ボヘミア王冠領

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ボヘミア王冠領の紋章。青地にモラヴィアの赤と銀の市松模様の鷲、金地にシレジアの黒色の鷲、紺地に上シレジアの金色の鷲、緑と銀の下地にニーダーラウジッツの赤色の牛、中央の赤地にボヘミアの銀色の獅子、楯の上には聖ヴァーツラフの王冠が載せられ、その周りには菩提樹の枝が広がる
オタカル2世時代のボヘミア領、1273年
カール4世時代のボヘミア王冠領

ボヘミア王冠領(ボヘミアおうかんりょう)またはボヘミア王国の王冠(ボヘミアおうこくのおうかん、:Česká koruna, země Koruny české、:Krone Böhmen; Böhmische Krone, Böhmische Kronländer, Länder der Böhmischen Krone、:Corona Bohemiae, Corona Regni Bohemiae)は、ボヘミア王国及び王国と封建上の主従関係(レーエン)にある従属邦の集合体を指す国制概念。この場合の「ボヘミアの王冠」とは、いわゆる「聖ヴァーツラフの王冠」(en)と呼ばれる、国王が頭に被る物体としての王冠のことではなく、ボヘミア王の主権下に、ボヘミア国家を構成する諸身分が統合されている状態を表している。この国制概念は、1526年よりボヘミア王冠領が属していたハプスブルク帝国1918年に崩壊するまで存在していた。

歴史[編集]

12世紀から13世紀ボヘミアと結びついていた封土は、モラヴィア辺境伯領とグラーツ伯領(Grafschaft Glatz)だけであった。ルクセンブルク家ヨハンカール4世の治世に、積極的な併合政策によってシレジアオーバーラウジッツ及びニーダーラウジッツから多数の小規模な封土が、ボヘミア王冠領に加えられた。

カール4世は王国の諸身分に対し、ルクセンブルク家の王朝が断絶した場合でも、王朝の興亡とは関係なく王冠領の結合を保ち続けるように命じた。王冠領の結合は、1526年にフェルディナント1世の即位に伴ってボヘミア王位がハプスブルク家に相続された後も保たれ続けた。ハプスブルク帝国において、ボヘミア王冠領はハンガリー王冠領及びオーストリア大公領と共に、中欧に君臨するハプスブルク家の3大家領の1つを構成した。

ボヘミア王冠領は、単なる人的同君連合でも、各構成体が同等の権利を有する連邦でも無かった。王冠領の国制は人体に譬えるならば、ボヘミア王国と王国の諸身分が「頭」であり、その他の諸封土が「手足」という序列になっていた。ボヘミア王冠領における「頭部」と「手足」の地位の開きは大きく、王国の諸身分、つまりボヘミア人は王冠領内における政治的・社会的主導権を独占する権利を要求し、これに対してモラヴィア、シレジア、ラウジッツ側は自由意思によってボヘミア王冠に属しているという国制上の原則を持ち出し、自分たちが自治権を持つことを主張した。

ボヘミア王国の近隣の諸封土に対する優越には、そもそも法的根拠など無かったが、15世紀初頭にはより強い権限を求め、国王選挙での独占的選挙権を要求している。しかし1620年以降は、ボヘミア王冠領そのものがはるかに大きな権限を有するハプスブルク帝国に圧倒されてしまったため、王冠領内の各構成体の間の競合は見られなくなった。

ボヘミア王冠領の全ての諸構成体が共有している国家機関は、国王だけであったが、危機の時代にはこれが王冠領の欠点となった。王冠領の諸邦の代表が一堂に会する王冠領議会(Generallandtag)は、めったに開かれることは無かった。ボヘミアの大法官(Oberstkanzlers)の統率下に置かれる宮内官房(Böhmische Hofkanzlei)だけが、王冠領の全領土に対して責任を有していた。しかし宮内官房も1620年にプラハからウィーンに移され、1714年には官房用の庁舎が建設されている。

共通の政治機関をほとんど持たなかったにもかかわらず、ボヘミア王冠領の諸邦の間には16世紀より強い政治的連帯感が見られるようになった。三十年戦争が始まると、王冠領の諸邦はボヘミア連盟Böhmische Konföderation)を結成したが、この連盟の結成はボヘミアの政治体制の近代化にとって重要な意味を持っていた。もっとも1620年にビーラー・ホラの戦いで皇帝軍が勝利すると同時に、この実験的国家も消滅した。

時代が下るにつれ、ボヘミア王冠領はオーストリア内の構成地域としての重要性を失っていった。1635年にはプラハ条約によりラウジッツザクセン選帝侯領に奪われた。1742年ベルリン条約で、オーストリア大公国はシレジアの大部分とグラーツ伯領をブランデンブルク=プロイセンに割譲している。オーストリア側に残ったシレジアの一部は、上下シュレージエン公爵領(Herzogtum Ober- und Niederschlesien、現在のチェコ領シレジア)として1918年までハプスブルク帝国の版図に留まっていた。ハプスブルク帝国末期、ツィスライタニアの構成地域になり下がっていたボヘミア、モラヴィアとオーストリア領シレジアなどのボヘミア王冠領諸邦が、独自の権限を持つことは許されなくなっていた。

影響[編集]

1918年の10・11月にツィスライタニアが、というよりもオーストリア=ハンガリーが解体されると、1916年のチェコ人亡命政治家と三国協商との協定に則り、チェコはボヘミア王冠領の歴史的境界線を越えて、新生国家チェコスロヴァキアの西部地域を構成することになった。ドイツ=オーストリア共和国Deutschösterreich)はアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンに対し、民族自決の原則を根拠にボヘミア・モラヴィアのドイツ系住民地域(Deutschböhmen und Deutschmährer)およびシレジアのオーストリア系住民地域がチェコ領内に残留していることを主張したが、何ら政治的な成果は無かった。

ボヘミア王冠領が存在した歴史的影響は、ヴァルチツェ(フェルツベルク)をめぐるオーストリアとの係争問題や、ザオルジェをめぐるポーランドとの係争問題など、後継国家である現在のチェコにも様々な痕跡を残している。

地図[編集]

1892年のボヘミア王冠領
20世紀のオーストリア=ハンガリー。ボヘミア王冠領はツィスライタニア(もしくはクロンラント)の一部を構成している。王冠領の諸邦は、ボヘミア王国(1)、モラヴィア辺境伯領(9)、オーストリア領シレジア(11)の3地域。

王冠領の構成諸邦[編集]

領邦 首都 民族 宗教 付記 紋章
ボヘミア王国 プラハ チェコ人ドイツ人 ローマ・カトリックフス派及びアナバプテスト(15・16世紀)、ルター派 895年プシェミスル家統治下の公爵領となり、1085年に王国に昇格、14世紀に神聖ローマ帝国選帝侯領となり、1526年ハプスブルク家世襲領の構成地域に組み込まれ、1918年に消滅 Small coat of arms of the Czech Republic.svg
モラヴィア辺境伯領 ブルノ チェコ人ドイツ人 ローマ・カトリック、フス派及びアナバプテスト(15・16世紀)、ルター派 907年までモラヴィア王国が存在、1031年よりボヘミアの支配下 Moravia.svg
オーバーラウジッツ辺境伯領 バウツェン ドイツ人ソルブ人 ルター派、ローマ・カトリック 12世紀にブディシン(Budissin)地方としてボヘミアの影響下に入り、1329年に正式に支配下におかれ、15世紀に上ルサティア(オーバーラウジッツ)と呼ばれるようになり、1635年ザクセン選帝侯領に併合される Wappen Landkreis Bautzen.svg
シレジア公爵領 ヴロツワフ1740年以後はオパヴァ ドイツ人ポーランド人 ローマ・カトリック、ルター派 1138年にポーランドの公爵領として成立し、1249年小規模な公爵領の群れへと分裂、1348年までにボヘミアの宗主権下に入ったが、大部分が1742年/1763年ブランデンブルク=プロイセンに併合され、残部がオーストリア領シレジアを構成した Silesia.svg
グラーツ伯爵領 グラーツ ドイツ人チェコ人 ローマ・カトリック、ルター派 1137年グラーツの和約によりグラーツ地方(Glatzer Distrikt)としてボヘミアの影響下におかれ、1348年にカール4世によってボヘミア王冠直属の領邦に引き上げられた。1459年に伯爵領に昇格したが、ボヘミア王冠領議会に自身の代表を送る権限を持たなかった。1742年/1763年にブランデンブルク=プロイセンに併合された POL powiat kłodzki COA.svg
ニーダーラウジッツ辺境伯領 リュッベン ドイツ人ソルブ人 ルター派 10世紀にラウジッツ辺境伯領(Markgrafschaft Lausitz)となり、1367年にボヘミアの影響下に入り、1635年にザクセン選帝侯領に併合された Wappen Luckau.png

参考文献[編集]

  • Marie Bláhová, Jan Frolík, Naďa Profantová u. a. (Hrsg.): Velké dějiny zemí koruny české. Prag 1999 ff.
  • Joachim Bahlcke: Regionalismus und Staatsintegration im Widerstreit. Die Länder der böhmischen Krone im ersten Jahrhundert der Habsburgerherrschaft (1526–1619). (= Schriften des Bundesinstituts für Ostdeutsche Kultur und Geschichte 3), München 1994.

関連項目[編集]