ヴロツワフ
| ヴロツワフ Wrocław |
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| 座標: 北緯51度6分36秒 東経17度1分20秒 / 北緯51.11度 東経17.02222度 | |||
| 国 | |||
| 県 | ドルヌィ・シロンスク県 | ||
| 行政 | |||
| - 市長 | ラファウ・ドゥトキェヴィチ (Rafał Dutkiewicz) | ||
| 面積 | |||
| - 計 | 293km2 (113.1mi2) | ||
| 最高部 | 155m (509ft) | ||
| 最低部 | 105m (344ft) | ||
| 人口 (2009年) | |||
| - 計 | 632,162人 | ||
| - 人口密度 | 2,159人/km² (5,591.8人/mi²) | ||
| 郵便番号 | 50-001 - 54-705 | ||
| 市外局番 | (+48) 71 | ||
| ナンバープレート | DW | ||
| ウェブサイト | www.wroclaw.pl | ||
ヴロツワフ(ポーランド語:
Wrocław、ドイツ語: Breslau ブレスラウ、ハンガリー語: Boroszló ボロスロー)は、ポーランド西部にある第4の都市で、ドルヌィ・シロンスク県の県都。歴史的にシロンスク地方の中心都市で、ポーランドの中でも最も古い都市のひとつである。市内にはオドラ川とその支流が流れ、200以上の橋が架かっている。
目次 |
[編集] 歴史
伝説によれば、ヴロツワフはボヘミア公ブラチスラフ1世(在位915年 - 921年)によって建設された。990年頃、他のシロンスク地方の都市とともにポーランド王ミェシュコ1世やボレスワフ1世(勇敢王)時代のピャスト朝の支配下に入った。当初、開拓の中心地はオドラ川の中洲にあった。
西暦1000年のグニェズノ会談において、神聖ローマ皇帝オットー3世とボレスワフ勇敢王がカトリック教区の設置を決めた。その後まもなくヴロツワフに最初の司教座が置かれた。10世紀にはすでに都市は建設されていたが、公式には西暦1000年がヴロツワフ建設の年として見なされ、2000年には都市建設1000年が祝われた。11世紀にはポーランド王国に2箇所あった貨幣鋳造所の一つが設立され(もう1箇所は当時の王国首都クラクフに設立された)、ポーランド王国の金融産業の一大中心地となった。
13世紀にはモンゴル帝国の侵略を受け、14世紀にはボヘミア王国に支配されたのち、ハプスブルク帝国の一部となった。それでもこの一帯ではポーランドの古い王家ピャスト家の分家であるシロンスク・ピャスト家がこの地方の領主として存続した。その後はプロイセン王国領を経て、第二次大戦後までドイツの一部となっていた。第二次世界大戦におけるドイツ軍とソ連軍の激しい戦闘で歴史地区の大半が破壊された[2]が、戦後になるとそれまで残っていた資料を元にポーランド市民の手によって正確に復元された[3]。
[編集] 地理
ポーランドの首都ワルシャワから西南へ約350キロ、シロンスク地方の中心地。
[編集] 経済
ポーランドでもっとも住民所得の高い都市の一つである。とりわけ有力なものは、バス・自動車製造業、化学製品製造や電子産業である。近年は、金融の中心地としての中世ポーランド王国の伝統を復活したかのような感を呈するほどの間接金融の中心地であり、国内主要銀行のいくつかが市内に本店を置いている。
美しい歴史地区、運河、市内や郊外の歴史的建造物を利用した宿泊施設、そして有名な日本庭園を利用した観光産業にも力を入れており、毎年多くの観光イベントが開かれる。
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オレンジ・オルタナティブ運動の象徴の小人
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天安門事件追悼モニュメント
[編集] 教育
市内にある高等教育機関。
[編集] 交通
鉄道交通の要衝の一つであり、フランクフルトやミュンヘン、コペンハーゲン、パリと結ぶ国際空港もある。
[編集] 姉妹都市
ヴィースバーデン、ドイツ
ヴィエンヌ県、フランス
カウナス、リトアニア
グアダラハラ、メキシコ
シャーロット、アメリカ合衆国
ドレスデン、ドイツ
トロント、カナダ
フラデツ・クラーロヴェー、チェコ共和国
ブレダ、オランダ
フロドナ、ベラルーシ
ラマト・ガン、イスラエル
リール、フランス
リヴィウ、ウクライナ
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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