ヴィットリオ・ヴェネトの戦い
| ヴィットリオ・ヴェネトの戦い | |
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ヴィットリオ・ヴェネトの戦いの戦況図。イタリア軍が深く進撃しているのが分かる。 |
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| 戦争:第一次世界大戦 | |
| 年月日:1918年10月23日-11月3日 | |
| 場所:ヴィットリオ・ヴェネト近郊 | |
| 結果:イタリア軍の決定的勝利 オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊[1] |
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| 交戦勢力 | |
| 指揮官 | |
| 戦力 | |
| 伊軍51個師団 英軍3個師団 仏軍2個師団 米軍1個連隊 |
墺軍52個師団 |
| 損害 | |
| 戦死5,800人 戦傷26,000人 |
戦死35,000人 戦傷100,000人 捕虜428,000人 |
ヴィットリオ・ヴェネトの戦い(Battle of Vittorio Veneto)は、第一次世界大戦中の1918年10月24日から1918年11月3日にかけて、イタリア王国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍の間で行われた大規模な戦闘である。厭戦感情が蔓延していたオーストリア軍はこの戦いでイタリア軍に大敗し[2][3][4]、50万名以上の兵士を失って西方戦線での主戦力を喪失した。
イタリア国民の中ではヴィットリオ・ヴェネトでの戦闘をイリデンティズムの最終的決着と見る向きもあるという[5]
目次 |
[編集] 背景
[編集] カポレットの悲劇とピアーヴェの勝利
戦線崩壊の瀬戸際に追い込まれていたオーストリア軍の救援に訪れたドイツ軍は、カポレットの戦いで新戦術(浸透戦術)をもってイタリア陸軍に致命的な打撃を与えた。イタリア陸軍は1917年10月24日から1917年11月9日までの間に30万人以上の兵士を失い、地道に押し広げてきたイゾンツォ川の戦線から止むを得なく引き下った。イタリア政府のヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相は敗戦の責任者であり、オーストリアとの単独和平を主張したルイージ・カドルナ大将を解任し、新たにアルマンド・ディアズ大将を総司令官に任命した。
ディアズは連合軍の支援を受けながら打撃を負った軍の再建に尽力し、ヴェネツィアへ追撃していた独墺軍をピアーヴェ川で押し留めた。1918年6月、ディアズ率いるイタリア陸軍はロンバルディアを目指すオーストリア軍をピアーヴェ川の戦いで返り討ちにした。がカポレットの悲劇から立ち直った事を示したイタリアの勇戦により、オーストリア・ハンガリーは17万名の兵士を失って敗退した。連合軍司令部はイタリアに一挙にオーストリアを打ち崩す反攻作戦を要請したが、慎重なディアズは安易な反撃に転じる事の危険性を理解していた[6]。ディアズは十分な戦力が整い、かつオーストリア軍が機会を見せる時を用心深く待った。
[編集] 作戦準備
戦局は刻一刻と連合国側に傾き、ロシアとの講和によって急場を凌いでいたドイツも敗戦に近付きつつあった。大局を中央同盟の盟主ドイツに委ねるオーストリアは戦局の単独打開を目指しイタリア戦線の突破を試みるが、それも前述のピアーヴェの戦いでの敗退以降は頓挫していた。ピアーヴェ川の戦いは同盟軍側に初めて敗戦を意識させた出来事であり、戦史家ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは「実際、ピアーヴェの敗北はオーストリア・ハンガリーの末路の予兆であった」と評している。悪化する戦局に前線では士気の低迷に歯止めが掛からず、元々存在していたハンガリー人とオーストリア人の対立も表面化していった。
ディアズはオーストリア・ハンガリー軍への最終攻勢に向けた計画を立案、モンテ・グラッパからピアーヴェ川一帯に展開する六個軍(第6軍、第4軍、第8軍、第10軍、第3軍、第11軍)全て投入する事を決定した。軍勢は中央の3個軍を2個軍が補佐し、後方の第11軍が予備戦力として配置される事になっていた。作戦目標はピアーヴェ川対岸のヴィットリオ・ヴェネトに定められた。
[編集] 作戦結果
10月24日、因縁のカポレットと同じ日にピアーヴェ川の渡河を開始したイタリア陸軍は、まずオーストリア陸軍の予備戦力を誘き出す為の攻撃を仕掛けた。川の氾濫などに苦しめられつつも、10月27日にイタリア第3軍がパパドポリ島を経由してピアーヴェ川の渡河に成功、ディアツは確保された橋頭堡に温存していた自軍の予備戦力を注ぎ込み、他の各軍も次々と渡河を開始していった。
10月28日、初期目標であるヴィットリオ・ヴェネトをイタリア第8軍が占領、ピアーヴェ川対岸に大きな橋頭堡が築き上げられ当初の作戦は成功した。だがディアズは更なる戦果を求めてトレント占領に作戦目標を更新、イタリア陸軍はオーストリア・ハンガリー陸軍の退却を阻むべくタリアメント川へ進撃を開始した。戦況を見た本国ではハンガリー人やスラブ人の反乱が本格化し、ハンガリーに至っては遂にオーストリア・ハンガリーからの分離と二重帝国軍の解散を宣言した(ハンガリー独立)。こうなると最早、軍の秩序は無いに等しくなり、司令官スヴェトザル・ボロイェヴィッチは反撃・防御の双方を断念して全軍退却を命令、ピアーヴェ川全域を放棄して敗走した。
10月29日、総崩れとなったオーストリア軍を追ってタリアメント川へ向うイタリア陸軍にオーストリア政府から休戦が提案されるが、イタリアは講和内容に納得せずこれを拒絶、進軍を続けた。作戦開始から一週間後の10月31日までに5万名のオーストリア兵がイタリア軍に降伏、捕虜はイタリア第11軍がタリアメント川近辺に到達した11月1日までに10万名にまで増えた[7]。また海軍も攻勢に加わり、11月3日に戦線後方のトリエステへ陸軍部隊を強襲上陸させ、トリエステを占領してオーストリア軍の後方を脅かした。また陸軍も11月3日にタリアメント川に到達、次の目標たるイソンゾ川へ向かおうとしていた。
[編集] オーストリア軍降伏
11月3日、戦線崩壊に陥ったオーストリア軍司令部はタリアメント川渡河を準備するイタリア軍司令部に白旗を掲げて休戦を求めた。十分な戦果を得ていたイタリア側も今度は受け入れ、同日の内に休戦条約が調印される運びとなり、オーストリア=ハンガリー帝国の敗戦が実質的に決定した。両者間で取り結ばれたヴィラ・ジュステ休戦協定は署名日の11月3日午後3時から24時間後に施行される事になっていた。従って11月3日から4日の3時までは前線では戦闘の可能性が残されていたが、早期の和平交渉を望むオーストリア軍代表エルダー・フォン・ウェーバー将軍は11月3日中に負傷兵を含む残余兵30万名へ停戦命令を出した。ウェーバーは署名発行前の停戦命令でイタリア側が進軍を止めて交渉を始める事を期待した。
しかしイタリア軍内部の強硬派は優勢であるにも関わらず結ばれた休戦協定に不快感を抱き、休戦協定施行までは進撃を継続するべきと主張した。その中心人物が後のバドリオ元帥であり、彼は軍内部の穏健派に必要なら休戦協定の破棄すら検討するべきだと述べた。事実、壊滅的な打撃を受けていたオーストリア軍は故郷に向かって敗走を開始しており、ウェーバーの停戦命令が出される前からもともと反撃できる状態ではなかった[8]。ウェーバーは進軍継続は協定違反だと訴えたが[9]、イタリア軍が進軍を継続した11月4日午後3時までは休戦協定は国際法上機能していなかった[10]。結局イタリア陸軍50万は11月4日中に関しては進軍継続を決定、タリアメント川を渡河して残りの占領地の回収を開始した[11]。
隊伍を乱して敗走していたオーストリア兵やハンガリー兵は各地で投降して、最終的に残存部隊の殆どが拘束されてイタリア本国の捕虜収容所に収監された。イタリア陸軍は殆ど損害を受けずに11月4日午後3時にイソンゾ川に到達した[12]。休戦協定で立ち退きが決定していた南チロルも合わせて占領下に置かれた。
[編集] 結果
戦いは単なる戦術的勝利だけでなく、オーストリア・ハンガリーというイタリア最大の仮想敵国が歴史上から消滅する結果を生んだ[13][14]。オーストリア降伏はキール反乱を初めとするドイツ国内の厭戦感情を激化させ、ドイツは降伏を選択した。勝利は10月31日のハンガリー独立に続いた数多くの民族自決運動に公認を与え、ドイツが戦争継続を断念する一つの理由ともなったのである[15]。
ピアーヴェとヴィットリオという二つの勝利を得たアルマンド・ディアスは祖国は勿論、同盟国の間でも広く称賛を得た。イタリア国内のイソンゾ戦線の記念碑には彼の名前が刻まれ、国王から公爵の地位を与えられた。
[編集] 引用
- ^ "Battle of Vittorio Veneto during October and November saw the Austro-Hungarian forces collapse in disarray. Thereafter the empire fell apart rapidly." Marshall Cavendish Corporation: History of World War I. Marshall Cavendish, 2002, pp. 715-716
- ^ Duffy, Michael (1 February 2002). "The Battle of Vittorio Veneto, 1918". FirstWorldWar.com. http://www.firstworldwar.com/battles/vittorioveneto.htm. Retrieved 2008-06-10.
- ^ Burgwyn, H. James: Italian foreign policy in the interwar period, 1918-1940. Greenwood Publishing Group, 1997. Page 4. ISBN 0275948773
- ^ Schindler, John R.: Isonzo: The Forgotten Sacrifice of the Great War. Greenwood Publishing Group, 2001. Page 303. ISBN 0275972046
- ^ Arnaldi, Girolamo : Italy and Its Invaders. Harvard University Press, 2005. Page 194.
- ^ Foch urged Diaz to exploit the success. Diaz, knowing his troops were weary and short of munitions, confined himself to local operations." Seton-Watson, Christopher:Italy from Liberalism to Fascism, 1870-1925. Taylor & Francis, 1967. Page 500
- ^ Pier Paolo Cervone, Vittorio Veneto, l'ultima battaglia, Mursia (Gruppo Editoriale), 1994
- ^ Fritz Weber, "Das Ende der alten Armee. Österreich-Ungarns Zusammenbruch,.
- ^ Stato Maggiore dell'Esercito, "L'esercito italiano nella Grande Guerra", Ufficio Storico, vol. 5, Tomo 1,2, 2bis, Roma, 1988.
- ^ Low, Alfred D.The Anschluss Movement, 1918-1919, and the Paris Peace Conference. American Philosophical Society, 1974. Page 296.
- ^ Low, Alfred D.The Anschluss Movement, 1918-1919, and the Paris Peace Conference. American Philosophical Society, 1974. Page 296.
- ^ Low, Alfred D.The Anschluss Movement, 1918-1919, and the Paris Peace Conference. American Philosophical Society, 1974. Page 296.
- ^ Ludendorff wrote:In Vittorio Veneto, Austria did not lose a battle, but lose the war and itself, dragging Germany in its fall. Without the destructive battle of Vittorio Veneto, we would have been able, in a military union with the Austro-Hungarian monarchy, to continue the desperate resistance through the whole winter, in order to obtain a less harsh peace, because the Allies were very fatigued." Pasoletti, Ciro: A Military History of Italy. Greenwood Publishing Group, 2008, page 150. ISBN 0275985059
- ^ "The Battle of Vittorio Veneto during October and November saw the Austro-Hungarian forces collapse in disarray. Thereafter the empire fell apart rapidly." Marshall Cavendish Corporation: History of World War I. Marshall Cavendish, 2002, pp. 715-716.
- ^ Ludendorff wrote:In Vittorio Veneto, Austria did not lose a battle, but lose the war and itself, dragging Germany in its fall. Without the destructive battle of Vittorio Veneto, we would have been able, in a military union with the Austro-Hungarian monarchy, to continue the desperate resistance through the whole winter, in order to obtain a less harsh peace, because the Allies were very fatigued." Pasoletti, Ciro: A Military History of Italy. Greenwood Publishing Group, 2008, page 150. ISBN 0275985059