ハンガリー王国

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ハンガリー王国(-おうこく)は1000年ころから、1918年まで現在のハンガリー共和国を中心とした地域にあった王国。ただし1918年以降も1946年に共和政体になるまでは「ハンガリー王国」を国名とした。

オーストリア・ハンガリー帝国の領域図。16ハンガリー、17クロアチア、スロボニアを合わせた地域がハンガリー王国
オーストリア・ハンガリー帝国の領域図。16ハンガリー、17クロアチア、スロボニアを合わせた地域がハンガリー王国

目次

[編集] 地理

1914年当時のハンガリー王国
1914年当時のハンガリー王国

現在のハンガリーとは異なる。

現在のハンガリー共和国領全域に加え

がハンガリー王国の最大領域であった。 詳しくは「ハンガリー王国の歴史的地域」を参照。

[編集] 首都

1541年から1784年まで現スロヴァキアの首都であるプラティスラヴァが首都になったのはバルカン半島に侵入してきたオスマン帝国の圧力から逃れるためである。

[編集] 歴史

[編集] 歴代国王

詳しくは「ハンガリー国王一覧」を参照の事。

1526年以降はハプスブルク家の神聖ローマ皇帝が、1804年からはオーストリア皇帝がハンガリー王位を継承した。ただし例外が2人いる。1人はローマ王フェルディナント4世で、父フェルディナント3世の生前にハンガリー王位を譲られ、次期皇帝としてローマ王にもなっていたが、帝位を継承する前に死去した。このように、ハンガリー王位は帝位継承に先立って譲位されることが多かった。もう1人はマリア・テレジアで、彼女は神聖ローマ皇帝ではなかったが、ハンガリー女王の他にもボヘミア女王やオーストリア大公に即位した。逆にいえば彼女の夫のフランツ1世は神聖ローマ皇帝ではあったが、オーストリア大公、ハンガリー王等に即位しなかった事になる。これは、マリア・テレジアがハプスブルク家の唯一の後継者でありながら、男子でなかったためサリカ法典により神聖ローマ皇帝になれなかったことで生じた(オーストリア継承戦争を参照)。

[編集] 1918年から1948年までのハンガリー王国

前述したように1948年までハンガリーはハンガリー王国を国名とし続けた。ただしこの「ハンガリー王国」にはハンガリー王が存在しなかった。ホルティ・ミクローシュが摂政となって、適当な人物を王位に付けようとしたのだが(フランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリーザベトの縁者を考えていたようである)、結局誰も王位につかないまま第二次世界大戦が始まり、戦後になって共産主義国家となった。

この期間、オーストリア最後の皇帝にして同時にハンガリー最後の王カール1世もハンガリー王としての復位を狙っていたようだが、これも実現しなかった。

なお、現在でもカール1世の長子でハプスブルク家当主のオットー・フォン・ハプスブルクはハンガリー王を自称している。

[編集] ハンガリー王国の残した問題

ハンガリー王国はその広大な領域に数多くのマジャル人を残した。現在でも、スロバキア、クロアチア、セルビアモンテネグロ、ルーマニアには数多くのマジャル人が住んでおり、ハンガリーとこれらの国の外交問題の一つとなっている。

例としてヴォイヴォディナにおいては1941年のユーゴスラビア侵攻の理由の一つとなった。又1989年に起こったルーマニア革命も発端はルーマニアのマジャル人問題であった。