マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス

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マリー・テレーズ(アドルフ・ヴェルトミュラー作、1784年)

マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスMarie Thérèse Charlotte de France, 1778年12月19日 - 1851年10月19日)は、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの長女。ルイ16世の弟シャルル10世の長男であるルイ・アントワーヌ王太子の妃となった。ルイ16世とマリー・アントワネットの子女の中で唯一天寿を全うした。

生涯[編集]

革命以前[編集]

マリー・アントワネットと子供たち(ヴィジェ=ルブラン作、1787年。ヴェルサイユ宮殿

マリー・テレーズはルイ16世とマリー・アントワネットの長子、第一王女としてヴェルサイユ宮殿で生まれた。夫妻の結婚から7年目にしてようやく生まれた子供であった。名前は祖母である「女帝」マリア・テレジアの名のフランス語形である。幼少期はブルボン家ハプスブルク家の血を引くことに誇りを持ち、プライドが高く、少しこましゃっくれた性格であった。9歳の頃、ヴェルモン神父から母が落馬したが無事だったという話を聞かされたマリー・テレーズは「もし母が死んだら何をしても自由だったのに」と答え、神父を唖然とさせた。養育係が誤って彼女の足を踏みつけたが、その日の晩に傷ついた足に乾いた血がついているのに気づいた養育係は「なぜ足を踏まれた際に何も言わなかったのか」と聞くと、「あなたが私に怪我をさせて私が痛がっているとき、あなたが原因だと知ったらあなたの方が傷ついたでしょう」と答えたというエピソードがある。

マリー・テレーズはまだ幼い頃から、自分の体重と同じぐらいの重さのパニエを身に着け、公式行事や社交の場に顔を出していたため、幼い頃から母への悪口を耳にしていた。1789年5月5日三部会では、両親に恥をかかせたオルレアン公爵(後のフィリップ・エガリテ)や民衆を憎んだ。それでもフランス革命以前は、人々からマダム・ロワイヤル(Madame Royale)の称号(第一王女に授けられる)で呼ばれ、愛された。

10歳の頃、1778年7月31日にヴェルサイユ宮の小間使いが出産したマリー・フィリピーヌ・ド・ランブリケが、マリー・テレーズの遊び友達として迎えられた。この少女はマリー・テレーズと瓜二つだった。1788年4月30日にマリー・フィリピーヌの母フィリピーヌが亡くなると、マリー・アントワネットはエルネスティーヌと改名させ、養女にした。ルイ16世はエルエスティーヌのために部屋を用意させ、高価なピアノやドレスを買い与えた[1]。マリー・テレーズは弟のルイ・シャルルとともに、養育係のトゥルゼル夫人の娘、ポーリーヌ・ド・トゥルゼルによくなついた。

革命下の少女時代[編集]

1789年10月6日、マリー・テレーズは家族や廷臣と共にチュイルリー宮殿に軟禁された。1790年4月4日、エルネティーヌとともに父から聖体拝領を受ける。1791年6月21日ヴァレンヌ事件が起きたが、前日にエルネスティーヌは父ジャックを訪問するため宮殿を離れていた。1792年8月9日、チュイルリー宮が襲撃された。かねてからマリー・アントワネットよりエルネスティーヌの安全を命じられていたマリー・テレーズの教育係ド・スシー夫人は、エルネスティーヌを連れてチュイルリー宮を脱出した[2]8月13日、マリー・テレーズはタンプル塔に監禁された。父母と叔母エリザベート王女は革命政府によりギロチンで処刑され、弟ルイ・シャルルとも引き離され、2年近く1人で幽閉生活を送った。マリー・テレーズは国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答え、国民公会面会者からの質問には全く答えなかった。また、幽閉されてから病気になった弟の健康状態を常に気にかけ、ルイ・シャルルに治療を施すようにと何度も国民公会に手紙を送った。マリー・テレーズの部屋では下の階に幽閉されていたルイ・シャルルの泣き声がよく聞こえてきた。少女の慰めはエリザベート王女が残した毛糸で編み物をすることと、カトリックの祈祷書と信仰であった。

ロベスピエール処刑以降は待遇が良くなり、1795年7月、身の回りの世話をするアルザス出身のマドレーヌ・エリザベート・ルネ・イレール・ボッケ・ド・シャトレンヌ夫人が雇われた。30歳のド・シャトレンヌ夫人はマリー・テレーズのために衣類や筆記用具や本などを差し入れ、庭園を散歩をする許可を得て、ルイ・シャルルの愛犬スパニエル雑種の「ココ」をペットとして部屋に呼んだ。ド・シャトレンヌ夫人は硬く口止めされていたが、次第に彼女が気の毒になり、それまで伏せられていた母と叔母の処刑を知らせた。また、誰ともほとんど会話をすることのないまま2年近くを過ごしたマリー・テレーズの発声異常を、ド・シャトレンヌ夫人は手助けした。しかし、彼女のガリガリと話す発声異常は生涯治ることはなかった。マリー・テレーズはド・シャトレンヌ夫人と親しくなると「愛しいルネット」と呼んだ。

この頃のフランス国民は、幽閉されたままのマリー・テレーズに同情的になっており、彼女が散歩に出られるようになるとルイ16世の近侍フランソワ・ユーは近くに部屋を借り、大きな声で歌ったり、かつて王室で使われた暗号を使用して彼女に手紙を送った。タンプル塔近くのボージョレ通りは、マリー・テレーズを見学しようとする野次馬であふれた。

流転の亡命生活[編集]

オーストリア[編集]

1795年7月30日、マリー・テレーズの母方の従兄の神聖ローマ皇帝フランツ2世は、フランス共和国政府が出した条件を受け入れ、フランス人捕虜との引き換えによるマリー・テレーズの身柄引き渡しに同意した。9月、ド・トゥルゼル夫人とその娘ポーリーヌと面会、まもなく彼女と釈放されウィーンに送られることを話す。この時マリー・テレーズは、ルイ・シャルルが使った部屋を案内した。12月19日、マリー・テレーズが嫌っていた元養育係のド・スシー夫人、牢番のゴマン、憲兵のメシャンと共に深夜、タンプル塔を出発する。翌1796年1月9日、ウィーンのホーフブルク宮殿に到着する。しかし、ナポレオン軍が北イタリアで優勢となると、プラハ近郊に夏ごろまで避難した。

ウィーン宮廷では亡命貴族支援とブルボン家再興のため尽力し、フランツ2世はマリー・テレーズを丁重に扱い、手当も与えたが、手紙や面会人を厳しく監視した。しかし、マリー・テレーズは時にレモンの果汁で手紙を書く(あぶりだし)など、非常に慎重に文通や送金を行った。1797年、文通を続けていたド・シャトレンヌ夫人が出産した男児を命名して欲しいという手紙が届き、自分の名前からシャルルと名づけてはという提案を返信したが、皇帝の監視を逃れるため非常にそっけない内容の返信となった。この年、ナポレオン・ボナパルトがウィーンに進軍した。

フェルセン伯爵は、マリー・アントワネットがマリー・テレーズのために親類や友人に分散して残した金と宝石を取り戻し、彼女が相続できるように各国の宮廷を奔走した。フランツ2世がそのほとんどを手に入れていたが、1797年2月24日の謁見でフランツ2世は、マリー・テレーズが相続すべき財産の所有を認め、後に彼女の持参金にするとフェルセン伯に答えた。フランツ2世はマリー・テレーズを自分の弟のカール大公と結婚させて、フランスの利権を手に入れようと考えていたが、彼女はブルボン家の叔父が薦める父方の従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌとの結婚を選び、ヨーロッパ大陸の味方が欲しかったフランツ2世も黙認した。

ウィーン宮廷では、ナポリ王国出身の従姉、フランツ2世の皇后マリア・テレジアと互いを嫌いあったが、皇帝の妹マリア・クレメンティーナ大公女、マリア・アマーリア大公女とは親しく、1798年にマリア・アマーリアが死去した際には非常に悲しんだ。スペイン・ブルボン家カルロス4世はマリー・テレーズに年俸を与えると同意し、フランツ2世はミタウまでの旅費を負担すると約束した。トリーア選帝侯クレメンス・フォン・ザクセンドイツ語版ザクセン選帝侯(のち国王フリードリヒ・アウグスト3世の叔父)から、革命以前に夭逝した弟ルイ・ジョゼフの肖像画と父ルイ16世が断頭台で身に着けていた血で汚れた肌着を受け取り、それらを持ってミタウへと旅立った。

クールラント[編集]

1799年春、叔父ルイ18世夫妻の亡命地ロシアクールラントのミタウ城に到着した。彼女はルイ16世の処刑に立ち会ったエッジワース神父と対面したが、神父は涙ぐみ言葉にならなかった。マリー・テレーズは同年6月10日、アングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚した。結婚祝いにルイ18世は、ルイ16世夫妻の結婚指輪をマリー・テレーズの手のひらに載せると、新郎新婦は抱き合って泣いた。当時のロシア皇帝パーヴェル1世は、署名入りのロシアの結婚証明書に豪華なダイヤモンドのアクセサリー一式と金がつまった財布、帽子とガウンを山のように贈った。マリー・テレーズの勇気を褒め称え、フランスに帰国できるまでロシア領滞在を認める手紙も添えられていた。彼女はパーヴェル1世に、自分の家族に尽力してくれた礼を述べた。

この頃のマリー・テレーズについてルイ18世は「両親にそれぞれ似ており、身長は母親ほど高くないが、かわいそうな妹よりは高い。軽やかに優雅に歩き、悲運を語る時涙は見せない。善良で親切で優しい」と弟のアルトワ伯爵(後のシャルル10世)宛ての手紙で評した。この結婚はアングレーム公の父アルトワ伯が、王政復古が成った際に気の毒な王女とともにフランスに戻ることでイメージアップを図る狙いがあったとの説もある。

アングレーム公とは愛し合っていたが、子供が出来ず、亡命中のアングレーム公は対ナポレオン戦線に加わることを望んだ。1800年4月、ナポレオンが第2次イタリア戦役を開始すると、アングレーム公はコンデ公と共に戦うためミタウを去った。夫婦はイギリスで合流するまで、長年離れて生活せねばならなかった。5月、ミタウを訪問したフェルセン伯は、マリー・テレーズから生きる気力を感じれられず、結婚生活が不幸なのではと考えた。その後、父の処刑に賛成票を入れたフィリップ・エガリテの長男ルイ・フイリップ(後のフランス王)がやってきたが、マリー・テレーズは面会すら拒んだ。

1801年1月22日、ルイ18世はパーヴェル1世から、ロシア領からの退去命令を受ける。マリー・テレーズにはサンクトペテルブルクで自分の客として過ごすよう薦めた。しかしマリー・テレーズは、叔父の2台の馬車の一行に加わった。真冬のロシアから行き先もない旅をするため、家具を売却して旅費に充てた。旅費も乏しい極寒の旅の最中、ルイ18世の秘書であり、マリー・テレーズの聞罪司祭だったマリー神父が自殺する。彼は最期に「ド・ショワジー嬢」と彼女の侍女の名前を残す。聖職者の密かな恋を知り、マリー・テレーズはショックを受ける。

ルイ18世はプロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に滞在許可を求める手紙を送り、メーメル滞在中にプロイセン王から、ナポレオンを刺激したくないのでフランスの許可を先に待つという返事を受け取る。マリー・テレーズは母の幼馴染フレーデリケの娘、プロイセン王妃ルイーズからサンクトペテルブルクに安全な場所を提供されるが、「叔父を見捨てられない、私は我々全員の場所を求めている」と断った。その後ルイーズ王妃は「ナポレオンがルイ18世はリル伯爵、マリー・テレーズはラ・メイユレイ侯爵夫人と名乗る条件付きで、この一家と側近をワルシャワに滞在許可を出した」という手紙をマリー・テレーズに送った(ワルシャワは第3次ポーランド分割によりプロイセン領となっていた)。ルイーズ王妃はその後も王に代わり、フランス亡命宮廷のためにナポレオンや各国の王族と交渉し続け、マリー・テレーズの頼れる友となった。

ワルシャワ[編集]

1801年3月6日、一行はワルシャワに到着した。数週間後、休暇をとったアングレーム公が到着した。その直後、パーヴェル1世の暗殺に息子アレクサンドル1世が関わっていたことを知る。アレクサンドル1世はブルボン家にあまり関心を示さず、父が支払っていた半額以下の手当しか出さなかった。しかし、ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキの曾孫であるルイ18世と、熱心なカトリック信者であるマリー・テレーズは、ワルシャワで非常に歓迎された。ワルシャワではヴェルサイユのように宮廷儀礼が作られ、彼女はフランス亡命貴族の支援や修道院や貧民を見舞う慈善事業も行った。ポーランド貴族たちは、亡命宮廷がレシチニスキ宮殿で夏を過ごすよう手配した。この頃、ルイ18世は政治的な相談についてマリー・テレーズを頼るようになった。

ワルシャワにフランス王室が定住すると、ミタウやヨーロッパ各国からルイ18世のために廷臣たちが集まった。カルロス4世やフランツ2世、アルトワ伯からの送金だけでは宮廷費がまかなえず、マリー・テレーズはパーヴァル1世から贈られた豪華なダイヤモンドを売却した。ルイ16世に仕え、ルイ18世の側近となったユー男爵は、1801年から1802年の冬の厳しさ、マリー・テレーズの倹約、そして彼女がよく泣いていたことを記録している。1804年3月21日、コンデ公がナポレオン暗殺を企んだという冤罪により処刑された。ワルシャワの亡命宮廷は4月9日にこの事実を知った。ナポレオンをマリー・テレーズは憎しみを込めて「犯罪者」と呼んだ。

再びクールラント、そしてイギリス[編集]

1805年4月、亡命宮廷は再びミタウに戻った。ナポレオン軍によるプロイセンとロシアの攻撃が始まると、マリー・テレーズとエッジワース神父はミタウの負傷兵を看護した。看護中にエッジワーズ神父は腸チフスに感染し、5月22日に病死してしまう。またしても彼女は悲しみに襲われた。ミタウを訪れたアレクサンドル1世は、間もなくロシア帝国がナポレオン軍に敗北すること、ヨーロッパ大陸にブルボン家の安住地はなく、スウェーデン国王グスタフ4世が避難場所を用意することを知らせた。8月、グスタフ4世が用意したフリゲート艦トロイア号に乗り、ルイ18世とアングレーム公は妻たちを残してストックホルムへ旅立った。グスタフ4世は2人を手厚くもてなしたが、2人は突然やってきたベリー公とともにイギリスへ向かった。

イギリス国王ジョージ3世は、スコットランドエディンバラに向かう条件つきで下船許可を出したが、バッキンガム侯爵 (enが仲介し、ロンドン北東部のゴスフィールド・フォールをフランス亡命宮廷の定住地とした。1808年8月、マリー・テレーズはルイ18世の妃マリー・ジョゼフィーヌとゴスフィールド・フォークに到着した。翌1809年4月、フランス亡命宮廷はバッキンガムシャーのハートウェル・ハウスを年500ポンドでバッキンガム侯爵から借り、移転した。マリー・テレーズは田園地域の城で、夫や親族と廷臣に囲まれ暮らした。義父アルトワ伯はロンドンの館に暮らし、アングレーム公夫妻を社交の場に招き楽しませた。イギリスの人々もフランス亡命宮廷に優しく接した。

1810年3月11日、マリー・テレーズがウィーン宮廷時代に可愛がっていたマリア・ルイーゼ大公女がナポレオンに嫁いだという知らせに、ルイ18世もマリー・テレーズも衝撃を受けた。フランス亡命宮廷にはフェルセン伯爵殺害、プロイセン王妃ルイーズの病死と悪い知らせが続き、マリー・テレーズは落ち込んだ。1812年2月、認知症となったジョージ3世の摂政となった王太子(後のジョージ4世)は、亡命中のフランス王室と廷臣たちに安全な場を提供し続け、亡命王室に多額の手当を出し、フランス亡命貴族にも愛を持って接し、盛大なパーティを催して楽しませた。舞踏会の際、栄誉ある王太子の右隣にはマリー・テレーズが座らせた。彼女はもちろん、王太子を気に入った。

1813年1月、マリー・テレーズは結婚13年目にして懐妊し、王室は喜びに包まれる。しかし、妊娠がかなり進んだ時期に流産してしまう。その後、彼女が妊娠することはなかった。

マリー・テレーズ(ハインリヒ・フューガー作、1795年。エルミタージュ美術館蔵)

復古王政期[編集]

フランスへの帰国[編集]

1814年、ナポレオンがロシア遠征で敗れたことを機会に、イギリスを後にした。4月29日コンピエーニュに到着した際、トゥルゼル夫人、結婚してベアルン伯爵夫人となっていたトゥルゼル夫人の娘ポーリーヌと再会した。2人は泣きながら抱き合い、再会に歓喜した。

パリに戻ってからのマリー・テレーズは、幼い頃に辛酸を舐めつくしたチュイルリー宮殿での暮らしを嫌った。そこにはナポレオンによりあちこちにNと刻み込まれ、蜜蜂と鷲の装飾が付けられていた。マリー・テレーズは、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族には決して気を許さず、洗礼名で名前を呼び、彼らを怒らせた。新興貴族たちは、マリー・テレーズがイギリスの田舎くさい格好でパリに戻ったと嘲笑した。ルイ18世は「人前でむすっとした顔をしないこと、垢抜けない服装をしないこと、人前では紅ぐらいをつけなさい」と彼女を叱った。また、帝政下で成功したかつての仲間もマリー・テレーズは嫌った。マリー・アントワネットの侍女だったカンパン夫人が学校を開き、ボナパルト家の人間を教育していたことを知ると、彼女との面会も拒んだ。反対に自分が苦しい時に尽力してくれたポーリーヌには「夫と子供と宮廷に来て下さい」と手紙を送り、当時ナポリにいたド・シャトレンヌ夫人には年俸を定め、自分を訪ねるよう手紙を書き、息子のシャルルには親衛隊関連の仕事を世話した。

ルイ16世とマリー・アントワネットの遺体は1805年に発見されていたが、ルイ・ジョゼフの遺体はマリー・テレーズが帰国後も見つからなかった。亡命時代からルイ・シャルルだという人間が現れてはマリー・テレーズに面会を求めたが、彼女は一度も面会に応じなかった。しかし、彼女は弟の生存を確かめるべく、12月13日にかつての弟の牢番アントワーヌ・シモン未亡人を非公式に訪ねた。シモン夫人は、ルイ・シャルルはタンプル塔で死んでおらず「1802年に自分を見舞いに来た」と答えた。翌1815年1月27日、パリ市立病院を見舞っていたマリー・テレーズは、ルイ・シャルルの検死を行ったフィリップ・ジャン・ペルタン医師を紹介された。2日後、ペルタン医師は再び彼女と会い、ルイ・シャルルの心臓を切り取った経緯を話し、その入れ物を渡したいと伝えたが、その後何度も手渡すことに失敗し、1825年5月にパリのド・ケラン大司教にそれを託した。1826年9月にペルタン医師が亡くなると、クリスタル容器に入った心臓は大司教の図書室に隠された。

百日天下[編集]

この頃のフランス国民はマリー・テレーズの地味な衣装や不機嫌さを嫌ったが、極寒のミタウからワルシャワまで叔父を支えて旅した勇気を称え「新たなアンティゴーネ」と呼んだ。彼女はブルボン家の再興に熱意を燃やし、フランス各地を視察した。アングレーム公もそれを支援した。1815年3月12日、滞在先のボルドーにアングレーム公が到着するが、ナポレオン逃亡の一方を聞き、アングレーム公は引き返してニームで4000人の国王軍を指揮し、マリー・テレーズはボルドーに残り、小さな国王軍の主導権を握った。3月20日からのナポレオンの百日天下に際しては、ガロンヌ川岸のベルトラン・クローレル率いる革命軍と反対側に陣取るブルボン家軍が緊張する中、屋根のない馬車で立ち上がり、反ナポレオンの挙兵演説を行った。その内容は翌日、ロンドンの『ザ・タイムズ』に紹介された。これを知ったナポレオンはマリー・テレーズを「ブルボン家唯一の男性」と揶揄した。ヘントに逃れていたルイ18世は彼女を、薔薇戦争ヘンリー6世のためにランカスター家の軍隊を指揮したマーガレット・オブ・アンジューに例えた。

マリー・テレーズはその後再び亡命し、4月19日にイギリスに上陸。彼女はまずブルボン公に手紙でけしかける。ヘントに逃れていたルイ18世に送った手紙では、ナポレオンを「あの男」と呼んだ。ナポレオンはマリー・テレーズと亡命中の夫との書簡の一部を奪い、その中身を公開した。この行為に彼女は怒り狂った。7月29日にパリに戻るが、臆病なルイ18世にうんざりしていた。帰国するやいなや、彼女はチュイルリー宮殿にあるNの文字、蜜蜂と鷲の装飾をすべて取り払うよう命じた。そしてルイ18世に頼み、100日天下の頃、自分を王座につけるよう民衆を煽っていたルイ・フィリップをフランスから追放させた。

ルイ18世時代[編集]

マリー・テレーズは死の間際の父から「憎しみを捨てるように」と諭されたが、ルイ・フィリップとナポレオンへの憎しみはいつまでも呪縛のように彼女についてまわった。アルトワ伯とマリー・テレーズは超王党派となり、出版の自由の制限や教会勢力の増大、完全な国王主権を望んだ。ルイ18世は中道的で、時には自由主義者と妥協することもいとわぬためそりが合わず、政治面で何度も衝突したという。また、過激で無慈悲な白色テロを扇動した。これには、幼少期に受けた過酷な体験が影を落としていたといえる。そのため、復讐のためフランスに戻った王女とも呼ばれるほどであった。アングレーム公はイギリス亡命時代に触れた議会政治への憧れが徐々に強くなり、夫婦は政治面に口論することもあった。

しかし、ボルドーで彼女が見せた勇気と慈悲深い性格を人々は称え、作家で政治家のシャトー・ブリアン夫人は1816年、パリに元亡命貴族と聖職者の避難所のマリー・テレーズ病院を作った。ルイーズ王妃に先立たれたプロイセン国王が最初の寄付者となった(病院は1819年に完成した)。この年、ルイ18世はマリー・アントワネットが最期を過ごしたコンシェルジュリーの独房を公開した。教会は敬虔なマリー・テレーズに司教と枢機卿を指名する名誉を与えた。

6月17日、アングレーム公の弟ベリー公両シチリアフランチェスコ1世の長女マリー・カロリーヌと結婚した。ところが1820年2月13日オペラ座でベリー公は狂信的なボナパルト派の馬具屋ルイ・ピエール・ルヴェルにより暗殺された。王族一同が警察大臣エリー・ドゥカズの罷免を求め、アルトワ伯爵とマリー・テレーズはこの事件を、ルイ18世の自由主義的政権と権力を強めたドゥカズのせいとした。彼女はルイ18世に「もう一緒に食事をしません、パリを立ち去ろうと思います」と夫婦で南西部へ行こうとする意思を見せると、ルイ18世は譲歩し、ドゥカズを罷免した。9月29日にマリー・カロリーヌがアンリ・フェルディナン・デュードネを出産する。マリー・テレーズは友人ポーリーヌに「やっと永遠に諦めがついたから子供がいないままでいるわ」と心中をもらした。

マリー・カロリーヌは社交に熱中し、子供たちと過ごすことは少なかった。マリー・テレーズは幼い甥と姪が自由に遊べるプチ・トリアノンのような場所を望み、自らも辛い思い出から離れるために1821年12月29日、パリ西部にあるヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を購入した。図書室には彼女が集めた旅行意や革命史の本が並び、父ベリー公を失ったルイーズとアンリのために動物を集め、農場を作った。彼女は農場で取れる牛乳と生クリームを自慢にし、パリに持ち帰っては友人たちと楽しんだ。しかし、政治的な面で嫌っていたリシュリュー公が参加した晩餐会では、彼の皿にそのクリームを与えなかった。

シャルル10世時代[編集]

マリー・テレーズ(アレクサンドル=フランソワ・カミナード作、1827年。ルーヴル美術館

1824年、ルイ18世が病死した。アルトワ伯が国王シャルル10世となり、マリー・テレーズは王太子妃となる。叔父ルイ18世によく仕えたように、彼女はこの叔父(かつ義父)にもよく仕えた。1825年7月24日、差出人不明のマリー・テレーズ殺害予告文を議会で大臣に見せた。いまだ彼女は政敵から狙われていた。だが、彼女を慕い訪問する人々は絶えなかった。王太子妃の身分となっても45人の使用人しか雇わず、質素と倹約を貫いた。そしてベリー公の遺児ルイーズとアンリの面倒を見た。2人は叔母によくなついた。フランスに帰国していたルイ・フィリップを相変わらず嫌っていたが、毎年元日にはオルレアン家の子供たちにプレゼントを贈った。だが、ルイーズとアンリにはかつて自分が母にされたように、多くのおもちゃを見せてから「ありがたみと貧困」の教えを説き、おもちゃを送り返した。子供たちはこれをよく理解し、不満は口にしなかった。孫たちの様子はシャルル10世を満足させた。

7月革命後の再亡命[編集]

イギリス[編集]

1830年7月革命によって、またしてもシャルル10世一家は長い亡命生活を送ることとなった。パリでの暴動の後、マリー・テレーズはヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を売却した。購入したドゥカズ子爵は、ベリー公暗殺の際に罷免されたドゥカズの兄弟であった。亡命準備をしたマリー・テレーズは、親友ポーリーヌと泣きながら別れた。彼女は別れの際に、マリー・アントワネットの遺品の印章をポーリーヌに差し出した。これが2人にとって今生の別れとなった。7月革命の4ヶ月前にスペイン国王フェルナンド7世は娘イサベルのためにサリカ法を廃し、弟カルロスの王位継承を邪魔した。フランスのブルボン家が後にこのニュースを知った際、マリー・テレーズは「ずっと前にフランスがやるべきことだった」と不満を表した。

シャルル10世一家は8月3日にパリを出発し、ゆっくりとフランスを北上した後、8月16日シェルブールからイギリスへ渡った。ワイト島のセントヘレンズへ上陸させられた一家は、ウェリントン公ウィリアム4世の代理となった信書を受け取る。そこには、私人として到着するならイギリスに避難所を用意する、と記されていた。イギリスではシャルル10世はポンティユー伯爵、マリー・テレーズはマルヌ伯爵夫人、ベリー公妃はロニー伯爵夫人、アンリはシャンボール伯爵と名乗った。

カトリック教徒のトマス・ウェルド卿は、国王一家にドーセットのラルワース城を貸した。マリー・テレーズは秘書のシャルレ男爵の画策により、一家を養うための多くの金をロンドンの銀行家ワースから受け取った。10月、一家はエディンバラのホリールード宮殿に移ったが、ここは一般公開されており居心地が悪く、マリー・テレーズは宮殿の近くに小さな家を借りた。シャルル10世は老年を孫に囲まれて暮らすのは幸せだと、たびたび口にした。

オーストリアの庇護下[編集]

フランス新政府とイギリスの関係が改善されると状況は一変し、シャルル10世はオーストリア皇帝フランツ1世(かつての神聖ローマ皇帝フランツ2世)を頼りプラハへ移ることに決定した。その際、マリー・カロリーヌは同行を拒み、シャルル10世はしぶしぶ「フランスに帰国した際、息子が未成年の場合はベリー公妃を摂政とする」と宣言し、署名した。その直後、マリー・カロリーヌは姿を消し、ヨーロッパ各地を転々とした後、1832年4月にブルボン家支持者アルマサン公らとともに叛乱を起こし、逮捕された。拘留中のマリー・カロリーヌが青年弁護士との間の子を妊娠していることとルッケーシ・パッリ伯との秘密結婚が明らかにされ、嫁の不貞に怒ったシャルル10世はマリー・カロリーヌを絶縁し、マリー・テレーズが母親代わりにルイーズとアンリを養育することになった。

プラハではフラドシン城を用意してもらい、シャルル10世らとヴェルサイユの伝統的儀礼を復活させ、生活した。彼女はここで刺繍をして静かに過ごし、その刺繍はオークションに出され、収益は恵まれない者に寄付された。1836年にオーストリアの都合でモラヴィアのキルシュベルク城へ、その後ゴリツィアのグラッファンベルク城へ転居した。ここで義父シャルル10世を1836年に、夫アングレーム公を1844年に看取った後、今度はウィーン郊外のフロースドルフ城へ転居した。ここで彼女は散歩と読書、刺繍と祈りを日課に静かに暮らした。刺繍はオークションにかけられ、売上は貧しい者たちに寄付された。

マリー・テレーズは1851年10月19日肺炎のため死亡した。これにより、ルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えることとなった。

備考[編集]

  • タンプル塔幽閉までは、かわいらしい笑顔のマリー・テレーズの肖像画が残されている。しかし、その後の過酷な体験を反映して、以後の数少ない肖像画には気難しそうな女性が描かれている。革命から解放された当初のマリー・テレーズは、その悲痛な体験のためフランス国民からの同情を受けていた。しかし堅物な性格や、若さをイメージさせる王太子妃としてはかなり高齢だったことから、一部の王党派や聖職者の人気を除いて、民衆からの人気はあまり無かったという説もある。また、生涯を通して一人の恋人も作らなかったと伝えられる。
  • シェーンブルン宮殿フェルセン伯爵と再会した時には、一言も言葉を交わさなかったという。しかしその後、フェルセン伯爵は亡命中のマリー・テレーズと何度か面会している。
  • 近年ドイツに、「マリー・テレーズはタンプル塔で別人とすり替えられてオーストリアに送られた」とする説を研究する人々がいる。

脚注[編集]

  1. ^ エルネスティーヌの法的文書には母・フィリピーヌ・ド・ランブリケの名前は記載されていたが、フィリピーヌの夫・ジャックの名前は記載されておらず、当時ルイ16世の嫡外子ではないかと言われた。(ネーゲルp28,30,59,60)
  2. ^ その後、エルネスティーヌはナポレオン時代をパリで暮らし、1810年12月7日に妻に先立たれたジャン・シャルル・ブランパンと結婚、1813年12月30日にパリ郊外で死亡した。(ネーゲルp384)

参考文献[編集]

  • 『マリー・テレーズ』スーザン・ネーゲル著 櫻井郁恵訳(近代文芸社、2009年)
  • 『マリー・アントワネットの娘』藤本ひとみ著(中公文庫 2005年)

外部リンク[編集]