サン・マルタン (西インド諸島)

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サン・マルタン
Collectivité de Saint-Martin
サン・マルタンの サン・マルタンの紋章
サン・マルタンの旗 サン・マルタンの紋章
サン・マルタンの位置
公用語 フランス語
行政所在地 マリゴ
大統領 フランソワ・オランド
知事 ドミニク・ラクロワ
準県議会議長 フランツ・R・ガンブス
面積
 -  総面積 54 km²
 -  水面積率 (%) -
人口
 -  推計(2006年) 35,263人
 -  人口密度 663/km²
GDP (PPP)
 -  合計
通貨 ユーロ (EUR)
時間帯 UTC-4 
 -  夏時間  UTC-3 
ISO 3166-1 MF / MAF
ccTLD .mf
国際電話番号 +590

サン・マルタンフランス語: Saint Martin)は、カリブ海リーワード諸島小アンティル諸島北部)にあるセント・マーチン島(フランス語名: サン・マルタン島)北部にあるフランス海外準県collectivité d'outre-mer, 略称: COM)である。

地理[編集]

サン・マルタン

位置・広がり[編集]

フランス海外準県サン・マルタンCollectivité de Saint-Martin)は、サン・マルタン島(セント・マーチン島)の北半分に位置する。この島の中央には国境線が引かれており、南半分がオランダ領(シント・マールテン)となっている。南半分の「オランダ領側」を英語でダッチ・サイド (Dutch Side)とも呼び、対して北半分をフレンチ・サイド(French Side)とも呼ぶ。

また、海外準県サン・マルタンの領域には、サン・マルタン島の北東3kmに浮かぶタンタマール島英語版(0.8km²)など周辺の小島も含む。

地勢[編集]

サン・マルタンの地形

サン・マルタンは山がちな地形であり、起伏に富んだ多くの丘と多くの入り江がある。また、砂州が発達し、多くの潟湖を擁している。

フレンチ・サイドの南部、島のほぼ中央にあるピク・パラディ(424m)[1]は島の最高峰である。

西部にはシンプソン・ベイ・ラグーン (Simpson Bay Lagoonが広がっている。

気候[編集]

海洋性熱帯気候で、北東貿易風が卓越している。気候は温暖で、年平均降水量は1500mm。7月から11月までハリケーン・シーズンである。

主要な地区[編集]

首府は、西部の港町マリゴに置かれている。住宅の多くは海沿いの低地に建てられており[1]、グランカーズ(Grand Case)、コロンビエ(Colombier)、クルドサック(Cul-de-Sac)、カルティエ・ドルレアン(Quartier d’Orléans)、レ・テール・バス(Le Terres Basses)などの地区がある。

マリゴ 
マリゴから見た丘陵 
海から見たサン・マルタン 

歴史[編集]

島の北部がフランス領サン・マルタンで南部がオランダ領シント・マールテン

「発見」と争奪[編集]

この島は、1493年コロンブスによって「発見」され、サン・マルティン島(スペイン語: Isla de San Martín)と命名されたが、スペインはこの島への植民を重要視しなかった。島に注目をしたのは、フランスとオランダであった。フランス人たちは、トリニダードバミューダの中間に拠点を欲していたのである。1630年にフランス人とオランダ人が相次いで島にやってきて、当初は海賊の隠れ場所として使われていた。

1633年、スペインがオランダから島を奪取し、入植者たちのほとんどを追放した (Capture of Saint Martin (1633)。スペインはオランダによる奪回の試みを退けているが、一方で拠点経営への関心を失い、三十年戦争の終結と共に島を放棄した。

オランダとの分割[編集]

国境モニュメントのひとつ

空白となった島に、オランダとフランスが再び植民に乗り出した。フランスはセントキッツ島から、オランダはシント・ユースタティウス島から、それぞれ植民者を島に送り込んだ。この過程で衝突も発生し、相手が容易に退かないことを知った双方は、全面戦争に突入することを避けるべく、1648年にコンコルディア条約 (Treaty of Concordiaに署名して島を二分した。もっとも、その後も領土紛争は絶えることはなく、1648年から1816年にかけて境界線の変更は16度も生じている。現在の境界線が確定したのは、1815年パリ条約である。

島にはアフリカから多くの奴隷が移入された。最初に島へ奴隷を連れてきたのはスペイン人たちであったが、砂糖プランテーション栽培が拡大すると、移入され労働に従事させられた奴隷の数は膨大なものとなった。1848年7月12日、フレンチ・サイドで奴隷制が廃止された。

20世紀以後[編集]

奴隷制度廃止後、プランテーション経営は衰退し、島の経済も後退した。1939年、セント・マーチン島(フランス・オランダ双方)は免税港を宣言した。

フレンチ・サイドが観光産業に注力を始めたのは1970年代からで、1950年代にすでに観光業を中心とした発展を見せたダッチ・サイドに遅れをとっている。フレンチ・サイドでは、1980年代にホテルの建設など大規模な観光開発が進められた。

分離前のグアドループ県

かつてサンマルタンは、フランスの海外県であるグアドループ県の管轄下にあり、ともに北部諸島(les Îles du Nord)と総称されていたサン・バルテルミー島とともに、サン・マルタン=サン・バルテルミー郡 (Arrondissement of Saint-Martin-Saint-Barthélemyを構成していた。サン・マルタン=サン・バルテルミー郡には3つのカントン(小郡)、2つのコミューンが置かれており、サン・マルタンには2小郡(サン・マルタン第1小郡 (fr:Canton de Saint-Martin-1とサン・マルタン第2小郡 (fr:Canton de Saint-Martin-2)と1つのコミューン「サン・マルタン」があった。

グアドループ県から離脱と、サン・バルテルミーとの分離を求める声が高まり、2003年の住民投票で76.17%が単独の海外準県(COM)となることを選択した。、離脱・分離が決定された。

2007年2月22日、サン・マルタンは単独の海外共同体(海外準県)として発足した。

政治[編集]

サン・マルタンCollectivité de Saint-Martin)は、フランスの海外準県である。

グアドループ県は欧州連合(EU)の「外部地域」という位置づけになっており、ここから離脱したサン・マルタンも「外部地域」としての地位に置かれている。法定通貨はユーロとなっている。

経済[編集]

観光産業と金融関連の経済が中心。

人口[編集]

約33102人の人口がいて、住民の大半はアフリカ系の黒人で、クレオールフランス人の白人もいる。公用語はフランス語でフランス語のクレオール語も話す。宗教はローマ・カトリックが大半。

交通[編集]

ダッチ・サイドとの間の往来は容易であり、パスポートも不要。

港湾[編集]

サン・マルタンの中心地マリゴにあるマリゴ港は天然の良港で、多くのが訪れる。また、島にある多くの入り江は、海洋リゾートやヨットハーバー(マリーナ)として整備されている。規模の大きなものとしては北部のアンセ・マルセル(Anse Marcel)、東部のオイスター・ポンド(Oyster pond)などが挙げられる。

マリゴとイギリスアンギラとの間にフェリーが就航しているほか、サバ島サン・バルテルミー島との間にも定期旅客航路が結ばれている[2]

空港[編集]

フレンチ・サイド北部のグランカーズ地区に所在する小規模な飛行場で、サン・バルテルミー島グアドループなどカリブ海地域のフランス領とを結ぶ路線が発着している。島のダッチ・サイドには規模の大きなプリンセス・ジュリアナ国際空港がある。

脚注[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯18度05分32秒 西経63度03分23秒 / 北緯18.0921度 西経63.0563度 / 18.0921; -63.0563