジェのカスバでフサイン・イブン・パシャの軍と交戦、これを破った。6月29日に太守邸を守る砦を包囲、7月4日には砦も破り、邸の攻撃を始める。7月5日、フサイン・イブン・パシャは降伏した。 

1830年7月29日に七月革命が起こり、シャルル10世は退位する。彼の「業績」は次の政権にも引き継がれ、フランスから移民アルジェリアに送り込まれるなどされていき、フランス支配の既成事実が作られていった。1834年には、アルジェリアはフランスに併合される。フランスはアルジェリアに軍隊を増派し、占領統治の既成事実をつくり上げ、その一方で地方の有力部族と「協定」締結を強制する。「協定」が結ばれても、「協定」を破棄、軍事力による威嚇をし、フランス側による一方的な「統治宣言」をして占領の既成事実化が図られていった。しかし、この段階では仏軍の占領は沿岸都市に限られ、占領の拡大をするよりもオスマン帝国時代の支配機構をそのまま利用し治安を維持する方針をとろうとしていた。

1832年1837年アブデルカーデルの武装抵抗が始まった。内陸都市ムアスカル(マスカラ)を本拠地とし、西のベイ領をはじめとして中央アルジェリアから一部の沿岸都市をも含む全アルジェリアの3分の2を支配下においた(en:Battle of Mactaen:Siege of Constantine)。1837年、フランスと「タフナ条約英語版」(アラビア語: معاهدة تافنة‎ maahdh tafnah)を結びアブデルカーデルの支配する土地については主権が認められる。1839年入植地の建設がすすみ、ヨーロッパ系住民2万5000人が入植する。

時間稼ぎの条約を破り仏軍は作戦行動を開始。1839年~1842年 再び戦闘局面に入り(en:Battle of Mazagran)、アブデルカーデルはその根拠地を失い山岳地、農村を舞台に抵抗を継続。しかし、仏軍司令官ビュジョーの焦土作戦によって追い詰められ、モロッコに逃亡する。しかし、モロッコから絶縁を受け、国内でのゲリラ戦を展開する。1842年に降伏。

1843年en:Battle of the Smala1845年en:Battle of Sidi Brahim

影響[編集]

フランス領アルジェリア1830年 - 1962年)が成立し、アルジェリア侵略から132年間、フランスはアルジェリアを支配した。

1848年に、二月革命が起こる。フランス銀行の金融支配体制が確立される。フランス本国の行政単位としての「県」がアルジェリアに設置される。アルジェ・オラン・コンスタンチ-ヌの三県。フランス国会に議員を送り、県・町・村に地方自治制度が適用されるようになる。しかし、このような地方自治制度は、フランス人が多数居住する地域のみを民政区として地方自治を認めたに過ぎない。

一方、アルジェリア人については在来の政治組織に依拠し、部族の首長や有力者に地方行政である治安と徴税を委ねた。しかし、そのような形態でアルジェリア人自身に完全な自治権・行政権を与えたわけではなく、「アラブ局」の監督下にあった。大地主が現地の穀物生産を支配。後の多国籍企業を育む下地となる。

アルジェリアの独立は1962年となる。

参考資料[編集]

  1. ^ 「赤い盾」著:広瀬 隆  発行:集英社 1991年11月10日 P553

関連項目[編集]