モンテネグロ

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モンテネグロ
Crna Gora
Црна Гора
モンテネグロの国旗 モンテネグロの国章
国旗 国章
国の標語:なし
国歌五月の夜明け
モンテネグロの位置
公用語 モンテネグロ語[1]
首都 ポドゴリツァ
(憲法上の首都はツェティニェ
最大の都市 ポドゴリツァ
政府
大統領 フィリップ・ヴヤノヴィッチ
首相 ミロ・ジュカノビッチ
面積
総計 13,812km2155位
水面積率 極僅か
人口
総計(2008年 624,000人(165位
人口密度 48.7人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 32億[2]ユーロ (€)
GDP(MER
合計(2008年 48億[2]ドル(142位
GDP(PPP
合計(2008年 69億[2]ドル(139位
1人あたり 11,091[2]ドル
独立宣言 2006年6月3日
通貨 ユーロ (€)(EUR
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 ME / MNE
ccTLD .me
国際電話番号 382
  1. ^ モンテネグロ語は、イェ方言セルビア語と見なされている。2007年の憲法改正以降、モンテネグロ語が第一公用語とされた。その他に4つの言語(アルバニア語セルビア語ボスニア語クロアチア語)が公用語に指定されている。
  2. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年7月19日閲覧([1]

モンテネグロは、ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置するセルビア・モンテネグロを構成する2つの共和国のうちのひとつであったが、2006年6月3日に独立を宣言した。

モンテネグロ政府公式ウェブサイトでは首都は行政機関所在地であるポドゴリツァ(旧称チトーグラード)とされるが、モンテネグロ憲法によると首都はツェティニェである。

国名[編集]

自国では「黒い山」を意味するツルナ・ゴーラЦрна ГораCrna Gora)と呼ぶ。モンテネグロ(Montenegro)とはヴェネツィア語による名称で、意味は同じである。

公式の英語表記は、Montenegro

日本語での表記はモンテネグロ。漢字による当て字は黒山。2007年10月の新憲法制定に伴い、それまでのモンテネグロ共和国Република Црна ГораRepublika Crna Gora)から共和国が外された。

歴史[編集]

言語的、文化的にはセルビア人との違いはほとんどない。宗教も同じ正教会だが、セルビアで主流のセルビア正教会の他に、マケドニア正教会とセルビア正教会に併合されたモンテネグロ正教会も復活して存在する。1990年代後半から経済的・政治的利害の相違、セルビア人中心の国家運営に対する不満などから独立運動が盛んになり、自分をセルビア人とは別個のモンテネグロ人と考える人が増えつつある。これには、古代モンテネグロ人の祖先が、南スラヴ人とは別個のイリュリア人だった可能性も背景にある。[独自研究?]

ドユラード・ツルノイェヴィッチ英語版公(Đurađ Crnojević)が大主教に賛同して退位し、1516年ツェティニェ主教公vladika)による神政政治が確立した(Prince-Bishopric of Montenegro)。これがモンテネグロが独自に持った最初の国家形態である。[要出典]主教公の職は1697年からペトロヴィチ=ニェゴス家が保持した。主教公は、その神政政治という性格から叔父から甥へと継承され、オスマン帝国スルタンに朝貢を続けながら国家を存続させた。主教公は1852年に世俗的な公へと転化し、モンテネグロ公国が成立した。これを契機として宗主国オスマンとの武力衝突に発展し、ロシア帝国の支援を仰ぐことになった。

1878年露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約ベルリン条約でオスマン帝国からの完全な独立を承認された。1905年に憲法が制定されて、モンテネグロ公はモンテネグロ王と規定しなおされ、国号はモンテネグロ王国になった。公国および王国の初代君主ニコラ1世で、1918年までその地位にあった。北をオーストリア・ハンガリー帝国、南をオスマン帝国に挟まれる地政学的条件を背景として、モンテネグロはロシアとの協調を対外関係の機軸とした。日露戦争では1905年日本に宣戦布告し、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を満州に派遣していた[1]。しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。

第一次世界大戦では、セルビアに対していくらかの援助を行った。このためモンテネグロはオーストリア・ハンガリー帝国に占領されることになり、ニコラ1世はフランスへと亡命した。その後モンテネグロはセルビア軍によって占領され、1918年に成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(のちユーゴスラビア王国)に取り込まれた。1919年に併合反対派が武装蜂起(クリスマス蜂起)を起こしたが、セルビア軍により鎮圧された。以後はユーゴスラビアの中の一地域となった。ニコラ1世とその子孫はモンテネグロ王位を請求し続けたが、実らなかった。

第二次世界大戦でユーゴスラビアはイタリアとドイツによる侵攻を受け、分割された(ユーゴスラビア侵攻)。モンテネグロはイタリアの占領下に置かれ、傀儡国家モンテネグロ王国英語版の統治下に置かれた。しかしパルチザンの抵抗の結果、1944年に枢軸軍は撤退し、モンテネグロは再びユーゴスラビアに復帰した。建設されたユーゴスラビア社会主義連邦共和国においては連邦を構成する6つの共和国の一つモンテネグロ人民共和国、1963年からはモンテネグロ社会主義共和国として存続した。

1991年から始まったユーゴスラビア紛争においてもモンテネグロ共和国セルビアと歩調を合わせており、最後までユーゴスラビア連邦共和国から離脱しなかった。1997年の選挙でミロ・ジュカノヴィッチ大統領に就任した頃から、分離独立の示唆が行われて来ていた。1999年コソボ紛争でもセルビアの行動を非難し、アルバニア難民の受け入れに努めた。コソボ紛争後、通貨や関税に関してセルビアから独立し、徐々に独立の動きが強まっていった。

これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定に必ずしも好影響を及ぼさないという立場から、モンテネグロとセルビアの仲介に動き出した。こうした欧州連合の努力により、2003年2月には3年後の2006年以降に分離独立の賛否を決める国民投票を実施できるという条件付きで国家連合セルビア・モンテネグロが成立した。新国家はセルビア・モンテネグロ内で圧倒的にマイノリティーであるモンテネグロに対してセルビアとの間に最大限の平等を保障していたが、それでもモンテネグロは共同国家の運営に対して非協力的であり、モンテネグロ独自の外交機関、軍事指揮系統を有していた。このため連邦国家としてのセルビア・モンテネグロはほぼ有名無実の状態になっていた。

2006年5月21日に、セルビアからの分離独立の可否を問う国民投票が実施された。欧州連合は、セルビア・モンテネグロでなければ欧州連合への加盟を認めないという立場を取っていたが、投票の直前には「50%以上の投票率と55%以上の賛成」というハードルに切り替えた。一方で独立支持派は「モンテネグロの独立こそが欧州連合加盟への早道」であるとするキャンペーンを展開した。投票の結果、投票率86.5%、賛成55.5%で欧州連合の示した条件をクリアした。

2006年6月3日夜(日本時間4日未明)に独立賛成派が国民投票の結果に基づき独立を宣言した。6月5日にはセルビアもセルビア・モンテネグロの継承を宣言して、モンテネグロの独立を追認した。6月12日には欧州連合がモンテネグロに対する国家承認を行った。これにより国際的にモンテネグロの独立が認められた。両国の独立により6つの共和国から構成されていたユーゴスラビア社会主義連邦共和国は完全に解体した。6月16日に日本が国家承認[2]6月28日国際連合へ加盟した。

日本との関係では、独立に際して、日露戦争における戦争状態が解消していない事が問題となる可能性が指摘された。これについて日本政府は、2006年に提出された衆議院議員鈴木宗男の質問主意書に対する答弁書において「千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。」と回答している。2006年6月3日のモンテネグロ独立宣言に際し、日本政府は、6月16日に独立を承認し、山中あき子外務大臣政務官を総理特使として派遣した[3]UPI通信は、6月16日、ベオグラードのB92ラジオのニュースを引用し、特使は独立承認と100年以上前に勃発した日露戦争の休戦の通達を行う予定と報道したが[4]、日本国外務省からは、特使派遣報告をはじめとして日露戦争や休戦に関連する情報は出されていない[5]。(参考:技術上の問題で戦争状態が延びてしまった戦争のリスト)

大統領フィリップ・ヴヤノヴィッチ、現首相ミロ・ジュカノビッチ

2007年10月に新憲法を制定し、国名をモンテネグロ共和国からモンテネグロに変更した。

政治[編集]

モンテネグロは共和制議院内閣制を採用する立憲国家である。ユーゴスラビア時代の1992年10月12日に公布された憲法では、モンテネグロを「民主的な主権国家」と規定している。だが2006年6月3日の独立宣言を受け、2007年10月に新憲法を制定。

大統領[編集]

国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は5年、3選は禁止されている。議院内閣制をとるモンテネグロでは、大統領には以下の様な象徴的・儀礼的な役割しか与えられておらず、政治的実権は持っていない。

内閣[編集]

行政府首相を頂点とする内閣である。首相の任命手続きは、大統領の推薦を受け、議会が承認することとなっている。だが、実際には総選挙後の第一党勢力の指導者が、首相に就任するのが慣例となっている。閣僚は首相が指名するが、議会の承認が必要。議院内閣制をとるモンテネグロでは、内閣は大統領ではなく議会に責任を負い、国家における最高行政機関となっている。

議会[編集]

立法府であるモンテネグロ議会は一院制。定数は81議席。議員は国民の直接選挙で選出され、任期は4年である。議会には以下のような権限が与えられている。

  • 法案を審議し、可決・否決の判断を下す。
  • 大統領の推薦に基づき、首相を選出。
  • 首相に指名に基づき、閣僚を承認。
  • 条約批准
  • 全ての裁判官の任命。
  • 国家予算の決定。
  • 内閣不信任決議

モンテネグロは複数政党制が機能している。主要政党には左派モンテネグロ民主社会党 (DPS) やモンテネグロ社会民主党 (SDP)、右派モンテネグロ社会人民党 (SNP) や人民党 (NP)、セルビア人勢力のセルビア民主党 (SNS) などがある。

2009年3月29日、議会(81議席)選挙が行われ、与党連合「欧州のモンテネグロ」が47議席前後を獲得した。

裁判所[編集]

司法府は行政府、立法府から独立しており、三権分立が保障されている。憲法問題を扱う憲法裁判所が最高司法機関だが、通常裁判所の最高位は最高裁判所である。全ての裁判官は、議会によって任命される。

地方行政区分[編集]

モンテネグロの地図

モンテネグロは21の市によって構成されている。

主な都市[編集]

地理[編集]

北西部でクロアチアドゥブロヴニク)・ボスニア、北東部でセルビアサンジャク地方)、東部でコソボ、南部でアルバニアと国境を接している。西部がアドリア海に面している。

経済[編集]

最大の都市ポドゴリツァ

通貨2006年の国家としての独立以前からセルビアから独立していた。1999年11月3日からそれまでのセルビア・ディナールに変わって、ドイツマルクの流通が合法化された。その後2002年にドイツマルクの流通が完全に停止されてからは、独立後の現在に至るまでユーロが流通している。

セルビアとの境界には独立以前から税関が設けられていた。世界貿易機関(WTO)にも、以前からセルビアとモンテネグロで個別に加盟交渉を行っていた。

国民[編集]

2003年国勢調査(セルビアとは別に実施)によると、民族構成はモンテネグロ人が43.16%、セルビア人が31.99%、ボシュニャク人が7.77%、アルバニア人が5.03%、ムスリム人が3.97%、クロアチア人が1.1%、ロマもしくはエジプト人と答えた人が0.46%だった。

なおここでの「エジプト人」とは自らのルーツがかつてのエジプトにあると言う概念から、エジプト人であると主張するユーゴスラビア固有の民族集団のひとつである。現在のエジプトにはエジプト人と言う民族集団はなく、エジプトを構成する最多の民族集団はアラブ人である。

言語[編集]

モンテネグロの公用語はセルビア語モンテネグロ方言であり、63.5%が自らの母語をセルビア語であると宣言しているが、約22%がセルビア語と方言程度の違いのあるモンテネグロ語を母語としていると答えている。

宗教[編集]

宗教は、74%が正教会イスラム教が17.74%となっている。

脚注[編集]

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  1. ^ Montenegrina, digitalna biblioteka crnogorske kulture (Montegreina, digital library of Montenegrin culture), Istorija: Đuro Batrićević, citing Batrićević, Đuro. (1996). Crnogorci u rusko-japanskom ratu (Montegegrans in the Russo-Japanese War); retrieved 2011-05-12; compare Dr Anto Gvozdenović: general u tri vojske. Crnogorci u rusko-japanskom ratu (Dr. Anto Gvozdenovic: General in Three Armies; Montegegrans in the Russo-Japanese War)
  2. ^ Wikisource reference 2006年(平成18年)6月28日外務省告示第372号. モンテネグロ共和国の承認の件. - ウィキソース. 
  3. ^ モンテネグロの承認及び山中総理特使のモンテネグロ訪問について 外務省 平成18年6月16日
  4. ^ "Montenegro, Japan to declare truce," UPI通信社 (US). June 16, 2006; "Montenegro, Japan End 100 Years' War," History News Network (US). citing World Peace Herald, June 16, 2006; 2014年8月9日閲覧
  5. ^ 山中外務大臣政務官のモンテネグロ共和国訪問(概要) 外務省 平成18年6月

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

政府
日本政府
観光