コートジボワール

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コートジボワール共和国
République de Côte d'Ivoire
コートジボワールの国旗 コートジボワールの国章
国旗 (国章)
国の標語 : Union, Discipline, Travail
国歌 : アビジャンの歌
コートジボワールの位置
公用語 フランス語
首都 ヤムスクロ
最大の都市 アビジャン
政府
大統領 ローラン・バボ
首相 ギヨーム・ソロ
面積
総計 322,460km²67位
水面積率 1.4%
人口
総計(2008年 21,750,000人(57位
人口密度 54人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 10兆4,850億[1]CFAフラン
GDPMER
合計(2008年 235億[1]ドル(82位
GDPPPP
合計(2008年 340億[1]ドル(92位
1人当り 1,639[1]ドル
独立宣言
フランスより 1960年8月7日
通貨 CFAフランXOF
時間帯 UTC 0(DST: なし)
ISO 3166-1 CI / CIV
ccTLD .ci
国際電話番号 225

コートジボワール共和国、通称コートジボワールは、西アフリカに位置する共和制国家。東にガーナ、北にブルキナファソマリ、西にギニアリベリアと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はヤムスクロ

独立後、親仏政策の下でイボワールの奇跡と呼ばれる高度経済成長を達成したが、1990年代の政治不安の後、2002年には内戦が勃発した。日本では、かつては日本語に訳して象牙海岸(ぞうげかいがん)、もしくはアイボリーコーストと呼ばれていた。

目次

[編集] 国名

正式名称は、République de Côte d'Ivoire(レピュブリック・ドゥ・コート・ディヴワール)。通称、Côte d'Ivoire(フランス語の発音は [ko:t-divwa:r]、「象牙の海岸」という意味)。

公式の英語表記は、Republic of Cote d'Ivoire(リパブリック・オブ・コート・ディヴワール)。通称、Cote d'Ivoire、以前は Ivory Coast と呼ばれた。

日本語の表記は、コートジボワール共和国。通称、コートジボワール。かつては日本語に訳して象牙海岸(ぞうげかいがん)と呼んでいた。最近まで外務省日本郵政公社は象牙海岸(共和国)の名称を用いていた。また、地図帳や教科書などではコートジボアールと書かれたこともあった。現在では、コートジボワールを使用している。

本来のフランス語の規則に従えば、国名、地名などの固有名詞が二つ以上の単語から成る場合はハイフンで繋げることになっているため Côte-d'Ivoire となるはずであるが、コートジボワール政府はハイフンを挟まないものを正式名称としている。また他言語に自国名が翻訳されることがないよう政府が他国に要請している。(参考:エクソニム

  • 英語版WikipediaのCôte d'IvoireのEtymologyの項目によると、国名に関する要請は1985年に行なわれた[要出典]
  • 通称では「象牙海岸」も使われている。中国で「象牙海岸 (Xiàngyá Hăi'àn)」から「科特迪瓦 (Kētè Díwă)」になっているが、2004年ごろの内乱の際、一部のメディアでは「象牙海岸」と表現していた。

[編集] 歴史

詳細は「コートジボワールの歴史」を参照

[編集] 象牙海岸

15世紀ポルトガルイギリスオランダなど西欧の貿易船が奴隷象牙の売買に来航した。黄金海岸胡椒海岸奴隷海岸などとともに、この地には象牙海岸(コートジボワール)という名が付けられた。17世紀半ばにフランスが西アフリカ経営に乗り出した。アフリカ分割が始まると、1893年にフランスの植民地となり、1904年にアビジャンが建設された。全土の制圧は1917年にまでもつれ込んだ。

[編集] 独立と成長

フェリックス・ウフェ=ボワニ大統領。親西側政策でコートジボワールの経済成長を実現した。

シャルル・ド・ゴール仏大統領の植民地放棄の流れの中で、1958年12月4日に自治国となり、1960年8月7日に正式独立、初代大統領にはコートジボワール民主党(PDCI)のフェリックス・ウフェ=ボワニが就任した。PDCIによる一党制とウフェ=ボワニ大統領のカリスマ性によって政治は安定し、開放政策が採られ、1960年代から1970年代にかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を遂げ、その発展は「イボワールの奇跡」と呼ばれた。

冷戦終結に伴う国際的な民主化の流れの中で、1990年10月に初の複数候補による大統領選が行われ、ウフェ=ボワニ大統領が7選。11月には初の複数政党制での総選挙が実施されたが、PDCIが圧勝したが、イボワール人民戦線(FPI)など野党も議席を獲得した。

1993年にウフェ=ボワニ大統領が在職33年で死去すると、憲法上の規定に則って、国民議会議長でPDCI党員のコナン・ベディエが第2代大統領に就任した。1995年10月の大統領選では、主要野党がボイコットするなか、ベディエ大統領が圧勝。11月の総選挙でPDCIが絶対多数を確保した。

[編集] クーデター

1999年12月24日、現職に不満を持ったロベール・ゲイ元参謀長らがクーデターを強行し、翌日には軍事政権「国家国民救済委員会」を設置、2000年1月にゲイが第3代大統領に就任した。5月にゲイ大統領は民政復帰に向け、新憲法制定のための国民投票や大統領選、議会選を順次実施する方針を発表した。7月に新憲法草案が国民投票で承認され、10月22日には大統領選も実施されたが、軍事政権は集計作業を中断させてゲイ大統領の当選を一方的に発表した。しかし、市民らの抗議行動でゲイは逃亡し、10月26日にはFPIのローラン・バボが第4代大統領に就任した。バボ大統領は27日にFPI選挙対策幹部のンゲサン・アフィ首相に指名、挙国一致内閣が成立したが、共和連合(RDR)は新政府に参加しなかった。

2002年4月、ゲイによるクーデターでフランスに亡命したベディエ元大統領がPDCI党首に再選された。6月29日にはブルキナファソ国籍と見なされて大統領選などへの立候補を拒否されたRDR党首のワタラ元首相がコートジボワール国籍を取得し、大統領選へ出馬するものと考えられた。

[編集] 内戦

コートジボワール内戦での南北分断の構図。

2002年9月19日、バボ大統領の軍機構改革で退役を迫られたことなどを不服とする軍人ら約750人による反乱軍「コートジボワール愛国運動」が、アビジャンやブアケなど主要都市で蜂起した(コートジボワール内戦)。政府軍との戦闘によって、反乱軍の黒幕と見られるゲイ前大統領が死亡。一方の政府はドゥドゥ内相が殺害、アミチア・スポーツ相も身柄を拘束され、22日までに戦闘による死者は270人、負傷者は300人に上った。22日にフランスは自国民らの保護を目的に国軍をコートジボワールへ派遣し、27日までに日本人11人を含む1,500人を救出した。

29日には西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)がガーナアクラで緊急首脳会議を開き、政府軍と反乱軍の仲裁に乗り出すことを決めた。バボ大統領は10月12日にクアシ国防相を解任し、自ら国防相を兼任すると発表。対する反乱軍は17日にブアケでセネガルなどの調停に応じて停戦協定に調印、政府側も停戦に応じた。ECOWASは26日に停戦監視のため西アフリカ諸国平和維持軍(ECOMOG)を派遣することで合意し、11月には政府と反乱軍がトーゴロメで和平交渉を開始した。11月28日に西部のマン周辺で正義平和運動大西部人民運動を名乗る反政府勢力が政府軍と交戦、2930日にかけてはフランス軍とも衝突して、反政府勢力の約10人が死亡し、フランス軍も兵士1人が負傷する事件が発生したが、2003年1月にパリ郊外で開かれた和平会議で3つの反政府勢力、野党の各代表が暫定政府発足と内戦終結の和平案に合意し、7月には双方が「停戦」を宣言した。

この内戦の段階で反乱軍「新勢力」(FN)が急速に勢力を伸ばし、北部の地域を占領して支配下に置いた。政府は病院関係者や教師に対して、FN支配地域からの移動を命令したため、北部では医療・教育が崩壊し、衛生環境悪化など人道危機に直面している。「停戦」後も政府とFNの対立は続いて南北の分断は固定化し、国民の移動は禁じられた。

2004年10月にFNが挙国一致内閣より離脱した。政府軍は11月4日にFN占領地域を空爆、6日に政府軍がブアケフランス軍を誤爆し、9名の仏軍兵士が死亡した。フランス軍は報復として、アビジャン空港などに駐機していたコートジボワール空軍機(Su-25×2機、ヘリコプター5機)を破壊した。この反動で、政府放送の扇動を受けた「ジュンヌ・パトリオット」(バボ大統領派の愛国青年運動)がアビジャン市各所で暴動を始め、フランス人の民家やフランス関連施設などに対する略奪・暴行・殺人事件が発生した。避難できない外国人およそ数百名を急遽退去させるため、仏軍は市内の要所を一時的に確保、その間に退去者をヘリコプターでアビジャン空港まで移送した。また、この際にフランス軍と群衆の間で銃撃事件が発生したが、実際の死傷者数、威嚇射撃の有無などに関する両国政府の主張に食い違いがある。

2005年4月、南アフリカの仲裁によって政府とFNら反政府グループの間で、「敵対関係の解消」「反政府組織の武装解除」などが合意されたが、手続きは停滞した。国際連合安全保障理事会は10月に大統領選挙を行うことを計画していたが、武装解除と大統領選挙実施に必要な住民登録ができないために、9月にバボ大統領の任期を1年延長することを認めた。12月にはセイドゥ・エリマン・ジャラ首相に代わって、西アフリカ諸国中央銀行(BCEAO)総裁のシャルル・コナン・バニーが首相に指名され、挙国一致内閣が再度組閣された。

2006年1月、国際連合コートジボワール活動(ONUCI)やアフリカ連合(AU)傘下の作業グループが、国民議会の任期延長認めないと発表したとして、「ジュンヌ・パトリオット」たちがアビジャン市内の道路を封鎖した。また、国内のフランス軍とPKOに従事する各国軍(バングラデシュモロッコセネガルなど)の基地、フランス大使館、国営テレビ前で抗議活動が行われた。西部に駐留するバングラデシュ軍はそれらに発砲して4名が死亡した。結局、ナイジェリアオルシェグン・オバサンジョ大統領が、作業グループにはそのような権限はないと認めて、騒動に終止符を打った。しかし7月19日、シャルル・コナン・バニー首相の推し進めている、選挙実施のための身分証明書の発行方法に不満を持つ「ジュンヌ・パトリオット」が、アビジャン市内の主要な道路にバリケードを築いて、交通を遮断するなど、騒動が再燃した。

[編集] 政治

詳細は「コートジボワールの政治」を参照

[編集] 法律

コートジボワールの著作権法では、著作権の保護期間を「著作者の死後99年」と定めている。この規定は世界で2番目に長い保護期間である(2003年以降はメキシコの「100年」が最長)。

[編集] 地方行政区分

詳細は「コートジボワールの行政区画」を参照

コートジボワールの県

コートジボワールは19の州(régions)から成る。

主要都市

[編集] 地理

詳細は「コートジボワールの地理」を参照

コートジボワールの地図

ケッペンの気候区分によれば、海岸部は高温多湿の熱帯性気候、内陸部のサバンナサバナ気候に属する。

[編集] 経済

詳細は「コートジボワールの経済」を参照

独立後経済は順調に推移し、「西アフリカの優等生」と呼ばれ、「イボワールの奇跡」の下で比較的高い経済水準を維持。1人当たり国民総所得も他のブラックアフリカ諸国と比べて高い。

主要産業はカカオ(世界一の輸出国)、コーヒーイモ類、天然ゴムの生産を中心とする農業。他に鉱業(石油ダイヤモンド)、林業工業(食品加工、石油製品)も盛ん。カカオ、石油製品、材木の輸出が好調なことにより貿易は毎年約10億ドルの黒字を記録しているが、膨大な累積債務を抱え財政を圧迫。

  • 国民総所得:203億ドル(1人当たり980ドル、2008年)
  • 通貨CFAフラン

[編集] 軍事

詳細は「コートジボワール軍」を参照

コートジボワール軍は陸軍、海軍、空軍の三軍と憲兵隊、大統領親衛隊から構成される。兵制は選抜徴兵制である。人員は陸軍が6,500人、海軍が900人、空軍が700人、憲兵隊7,600人、大統領親衛隊1,350人である。2007年の国防予算は3億ドルだった[2]

[編集] 国民

詳細は「コートジボワールの国民」を参照

[編集] 民族

バウレ人などのアカン系エブリエ人などの潟湖系、ベテ人などのクル系、ダン人などの南東マンデ系、マリンケ人(ジュラ人)などのマンデ系、セヌフォ人などのヴォルタイック系の6大グループがあり、国内には63もの民族が住んでいる。

[編集] 言語

公用語はフランス語である。他にジュラ語バウレ語セヌフォ語ベテ語ヤクバ語などの各部族語も使用。

ローラン・バボ(Laurent Gbagbo)大統領やディディエ・ドロバ(Didier Drogba)選手などの名前に出てくる「gb」は、[b]でも[v]でもない音を発音する。この子音は、西アフリカの言語にある独特な子音である。「gba」を「グバ」と表記するのは不適切で、「バ」と表記するほうが日本語では適当である。

[編集] 宗教

アビジャンの聖パウロ大聖堂。

2008年の推計によれば、北部を中心にイスラームが国民の38.6%、南部を中心にキリスト教が国民の32.8%を擁し、土着の伝統宗教が11.9%、無宗教が16.7%である[3]

[編集] 教育

詳細は「コートジボワールの教育」を参照

6歳から12歳までの6年間が初等教育、12歳から16歳までの4年間が前期中等教育となり、16歳から19歳までの3年間の後期中等教育の後、高等教育への道が開ける。初等教育からフランス語は教授され、前期中等教育から英語などの外国語の教授が始まる。2000年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は48.7%(男性:60.8%、女性:38.6%)である[3]

主な高等教育機関としてココディ大学(1964)、ダボボ・アジャメ大学(1966)の名が挙げられる。通常の総合大学の他にもグランゼコールや各種高等専門学校が存在する。

[編集] 文化

詳細は「コートジボワールの文化」を参照

[編集] 音楽

詳細は「コートジボワールの音楽」を参照

コートジボワールはカリブ海アメリカ合衆国の音楽を輸入することには長けていたが、ガーナやギニアのように独自の音楽ジャンルを生み出すことはなかった。一時エルネスト・ジェジェによって伝統音楽を見直す潮流が出来たが、ジェジェが1983年に死去するとその試みは中途で止まり、現在もコートジボワール独自の音楽ジャンルは生まれていない。

しかし、そのためにむしろレゲエヒップ・ホップなどの外来音楽の消化は盛んに行われた。特に全アフリカを代表するレゲエ歌手としてアルファ・ブロンディが挙げられる。

[編集] 世界遺産

コートジボワール国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された自然遺産が3件存在する。詳細は、コートジボワールの世界遺産を参照。

[編集] 祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 OUR DE L'AN
復活祭翌日 イースターマンデー LUNDI DE PAQUES クリスチャンのみ
5月1日 労働記念日、メーデー FETE DE TRAVAIL
復活祭39日後 昇天祭 ASCENSION クリスチャンのみ
復活祭50日後 ホイット・マンデー、聖霊降臨祭 LUNDI DE PENTECOTE クリスチャンのみ
8月7日 ナショナル・デー、独立記念日 FETE NATIONALE DE L'INDEPENDANCE
8月15日 聖母の被昇天 ASSOMPTION クリスチャンのみ
11月1日 万聖節 TOUSSAINT クリスチャンのみ
11月15日 平和の日 JOURNEE NATIONALE DE LA PAIX
12月25日 クリスマス NOEL クリスチャンのみ
イスラム陰暦不確定 タバスキ、犠牲祭 TABASKI ムスリムのみ
イスラム陰暦不確定 モハメッド生誕記念日 ANNIVERSAIRE DE LA NAISSANCE DE MOHAMED ムスリムのみ
イスラム陰暦不確定 祈祷祭翌日 LA NUIT DE DESTIN ムスリムのみ
イスラム陰暦不確定 断食明け祭 RAMADAN ムスリムのみ

幾つかの祝祭日は信仰する宗教や宗派により違ってくる。イスラーム関連の祝祭日に関してはイスラム暦によるため直前にならないと確定しないだけではなく、年によりいつ頃の季節になるかさえ違ってくる。

[編集] スポーツ

サッカーが盛んであり、コートジボワール代表は1992年のアフリカネイションズカップで優勝し、2006年ドイツ大会では予選でカメルーン代表を破って本戦への初出場を果たした。主なプロクラブとしてはASECミモザアフリカ・スポーツなどの名が挙げられる。

[編集] 著名な出身者

詳細は「コートジボワール人の一覧」を参照

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ International Institute for Strategic Studies(IISS),The Military Balance 2008
  3. ^ a b CIA World Factbook2009年11月26日閲覧。

[編集] 参考文献

  • 鈴木裕之『ストリートの歌-現代アフリカの若者文化』世界思想社、2000年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
政府
日本政府
観光
その他

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