アルゼンチン
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- アルゼンチン共和国[1]
- República Argentina
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(国旗) (国章) - 国の標語 : En Unión y Libertad
(スペイン語: 統一と自由に於いて) - 国歌 : アルゼンチンの国歌

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公用語 カスティーシャ語[2] 首都 ブエノスアイレス 最大の都市 ブエノスアイレス 独立
- 第一議会
- 独立宣言スペインより
1810年5月25日
1816年7月9日[3]通貨 アルゼンチン・ペソ ($)(ARS) 時間帯 UTC -3(DST: -3) ccTLD AR 国際電話番号 54 -
- ^ 現行憲法第35条によると、リオ・デ・ラ・プラタ連合州、アルゼンチン連合といった歴史的な国名もまた正式な国名されている。
- ^ アルゼンチンのスペイン語はEspañol(エスパニョール)ではなく、Castellano(カスティシャーノ)と呼ばれる。なお、コリエンテス州のみグアラニー語もまた公用語となっている。
- ^ 連邦同盟は1815年6月29日に独立を宣言した。
アルゼンチン共和国(アルゼンチンきょうわこく)、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家である。西と南にチリ、北にボリビア、パラグアイ、北東にブラジル、ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を誇る。首都はブエノスアイレス。
チリと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビーナス諸島(英語ではフォークランド諸島)の領有権を主張しており、また、チリ、イギリスと同様にアルゼンチン領南極として知られる南極の1,000,000 km²の領有権も主張している。
目次 |
[編集] 国名
詳細はアルゼンチンの国名の由来を参照。
正式名称は、República Argentina(スペイン語: レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、Argentina(アルヘンティーナ)。
公式の英語表記は、Argentine Republic(アージェンタイン・リパブリック)。通称、Argentina(アージェンティーナ)。Argentine(eで終わる)は形容詞としての形であり、名詞としてはArgentina(aで終わる)であることに要注意。
日本語の表記はアルゼンチン共和国。通称アルゼンチン。他にアルゼンティンとも表記され、漢字で亜尓然丁、亜爾然丁、阿根廷のように表記される。近年では、原語に従ってアルヘンティーナと表記されることも少なくない。
独立時はリオ・デ・ラ・プラタ連合州(あるいは南アメリカ連合州)という国名だったが、この元となったラ・プラタ川 (Río de la Plata)は、スペイン語で「銀の川」を意味する。 流域で余り多くの銀を産出しないラ・プラタ川(当初は「真水の海」と呼ばれた)にこの名前が付けられたのは、1516年にスペイン人が最初にこの地に辿り着いた時に、探検者のフアン・ディアス・デ・ソリスが出会ったインディヘナ(チャルーア族)がこの時に銀の飾りを身につけていたことから、上流のパラグアイ方面に「銀の山」(Sierra del Plata)があると誤解したことにより名づけられた。
国名は、ラテン語で「銀」を意味するArgentum(アルジェンツム)に因んだ名称である。このラテン語をスペイン語風に直したArgentinaという名称は、1602年のマルティン・デル・バルコ・センテネラの記したLa Argentinaという本に既に見ることが出来る。国名が正式にアルゼンチンとなったのは1825年のことだった。
国名をスペイン語の「ラ・プラタ」から、ラテン語の「アルゼンチン」に変えたのはスペインからの圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵掠を契機としてフランスでの言い方(ラテン語)を使った。国名とともに銀もla plataからArgentumに変えた。しかし、現行憲法第35条によると、「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」(Provincias Unidas del Río de la Plata)や「アルゼンチン連合」(Confederación Argentina)などの歴史的国名も、「アルゼンチン共和国」(República Argentina)と同様に同国の正式名称であると認識されている。
[編集] 歴史
詳細はアルゼンチンの歴史を参照。
[編集] 前コロンビア期
アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11,000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。
その後15世紀後半にクスコを中心に発展したケチュア族の国家、タワンティンスーユ(インカ帝国)の皇帝トゥパック・インカ・ユパンキの征服によって北西部のアンデス山脈地域はインカ帝国に編入され、征服された地域はタワンティンスーユ内の四州の内の一州、コジャスーユの辺境の地となり、30万人ほどのケチュア族やアイマラ族が住むようになった。アルゼンチンにおけるコジャスーユの領域は北は現在のフフイ州から南はメンドーサ州、東はサンティアゴ・デル・エステロ州の北部にまで広がっていた。
その一方でインカ帝国の権威が及ばなかったチャコやパンパやパタゴニアには、チャルーア族のような狩猟インディヘナが主に居住しており、パンパやチャコにもグアラニー族のような粗放な農耕を営むインディヘナがいたが、全体的にこの地域に住む人間の数は少なかった。
1516年にスペインの探検家、フアン・ディアス・デ・ソリスが最初のヨーロッパ人としてこの地を訪れるが、すぐに先住民と諍いを起こすと、まもなくチャルーア族に殺害された。
[編集] スペイン人の入植
1536年にラ・プラタ川の上流にあると思われた銀の山を攻めるために、バスク人貴族のペドロ・デ・メンドーサ率いる植民団によって、ラ・プラタ川の河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されるが、まもなくインディヘナの激しい攻撃に遭って放棄され、以後200年程ラ・プラタ地域の中心は1559年にアウディエンシアの設置された、パラグアイのアスンシオンとなった。
その後ペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、ペルー方面からアンデス地域を主に開拓されていき、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市サンティアゴ・デル・エステロが建設された。また、アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年にはブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域はベネスエラなどと並んでイスパノ・アメリカでは最も開発の遅れた地域だった。 また、1580年に放された牛や馬がパンパの牧草を食べて増えていくにつれ、いつしかガウチョが現れるようになっていった。こうした牛は19世紀の始めにはラ・プラタ地域全体で2000万頭ほどいたといわれている(ちなみにこの頃の人口はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイを併せても100万人を越えないほどだった)。 1613年にコルドバ大学が建設され、以降コルドバが南米南部の学問の中心となる。
その後、18世紀はグアラニー戦争等に代表されるように、ブラジル方面から攻撃を続けるポルトガルとの小競り合いが続き、スペイン当局がバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)を防衛するために、1776年にペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を遂げた。 しかし、この時点においてアルゼンチンの産業の中心はまだ北西部のトゥクマンやコルドバであり、リトラルやブエノスアイレスには見るべき工業はなかった。このブエノスアイレス港の正式開港は、後に植民地時代に繁栄していた内陸部諸州に恐ろしい打撃をもたらすことになる。
[編集] 解放戦争と内戦
1810年5月25日、ポルテーニョは五月革命を起こし、ブエノスアイレスは独立を宣言したが、ラ・プラタ副王領のパラグアイ、バンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバはブエノスアイレス主導の独立に賛成しなかった。このためブエノスアイレス政府は1813年のサンロレンソの戦いにも勝利すると各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功したが、マヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略と、アルト・ペルー攻略は失敗した。1816年にはトゥクマンの議会で正式に独立を宣言するが、まだこの時点では独立の方向も定まっておらず、インカ皇帝を復活させて君主制を導入しようとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、ホセ・アルティーガスのようにアメリカ合衆国のような連邦共和制国家を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿易独占を求めるなど意見が全く一致しなかった。ベルグラーノ将軍が三度目のアルト・ペルー攻撃に失敗し、北部軍司令官を辞任すると、後を継いだホセ・デ・サン=マルティン将軍がアンデスを越えて王党派の牙城リマを攻略しようと出発し、チリ、ペルーを解放していったが、本国ではブエノスアイレスの貿易独占に反対する東方州やリトラル三州のアルティーガス派(連邦同盟)とブエノスアイレスの対立が激しさを増し、内戦が続いた。プエイレドンの失脚以降中央政府は存在しなかったが、中央政府が存在しないことは外交上不利であったため、各州の妥協によりブエノスアイレス州が連合州の外交権を持つことを認められた。
その後東方州がポルトガルに併合されたことを見過ごしたことへの批判が強まり、33人の東方人を率いて独立運動を開始したフアン・アントニオ・ラバジェハ将軍の潜入から、かの地を巡って1825年にブラジル帝国との間にブラジル戦争が始まった。この戦争の間はベルナルディーノ・リバダビアを首班にして一時的に中央政府が成立し、またこの時に国名をラ・プラタからアルヘンティーナに改名したが、戦争の最中に制定された中央集権憲法と、ブエノスアイレスを正式に首都と定める首都令が、国内の全ての層の反発を受けるとリバダビアは失脚し再び中央政府は消滅した。 戦局はアルゼンチン有利に進んだが、こうした内政の混乱が災いして、結局イギリスの介入によりモンテビデオ条約が結ばれ、1828年にバンダ・オリエンタルはウルグアイ東方共和国として独立した。そしてこの地を以後再びアルゼンチンが奪回することはなかった。
[編集] ロサス時代
その後連邦派と統一派の戦いは激しさを増したが、1829年に統一派のブエノスアイレス州知事フアン・ラバージェを打倒した、連邦派のフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事になると、ロサスはリトラル三州のカウディージョと同盟を結んで1831年11月に中央集権同盟を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったものの、アルゼンチン連合が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入る。1832年に州知事を辞すると、ロサスは「荒野の征服作戦」で敵対していたパンパのインディヘナを、今日のブエノスアイレス州の領域からほぼ追い出して部下に分け与え、大土地所有制を強化するなどの出来事もあった。
1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、フアン・ファクンド・キロガが暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れ、妻のドーニャ・エンカルナシオンのクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われて1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。 以降のロサスの政治は恐怖政治であり、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧、追放され、25,000人にも及ぶ市民が粛清されたが、その一方でロサスはパンパの伝統を守り、黒人やガウチョを保護するなどの面もあった。こうした政策でブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする、上流階級以外の各層から支持を得て独裁制は成り立っていたのである。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとったロサスは、1833年に マルビーナス諸島を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、イギリスに島を占領されてしまったものの、ラ・プラタ地域に野心を持っていたイギリス、フランスとのウルグアイを巡っての大戦争や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらにはパタゴニアを植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難全てからロサスはアルゼンチンを守り抜いた。
しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心のフスト・ホセ・デ・ウルキーサがエントレ・リオス州から反乱を起こすと、1852年にロサスはカセーロスの戦いで敗れ、失脚した。
[編集] 国家統一と西欧化
カセーロス以後のアルゼンチンは当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは消し去らねばならない存在として大弾圧された。ウルキーサが設立したアルゼンチン連合は極めて自由主義的な憲法を持っていおり、リトラル諸州の要請で貿易を自由化したところで、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業は殆ど壊滅してしまった。 1861年にはブエノスアイレス州がウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が成ると、勝利した元ブエノスアイレス州知事バルトロメ・ミトレらが主導権を握ってヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉を進め、亜伯二大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。こうした勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたフェリペ・バレーラなどがいる。
その後1868年に就任した自由主義者のドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント大統領らによる土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。一方パンパでは未だに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年にフリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍の指揮した砂漠の開拓作戦によってパンパからインディヘナが消えると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制が進んだ。
[編集] 繁栄と民主主義の時代
その後1880年に正式にブエノスアイレスが首都と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、外国資本と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの非公式植民地として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。 こうしてヨーロッパからの大量の移民がブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙にコスモポリタンな大都市の「南米のパリ」になっていった。1914年には国民の約30%が移民であった。 同時にこの頃から、移民の流入や、都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『マルティン・フィエロ』が完成した。
また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治から民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに、1891年には急進的人民同盟が組織され、これは後の急進党へと発展して行った。 急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、保守派のロケ・サエンス・ペーニャ大統領は行政による選挙干渉をやめることを提案し、こうして1916年の選挙には急進党からイポリト・イリゴージェン大統領が選出された。 民族主義的な政策を以て政治に望んだイリゴージェンは、第一次世界大戦を中立国として過ごし、1928年に再選され、アルゼンチンは1929年には世界で第五位の富裕国として名を連ねるようになった。[1]
[編集] 混乱と暴力の時代
しかし、1929年の大恐慌はアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治は不安定になった。翌1930年にイリゴージェンは軍事クーデターで追放された。
1930年に就任したウリブルはアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたがこれは失敗した。1932年にアグスティン・ペドロ・フストが大統領となると、伝統的な寡頭支配層の政治が復活した。国際協調を旨としたフスト政権は1933年にイギリスとのロカ・ランシマン協定で、どうにかイギリスのスターリング・ブロックに組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国のようになってしまった。19世紀の不正選挙の伝統も復活し、1930年代は「最悪で不名誉な10年間」と形容された。 こうした中で民族主義的な意識が次第に高まり、第二次世界大戦の最中にイギリスと戦う枢軸国への好意的な中立を標榜した統一将校団(GOU)のフアン・ペロン大佐は次第に人気を集め、1946年には遂に大統領に就任する。
大統領に就任したフアン・ペロンは、第二次世界大戦で得た莫大な外貨を梃子に工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの政策を推し進めた。こうしたポプリスモ的な政策は当初は成功したが、すぐに外資を使い果たしてしまい、さらに貧民(デスカミサードス:直訳すれば「シャツ無し」だが、ここでは「上着無し」の意味)から聖母のように崇められていた妻エバ・ペロン(エビータ)が死ぬと傾きだしていった。それまでもラ・プラタ市をエバ・ペロン市に改名するなどの個人崇拝を強要するような行為は批判を浴びていたが、そんな中で離婚法を制定したことから遂にカトリック教会との関係も壊れ、支持者の労働者からの失望が広まっていたこともあり、1955年の軍保守派によるクーデターでペロンは亡命した。
1962年、大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが長続きしなかった。これは1966年以降の軍政とは違い、元々治安維持のための短期的な軍政を計画していたからだといわれだと言われている。しかし、1966年のクーデターは様子が異なり、フアン・カルロス・オンガニーア政権のもとでブラジル型の官僚主義的権威主義体制がアルゼンチンにも生まれた。軍部は外資を導入して経済を成長させようとしたが、ペロニスタと軍の戦いは激しさを増し、ペロニスタと軍との間でまるで内戦状態のようになった。このような状況の中でペロニスタから生まれたモントネーロスやペロニスタ武装軍団をはじめとする都市ゲリラと軍との抗争で多くの犠牲者が出た。
しかし、1969年にコルドバで起きたコルドバ暴動(コルドバソ)を受けるとその後穏健政策に転じ、ペロニスタと軍の戦いを収める為にはペロニスタを議会に戻すしかないと判断した軍部は自由選挙を行った。この選挙ではペロン党が勝利し、1973年にはペロンが帰国し、三度大統領に就任した。しかし、すぐに病に倒れ、1974年に後を継いだ妻のイサベル・ペロンは困難な政局を乗り切ることは出来ずに拙劣な政策を積み重ね、治安、経済共に悪化の一途を辿った。こうして1976年に見かねた軍のホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデターを起こし、ブラジル型の官僚主義的権威主義体制が再びアルゼンチンに生まれた。
この政権は1966年の軍事政権よりもさらに強い抑圧、弾圧を進め、「汚い戦争」、コンドル作戦によりペロニスタや左翼を大弾圧したことで治安回復には成功したものの、ブラジル風に外資を導入して経済全体を拡大しようとした経済政策に大失敗して天文学的なインフレを招いた。軍事政権は行き詰まり、1982年に就任したガルティエリ大統領は、イギリスが1833年以来実効支配を続けているマルビーナス諸島(英:フォークランド諸島)を奪還しようと占領したが、当初上手くいくと思われたこの行動はサッチャー首相の決断によりマルビーナス戦争に発展し、イギリスの反撃に遭い失敗した。建国以来初めての敗戦によりガルティエリ大統領は失脚し、軍事政権は崩壊した。ただし、この戦争によりラテンアメリカ諸国との絆は強まり、ラテンアメリカの一員としてのアルゼンチンのアイデンティティのあり方に影響を与えた。
[編集] 民政移管から現在のアルゼンチン
1983年、大統領選挙と議員選挙が行われ、急進党が久々に政権に返り咲いた。大統領となったラウル・アルフォンシンは、軍政期からのインフレや対外債務、マルビーナス戦争による国際的孤立などの厳しい政局の中、経済面では上手くいかなかったが、長年敵対関係が続いていたチリ、ブラジルとの関係を大幅に改善し、この融和路線は後のメルコスール形成につながった。軍政時代に人権侵害を行った軍人を裁き、軍の予算や政治力を削減して行った。こうした政策に対して三度に渡る軍の反乱もあったもの、アルフォンシンは結果として軍を統制下に置くことに成功したといえる。任期を5ヶ月残して1989年に辞任した。
1989年に就任した正義党(ペロン党)のカルロス・メネムは1991年の湾岸戦争にラテンアメリカで唯一軍を派遣するなど先進国との国際協調路線を標榜し、孤立していたアルゼンチンを国際社会に復帰させた。また、徴兵制も廃止された。一方経済面では当初公約で掲げていたペロニスタの路線(社会民主主義)とは180度異なる新自由主義政策を取った。新自由主義は成功したかに見え、メネム特有のネオ・ポプリスモ政策と対ドルペッグ固定相場政策で、長年の懸念だったインフレを抑制し、アルゼンチン経済を持ち直したかに見えたが、1997年頃にはこの政策の無理が徐々に明らかになっていった。
2001年、急進党のデ・ラ・ルア政権はデフォールトを決行し、国際的な評価は地に落ちた。
2003年、正義党からネストル・キルチネルが大統領に就任した。
2007年10月、正義党から、キルチネルの妻のクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが同国史上初の「選挙による」女性大統領に就任した。就任演説で「雇用と工業、輸出、農業を基礎とする新しい多様化した経済基盤」を構築すると述べた。2007年の経済成長率は8%を記録し、近年アルゼンチンは予断をゆるさないものの、再び回復しつつある。
[編集] 政治
詳細はアルゼンチンの政治を参照。
大統領を元首とする連邦共和制国家であり、首相を長とする内閣、上下二院制の複数政党制議会を備える。大統領、副大統領共に直接選挙で選ばれ、任期は4年。大統領と内閣は行政権を行使し、内閣の大臣は大統領によって任命される。2007年10月には大統領選挙により、イサベル・ペロンに続いて同国二人目の(選挙によるものでは初めての)女性大統領が誕生した。
立法権は国民議会と、元老院が有し、国民議会(下院)は定数257人、元老院(上院)は定数72人である。
司法権は行政、立法から独立している。
政党には現在の与党、正義党(ペロン党)の他、急進市民同盟(急進党)などがある。
相次ぐ国軍の反乱等に見られるように、歴史上、『中進国』とされる国々の中では最も政情の安定していない国の一つであり、この政情不安定さは1983年の民政移管後の失政や、2001年11月の経済破綻等、一連の経済不安や現在の極度に拡大した貧富格差の元凶とされている。この不安定さを国民統合が成功していない(国民全体に受け入れられる国民文化が成立していない)ことに求める言説は多い。
なお、アルゼンチンは南極条約締結国であり、南極の領有権を主張している。また、アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビーナス諸島の領有権を主張している。
[編集] 国際関係
2001年のデフォールト以来、アルゼンチンは諸外国に大きく不信感を持たれ、1982年のマルビーナス戦争以来の国際的な孤立に陥ったが、現在は債務の返済などを軸に国際社会への復帰が進められている。
戦前はイギリスに周辺国化され、半ば属国のような感がありながらも、経済力を背景にスペイン語圏を代表する国家として旧宗主国スペインを凌ぐ勢いで権勢を誇り、北米において似たような立場にあったアメリカ合衆国をライバル視し、同国がモンロー主義の下で中南米を勢力圏に入れようとするのに対し、常に独自外交の元でアメリカ合衆国とは距離を置き、他のラテンアメリカ諸国とは一線を画していた。
また、ビーグル水道で領土問題を抱えていたチリとは伝統的に仲が悪く、第二次大戦後は何度か戦争直前にまで陥ったこともあった。1983年にローマ教皇フアン・パブロ2世の仲介により、アルゼンチンが系争地の三島のチリ帰属を認め、領土問題で妥協することにより友好関係が確立されたが、2004年に事前に連絡なくチリへの天然ガスの輸送を停止してしまったことが大きな外交問題となった。
アルゼンチンの最大のライバルはやはりブラジルであり、オリンピックやサッカーの大会がある度にお互いに強烈な対抗意識を持って争っていたが、ラウル・アルフォンシンの融和政策が功を奏し、現在ではお互いにメルコスールに加盟するなどの経済統合が進んでいる。
以上のような事情により、現在アルゼンチンはブラジルを軸としたラテンアメリカ統合の主要国として影響力を保っている。また、対外政策では一線を画しながらも石油、天然ガスを軸にしたベネズエラのチャベス政権との友好関係がキルチネル政権以来続いている。
ヨーロッパとの関係も重要であり、最も仲の良い国家はスペインである。現在スペインには、言語が共通するために多くのラテンアメリカ人が出稼ぎ、移民として居住しているが、アルゼンチン人もその例外ではなく、多くのアルゼンチン人がスペインに移住している。
日本とは戦前からの長い友好関係が続き、マルビーナス戦争中にも日本がアルゼンチンとの断交を行わなかったなどの友好的政策は、現在でもアルゼンチンの知日家に高く評価されている。
2007年12月クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル新大統領は、多国間主義とテロ根絶を強調した。
[編集] 地方行政区分
アルゼンチンは23の州(provincia)と1つの特別区*から成る。詳細はアルゼンチンの地方行政区画を参照せよ。
- ブエノスアイレス* (Capital Federal)
- ブエノスアイレス州 (Buenos Aires)
- カタマルカ州 (Catamarca)
- チャコ州 (Chaco)
- チュブ州 (Chubut)
- コルドバ州 (Córdoba)
- コリエンテス州 (Corrientes)
- エントレ・リオス州 (Entre Ríos)
- フォルモサ州 (Formosa)
- フフイ州 (Jujuy)
- ラ・パンパ州 (La Pampa)
- ラ・リオハ州 (La Rioja)
- メンドーサ州 (Mendoza)
- ミシオネス州 (Misiones)
- ネウケン州 (Neuquén)
- リオネグロ州 (Río Negro)
- サルタ州 (Salta)
- サン・フアン州 (San Juan)
- サンルイス州 (San Luis)
- サンタ・クルス州 (Santa Cruz)
- サンタフェ州 (Santa Fe)
- サンティアゴ・デル・エステロ州 (Santiago del Estero)
- ティエラ・デル・フエゴ、アンタルティダ・エ・イスラス・デル・アトランティコ・スール州(フエゴ島、南極及び南大西洋諸島、Tierra del Fuego, Antártida e Islas del Atlántico Sur)
- トゥクマン州 (Tucumán)
他にイギリス領のマルビーナス諸島の領有権を主張している。 なお、国土統一直後の1853年に首都令があったものの、ブエノスアイレスは1880年までは正式な首都ではなかった。
各州は州内でさらに小さな行政単位に分割され、県(departomentos)は全てあわせると376県にもなる。ブエノスアイレス州は県に類似した134ものpartidosに分割される。departomentosもpartidosも市町村や地域の中から分割された区分である。
[編集] 主要都市
アルゼンチンは北西部のアンデス山脈周辺から開発が進められたが、独立後は歴史的に外港がブエノスアイレスしか存在しなかったことを反映して、19世紀、20世紀を通して内陸部の開発は進まず、現在も極端なブエノスアイレス一極集中である。1980年代のアルフォンシン時代に、パタゴニアのリオ・ネグロ州州都ビエドマへの遷都計画もあったが、結局実行されないまま計画は凍結された。
- ブエノスアイレス (1180.2万人 1995年)
- コルドバ Córdoba(約130万)
- ロサリオ Rosario(約116万)
- サン・ミゲル・デ・トゥクマン(都心人口約47万)
- メンドーサ(都心人口約12万)
[編集] 都市と都市圏
2005年におけるアルゼンチンの14の大都市圏。
| 順位 | 市 | 州 | 人口 | 地域 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | ブエノスアイレス | 市域 + ブエノスアイレス州 の24の管区 | 11,453,725 | パンパ |
| 2 | コルドバ | コルドバ州 | 1,513,200 | パンパ |
| 3 | ロサリオ | サンタフェ州 | 1,295,100 | パンパ |
| 4 | ラ・プラタ | ブエノスアイレス州 | 857,800 | パンパ |
| 5 | サン・ミゲル・デ・トゥクマン | トゥクマン州 | 833,100 | 北西部 |
| 6 | マル・デル・プラタ | ブエノスアイレス州 | 699,600 | パンパ |
| 7 | サルタ | サルタ州 | 531,400 | 北西部 |
| 8 | サンタフェ | サンタフェ州 | 524,300 | パンパ |
| 9 | サン・フアン | サン・フアン州 | 456,400 | クージョ |
| 10 | レシステンシア | チャコ州 | 399,800 | グラン・チャコ |
| 11 | ネウケン | ネウケン州 | 391,600 | パタゴニア |
| 12 | サンティアゴ・デル・エステロ | サンティアゴ・デル・エステロ州 | 389,200 | グラン・チャコ |
| 13 | コリエンテス | コリエンテス州 | 332,400 | メソポタミア |
| 14 | バイア・ブランカ | ブエノスアイレス州 | 310,200 | パンパ |
[編集] 地理
詳細はアルゼンチンの地理を参照。
アルゼンチンの国土は、南北に3500km以上の長さに及ぶ、ブラジルについで南米で二番目に大きい国で、面積は全体で2,766,890km²になり、陸地のみでは2,736,690km²に、水域のみでは30,200 km²に及ぶ。 北は亜熱帯に属し、熱帯雨林が形成されている。西に、アンデス山脈、東にはパンパと呼ばれる大草原が広がる。パンパは国土の約20%を占める。ウルグアイ川とパラナ川に挟まれた地方は、メソポタミア地方でパンパと同じく草原地帯である。南緯40度付近に位置するコロラド川以南をパタゴニア地方と呼び、荒涼たる砂漠が広がっている。
湿潤パンパは年間降水量が750mm以上で、アルファルファ(マメ科・栄養があり、土地を豊かにする牧草)・とうもろこしなどを栽培し、牧牛をしている。半乾燥パンパは年間降水量が550mm以下で乾燥に強い牧羊をしている。移行地帯では小麦(年間降水量が550mm~750mmが丁度良い)の栽培をしている。
アルゼンチンで最も標高が高いのはメンドーサ州のアコンカグア山であり、これは米州と西半球全体で最も高い山でもある。反対に最も標高が低いのはサンタ・クルス州のカーボン湖であり、海抜マイナス105mは南アメリカ大陸全体でも最も低い。国土の中心はラ・パンパ州の南西である。
また、アルゼンチンは、中華人民共和国と、北部の一部は中華民国、南部の一部はモンゴル国やロシアの対蹠地でもある。
なお、アルゼンチンは1904年から南極大陸の領有権を主張している。また、イギリスが実効支配しているマルビーナス諸島の領有権も主張している。
[編集] 地理的な国土
アルゼンチンは伝統的に幾つかの地理的な区分に分けられる。
- パンパ
パンパは国土の約25%を占め、アルゼンチンの富の多くを生み出している。ブエノスアイレスの西と南に広がる草原は湿潤パンパと呼ばれ、ブエノスアイレス州とコルドバ州のほぼ全てと、サンタフェ州とラ・パンパ州の大部分を占める。なお、ラ・パンパ州の西部は乾燥パンパになっている。コルドバ州西部のコルドバ山脈はサン・ルイス州まで延び、パンパの中では最も重要な、特徴ある地域となっている。パンパとパタゴニアの境界線は、かつては
