スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国
Држава Словенаца, Хрвата и Срба
Država Slovenaca, Hrvata i Srba
Država Slovencev, Hrvatov in Srbov
オーストリア=ハンガリー帝国 1918年10月 - 1918年12月 ユーゴスラビア王国
スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の国旗
(国旗)
スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の位置
公用語 セルビア語クロアチア語スロベニア語
首都 ザグレブ
国民評議会議長
1918年10月 - 1918年12月 アントン・コロシェツィ
国民評議会副議長
1918年10月 - 1918年12月 スヴェトザル・プリビチェヴィッチ
1918年10月 - 1918年12月 アンテ・パヴェリッチ
変遷
独立 1918年10月29日
セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に合流 1918年12月1日

スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国第一次世界大戦終戦時のオーストリア=ハンガリー帝国解体後、旧オーストリア=ハンガリー帝国の南端部に、セルビア人クロアチア人スロヴェニア人によって樹立された短命な国家である。

国名[編集]

国名はセルビア語ではДржава Словенаца, Хрвата и Срба / Država Slovenaca, Hrvata i Srbaクロアチア語ではDržava Slovenaca, Hrvata i Srba国際音声記号[dr̩ˈʒaʋa sloˈʋenaʦa xr̩ˈʋataɪ ˈsr̩ba])、スロベニア語ではDržava Slovencev, Hrvatov in Srbovである。

国名にあるセルビア人はボスニア・ヘルツェゴビナクロアチア=スラヴォニアスレムを含む)、ダルマチアコトル湾バル付近のモンテネグロ海岸までを含む)の住民を指し、セルビア王国(今日のマケドニア共和国領を含む)、モンテネグロ王国バナト・バチュカおよびバラニャ英語版(歴史的ヴォイヴォディナのうちバナトバチュカバラニャ英語版を含む。スレムはスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の一部となった)の住民は指さなかった。

歴史[編集]

オーストリア=ハンガリー帝国の地図。スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国領になった、セルビア人クロアチア人スロベニア人の主な居住地を示している。

スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国は1918年10月29日に公式に成立した。理事会は当時の有力政治家で特別に構成された国民評議会(Narodno vijeće)で、議長はスロベニア人のアントン・コロシェツィ、2人の副議長はセルビア人のスヴェトザル・プリビチェヴィッチとクロアチア人のアンテ・パヴェリッチ1941年に樹立された対独協力政権クロアチア独立国指導者アンテ・パヴェリッチとは別人)であった。

国是は旧オーストリア=ハンガリー帝国領の、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人の居住する地域すべてを併合することだったが、ヴォイヴォディナ(バナト、バチュカ、バラニャを含む) のセルビア人はこれに反対して、セルビア国民会議という最高権力機関の下、ノヴィ・サドで独自の政府を樹立し、1918年11月25日にセルビア王国に合流した。この前日の1918年11月24日には、当初スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の一部であったスレムの領域もまたここから脱退し、セルビア王国に合流していた。

戦勝国となった連合国海軍を手渡すのを避けるために、オーストリア皇帝カール1世はすべての軍港、兵器廠、海岸要塞オーストリア=ハンガリー帝国海軍全軍および商船隊を国民評議会に譲与し、今度はフランスイギリスイタリアアメリカ合衆国ロシア各政府に、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国がオーストリア=ハンガリー帝国と交戦しておらず、国民評議会がオーストリア=ハンガリー帝国の全船隊を引き継いだ旨を通知する通牒を送付した。しかし、この船隊はイタリア王国海軍に攻撃され、すぐに瓦解した。

スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国は、国民評議会がセルビア王国(既にモンテネグロ王国、ヴォイヴォディナ、スレムと合流していた)に合流し、1918年12月1日セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国を樹立するまで、終始国際的に承認されることはなかった。