カール・フォン・エスターライヒ=テシェン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
カール大公

カール・フォン・エスターライヒErzherzog Karl von Österreich, Herzog von Teschen, 1771年9月5日 - 1847年4月30日)は、フランス革命戦争ナポレオン戦争期に活躍したオーストリア帝国の軍人、皇族。テシェン(チェシン)公ハプスブルク家神聖ローマ皇帝レオポルト2世と皇后マリア・ルドヴィカの第3子。神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝としてはフランツ1世)の弟。カール大公として知られる。

生い立ち[編集]

父レオポルトが大公であったトスカーナ大公国フィレンツェに生まれる。父のはからいでカールは子供のいなかった伯母夫婦、テシェン(チェシン)女公マリア・クリスティーナとテシェン公アルベルト・カジミールの養子として、ウィーンで育てられた。テシェン公の称号はのちに養父から継承したものである。養父母の総督就任に伴いオーストリア領ネーデルラントへ移り、養母が死んだ1793年から後任の総督を務めた。

軍歴[編集]

フランス革命の勃発とほぼ時を同じくして軍隊入りし、革命戦争で若くして頭角を現した。1796年陸軍元帥に昇進、ライン方面軍司令官を務めた際には、巧みな用兵でジュールダンモローらの率いるフランス軍を撃退している。

1805年の対フランス戦争(第三次対仏大同盟)ではイタリア方面軍を率いていたが、兄フランツ2世が率いていたドイツ方面軍とロシアの連合軍がアウステルリッツの戦いナポレオンの率いるフランス軍に敗北、プレスブルクの和約でオーストリアはフランスに屈服した。この間、1801年以降は陸軍大臣として軍制改革に従事している。

1809年にオーストリアがフランスに再び宣戦した(第五次対仏大同盟)際には、最高司令官としてフランス軍と戦い、アスペルン・エスリンクの戦いで初めてナポレオンに黒星を付けた。しかしその直後のヴァグラムの戦いでは敗北、シェーンブルンの和約でオーストリアは再び屈服を余儀なくされた。

その後カールは公職を退き、以後は著作活動を中心に活動、再び前線に戻ることはなかった。

1847年、ウィーンにて75歳で没した。

評価[編集]

将帥としてはナポレオンに一歩及ばなかった観はあるものの、当時のヨーロッパにおける有能な軍人の一人として評価されている。アスペルン・エスリンクの戦いは、戦略的に意義のある勝利とはなり得なかったが、初めてナポレオンが野戦で敗北を喫したと言う事実の影響力は大きい。

またクラウゼヴィッツジョミニらと並び、当時を代表する軍事思想家としても知られており、多くの著作を残している。系統的には前世代の古い思想の影響を受けているが、その影響を脱しつつある側面もあり、古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在と位置づけられている。アメリカマハン海軍戦略思想に影響を与えたのは、クラウゼヴィッツよりもジョミニやカール大公の方であった。

幼少の頃患った熱病の影響で、体はあまり丈夫な方ではなかった。

兄フランツや政府上層部とは意見が合わないことが多く、軍制改革は思ったようには進まなかった。1805年、1809年の開戦に際しても、カール自身は時期尚早を理由に消極的であったと言う。後に立憲君主制を主張し、兄と対立した。

家族[編集]

ウィーン会議が終わった後の1815年9月、ナッサウ=ヴァイルブルク侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの娘ヘンリエッテ・アレクサンドリーネウィーンで結婚した。2人の間には5男2女が生まれた。

先代:
テシェン女公マリア・クリスティーナ
テシェン公アルベルト・カジミール
オーストリア領ネーデルラント総督
1793年 - 1794年
次代:
フランスによる占領
先代:
マリア・クリスティーナ
アルベルト・カジミール
テシェン(チェシン)公
1822年 - 1847年
次代:
アルブレヒト大公
先代:
マクシミリアン・フランツ大公(叔父)
ドイツ騎士団総長
1801年 - 1804年
次代:
アントン・ヴィクトル大公(弟)