オーストリア=ハンガリー帝国

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オーストリア=ハンガリー帝国
Österreichisch-Ungarische Monarchie
Osztrák–Magyar Monarchia
オーストリア帝国 1867年 - 1918年
オーストリアの国旗 オーストリアの国章
国旗 国章
国歌: 神よ、皇帝フランツを守り給え
オーストリアの位置
1913年のオーストリア=ハンガリー帝国の領域
公用語 ドイツ語ハンガリー語チェコ語ポーランド語ルテニア語ルーマニア語クロアチア語イタリア語
首都 ウィーンブダペスト
皇帝兼国王
1848年12月2日 - 1916年11月21日 フランツ・ヨーゼフ1世
1916年11月21日 - 1918年11月11日 カール1世
共通閣僚評議会議長
1867年2月7日 - 1867年12月30日 フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト(初代)
1918年10月27日 - 1918年11月11日 ルートヴィヒ・フォン・フロトウ(最後)
面積
1907年 680,887km²
1910年 676,615km²
人口
1907年 48,592,000人
1910年 51,390,223人
変遷
成立 1867年5月29日
崩壊 1918年10月31日
通貨 グルデン
クローネ(1892年以降)
先代 次代
オーストリア帝国 オーストリア帝国 第一共和国 (オーストリア) 第一共和国 (オーストリア)
ハンガリー民主共和国 ハンガリー民主共和国
チェコスロバキア第一共和政 チェコスロバキア第一共和政
ポーランド第二共和政 ポーランド第二共和政
スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国 スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国
西ウクライナ人民共和国 西ウクライナ人民共和国
オーストリアの歴史
オーストリアの国章
この記事はシリーズの一部です。
先史時代から中世前半
ハルシュタット文化
属州ノリクム
マルコマンニ
サモ王国
カランタニア公国
オーストリア辺境伯領
バーベンベルク家ザルツブルク大司教領ケルンテン公国シュタイアーマルク公国
小特許状
ハプスブルク時代
ハプスブルク家
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国
ハプスブルク君主国
オーストリア帝国
ドイツ連邦
オーストリア=ハンガリー帝国
第一次世界大戦
サラエヴォ事件
第一次世界大戦
両大戦間期
オーストリア革命
ドイツ・オーストリア共和国
第一共和国
オーストロファシズム
アンシュルス
第二次世界大戦
国家社会主義
第二次世界大戦
戦後
連合軍軍政期
オーストリア共和国
関連項目
ドイツの歴史
ハンガリーの歴史
チェコの歴史

オーストリア ポータル
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オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリーていこく、ドイツ語Österreichisch-Ungarische Monarchie または Kaiserliche und königliche Monarchieハンガリー語Osztrák-Magyar Monarchia)は、かつて欧州に存在した国家ハプスブルク君主国の一つとされる。

概要[編集]

ハプスブルク家の君主が統治した、中東欧の多民族(国家連合に近い)連邦国家である。1867年に、従前のオーストリア帝国がいわゆる「アウスグライヒ」により、ハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立し、1918年に解体するまで存続した。オーストリア=ハンガリーとも。

前身はオーストリア帝国である。領土には、オーストリアハンガリーボヘミアモラヴィアシュレジエンガリツィア=ロドメリア(ルテニア)・スロヴァキアトランシルヴァニアバナートクロアティアクラインキュステンラントスラヴォニアブコヴィナボスニア・ヘルツェゴビナイストリアダルマティアなど、多くの地域を抱える大国であった。

国号[編集]

正式名称はドイツ語で

Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone

マジャル語で

A birodalmi tanácsban képviselt királyságok és országok és a magyar Szent Korona országai

で、日本語に訳すと「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」となる。「オーストリア=ハンガリー帝国」以外の慣用的な呼び名としてはオーストリア=ハンガリー二重帝国オーストリア=ハンガリー君主国などともいう。漢字では墺洪国墺洪帝国と表記される。正式なものではないがオーストリア側を指してツィスライタニエン(ライタ川のこちら側)、ハンガリー王国側を指してトランスライタニエン(ライタ川の向こう側)という呼称も存在した。なお、「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」は1915年に「オーストリア諸領邦Österreichische Länder)」と改称している。

歴史[編集]

オーストリア帝国の衰勢[編集]

1848年革命ヨーロッパ中に波及し、ウィーンでも暴動が起こるなど混乱の中、フェルディナント1世の後を甥の若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が継いだ。しかし、すでに帝国は衰退傾向にあった。

1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国は、オスマン帝国との間に戦端を開く。これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力増大を恐れたオーストリアは、オスマン帝国を支持した。このため、ウィーン体制の成立以来友好を保っていたロシアとの関係が悪化した。これは神聖同盟の完全な崩壊を意味し、ロシアの後押しを失ったオーストリアは、ドイツ連邦内における地位を低下させた。1859年にはイタリア統一をもくろむサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ロンバルディアを失った。1866年にもプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗を喫した。その結果オーストリアを盟主とするドイツ連邦が消滅してその面目を失うなど、徐々に国際的地位を低下させていった。

二重帝国の成立[編集]

この帝国の衰退に希望を抱く人々がいた。帝国内の諸民族である。先にあげたようにオーストリア帝国は、数多くの民族を抱える多民族国家であった。しかし支配階級はドイツ人であり、彼らだけが特権的地位を有していた。以前からドイツ人以外の民族の自治獲得・権利獲得の運動はあったが、帝国軍に鎮圧されていた。しかし、衰退傾向にあるこの時期、諸民族は活発に動き出した。そもそも民族運動が活発なのは、支配階級であるドイツ人が国内における人口の過半数を占めていないことも原因にあげられる。ドイツ人は帝国内の総人口の24%にすぎず、諸民族が力を持てばどうにも抑えようがなかった。帝国は改革を余儀なくされたが、改革路線として2つの道があった。

  1. ドイツ人支配をあきらめ、諸民族との平等な関係にもとづく連邦国家とする。
  2. 帝国内人口20パーセントを有するマジャル人(ハンガリー人)と友好を結び、ドイツ人とマジャル人で帝国を維持する。

だが、特権的地位を手放したくないドイツ人達の抵抗、諸民族による支配で帝国の様相の劇的変化を恐れる、皇帝をはじめとする支配者の存在などの要因があいまって、後者の方針が採られた。その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」(ツィスライニエン)と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」(トランスライタニエン)に二分した。このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」という。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。これが「オーストリア=ハンガリー帝国」である。

自治獲得の動き[編集]

しかし、(いわゆる)オーストリアとハンガリーに分割しても、オーストリアではドイツ人35.6%、ハンガリーではマジャル人48.1%という具合に、ドイツ人とマジャル人はそれぞれの国内で過半数を占めていなかった。そこでハンガリー政府はクロアチア人と妥協して協力を得ることで過半数に達した(ナゴドバ法)。そのような中でハンガリーは国内の「マジャル化」を推し進めたのだった。一方オーストリアでは、新憲法で「民族平等」を謳ったが、ドイツ人の反発とハンガリー政府からの要請があり、ポーランド人と協力して憲法を廃案に追い込み、ポーランド人と妥協することで支配的地位を保とうとした。

その後も民族の自治獲得の動きは鎮静化せず、むしろいっそう激化し始めた。工業を握るボヘミア人(チェコ人)の発言力が増し、資本家が多いユダヤ人もまた発言力を増した。地位を保持しようとするドイツ人と、権利を得ようとする他民族との対立が目立ち始めることとなった。ハンガリーでも、マジャル化に反して民族の自治・権利を獲得しようとする動きが高揚してきていた。しかしこの時点では、どの民族も「帝国からの独立」を望んではいなかった。それは、ドイツとロシアという大国に挟まれたこの地域で、小国が生き残れないことを自覚していたためである。「独立」ではなくオーストリア=ハンガリー帝国という大きい枠のなかで「自治」を得る、つまり諸民族の連邦国家を望んでいたのである。

皇帝一族の不幸[編集]

民族問題もさることながら、ハプスブルク家にとってもこの帝国の末期は悲劇の連続だった。まず1863年ナポレオン3世の誘いに乗って、フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンメキシコ皇帝に即位するも、フランス軍がメキシコ大統領ベニート・フアレスの徹底抗戦によって撤退を余儀なくされたため、マクシミリアン皇帝はそのまま取り残され、二重帝国成立と同じ1867年に銃殺刑に処された。1889年には、皇太子ルドルフがマイヤーリンクで謎の情死事件により落命した(暗殺の疑惑も残る)。皇后エリーザベトはこの事件以来いっそう頻繁に旅行するようになるが、1898年に旅行先のスイスで無政府主義者により暗殺された。皇帝は激しく落胆し、以後それまで以上に政務に没頭するようになる。そして1914年サラエヴォ事件で、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された。

サラエヴォ事件[編集]

1908年オスマン帝国青年トルコ人革命が起き、その混乱に乗じてオーストリアはボスニアヘルツェゴヴィナ両州を併合した。ここにはセルビア人が多く、南のセルビア王国への帰属を望む人々が多かった。またムスリムも多く、彼らはオスマン帝国への帰属を望み、一方カトリック信者はオーストリアへの帰属を望んでいた。そうした民族だけでなく宗教的にも複雑な地域を無理やり併合したオーストリアへの反感があがるのも当然のことだった。その後、2度のバルカン戦争を経て、バルカン半島は「汎ゲルマン主義」と「大セルビア主義」、それに加えて「汎スラヴ主義」が角逐し、個々の民族間でも対立が激化して「ヨーロッパの火薬庫」の様相を深めていった。

1914年6月28日、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は妻ゾフィーとともにボスニアの州都サラエヴォを軍の閲兵のために訪れていた。オープンカーでパレードしていたところに、「青年ボスニア英語版 (Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」のボスニア出身のボスニア系セルビア人ボスニア語版で民族主義者のテロリスト、プリンチプが、この皇位継承者夫妻を銃撃した。2人は奇しくも結婚記念日のこの日に暗殺された。これを「サラエヴォ事件」といい、ヨーロッパ中に戦乱を告げる狼煙となった。オーストリア軍部はこれを口実にセルビアを討つことを叫んだ。国民は最初は大公暗殺に関しては冷めていたが、貴賤結婚だった大公夫妻の葬儀はあまりにも貧相に行われ、これが市民の同情を誘い、「セルビア討つべし」の声が高まった。

第一次世界大戦の勃発[編集]

オーストリア側は、7月24日期限付きの最後通牒をセルビア政府に突きつけた。セルビア側は一部保留の回答をし、オーストリア側はこれを不服としてセルビアと開戦した。ドイツがロシアに圧力をかけ、動きを封じるはずだったが、ロシアはセルビア側につきオーストリアと開戦した。続いてドイツもロシアと戦争状態に入り、ドイツと三国同盟関係にあるオーストリアも遅れてロシアに宣戦。ロシアと三国協商関係にあったイギリスフランスも相次いで同盟側に宣戦し、ヨーロッパ全土を巻き込んだ第一次世界大戦が勃発した。

開戦当初、どこの国も3ヶ月以内で終了すると予想していた。当初はオーストリア=ハンガリー帝国内の諸民族も政府を支持して戦った。しかし、予想に反し戦争は長期に及んだ。緒戦で小国セルビアに敗北したオーストリア軍は、軍事力の無さを露呈した。多民族国家故に軍の近代化に遅れを取っており、軍内部で使用される言語さえも統一されていなかった。そのため、翌年からは同盟国のドイツ帝国の支援無しには戦えない状況に陥った。

1916年には、68年間帝国に君臨してきた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去し、国内に動揺が走った。さらに1917年にはアメリカが協商側で参戦し、連合国(協商のアメリカ参戦後の名称)は高らかに「民主主義と封建主義の戦い」を戦争目的として宣伝した。同年11月には、ロシアでボリシェビキ革命が起き、「パンと平和」を掲げた。その影響で帝国内では長い戦争の疲れもあいまって厭戦ムードが高まった。帝国は「民主的連邦制」へ向けた国内改革を迫られた。しかし、皇帝カール1世は理解を示したが、ドイツ人保守派の反抗と諸民族の歩調のずれで、改革は進まなかった。

ハプスブルク帝国崩壊[編集]

そのような中、マニフェストどおりロシアのボリシェヴィキ政府(レーニン政府)はドイツと単独講和し、ブレスト=リトフスク条約を結んで戦線を離脱した。同盟側が西部戦線で攻勢を強めるのは必至だった。連合国は極秘にオーストリア=ハンガリー帝国と単独講和を結ぼうとしたが、ドイツに発覚して失敗した。オーストリア側から連合国に講和を持ち込むも、フランスがこれを公にして失敗し、ドイツとの間にも溝ができてしまうありさまだった。

そんな中、シベリアチェコスロヴァキア軍団(チェコ軍団)の活躍があった。その救出目的にシベリア干渉の名目も立ち、連合国にとってチェコスロヴァキア軍団の活躍は目覚しかった。そこでチェコ人指導者トマーシュ・マサリクは、しきりにチェコスロヴァキア独立を連合国側に持ちかけ、連合国はマサリクのチェコスロヴァキア国民会議を臨時政府として承認していた。当初、オーストリア=ハンガリー帝国の解体を戦争目的としていなかった連合国は、それをあっさり踏み越えた。これが端緒となり、帝国内の諸民族は次々と独立を宣言した。盟邦ハンガリーも完全分離独立を宣言した。

皇帝カール1世はこれをつなぎとめようとしたが果たせず、1918年秋に退位して国外へ亡命した。ここに650年間、中欧に君臨したハプスブルク家の帝国、オーストリア=ハンガリー帝国はもろくも崩壊した。

評価[編集]

帝国の民族分布

19世紀後半から20世紀前半にかけての世界的な評価は、「諸民族の牢獄」「遅れた封建体制国家」などとあまり良くなく、民族自決理念による各民族の自立は、連合国にとっての戦争の正当化のための宣伝材料となった。中でも「ポーランド復活」は、連合国にとって戦争目的の本丸と同義であり、これを果たした事を連合国は大きく宣伝した。

しかし戦後処理にはずさんな点が多くあり、大国の思惑が絡み合って領土確定が行われたため、東欧に平和と安定が訪れることはなかった。戦争目的の筆頭だったポーランドは領土問題に不満を持ち、ソビエト連邦チェコスロバキアと戦争状態に陥り、かつてのオーストリアの盟邦ハンガリーも、戦争責任を問われて領土が大幅に縮小されたため不満がくすぶり続けた。中欧・東欧の混乱は、「ヨーロッパの火薬庫」といわれていた第一次世界大戦以前となんら変わらなかった。またオーストリアでは、基幹産業が無くなり深刻な不況に陥った。

やがてドイツでヒトラーが台頭すると、かつて連合国側が掲げた「民族自決」を逆手に取られ、中欧・東欧諸国に散らばっているドイツ人の保護を名目として次々と攻略された。中欧・東欧の小国は各個撃破され、かつての帝国諸民族の血みどろの抗争が繰り広げられた。そして第二次世界大戦後、中欧・東欧の諸国の大半はソ連衛星国として東西冷戦の最前線となった。結局、諸民族が混在して民族ごとの領域を確定できない中欧・東欧で、無理やり「民族自決」が適用されたために、更なる混乱が生まれたのである。

帝国の支配体制の一番のメリットは、この混沌とした地域を一応1つにまとめていたことにある。民族は違えど同じ帝国臣民として、帝国内を行き来し、戦争もともに戦った。ドイツとロシアという大勢力の狭間に存在した1つの大国であった。昔から東ローマ帝国大ハンガリーモンゴル帝国オスマン帝国などの支配下に入り、分断・併合の連続だった同地域における秩序確立を、緩やかな統合によって成し遂げていた点だけでも帝国の存在意義はあった。

帝国内の各民族の地位については、時代が下るにつれて向上してきていた。諸民族のねばり強い運動や各地域の重要性などもあり、支配階級も譲歩せざるを得なかった。オーストリア・マルクス主義が主張したような、帝国の「民主的連邦制」への改変まではいかなかったが、それなりの地位を得ることはできた(アウスグライヒ)。しかし、その中途半端さが独立への道に進ませたことも事実である。オーストリアの場合は、崩壊の仕方が全くもって最悪であった。長引く戦争で、諸民族の連邦制支持派が衰退して独立派が台頭し、連合国の格好の標的となった。諸外国の介入を受けても引き離されないほどの一体感と統一性を諸民族にもたせることができなかったことが、この帝国の一番の失敗であったと言える。

逆に、諸民族の離脱によって取り残される形となったオーストリアのドイツ系住民にとっては、帝国の崩壊のみならず大ドイツ主義に基づくドイツとの合併までも禁止されたため、自己のアイデンティティを喪失してしまった。これは後々までオーストリアの政情の不安定さをもたらし、ついにはナチス・ドイツによる併合(「アンシュルス」)へと至らしめた。

地域構成[編集]

オーストリア=ハンガリーの版図
赤色の地域がツィスライタニエン・緑色の地域がトランスライタニエン・黄色が両者共同管理のボスニア=ヘルツェゴヴィナ

帝国議会において代表される諸王国および諸邦(ツィスライタニエン)[編集]

1. ボヘミア王国
2. ブコヴィナ公爵領
3. ケルンテン公爵領
4. クライン公爵領
5. ダルマティア王国
6. ガリツィア=ロドメリア王国
7. オーストリア沿海州(キュステンラント)
1861年にゲルツ=グラディスカ伯爵領(諸侯領格)イストリア辺境伯領帝国直属都市トリエステの3つに分割
8. エスターライヒ・ウンター・デア・エンス大公国
9. モラヴィア辺境伯領
10. ザルツブルク公爵領
11. オーバー・ウント・ニーダー・シュレージエン公爵領
12. シュタイアーマルク公爵領
13. チロル伯爵領(諸侯領格)
14. エスターライヒ・オプ・デア・エンス大公国
15. チロル領フォアアールベルク

神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦(トランスライタニエン)[編集]

16.ハンガリー王国
17.クロアチア=スラヴォニア王国

共同管理[編集]

18.ボスニア=ヘルツェゴヴィナ

文化[編集]

帝国の末期は、文化の終焉期ではなかった。立派な帝立の劇場や美術・音楽等の学校を有し、文化が振興されていた。その上、文化人だけでなく有能な学者も輩出しており、国勢の衰退傾向を思わせない文化・学問の花を咲かせていた。ことに音楽・美術の点では、当時のヨーロッパの中心的存在であった。若きヒトラー(画家志望だった)がウィーンの帝立美術学校に入学しようとやって来たのもこの時期である。

作曲家[編集]

学者[編集]

画家[編集]

略年表[編集]

日本との関係[編集]

1873年(明治6年)6月に岩倉使節団がオーストリア=ハンガリー帝国を訪問しており、その当時のオーストリア各州の地理が、「米欧回覧実記」に記されている[1]

1892年(明治25年)、後にサラエヴォでセルビア人民族主義者により暗殺され第一次世界大戦勃発のきっかけとなった皇太子フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステが世界一周旅行の際来日した。 1913年(大正2年)皇太子はシェーンブルン宮殿に見よう見まねで日本庭園を造営させた。1998年(平成10年)日本から庭師を招き正式に枯山水の庭園が整備された。

1910年(明治44年)テオドール・エードラー・フォン・レルヒ(Theodor Edler von Lerch、1869年8月31日 - 1945年12月24日)オーストリア=ハンガリー帝国の軍人(当時の階級は少佐)。 日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、1910年11月に交換将校として来日、翌年新潟県上越市において日本で初めて本格的なスキー指導(ただし一本杖を用いたスキー術)をおこなった。さらに1912年には旭川で指導。

脚注[編集]

  1. ^ 久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、358~410頁

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 塚本哲也『エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女』文藝春秋、1992年、ISBN 4-16-346330-5
  • 大津留厚『ハプスブルクの実験―多文化共存を目指して』中央公論社、1995年、ISBN 4-12-101223-2
  • 百瀬宏ほか『東欧』自由國民社、2001年、ISBN 4-426-13101-4
  • 中丸明『ハプスブルク一千年』新潮社、2001年、ISBN 4-10-149822-9