ガイウス・ユリウス・カエサル

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ガイウス・ユリウス・カエサル
Gaius Iulius Caesar
ガイウス・ユリウス・カエサル立像
ニコラ・クストゥ作、ルーヴル美術館]所蔵
渾名 カエサル(Caesar)
出生 紀元前100年頃(紀元前102年とも)
死没 紀元前44年3月15日
生地 ローマ
死没地 ローマ
出身階級 パトリキ
一族 カエサル家
氏族 ユリウス氏族
官職 財務官(紀元前69年)
按察官(紀元前65年)
最高神祇官(紀元前63年)
法務官(紀元前62年)
執政官(紀元前59年)
独裁官(紀元前46年)
終身独裁官(紀元前45年)
属州総督 ヒスパニア(紀元前61年)
ガリア(紀元前58年)
指揮した戦争 ガリア戦争(紀元前58年)
第二次ローマ内戦(紀元前49年)
後継者 オクタウィウス
カエサリオン
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ガイウス・ユリウス・カエサル古典ラテン語Gaius Iulius Cæsar[1]紀元前100年 - 紀元前44年3月15日[2])は、共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea iacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」などの特徴的な引用句でも知られる。また暦で彼の名称が使用されていた(ユリウス暦)時期が存在していた。

マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治内戦を経て、ルキウス・コルネリウス・スッラに次ぐ終身独裁官(ディクタトル)となり、後の帝政の基礎を築いた。

名前[編集]

ガーイウス・ユーリウス・カエサルが、古典ラテン語の当時の発音(再建音)に最も近い。長母音と短母音を区別をしないガイウス・ユリウス・カエサルは慣用的な表記である。英語読みの「ジュリアス・シーザー」(Julius Caesar) でも知られる。

カエサル」の名は、帝政初期ローマ皇帝が帯びる称号の一つ、帝政後期には副帝の称号となった(テトラルキア参照)。ドイツ語のKaiserカイザー)やロシア語のцарьツァーリ)など、皇帝を表す言葉の語源でもある。

生涯[編集]

生誕[編集]

ガイウス・ユリウス・カエサルの生誕年として以下の2つの説がある。

  1. スエトニウス『皇帝伝』の記述に沿った紀元前100年[3]
  2. カエサルがプラエトル(法務官=就任資格が40歳以上)に就任した紀元前62年から逆算した紀元前102年

父は同名のガイウス・ユリウス・カエサル英語版 (Gaius Julius Caesar) で、ガイウス・マリウスは父ガイウスの義弟に当たる。父ガイウスはプラエトルを務めた後、アシア属州属州総督を務めた。母はルキウス・アウレリウス・コッタの娘アウレリア・コッタ英語版で、祖先に幾人もの執政官を輩出した名家の出身であった。また、カエサルには幼少の頃から家庭教師としてマルクス・アントニウス・グニポが付けられたが、グニポはガリア系の人物であった。

なお、誕生月日も幾つかの説がある。カエサルの神格化を決議した後にカエサルの誕生日を祝う記念日を『ルディ・アポッリナレス英語版』(7月6日から13日まで)の最終日に当たる7月13日を避けて7月12日に設置したと伝わっているため、7月13日をカエサルの誕生日とする説が有力であるが、7月12日とする説もある。

カエサルは自身の叔母でマリウスの妻でもあったユリアの追悼演説で「ユリウス氏族アエネアスの息子アスカニウスに由来し、したがって女神ウェヌスの子孫であり、また、カエサルの母方はアンクス・マルキウス王政ローマ第4代の王)に連なる家柄である」と述べている[4]。なお、「カエサル」という家族名の起源としては以下の説がある。

  • ローマ皇帝群像』においては、以下の3つが挙げられている。
    • 最初にカエサル姓を名乗った人物が頭の毛がふさふさしていた(caesaries カエサリエス)説[8]
    • 灰色の瞳(oculis carssi オクリス・カルッスィ)をしていた説
    • 戦争で象(フェニキア語carsai カルサイ)を殺した説[9]

ユリウス氏族カエサル家は、このように古い系譜を有する名門の貴族(パトリキ)であったが、共和政が樹立されてからカエサルの誕生までにコンスル経験者が3人と、他のパトリキに比べ見劣りしていた。そのうちの1人がユリウス市民権法を成立させて同盟市戦争終結を加速させた伯父のルキウスである。

幼年期[編集]

若き日のカエサル

幼少期のカエサルについては、プルタルコス『英雄伝』やスエトニウス『皇帝伝』などの文献に言及が無く、はっきりしない。カエサルの青年期に当たる前90年代から前80年代はローマが戦乱に明け暮れる時代であり、紀元前91年同盟市戦争紀元前88年から始まったミトリダテス6世率いるポントス王国とのミトリダテス戦争などがあった。また、ローマ国内も政治的に不安定な時期であり、当時ローマでは民衆を基盤とする市民会の選挙政治を中心とする民衆派(ポプラレス)、元老院を中心とした寡頭政治を支持する閥族派(オプティマテス)の2つの政治勢力が対立、各派の中心人物は民衆派がガイウス・マリウス、閥族派がルキウス・コルネリウス・スッラであった。カエサルの叔母ユリアはマリウスに嫁いでいたため、カエサルは幼少の頃より民衆派と目されていた。

ミトリダテス討伐の権限を巡ってこの両者が対立、結局スッラがポントスへ赴くことになった。しかしスッラの遠征中にマリウスにもミトリダテス討伐の任が与えられ、これに激怒したスッラは軍を率いてローマへ帰還。老年のマリウスはローマから逃げのびる。そしてスッラが元老院に念を押して再び遠征に出かけると、今度は流浪の恥辱を晴らさんとするマリウスが再びローマを制圧、ルキウス・コルネリウス・キンナと手を結びスッラを「国家の敵」と弾劾、マリウス派がスッラの支持者を粛清し、犠牲者の中には上述の伯父ルキウスもいた。「スッラがマリウスを放逐する際に反対しなかった」という些細な理由からである(カエサルにとって義理の叔父マリウスによって、実の伯父ルキウスが殺されたことになる)。その直後の紀元前86年にマリウスは没した。紀元前84年にカエサルの父が死去した為、カエサルはカエサル家の家長となった。

紀元前83年、カエサルは神祇官を務める。しかし、この職務はパトリキのみに開放されており、前提としてパトリキと結婚する必要があったので、カエサルは婚約していた騎士階級(エクィテス)の娘コッスティアと別れ、コルネリウス氏族であるキンナの娘コルネリアと結婚した[10]

亡命[編集]

しかし、その直後スッラがローマへ進軍し、民衆派の抵抗を受けたがローマ市を制圧。紀元前83年に終身独裁官となり、政治的に対立する民衆派をプロスクリプティオに基づいて徹底して粛清した。血縁としてマリウスに近く、キンナの婿であるカエサルも当然この処刑リストに名が載り、彼はあやうく殺されそうになった。しかしこの時、カエサルはまだ18歳で政治活動をしたことのない若者であったことから、スッラの支持者、果てはローマで大変敬意を表されているウェスタの巫女からまで助命嘆願が相次ぎ、スッラもこれにしぶしぶ同意する。その時スッラは「君たちにはわからないのかね。あの若者の中には多くのマリウスがいるということを」と語ったと伝えられる[11]。 代わりにスッラはキンナの娘コルネリアとの離婚を命じたが、カエサルは拒否し、スッラの追手から逃れるため、紀元前81年小アジアアカエアへ亡命した。

ローマから亡命したカエサルは属州での軍務に就く。アシア属州マルクス・ミヌキウス・テルムスのもとでシキリア属州駐屯の軍に籍を置き、そこでの業績で「市民冠」を授与された[12]。 そしてビテュニア遠征の際に支援したビテュニア王ニコメデス4世のもとに非常に長期間滞在する。スエトニウスによれば、この時に王と若いカエサルは男色関係にあったのではないかという噂が立ったと言われる。また、この噂は生涯に渡って付いて回り、「ビテュニアの女王」などと政敵より攻撃される材料となった[13]

この頃ローマでは、制度疲労に陥っていた元老院の綻びを直し終わったスッラが紀元前80年に終身独裁官を辞していた。このスッラの行動を後年、カエサルは「スッラは政治のイロハを分かっていなかった」と評したという[14]

ローマ帰還[編集]

カエサルの胸像(ウィーン美術史美術館

紀元前78年にスッラが死去したことでカエサルはローマへ帰還した。ローマに戻ったカエサルは下層階級の住むスブッラの一角に質素な家を持った。スッラ死後に挙兵した民衆派のマルクス・アエミリウス・レピドゥスはカエサルに参加を呼び掛けたが、カエサルはこれを断った。

代わりにカエサルは弁舌で一躍有名となる。当時ローマでは属州統治に現地民への脅迫や搾取・収賄を行う者が頻繁にいたが、感情のこもった手振りと息つく暇もない話しぶりで彼はそのような属州総督を次々と告発、紀元前77年には前81年に執政官へ選出されたグナエウス・コルネリウス・ドラベッラ英語版も告発した[15]。この時の彼を同じく弁舌で知られたキケロも賞賛したという。

ドラベッラへの告発が不調に終わったことで復讐を恐れたカエサルは、紀元前75年ロドス島へ赴き、キケロの師で修辞学の権威として著名であったアッポロニウス・モロンに師事した。

この時カエサルはエーゲ海を船で渡っていたが、途中キリキア海賊に囚われの身となった。海賊は身代金として20タレントを要求したが、カエサルは「20では安すぎる、50タレントを要求しろ」と海賊に言い放ち、その間海賊に対して恐れもせずに尊大に接するだけではなく、「自分が戻ったらお前たちを磔にしてやるぞ」と海賊に対し冗談すら言った。そして身代金が支払われて釈放されるとカエサルは海軍を招集し海賊を追跡、捕らえてペルガモンの獄につないだ。そしてアシア属州の総督に処刑するように命じるが、総督はこれを拒否して海賊を奴隷に売ろうとする。するとカエサルは海路を引き返して、冗談でほのめかした通りに自分の命令で海賊たちを磔刑に処したという[16]

キャリア初期[編集]

ローマに戻ると軍団司令官(トリブヌス・ミリトゥム)に選出、クルスス・ホノルムへの道を歩み始めた。ヒスパニアでのクィントゥス・セルトリウス英語版による反乱英語版に加えて、紀元前73年にはスパルタクスらが首謀した第三次奴隷戦争が勃発、グナエウス・ポンペイウスマルクス・リキニウス・クラッススがこれらの戦争で活躍したが、この時期にカエサルは軍の士官職を持っていたにもかかわらず、活躍をしたという記録は無い。紀元前69年に財務官(クァエストル)に就任。この頃、叔母でマリウスの寡婦であったユリアの葬儀で追悼演説を行った。またこの時、スッラの粛清以来すっかり見なくなったマリウスの像を掲げ、自らを民衆派であることを公然と示した。妻のコルネリアも同年死去した。

財務官の任務でカエサルはヒスパニアへ赴任する。ここでアレクサンドロス大王の像を目にして「アレクサンドロスの年齢に達したのにも拘らず何もなしえていない」と自らの心境を吐露し、偉業達成への意気込みを見せた。スエトニウスによると、カエサルはこの夜に母アウレリアを犯す夢を見たために激しく狼狽し、占い師から「母とは全ての母に当たる『大地』である」と助言を受けて、ようやく落着きを取り戻したとされる[17]。 カエサルは任務を早めに切り上げてローマに戻った。そして財務官の任期を終えたことで元老院の議席を得た。

ローマに戻ったカエサルはスッラの孫であるポンペイアと結婚した。ポンペイアは裕福だったため、彼はその財産を買収や陰謀に使った。この時期、カエサルは複数のローマ転覆の陰謀への関与が取り沙汰された。一つ目はヒスパニアからローマへの帰路に通った不完全なローマ市民権しか持たないポー川より北側の都市で蜂起を唆したとされた行動、二つ目は上級按察官(アエディリス・クルリス)に就任する前の紀元前66年にクラッススを独裁官、カエサル自身はその騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)としてローマを壟断しようとする計画であったが、いずれも未遂に終わった[18]

紀元前65年には上級按察官に就任した。スッラ亡き後も元老院派が政治を牛耳っていたのにもかかわらず、カエサルは公然と叔父である民衆派の巨頭マリウスの戦勝碑の修復に着手し、スッラのプロスクリプティオに基づく没収財産で財を成した者の告発を行った。同時に多額の公費を使い、同僚のマルクス・カルプルニウス・ビブルスの存在を完全に日陰にしてしまうほど派手に公共事業や公共祭儀などを行った。

カティリナ事件[編集]

"Cicerone denuncia Catilina"、カティリナ(右端)を追及するキケロ(左側手前)、イタリア人画家チェーザレ・マッカリ英語版による1888年の作

紀元前63年護民官ティトゥス・ラビエヌスと共闘して元老院議員ガイウス・ラビリウスを37年前の民衆派の護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌス殺害の容疑で告発、ラビエヌスを告発側に就かせた。この時、弁護側にはキケロとホルタルスが就いた。そしてラビリウスは国家反逆罪で断罪された。この時、護民官メテッルス・ケレルヤヌスの丘に戦時召集の旗が掲げてあるのを見て民会を緊急召集したため、裁判自体はうやむやになった[19][20]

同年、カエサルはスッラの治世中に任命された前任のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスの死去に伴い、最高神祇官に立候補する。そして彼は同じく立候補した前職の執政官カトゥルスイサウリクスとその座を争うことになり、互いに職を巡っての贈賄の告発が続く事態となる。この時、既に選挙運動で多額の借金を抱え(その最大の債権者がクラッススであった)、もし落選すれば再び国外退去するつもりでいたカエサルは、母アウレリアに「最高神祇官にならなければ(自宅に)戻ってくることはないでしょう」と言った[21]。カエサルは2人の対立候補を抑えて当選し、晴れて公邸(レギア)に住む身となった。

さらにこの年はルキウス・セルギウス・カティリナ一味による国家転覆の陰謀が発覚、この年の執政官であったキケロは熱弁を奮ってカティリナ一味を断罪した。元老院議員たちの間で互いに疑心暗鬼となり陰謀の対処に追われる中、カエサルは陰謀に加担した者の死刑に反対、あくまでも終身の投獄を主張する立場をとる。これに対してマルクス・ポルキウス・カトは処刑を徹底主張し、結局陰謀者たちは処刑された。カエサルは方針決定後も更に妨害を続けたが、キケロやカトの意見を支持する一団に打ち殺されそうになった為、カエサルはすっかり腰が引けてしまい、その年は家に引篭もった[22]

紀元前62年には陰謀のさらなる追求のため委員会が設置された。その中でキケロは陰謀が何たるか報告を事前に受けていたという証言があったが、彼は容疑の潔白を証明し、逆に自分を告発した人物、そして委員会のメンバーの1人も獄につながれる事態となった。その間にカエサル(この年、プラエトル(法務官)に選出されていた)は一貫して処罰の連座制に反対の立場を貫いた。なお、カエサルはクラッススと共に裏で陰謀を画策していたとも伝えられた。[23]

また、カエサルがこの陰謀に関わっていたという会議中に、彼は手紙を部下から受け取った。それを見たカトは、陰謀に加担した証拠だと中身を見せろと詰め寄った。カエサルは「これは大したものではない」と見せることを躊躇う様子を見せたが、カトが執拗に要求してきたので中身を見せると、それは愛人セルウィリア(カトの異父姉)からの恋文だったという。カトは「この女たらし!」と罵倒したが、それでカエサルを追求できなくなり、議場は大爆笑となった。これでカエサルへの疑いはかき消されたという。

三頭政治[編集]

紀元前61年、カエサルは、前法務官(プロプラエトル)としてヒスパニア・ウルステリオル属州総督として赴任した。カエサルはヒスパニアへ向かう道中に立ち寄った寒村で、部下に対して「ローマ人の間で第2位を占めるよりも、この寒村で第1人者になりたいものだ」と語ったという[24]。 カエサルは属州総督としてローマ軍を率いてルシタニ族英語版ガッラエキ族英語版を討伐し、ローマへ服属していなかった部族も従えた。カエサルはこの属州総督時代に大金を得た[25]

紀元前60年、コンスルをめざすカエサルは、オリエントを平定して凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと結び執政官に当選する。ただこの時点で、すでに功なり名を成したポンペイウスに対し、カエサルはたいした実績もなく、ポンペイウスと並立しうるほどの実力はなかった。そこでポンペイウスより年長で、エクィテス(騎士階級)を代表し、スッラ派の重鎮でもあるクラッススを引きいれてバランスを取った。ここに第一回三頭政治が結成された。民衆派として民衆から絶大な支持を誇るカエサル、元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。

執政官在任中にまず、元老院での議事録を即日市民に公開する事を定めた。それまでは議員から話を聞く以外には内容が知られることはなかっただけに、議員たちはうかつな言動は出来なくなった。また、グラックス兄弟以来元老院体制におけるタブーであった農地法を成立させる。当初、元老院はこの法案に激しく反対したが、カエサルは職権で平民集会を招集、巧妙な議事運営で法案を成立させるとともに、全元老院議員に農地法の尊重を誓約させることに成功した。

ガリア戦争[編集]

"Vercingetorix throwing his weapons at the feet of Caesar" フランス人画家リオネル・ロワイヤル英語版による1899年の作(ル・ピュイ=アン=ヴレクロザティエ博物館英語版フランス語版所蔵)
アレシアの戦いにて、カエサル(赤いトーガをまとう人物)の軍門に下り、勝利者の足元に武器を投げ捨ててみせるウェルキンゲトリクス(馬上の人)。

紀元前58年、コンスルの任期を終えたカエサルは前執政官(プロコンスル)の資格で以てガリア・キサルピナ及びガリア・トランサルピナ等の属州総督に就任した。ヘルウェティイ族がローマ属州を通過したい旨の要求を拒否したことを皮切りに、ガリア人とのガリア戦争へ踏み出すこととなった。ヘルウェティイ族を抑えた後、ガリア人の依頼を受けてゲルマニア人アリオウィストゥスとの戦い(ウォセグスの戦い)に勝ち、翌年にはガリアの北東部に住むベルガエ人諸部族を制圧した(サビス川の戦い)。

その間の紀元前56年にはルッカでポンペイウス、クラッススと会談を行い、紀元前55年にポンペイウスとクラッススが執政官に選出され、カエサルのガリア総督としての任期が5年延長されることが決定した。また、同年にゲルマニアに侵攻してゲルマニア人のガリア進出を退け、ライン川防衛線(リーメス)の端緒を築いた。紀元前55年及び54年の2度にわたってブリタンニア遠征も実施した。

最大の戦いは紀元前52年アルウェルニ族の族長ウェルキンゲトリクスとの戦いであり、この時はほとんどのガリアの部族が敵対したが、カエサルはアレシアの戦いでこれを下した。これらの遠征により、カエサルはガリア全土をローマ属州とした。カエサルはガリア戦争の一連の経緯を『ガリア戦記』として著した。

カエサルはこの戦争でガリア人から多数の勝利を得、ローマでの名声を大いに高めた。彼は「新兵は新軍団を構成し、既設の軍団には新兵を補充しない」という方針を採ったため、長期間の遠征に従事した軍団は兵数が定員を割っていたが、代わりに統率の取れた精強な部隊になった。軍団兵には、ローマにではなくカエサル個人に対し、忠誠心を抱く者も多かったといわれる。これらのガリア征服を通して蓄えられた実力は、カエサルが内戦を引き起こす際の後ろ盾となったのみならず、ローマの元老院派のカエサルに対する警戒心をより強くさせ、元老院派の側からも内乱を誘発させかねない強硬策を取らせることとなった。

ローマ内戦[編集]

ポンペイウスとの対決[編集]

紀元前53年パルティアへ遠征していた三頭政治の一角であるクラッススの軍が壊滅(カルラエの戦い)し、クラッススが戦死したことにより三頭政治は崩壊した。また、紀元前54年にポンペイウスに嫁いでいた娘ユリアが死去したことも受けて、ポンペイウスはカエサルと距離を置き、三頭にとって共通の政敵であったカトやルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスら元老院派(閥族派)に接近したため、両者の対立が顕在化した。

紀元前49年、カエサルのガリア属州総督解任および本国召還を命じる『元老院最終勧告』が発布された。カエサルは自派の護民官がローマを追われたことを名目に、軍を率いてルビコン川を越えたことで、ポンペイウス及び元老院派との内戦に突入した[26]1月10日にルビコン川を渡る際、彼は「ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅。神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう、賽は投げられた」と檄を飛ばしたという[27]

ルビコン川を越えたカエサルはアドリア海沿いにイタリア半島の制圧を目指した。対するポンペイウスはローマにいたため即時の軍団編成を行えず、イタリア半島から逃れ、勢力地盤であったギリシアで軍備を整えることにした。多くの元老院議員もポンペイウスに従ってギリシアへ向かった。こうして、カエサルはイタリア半島の実質的な支配権を手にした。

ローマ制圧後、マッシリア包囲戦イレルダの戦いでヒスパニアやマッシリア(現マルセイユ)などの元老院派を平定して後方の安全を確保し、カエサルが独裁官として仕切った選挙で紀元前48年の執政官に選出された[28]。独裁官を10日余りで自ら辞任し、ローマを発って軍を率いてギリシアへ上陸した。元老院派の兵站基地を包囲したデュッラキウムの戦いで敗退を喫したが、紀元前48年8月のファルサルスの戦いで兵力に劣りながらも優れた戦術によって勝利を収めた。ポンペイウスはエジプトに逃亡したが、9月29日プトレマイオス朝の都アレクサンドリアに上陸しようとした際、プトレマイオス13世の側近の計略によって迎えの船の上で殺害された。後を追ってきたカエサルがアレクサンドリアに着いたのは、その数日後だった。

エジプトにて[編集]

『クレオパトラをエジプト女王へ据えるカエサル』"Cesare rimette Cleopatra sul trono d'Egitto"、イタリア人画家ピエトロ・ダ・コルトーナによる1637年の作
カエサル(中央、赤いマント)がクレオパトラ7世の手を引いて玉座へ座るよう促している。右端はアルシノエ4世

ポンペイウスの死を知ったカエサルは、軍勢を伴ってアレクサンドリアに上陸した。エジプトでは、先王プトレマイオス12世の子であるクレオパトラ7世とプトレマイオス13世の姉弟が争っており、両者の仲介を模索したものの、プトレマイオス13世派から攻撃を受けた為、クレオパトラ7世の側に立って政争に介入し、ナイルの戦いで、カエサル麾下のローマ軍はプトレマイオス13世派を打ち破った。この戦いで敗死したプトレマイオス13世に代わって、プトレマイオス14世がクレオパトラ7世と共同でファラオの地位に就いた。

北アフリカ、ヒスパニア戦役[編集]

エジプト平定後、カエサルは親密になったクレオパトラ7世とエジプトで過ごしたが、小アジアに派遣していたグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスがポントス王ファルナケス2世に敗北したという報せが届いた。紀元前47年6月、カエサルはエジプトを発ち、途中でポンペイウスの勢力下だったシュリアキリキアを抑えつつ進軍、8月2日ゼラの戦いでファルナケス2世を破った。この時、ローマにいる腹心のガイウス・マティウスに送った戦勝報告に「来た、見た、勝った (Veni, vidi, vici.)」との言葉があった。その後ローマに短期間滞在、その際1年間の独裁官に任命された。

ポンペイウス死後もヌミディアユバ1世と組んで北アフリカを支配していたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカなど元老院派をタプススの戦いで破り、更にウティカを攻撃してカトを自害に追い込んだ(紀元前46年4月)。

紀元前46年夏、ローマへ帰還したカエサルは市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式を挙行した。カエサルはクレオパトラ7世をローマに招いており、クレオパトラ7世はカエサルとの間の息子とされるカエサリオンを伴っていた。紀元前45年3月、ヒスパニアへ逃れていたラビエヌスやポンペイウスの遺児小ポンペイウスセクストゥス兄弟らとのムンダの戦いに勝利して一連のローマ内戦を終結させた。

終身独裁官就任[編集]

元老院派を武力で制圧して、ローマでの支配権を確固たるものとしたカエサルは共和政の改革に着手する。属州民に議席を与えて、定員を600名から900名へと増員したことで元老院の機能・権威を低下させ、機能不全に陥っていた民会、護民官を単なる追認機関とすることで有名無実化した。代わって、自らが終身独裁官に就任(紀元前44年2月)し、権力を1点に集中することで統治能力の強化を図ったのである。この権力集中システムは元首政(プリンキパトゥス)として後継者のオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に引き継がれ、帝政ローマ誕生の礎ともなる。

紀元前44年2月15日ルペルカリア祭の際にアントニウスがカエサルへ王の証ともいえる月桂樹を奉じたものの、ローマ市民からの拍手はまばらで、逆にカエサルが月桂樹を押し戻した際には大変な拍手であった。数度繰り返した所、全く同じ反応であり、カエサルはカピトル神殿へ月桂樹を捧げるように指示したという[29]共和主義者はこの行動をカエサルが君主政を志向した表れと判断した。また、カエサルは「共和政ローマは白昼夢に過ぎない。実体も外観も無く、名前だけに過ぎない」「私の発言は法律とみなされるべきだ」などと発言したとされる[30]。これら伝えられるカエサルの振る舞いや言動、そして終身独裁官としての絶対的な権力に対し、マルクス・ユニウス・ブルトゥスガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和主義者は共和政崩壊の危機感を抱いた。

暗殺[編集]

『カエサル暗殺』(La Mort de César) フランス人画家ジャン=レオン・ジェロームによる1867年の作

紀元前44年3月15日 (Idus Martiae)、元老院へ出席するカエサルの随行者はデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスであった。妻・カルプルニアは前夜に悪夢を見た為、カエサルに元老院への出席を避けるよう伝え、カエサルも一度は見合わせることを検討したものの、デキムスの忠告によってカエサルは出席することとした。以前「『3月15日』に注意せよ」と予言した腸卜官(占い師)のウェストリキウス・スプリンナに元老院への道中で出会い、カエサルは「何も無かったではないか」と語ったが、スプリンナは「『3月15日』は未だ終わっていない」と返答した[31]

それ以前にカエサルは身体の不可侵性を保障される護民官職権を得ていたが、それに加えて元老院議員から安全に関する誓約(元老院議員ほどに社会的地位に高い者なら、「紳士協定」こそ守られなくてはならないとされていた)を取った上で、独裁官に付属する護衛隊を解散していた。カエサルは「身の安寧に汲々としているようでは生きている甲斐がない」「私は自分が信じる道に従って行動している。だから他人がそう生きることも当然と思っている」といったことを述べている。

ポンペイウス劇場で開かれた元老院会議は、パルティア遠征を前にカエサル不在中のローマの統治体制を協議する予定であった。終身独裁官であったカエサルに随行するリクトルは元老院の慣習により元老院外で待機、腹心のマルクス・アントニウスガイウス・トレボニウスによって引き離されていた。

事件は元老院の開会前に起こったとされ、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊(現在のトッレ・アルジェンティーナ広場内)でマルクス・ブルトゥスやカッシウスらによって暗殺された。23の刺し傷の内、2つ目の刺し傷が致命傷となったという[32]

暗殺された際、カエサルは「ブルトゥス、お前もか (Et tu, Brute?)」と叫んだとされ、これはシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の中の台詞として有名であるが[33]、それ以前にもカエサルがこのような意味のことを言ったという説は存在していた。また、ギリシア語で「息子よ、お前もか? (καὶ σὺ τέκνον;)」[34] と言ったとも伝えられる。

カエサルの死後、紀元前44年ごろにローマで発行されたディナリウス銀貨

上記の「ブルトゥス」は通常、暗殺の指導者の1人で、カエサルが最も愛したと伝えられるセルウィリア[35]の息子であるマルクス・ユニウス・ブルトゥスを指すが、カエサルが呼んだ「ブルトゥス」は、子供の頃から知っているとはいえ愛人の子に過ぎなかった彼ではなく、その従兄弟に当たりカエサルにとって腹心中の腹心でもあったデキムス・ブルトゥスであったとする説もある[36]。数日後、カエサルの遺言状が開封された。第一相続人に当時18歳の大甥ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(後のアウグストゥス)、第二相続人にデキムス・ブルトゥスとの内容であった[37]

カエサルは生前に死に方を問われた際に「思いがけない死、突然の死こそ望ましい」と答え、合わせて「私が無事息災でいることは、ローマのためにも必要である。私は長い間権力を握っており、もし私の身の上に何かが起こったら、ローマは平穏無事であるはずがない。もしかすると悪くなる可能性があり、内乱が起こるだろう」と語ったと伝えられている[38]

カエサル年表[編集]

業績[編集]

カエサル死後のローマ(紀元前40年頃、部分)

ローマの将軍として[編集]

独裁官として[編集]

  • 多数の軍事的成功によるローマ国境内の安定化(後のパクス・ロマーナに繋がる)。民生の充実、および共和政から帝政への移行のため、政治・経済・社会等、諸制度の全面的な改革を行う。
  • ガリア・キサルピーナ属州(現在の北イタリア地方)の都市計画並びに属州民へのローマ市民権付与。シチリアガリア・トランサルピナ属州(現在の南フランス地方)住民へのラテン市民権の授与。
  • 元老院議員をスッラ体制下の600人から900人に増員。中西部ガリアの部族長、属州のローマ市民、カエサルのケントゥリオ(百人隊長)などが新たに議席を得る。これによって元老院の権威は著しく低下し、カエサルの権威に対抗する存在はなくなった。新たな属州出身者の元老院入りは人材の多様性をもたらし属州のローマ化に大きな影響を与えた一方で、元来の議員の敵意を招いた。後継者アウグストゥスの時代には、内乱の混乱で1000人以上となっていたのを600人に戻し、属州出身議員の登用は後のクラウディウスの時代まで凍結された。
  • 権力を独占し従来の政治の基本構造であった民会護民官を有名無実化した。
  • 金銀の換算率の固定化、国立造幣所の開設、利息率の上限を設定。
  • 法務官(プラエトル)、財務官(クァエストル)、按察官(アエディリス)の増員。
  • 同僚執政官(コンスル)の補佐役化。
  • 地方議会の被選挙権の改正、解放奴隷への公職門戸開放。
  • 属州の再編成(スッラ:10州→カエサル:18州)。属州議会の認知、税制の公正化(公営の徴税機関設置)。
  • ユピテルユーノーミネルウァをローマの主神とし、この神々を祭る日を休日とした。
  • センプロニウス法再興による元老院最終勧告の廃止。陪審員資格をパトリキ(貴族)・エクィテス(ローマ騎士)・プレブス(平民)といった「階級別」から、「40万セステルティウス以上の資産を持つローマ市民」へと改正。
  • 小麦の無料給付者を15万人に半減。審査按察官の設置。
  • 失業者と退役兵の植民先を属州に分散。カルタゴコリントスを再興。
  • 教師と医師へのローマ市民権の授与。
  • カエサルのフォルム建設、フォルム・ロマヌム、市街地の拡大などの再開発を進めるためにセルウィウス城壁を撤去した。そしてそれは「ローマの平和は国境防衛線で守られるものである以上、首都では防壁など不要である」という宣言でもあった。
  • 干拓・街道の整備延長やほかの公共事業。
  • ローマ暦太陰暦)を改正、ユリウス暦太陽暦)を制定[39]。これはのちにグレゴリオ暦が制定されるまで、1600年以上にわたってヨーロッパ各地で使われ続けることとなった。

文筆家として[編集]

  • ガリア戦記
  • 『内乱記』
  • 『反カト論』(散逸)
  • 『類推論』(散逸)

評価[編集]

  • カエサルは、文筆家としての才能も高く評価されており、マルクス・トゥッリウス・キケロとともに、ラテン文学の散文における双璧をなしている。特に『ガリア戦記』の雄渾で簡潔な文体は高く評価されている。また、上述した引用句も特徴的である。
  • 終身独裁官に就任して以降、カエサルは度々王位への野心を露にしたとプルタルコスは伝えている。一例として、パルティアへの遠征計画を挙げており、ローマで予言書とされた『シビュラ予言書』には「王を戴かない限り、ローマ人はパルティアは征服できない」と記載されていたという[40]。この時期、カエサルはローマ市民から憎悪されていたこともあって、共和主義者による暗殺計画を呼び込む一因となったとしている[41]
  • イタリアの歴史の教科書には「指導者に求められる資質は、次の五つである。すなわち、知性。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。そして、カエサルだけが、このすべてを持っていた」という記述がある[42]
  • ドイツの歴史家であり、ローマ史によってノーベル文学賞を受賞したテオドール・モムゼンは、「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と評した。
  • モンテスキューは、次のように評している。「人々は、カエサルの幸運についてしきりに語る。しかし、この非凡な人物は、多くのすぐれた素質もあり、欠陥はないわけでなく、多くの悪徳を積みもしたが、どんな軍隊を指揮したところで勝利者となったろうし、どんな国家に生まれたところで、それを統治したことであろう」[43]

人物像[編集]

カエサルが元老院議員として初めて表舞台に出た頃の評価は、「借金王」や「ハゲの女たらし」と言ったものであった。事実、借金は天文学的でとてつもない金額であった。紀元前61年春に、プロプラトエルとしてヒスパニアへ赴く前、カエサルが高飛びすることを恐れて出発を妨げたため、カエサルは、最大の債権者クラッススに泣きつき、債務保証をしてもらい、ようやく任地に出発できた[44]。もっとも、借金の額があまりにも大きく、カエサルに死なれでもしたら債権者たちは大損となってしまうため、カエサルと彼らとの力関係は、非常に微妙なものだったとも言われる[45]。「ハゲの女たらし」(羅: moechus calvus)と言われることを受け入れていたことは、カエサルの寛容さを説明する際に引き合いに出される。

また、カエサル自身が総督として赴任したヒスパニアで現地の部族より金を無心したり、ガリアで現地部族が奉納している神殿や聖域にあった宝飾物を強奪したり、金目当てで街を破壊して回ったりということもあった。また、ローマでもカピトリヌスの神殿に奉納していた金塊を盗み、同重量の金メッキをした銅を戻したり[46]、内戦中は護民官の制止を振り切って神殿の財貨を強奪したとした[47]と伝わっている。

カエサルは、背が高く引き締まった体をしていたが、当時の美男子の条件である「細身、女と見紛うほどの優男」には当てはまらなかった、また、頭髪が薄いことを政敵から攻撃されたため、はげた部分を隠すのに苦労していた。このため、内戦を終結させた業績を認められたことにより、いつ、どこでも月桂冠を被る特権を与えられたときは、大変喜んだという。なお、当時のカエサルが前髪の薄さを隠すためにしていた髪型は、シーザーカット英語版(カエサルカット)と呼ばれており、ヨーロッパでは古くから典型的な男性の髪型の一種となっている。また、てんかんの症状があったとも伝わっている[48]

カエサルの妻と愛人たち[編集]

紀元前62年、男性禁制のボナ・デアの儀式の際、妻ポンペイアが女装した情夫を引き入れたとされる騒動が起こった。カエサルは女装した犯人のプブリウス・クロディウス・プルケルを弁護し彼の無実を訴えながらも、「カエサルの妻たるものは、いかなる嫌疑も受けてはならない」と言い、その年のうちに妻と離婚した[49]

また、カエサルには多くの愛人がいた。やや誇張と思われるが、一説によれば元老院議員の3分の1が妻をカエサルに寝取られたと伝えられている。このためカエサルには「ハゲの女たらし」と渾名された。古代ローマでは凱旋式の際に、軍団兵たちが将軍をからかう野次を飛ばす習慣があったが、カエサルの凱旋式においての軍団兵たちは「夫たちよ、妻を隠せ。薬缶頭(ハゲ)の女たらしのお通りだ」と叫んだ[50]

なお、カエサルが関係を持ったと何らかの記述がある女性は以下の通りであり、他にも多くの女性と関係したと思われる。ただし記録にある限り、子宝にはほとんど恵まれなかった。

カエサルを描いた作品[編集]

小説・戯曲[編集]

伝記・史書[編集]

原典[編集]

研究・概説[編集]

  • ナポレオン『ジュリアス・シイザア戦争論』外山卯三郎訳、葛城書店、1942年
  • テオドール・モムゼン『ローマの歴史Ⅳ カエサルの時代』長谷川博隆訳、名古屋大学出版会、2007年
  • マティアス・ゲルツァー『ローマ政治家伝Ⅰ カエサル』長谷川博隆訳、名古屋大学出版会、2013年
  • エイドリアン・ゴールズワーシー 『カエサル』 宮坂渉訳、白水社(上下)、2012年
  • ピエール・グリマール解説『ユリウス・カエサル』長谷川博隆ほか訳、小学館〈世界伝記双書〉、1984年
  • 長谷川博隆『カエサル』講談社学術文庫、1994年
  • 『世界の戦史3 シーザーとローマ帝国』 人物往来社、1966年。林健太郎堀米庸三編、執筆は長谷川博隆・吉村忠典ほか
  • 毛利晶 『カエサル 貴族仲間に嫌われた「英雄」』(世界史リブレット人7:山川出版社、2014年)

図版解説[編集]

  • 『図説 永遠の都カエサルのローマ』 佐藤幸三解説、河出書房新社〈ふくろうの本〉、2004年
  • フランソワーズ・ベック/エレーヌ・シュー『ケルト文明とローマ帝国 「ガリア戦記」の舞台』 
 鶴岡真弓監修、遠藤ゆかり訳、創元社「知の再発見」双書〉、2004年
  • エディット・フラマリオン『クレオパトラ 古代エジプト最後の女王』 高野優訳、創元社〈「知の再発見」双書〉
  • クリスティアン=ジョルジュ・シュエンツエル『クレオパトラ』 北野徹訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2007年
  • ミシェル・ランボー『シーザー』 寺沢精哲訳、白水社〈文庫クセジュ〉

映画[編集]

漫画[編集]

ゲーム[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ æはaeの合字である。合字で表記しなくても構わない。
  2. ^ 生年は太陰暦であるローマ暦、没年はユリウス暦
  3. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 88ほか
  4. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 6
  5. ^ 第7巻 9章 47節。http://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Pliny_the_Elder/7*.html
  6. ^ 大プリニウスは同じ箇所でカエサルが帝王切開で生まれたとも記しているが、これは「切り取られた者」を掛けた駄洒落と解すべきであるが、これが俗説として膾炙した。古代ローマにおける帝王切開は、妊婦が何だかの理由で死去した際に、切開して胎児を救う事を目的としたものであるが、カエサルが長じてから生母アウレリアに宛てた書簡が存在することから、実際にカエサルが帝王切開で生まれた可能性は極めて低い。
  7. ^ 立川清編『医語語源大辞典』p644
  8. ^ イシドールスの『語源』ではカエサル自身の頭髪が生まれつき豊かだった可能性に言及しているが、成人後のカエサルはむしろ薄毛を揶揄されることが多かった。
  9. ^ カエサル自身は自らの横顔を刻ませたコインの裏に象を描かせていることから「象」説を採っていたとも考えられる。
  10. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 1
  11. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル 1
  12. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 2
  13. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 49
  14. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 77
  15. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 4
  16. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル 2
  17. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 7
  18. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 9
  19. ^ マルクス・トゥッリウス・キケロ「Pro Rabirio Perduellionis Reo 」
  20. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 11ほか
  21. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル 7
  22. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 14
  23. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 13
  24. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル 11
  25. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル 12
  26. ^ 当時のローマ法では、ルビコン川以南への軍の侵入は禁じられていた
  27. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 32
  28. ^ カエサル「内乱記」3.1
  29. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル61
  30. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 77
  31. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル63
  32. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル66
  33. ^ シェイクスピア「ジュリアス・シーザー」第3幕 第1場
  34. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 82
  35. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 50
  36. ^ 塩野七生「ローマ人の物語V ユリウス・カエサル ルビコン以後」
  37. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 83
  38. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 87
  39. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 40
  40. ^ スエトニウス『皇帝伝』カエサル 79
  41. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル60
  42. ^ 塩野七生『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル ルビコン以前』
  43. ^ 「ローマ盛衰原因論」訳・井上幸治
  44. ^ プルタルコス「英雄伝」クラッスス 7
  45. ^ 「ローマ人の物語」より
  46. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 54
  47. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル 35
  48. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 45
  49. ^ プルタルコス「英雄伝」カエサル10
  50. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 51

参考文献[編集]

関連項目[編集]