ユーグ・カペー

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同時代に描かれた肖像画

ユーグ・カペー: Hugues Capet940年頃 - 996年10月24日)は、フランスのカペー朝を開いた王。ロベール家の人。年幼くして家督を相続した当初はその力量からロベール家領の多くを失ったが、カロリング朝が断絶したことにより王位を継承、彼の子孫はしだいに勢力を回復した。以後ヴァロワ朝からブルボン朝へと血統を繋げ、フランス革命からナポレオンの時代を除いた七月王政まで、800年以上フランスの王権を保った。史家の多くはこのユーグ・カペーの王位継承をもってフランク王国が終わりフランス王国が始まったと解釈している。

生涯[編集]

ユーグ・カペーは、ユーグ大公ザクセンのヘートヴィヒ(Hedwige)と間の長男に生まれた。ヘートヴィヒは、ハインリヒ1世の娘でオットー1世の妹だった。

956年にユーグ大公が没したためロベール家の家長となったが、まだ少年だったので、伯父のケルン大司教ブルーノが後見した。960年にフランク公になった。父大公はネウストリアに広大な領地を持っていたが、没後はブロワ伯ティボーやアンジュー伯フルク2世など配下の離反が相次ぎ、ロベール家の所領は現在のイル・ド・フランスオルレアン地方だけにまで縮んだ。

カペー誕生時の西フランク王は、カロリング朝ルイ4世で、ロテールからルイ5世と代替わりした。カペーは弟ウードのブルゴーニュ公襲位を巡り、956年から960年までロテールと争ったが、978年には、オットー2世の復讐の侵攻を、ロテールに協力して退けた。

987年にルイ5世が急死すると、ランス大司教アダルベロンが折しもサンリスで開かれていた聖俗大諸侯会議を主導し、「王位は世襲ではなく気品と英知で選ばれるべき」として次期フランス王にカペーを推し、低ロレーヌ公シャルル1世(Charles, Duke of Lower Lorraine)(ルイ4世の息子)を退けて選出させ、カペーはノワイヨンアダルベロンにより聖別[1]されて戴冠した。50歳に近かった。

アダルベロンは王位は選挙によるという考えだったが、それではカペーに不都合なので、カペーは自らの即位の年の暮に子のロベールを共同統治者として戴冠させた。この疑似世襲は、以降6代にわたり踏襲された。

在位中は、ノルマンディーブルゴーニュアキタニアフランドルなどの封建諸侯に苦しめられた。

カペーは996年パリで没し、サン=ドニ大聖堂に埋葬された。

なお「カペー」(capet)は、俗人修道院長が羽織った短いケープ(cape)のことで、そのあだ名が後に家名となった。

子孫[編集]

多くの子孫を残した。フランス革命ナポレオンの時期を除き、1848年までフランスを支配したカペー朝ヴァロワ朝ブルボン朝7月王政の各王は、みなカペーの子孫である。1204年の第4回十字軍後に建国されたラテン帝国クルトネー家、1910年まで続いたポルトガル王家、14世紀にナポリ王国ハンガリー王国ポーランドアンジュー=シチリア家カペー家の系統だった。現在のスペインルクセンブルクの各王室もユーグ・カペーの傍系の子孫である(カペー家の支流の、ブルボン家の支流)。

補注[編集]

  1. ^ この場合の「聖別」とは、大司教にランスの聖油を塗油される事で王にふさわしい超自然的な力を得るというフランク王ルートヴィヒ1世以来のしきたりである(柴田三千雄『フランス史10講』岩波新書 p.19-21)

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]