ウール=エ=ロワール県

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ウール=エ=ロワール県
Eure-et-Loir
Eure-et-Loirの紋章
ウール=エ=ロワール県の紋章
位置
Eure-et-Loirの位置
概要
県番号 28
地域圏 サントル
県庁所在地 シャルトル
郡庁所在地 シャトーダン
ドルー
ノジャン=ル=ロトルー
4
小郡 29
コミューン 403
知事 アルベリック・ド・モンゴルフィエ
国民運動連合
統計
人口
国内57位
  (2011年)
430,416人
人口密度 73人/km2
面積¹ 5,880 km2
¹ 「French Land Register data」(1平方キロ以上の湖沼、エスチュアリー、氷河などの水面積除く。

ウール=エ=ロワール県(Eure-et-Loir)は、フランスのサントル地域圏の県である。その名称はウール川ロワール川に由来する。

歴史[編集]

ウール=エ=ロワールと1790年以前の州 : オルレアネー、ラ・ペルシュ、イル=ド=フランス

フランス革命中の1790年3月4日、新設された県である。かつてのオルレアネーの一部(ボース)、メーヌ(ル・ペルシュ)、イル=ド=フランスの一部からなる。

中世に現在の県の領域を事実上支配していたのはシャルトルである。シャルトルはトウモロコシの市場が開かれるボースの豊かな文化のおかげで成長し、宗教的な評判はシャルル2世が876年に寄進した「聖母のヴェール」という聖遺物のおかげで高まった。百年戦争では、パリにもオルレアンにも近いためにいくどかの紛争の舞台となった。戦争を終わらせたブレティニーの和議の舞台となったのは、シャルトル近郊のブレティニー城である。

革命の初期、県はボースロン県(Beaucelon)になると考えられていた。ボースという地名はアンシャン・レジーム時代採用されなかったからである。名前を決めるのは本質的には政治的なもので、革命のイデオロギーと完全に一致することが求められ、地理的なものからではなかった。

ル・ペルシュは成長が遅れ、19世紀初頭にはカナダケベック州への移住を経験し、パリの富裕階級の中でその母性の資質のため乳母になる者の出身地として知られた。

ナポレオン3世が起こした1851年12月2日クーデターの後、ウール=エ=ロワールは大規模暴動に対処するため包囲下におかれた県の1つだった。100人弱が逮捕された。1870年の普仏戦争では県は厳しい状況におかれた。ロワニーの戦いがおき、シャトーダンプロイセンによって火を放たれたのである。

地理[編集]

県はパリ大都市圏の南西に伸び、いくつかの平野を含んでいる。

人口統計[編集]

ウール=エ=ロワール県はフランスの他県と同様、第二次世界大戦後の人口ブームを経験している。1946年から2007年までの人口成長率は、国内平均の57%より高い、63.66%だった。

人口の増減
1801年 1831年 1841年 1851年 1856年 1861年 1866年
257.793 278.820 286.368 294.892 291.074 290.455 290.753
1872年 1876年 1881年 1886年 1891年 1896年 1901年
282.622 283.075 280.097 283.719 284.683 280.469 275.433
1906年 1911年 1921年 1926年 1931年 1936年 1946年
273.823 272.255 251.255 255.213 254.790 252.690 258.110
1954年 1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年
261.035 277.546 302.251 335.151 362.813 396.073 407.665
2006年 2007年
434.238 422.410

参照元:SPLAF[1] et INSEE pour les années 2006[2] et 2007[3]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]