モゼル県

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モゼル県
Moselle
Moselleの紋章
モゼル県の紋章
位置
Moselleの位置
概要
県番号 57
地域圏 ロレーヌ
県庁所在地 メス
郡庁所在地 ブレ=モゼル
シャトー=サラン
フォルバック
サルブール
サルグミーヌ
ティオンヴィル(東西2郡)
9
小郡 51
コミューン 730
知事 パトリック・ヴァイタン
独立民主同盟
統計
人口
国内20位
  (2010年)
1,045,066人
人口密度 168人/km2
面積¹ 6,216 km2
¹ 「French Land Register data」(1平方キロ以上の湖沼、エスチュアリー、氷河などの水面積除く。

モゼル県Moselle)は、フランス北東部、ロレーヌ地域圏の県である。

地理[編集]

ムルト=エ=モゼル県バ=ラン県ドイツ及びルクセンブルク大公国と国境を接する。

歴史[編集]

1790年3月4日に新設された83県のうちの1つ。県はかつてのロレーヌ州北部と、メス司教領からなっていた。1815年のパリ条約で、国境調整が行われ、サールブリュック(現在はザールルイ)と周辺の町がモゼル県から取り除かれた。1793年にはブケノンとサールウェルデンを含むアルザス・ボシュ地方、そして1833年にはオーベルスタンバックがバ=ラン県に割譲された。

フランスと第六次対仏大同盟が調印した1814年のパリ条約で、モゼル県はプロイセンに対してトレ小郡、シールク・レ・バン小郡を割譲した[1]。1815年、ルラン小郡とサールブリュックがドイツ領となった。いくつかのコミューンや集落は1829年に再びフランス領となっている。

普仏戦争で敗戦国となったフランスは、フランクフルト講和条約によってドイツにムルト県とヴォージュ県の大部分を割譲した。モゼル県の最西端、現在のブリエ小郡相当する部分がフランスに残留し、新たなムルト=エ=モゼル県に編入された。ドイツ領になった部分は、ロレーヌにおけるドイツ語圏だけではなかった。ティオンヴィルブレ=モゼルサルグミーヌおよびサールブールは、ロレーヌにおけるフランス語圏であった。ドイツに編入されたアルザスとロレーヌは1つにまとめられライヒスラント・エルザス・ロートリンゲン( Reichsland Elsaß-Lothringen)という一地方となり、かつてのモゼル県に相当する部分はロートリンゲン郡(Bezirk Lothringen)となった。

第一次世界大戦が勃発すると、モゼル県はドイツ軍に組み込まれた。1914年から1918年の間、アルザス人とモゼル人計約18000人がフランス軍に入った。戦争終結までドイツ帝国のために戦った徴兵者の95%以上、約38万人がアルザス・ロレーヌ人であった。こうした徴兵の戦死者の墓は、ドイツ墓地管理委員会(fr)が管理している。このことが県の戦死者追悼についての特異性を示している。多くの場合、墓碑には『我々の戦死者へ』と刻まれ、伝統的に『フランスのために命を捧げた者』と刻まれるのとは異なる。

1919年のヴェルサイユ条約で、ロレーヌ地域圏の領土がフランスに返還されたが、その多くが元のフランスの県に戻ったのに対し、ロートリンゲン郡であった部分は新たにモゼル県として再編された。ブリエ郡のような元モゼル県地域はそのままムルト=エ=モゼル県に残された。戦間期のモゼル県は、戦争の涙、ナショナリズムに翻弄された被害で心に傷を負っていた。

モゼルの知識人たちは、フランスへのモゼル再統合について異なる反応を見せた。弁護士ロベール・シューマンは平和的で民主的な姿勢を見せ、いくらか親フランス・ナショナリズムに傾いていた。別の者は、親ドイツ・ナショナリズムに抵抗を見せ、同じように執念深く好戦的であった。アドリエンヌ・トマ[2]やポリー・マリア・ヘフラー、エルネスト・ムンゲネストのような民族的ドイツ人たちは、誠実な平和主義者だが素朴であり、文化的地方主義のアイデンティティの狭間で揺れ動いていた[3].。これらの動きは自立性が高かろうが低かろうが、その後ナチス・ドイツに広く悪用されてしまうことになった[4]。このアイデンティティの闘争は、多くの場合理想主義的な知識人たちが主導していた。彼らは欧州全体の中では非常に敏感であった。このことはアルザス=ロレーヌ全ての独自のアイデンティティの危機を反映したものだった[5]

モゼル県は、1939年9月3日に宣戦布告され、第二次世界大戦の影響を受けることになった。県面積のほぼ30%がマジノ線と対ドイツ国境の間になったのである[6]。県人口の45%に相当する約30万人が、9月のうちにフランス中部や西部へ避難した。彼らが向かったのはシャラント県、シャラント・アンフェリウール県(現在のシャラント=マリティーム県)、ヴィエンヌ県オート=ヴィエンヌ県であり、未成年者たちを受け入れたのはオート=ロワール県であった[7]。オベルドルフのような国境の村には、9月1日に避難命令が出されていた[8]。避難した30万人のうち約20万人は、大戦終結後に帰還した[9]

第二次世界大戦中、1940年6月22日に休戦したにもかかわらず、モゼルは7月になってナチス・ドイツに併合された。モゼルは併合されたアルザスと同じ運命を辿らなかったが、『西部辺境』を意味するガウ・ヴェストマルク(Gau Westmark、ザール、プファルツも含まれ、ザールブリュッケンが主都)に併合された。モゼルにおけるフランス語話者、または単なる親フランスは、大管区指導者ヨーゼフ・ビュルケルによってフランスに大量に追放された。同年8月に追放されたメス司教ジョゼフ・ジャン・ハンツがその例である。アルザス人よりもロレーヌ人の扱いは悪く、1942年に自らの運命を祝福したロレーヌ人たちは追放された。1942年、故郷にとどまるか戻ってきたロレーヌ人の若者たちは、ドイツ軍に志願するよう強く求められたのである。

人口統計[編集]

1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2007年
971 314 1 006 373 1 007 189 1 011 302 1 023 447 1 036 780 1 039 018

source:SPLAF[10]、2006年、2007はINSEE[11][12]

文化[編集]

行政上のモゼル県は、ロレーヌ地域圏を構成する2つの文化圏の上にまたがっているため、モゼル県全体は均質的な文化を持っていない。ロレーヌ・ティオワ語(fr)は、最近ではドイツ語またはドイツ語の方言とみなされており、ロレーヌ・フランス語はラテン語方言とみなされている。この2言語の言語境界(fr)は、ほぼ等しく県を二分している。西はメスを中心としたラテン語のモゼル県、東はアルザス、ドイツ、ルクセンブルクと接するドイツ語のモゼル県である。

モゼル県の言語境界 モゼル県の言語境界
モゼル県の言語境界

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Claude Philipppe de Viville - Dictionnaire du département de la Moselle : contenant une histoire abrégée
  2. ^ Auteur de Die Katrin wird Soldat, un roman paru en 1930, dont l’intrigue se situe à Metz, et qui sera brûlé par les nazis pour son « pacifisme ».
  3. ^ Jacques Lorraine, Les Allemands en France : la théorie du sang et la France, la zone interdite Est, la Bretagne, l’Alsace et la Lorraine, terre d’épreuve, éd. du Désert, 327 p. , Alger-Oran, 1943–1945.
  4. ^ Meißner Otto, Elsaß und Lothringen, Deutsches Land, Verlkagsanstalt Otto Stollberg, 324 p. , Berlin, 1941.
  5. ^ Jacques Lorraine, op. cit.
  6. ^ Bernard Le Marrec, Gérard Le Marrec, Les années noires, la Moselle annexée par Hitler, Éditions Serpenoises, 1990, 2-87692-062, p. 25
  7. ^ Le Marrec, op. cit., p. 27
  8. ^ Eugène Jager et Victor Starck, dans 39-45 dans nos villages, destin frontalier des communes de Château-Rouge, Heining, Oberdorff, Tromborn et Voelfing, 1997
  9. ^ Le Marrec, op. cit., p. 133
  10. ^ http://splaf.free.fr/
  11. ^ Recensement de la population au 1er janvier 2006 sur Insee
  12. ^ Évolution et structure de la population du département (de 1968 à 2007) sur Insee consulté le= 11 septembre 2010

外部リンク[編集]