ジョゼフ・フーシェ
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Joseph Fouché
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| 生年月日 | 1759年5月21日 |
| 出生地 | Le Pellerin |
| 没年月日 | 1820年12月25日 |
| 死没地 | トリエステ |
| 前職 | 僧侶、教師 |
オトラント公ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché, duc d'Otranto, 1759年5月21日 - 1820年12月25日)は、革命期フランスの政治家。ナポレオンの第一帝政では、タレーランと共にフランス帝政の中心人物であった。
秘密警察を組織して政権中枢を渡り歩いた謀略家として有名である。時の権力者に取り入りながら、常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物であった。後世からは「過去において最も罪深く、将来においても最も危険な人物」と評された。オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクによるその評伝は名作の誉れが高い。
目次 |
[編集] 生涯
フーシェはフランス革命前に教会所属の学校教師をしていた僧侶だったが、後に教会を否定し国民公会の議員になって当初はジロンド派に属した。国王ルイ16世の裁判の際処刑に票を投じ、それを契機にジャコバン派内の山岳派に鞍がえする。これによりジロンド派追放から免れるが、国王殺しの罪が後に尾を引くことになる。
ロベスピエールによる恐怖政治を支持してリヨンの大虐殺を指導したが、その後ロベスピエールと対立してジャコバン派を除名された。ロベスピエール派の手を逃れてテルミドールのクーデターに参加し、情報収集能力の高さを評価されて総裁政府の警視総監を務めた。その後、統領政府でも引き続いて警視総監に就任し、ナポレオン1世の帝政においても警察大臣に就いている。フーシェは総裁政府時代から、密偵を雇い、秘密警察を使って国家のあらゆるもの全てを監視させている。ナポレオンの私生活まで監視し、「奴はネコみたいな顔をして、ネコのように小賢しい」と言われ、「私はタレーランは信用したが、フーシェを信用したことは一度もない」とまで吐露される。それでいてナポレオンは、フーシェを厄介払い出来ず、何かに魅入られたかの様に手出しが出来なかったという。 ブリュメールのクーデターに協力してナポレオンの政権奪還に貢献したが、1800年のナポレオン暗殺未遂事件では、ジャコバン派出身と云う事で罷免され、再雇用された後もタレーランと策謀しナポレオン追い落としを狙っている(1808年)。この時タレーランは、ナポレオンから「汚物を詰め込んだ絹の靴下だ」と罵られ辞めさせられている。タレーランは旧体制を、フーシェは新体制を代表し、彼等の実力を合わせれば、自分たちの意のままの体制を造り上げられると自惚れていたのである。フーシェも翌年イギリス軍がベルギーに迫ったときに独断で国民軍を編成し、ベルナドットを司令官に据えた越権行為、対英和平交渉が露見して辞職した。この時のフランス駐箚オーストリア大使シュヴァルツェンベルクは、「ナポレオンをなだめられる唯一の人物が全国に惜しまれつつ去った」と本国に報告している。
帝政崩壊後、臨時政府首班としてタレーランと協力しルイ18世をパリに迎えた。王政復古で警察大臣となったが、王党派は国王殺しのフーシェを忘れていなかった。両親であるルイ16世とマリー・アントワネットを殺されたマリー・テレーズは、フーシェが現れると席を蹴り、決して同席しようとしなかった。フーシェは大臣就任後わずか2ヶ月で失脚し、フランスから亡命した。
オーストリア、イタリアへと渡り歩き、1820年にトリエステで死んだ。フーシェは死ぬまで敵対者の個人情報を手中に収め、保身に成功した。
[編集] 家族
- 妻:ボンヌ=ジャンヌ・コワニョー 1792年に結婚
- 妻:ガブリエル=エルネスティーヌ・ド・キャステラーヌ 前妻との死別後、1818年に結婚。子はいない。
[編集] フーシェを扱った作品
- 評伝
- 『ジョゼフ・フーシェ』(シュテファン・ツヴァイク)岩波文庫、みすず書房
- 『ジョゼフ・フーシェ 政治のカメレオン』(長塚隆二、読売新聞社、1996年)
- 小説
- 漫画
- 『静粛に、天才只今勉強中!』(倉多江美)
- 『ナポレオン‐獅子の時代‐』(長谷川哲也)

