エクアドル

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エクアドル共和国
República del Ecuador
エクアドルの国旗 エクアドルの国章
国旗 国章
国の標語 : Libertad y Orden
(スペイン語:自由と秩序)
国歌 : 万歳、おお祖国よ
エクアドルの位置
公用語 スペイン語
首都 キト
最大の都市 グアヤキル
政府
大統領 ラファエル・コレア
首相 なし
面積
総計 283,560km²71位
水面積率 2.4%
人口
総計(2008年 13,625,000人(65位
人口密度 47人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 525億[1]米ドル
GDPMER
合計(2008年 525億[1]ドル(66位
GDPPPP
合計(2008年 1,069億[1]ドル(70位
1人当り 7,685[1]ドル
独立
 - 日付
スペインから
1822年5月24日
通貨 米ドルUSD
時間帯 UTC (-5)(DST: なし)
ccTLD EC
国際電話番号 593

エクアドル共和国(エクアドルきょうわこく)、通称エクアドルは、南アメリカ西部に位置する共和制国家である。北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000km程離れたところにガラパゴス諸島(スペイン語ではコロン諸島:Archipiélago de Colón)を領有する。首都はキト。最大の都市はグアヤキル。なお、国名のエクアドルはスペイン語赤道を意味する。

目次

[編集] 国名

正式名称はスペイン語で República del Ecuador。通称 Ecuador。

公式の英語表記は Republic of Ecuador。通称 Ecuador。

日本語の表記はエクアドル共和国。通称エクアドル

国名はこの国を通る赤道(スペイン語でEcuador terrestre)に由来する。植民地時代には現在のエクアドルの領域はペルー副王領の一部であり、独立戦争中にシモン・ボリーバルの采配によってコロンビア共和国(大コロンビア)に併合された後は「南部地区」(Distrito del sur)と呼ばれていた。1830年にコロンビア共和国から分離独立する際に、キト共和国と名乗ることは他の諸都市の反発を招くことが予想されたため、キト直下を通るエクアドルという名前で諸地域の妥協がなされた。

[編集] 歴史

詳細は「エクアドルの歴史」を参照

[編集] 前インカ期

現在のエクアドル共和国に相当する地域には紀元前10000年頃に人類の生存が確認されており、その後様々古代文明が栄えた。紀元700年から16世紀半ばまでを統合期と呼び、身分制、首長制を基盤とし、祭祀センターを備えた社会構造が存在したことが明らかになっている。

[編集] インカ帝国時代

キトの皇帝アタワルパ

このような諸文化は最終的に、15世紀半ばにクスコを拠点に急速に拡大していたタワンティンスーユ(インカ帝国)の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキの遠征によって征服され、キトはクスコに次ぐ帝国第二の都市として栄えた。1527年に皇帝ワイナ・カパックがスペイン人によってパナマからもたらされたヨーロッパの疫病で病死すると、キトで育った皇帝アタワルパは皇位継承権などを巡ってクスコのワスカルと戦い、勝利するが、疲弊した帝国にまもなく上陸するスペイン人との戦いを余儀なくされた。

[編集] スペイン植民地時代

スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

1531年にスペイン出身のコンキスタドールの一群を率いてインカ帝国に上陸したフランシスコ・ピサロは、優れた火器や馬を用いてインカ人との戦いを有利に進め、1532年にアタワルパを捕虜にし、1533年にタワンティンスーユを滅ぼした。

スペイン人による征服後、現在のエクアドルに相当する地域はペルー副王領に編入され、リマの統治を受けることになった。1563年にはキトにアウディエンシアが設置された。1717年にサンタフェ・デ・ボゴタを中心にヌエバ・グラナダ副王領が設立されると、エクアドルはこの副王領に組み込まれたが、1722年には再びペルー副王領に組み込まれた。

征服と植民地化による疫病や、ミタ制による酷使により、インディオ人口は植民地時代に大きく減少し、労働力を補填するためにアフリカから黒人奴隷が連行された。その一方でスペイン系のクリオージョが社会の寡頭支配層となり、メスティーソ(混血者)や、故郷の土地を離れて流浪するインディオなどの境界的な階層も出現するようになった。また、住人のカトリック化も進んだ。

[編集] 独立戦争と保守支配

近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照

ボリーバルの最も優秀な部下だったアントニオ・ホセ・デ・スクレ元帥。スクレはキトをこよなく愛した

1789年に勃発したフランス革命以降のヨーロッパでの政変により半島戦争が勃発し、1808年にフランス皇帝ナポレオン1世が兄のジョゼフ・ボナパルトスペイン王ホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。

1809年8月10日にキトの革命評議会により、イスパノアメリカ初の自治運動が勃発した。この自治運動はペルー副王フェルナンド・アバスカルの差し向けた王党派軍により鎮圧されたものの、同様の運動がすぐにラパスカラカスブエノスアイレスサンティアゴ・デ・チレサンタフェ・デ・ボゴタなど、大陸的な規模で勃発した。

1810年代からコロンビア共和国リオ・デ・ラ・プラタ連合州(現在のアルゼンチン)が主体となって南米大陸各地の解放が進む中で、北のベネスエラからシモン・ボリーバルアントニオ・ホセ・デ・スクレが、南のリオ・デ・ラ・プラタ連合州からホセ・デ・サン=マルティンの率いる解放軍がエクアドルに迫ると、各都市は再び独立を宣言し、1822年のピチンチャの戦いでスクレ将軍がスペイン軍を破ると、最終的に現在のエクアドルとなっている諸地域の解放が確定した。

こうして解放された現在のエクアドルに相当する地域はシモン・ボリーバルの采配により、「南部地区」(Distrito del Sur)としてコロンビアの一部に組み込まれたが、コロンビア内での内乱や混乱によりベネスエラが独立を宣言すると、南部地区も独立を画策し、1830年5月13日にコロンビアからの独立を宣言した。しかし、初代大統領になる予定だったスクレ元帥は暗殺され、同年8月10日にフアン・ホセ・フローレスが初代大統領に就任した。ラテンアメリカ統合の夢に敗れた解放者 シモン・ボリーバルは、自らの行った政治的な行為が無為に終わったことを噛み締め、痛恨の内に死去した。

独立後しばらくはヌエバ・グラナダ共和国との戦争や、保守派と自由派との間での内戦など混乱が続いたが、1861年ガブリエル・ガルシア・モレノが政権を掌握すると、モレノは以降15年に渡る独裁政治を行った。モレノ時代にはカトリック教会を軸にした保守政治が進み、エクアドル共和国が「イエズスの聖心」に捧げられるなどの事件があったが、この時期に学校、軍隊、鉄道が整備された。また、インディオ共有地の保護などがなされた。1875年にモレノは暗殺された。

[編集] 自由主義革命

この頃からエクアドルはカカオを中心としたプランテーション経済により、世界経済に従属的な立場で組み込まれていったが、このことがコスタでのプランテーションの発達は自由主義を求めるグアヤキルの資本家層の権力の拡大をもたらした。

モレノの暗殺後、保守派と自由派による争いが続いたが、自由主義者のエロイ・アルファロが1895年に権力を掌握し、大統領に就任すると、以降自由主義的な政治が行われ、国家の世俗化が進んだ。アルファロは1912年に暗殺されたが、1925年までこの自由主義体制は継続した。

[編集] ポプリスモと軍政

1925年にシエラの勢力がクーデターを起こすと、政治的な権力の重心がグアヤキルからキトに移動した。しかし、政治の混乱は続き、さらに1929年の世界恐慌によりエクアドル経済が大打撃を受けると、大衆がエクアドル政治に出現してきた。1933年ポプリスモ政策に訴えたホセ・マリア・ベラスコ・イバラが労働者からの圧倒的な支持を得て大統領に就任した。ベラスコ・イバラは1935年に失脚したが、その後40年間に渡り、エクアドル政治に大きな足跡を残すことになる。

1941年にペルー軍がアマゾン地域に侵入すると、エクアドル軍はこの戦役に敗れ、アマゾン地域の20万~25万km²の領土を失うことになった。この戦争はこの後50年間に及びエクアドル・ペルーの両国関係を規定し、さらにはエクアドル人に国民的なアマゾンへの郷愁をもたらすことになった。

第二次世界大戦後、バナナブームにより一時的に経済的な発展が見られたものの、1960年頃から政治的に不安定な情勢が続き、ベラスコ・イバラや軍人が大統領になる時期が続いた。また、この頃から、失われたアマゾンへの郷愁により、エクアドルは「アマゾン国家」であるとする言説が見られるようになった。

この状況を打破するために、ギジェルモ・ロドリゲス・ララ将軍が決起し、軍事評議会による革命的国民主義政権が樹立された。ロドリゲス将軍は外国資本、特に開発が進められていたアマゾン地域の石油の国有化を通してエクアドル経済の自立的発展や、農地改革を行い、キューバ東側諸国との友好関係を築き、1973年には石油輸出国機構(OPEC)に加盟するなど自主外交が行われたが、こうした政策により自らの政治的な立場が危うくなる寡頭支配層と結んだ軍保守派が1976年にクーデターを起こすと、ロドリゲス将軍は失脚した。

新たに政権を握ったアルフレド・ポベダ・ブルバーノ海軍中将は保守化し、外資導入が再び進められた。また、1978年に新憲法草案が国民投票によって承認された。

[編集] 民政移管以降

1979年にキリスト教民主主義の人民勢力結集党からハイメ・ロルドス・アギレーラが当選し、軍事政権から民政移管したが、エクアドルの民主政治は前途多難だった。

1984年に大統領選挙でレオン・フェブレス・コルデーロが当選した。フェブレスは親米政権を推進した。1987年には大地震によって多数の犠牲者がを出し、また、石油パイプラインも破壊された。

1988年ロドリゴ・ボルハが大統領に就任した。

1992年シスト・デュラン・バジェンが大統領に就任した。バジェンはアマゾンの系争地(石油埋蔵地)を巡ってペルーアルベルト・フヒモリ政権と国境紛争を行った。また、1993年にはロドリゲス将軍によって1973年に加盟が行われた石油輸出国機構から脱退した。

1996年にレバノン系のアブダラ・ブカラムが大統領に就任した。

1998年に就任したハミル・マワ大統領は10月26日にブラジリア議定書でアマゾン地域を放棄することを認め、1942年以来続いたペルーとのアマゾン地域を巡る国境紛争はエクアドルの敗北という形で幕を閉じた。2000年1月5日、マ大統領は非常事態宣言を行い、1月9日にそれまでの通貨だったスクレからUSドルに通貨を変更するドル化政策発表した。同年9月にマワは失脚し、アルバロ・ノボアが大統領に就任した。

2003年には軍と先住民組織の支持により、ルシオ・グティエレスが大統領に就任したが、2005年に失脚した。

2006年11月の大統領選挙で、ポプリスモ的な政策に訴えたラファエル・コレアが国民から圧倒的な支持を得て勝利し、2007年に大統領に就任した。コレアは反米を旗印に自主外交を進め、ベネスエラチャベス政権をはじめとする世界の反米政権との友好的関係の構築や、石油出国機構への再加盟などに尽力した。

2008年3月3日コロンビアウリベ親米政権が3月1日コロンビア革命軍(FARC,反政府武装組織)征討作戦をエクアドル領内で行ったことに反発し、コロンビアに対し両国の外交関係を断絶することを通告し、公式発表した。

2008年9月28日には、大統領の連続再選容認や、経済格差是正を柱とした憲法改正案が賛成多数で承認され、公布された。2009年4月26日には大統領選挙および議会選挙を含む総選挙が行われ、コレア大統領が得票率50%以上を得て圧勝し、再選された。

[編集] 政治

詳細は「エクアドルの政治」を参照

大統領元首とする共和制国家であり、行政権は大統領に属し、大統領の任期は4年、今まで再選は禁止されていたが2008年の憲法改正で再選が可能となった。現行憲法は2008年憲法である。

立法権一院制の議会に属し、任期は4年、定数は100議席である。

司法権は最高裁判所に属する。

[編集] 国際関係

1942年のペルーとの戦争でアマゾン流域の広大な領土を併合されて以来、エクアドル・ペルー間には恒常的な緊張状態が続いていたが、1998年に和平合意が結ばれてからは、エクアドルがアマゾンの領有権主張を諦める形で両国の友好関係が再開した。

一方コロンビアとの関係は、プラン・コロンビアが開始されてから、コロンビア人の難民や反政府武装組織が国境を越えて流入し、エクアドル・コロンビア間の外交問題になっている。

アメリカ合衆国との関係も大きく、2004年には二国間自由貿易協定(FTA)の成立を目指していたが、これは2006年のコレア政権の成立によって阻止された。また、1999年のパナマ運河返還に伴って、パナマの米軍基地が太平洋岸の港湾都市マンタに移動し、マンタ空軍基地から出撃するアメリカ空軍がコロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っている。現在も多くのエクアドル人がアメリカ合衆国に出稼ぎに行っている。

EUとの関係も重要であり、スペインイタリアに多くのエクアドル人が出稼ぎに出ている。

近年、中華人民共和国との貿易関係が拡大している。

[編集] 地方行政区分

詳細は「エクアドルの行政区画」を参照

エクアドルの県
ガラパゴス諸島

22の(provincia,と訳されることもある)に分かれる。地方行政は中央集権体制がとられており、各県知事は大統領が任命する。"-" の右側は県都。

[編集] オリエンテ(アマゾン地域)

[編集] シエラ(アンデス地域)

[編集] コスタ(太平洋岸地域)

[編集] 島嶼

[編集] 地理

詳細は「エクアドルの地理」を参照

エクアドルの地図

エクアドルは赤道直下にあり、本土は標高によって三地域に分かれる。 中央のアンデス山脈が縦断している地域をシエラ(La Sierra)、太平洋岸の亜熱帯低地をコスタ(La Costa)、東部のアマゾン川上流熱帯雨林が広がる地域をオリエンテ(El Oriente)と呼ぶ。 また、太平洋上にガラパゴス諸島を領有している。

[編集]

国内中央のシエラをアンデス山脈が南北に貫き、アンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈、東部のオリエンタル山脈、及び両山脈の間に位置する10の主要盆地よりなる。国内最高峰はオクシデンタル山脈のチンボラソ山(6,267m)である。幾つかの火山が現在も活動している。

[編集] 気候

基本的に赤道直下の熱帯だが、シエラは標高が高く、またコスタも寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響により、過ごしやすい気候になっている。

[編集] 経済

詳細は「エクアドルの経済」を参照

アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国であり、南米共同体の加盟国でもある。

2000年からエクアドルは自国の通貨をスクレからUSドルに切り替えた。

  • GNP(国民総生産):188億USドル(2001)
  • 一人当たりGNP 2,325USドル(2004)

[編集] 農業

エクアドルは農業国だが、生産が輸出商品作物の栽培に偏っていること、農地の所有制度に問題が残ることから、必ずしも国民の生活・福祉を支えるものとはなっていない。

農地の地域分布は山地と海岸平野に二分される。降水量が少ないため農業に適さない山地で主食となる米やトウモロコシ、肥沃な海岸平野ではカカオ、コーヒー、サトウキビ、バナナなどの商品作物を栽培する。このため、輸出に占める農産物の割合が5割を超えているにも関わらず、食糧を輸入している。大土地所有制度の弊害は大きい。人口のわずか1%を占めるに過ぎない所有者が農地の4割を所有し、土地なし農民、一種の農奴として働く農民が少なくない。

主食となる作物は、(138万トン、以下2005年)、トウモロコシ(75万トン)、ばれいしょ(42万トン)、キャッサバ(12万トン)が主力。商品作物では、世界第4位のバナナ(588万トン、世界シェア8.1%)、同7位のカカオ(14万トン、3.6%)、コーヒー(10万トン、1.3%)。世界シェアは低いもののサトウキビの生産量は566万トンに達し、単一の作物としてはバナナに次ぐ。畜産業はに集中している。

また、エクアドル沖は好漁場であり、コスタではエビ、マングローブガニが、ガラパゴス沖ではマグロなどが水揚げされている。

[編集] 鉱業

鉱業は農業、漁業と並んでエクアドル経済を支える3本柱の一つである。埋蔵量が減少しているとはいえ、有機鉱物資源、特に石油は1920年代に開発されて以来エクアドルの諸産業となり、2003年時点で輸出額の39.3%を占める最大品目である。東部のオレリャナ州の油田が有力。エクアドル政府は石油が貴重な外貨獲得源であることを理解しており、火力発電を抑え、地形を生かした水力発電に投資している。水力の総発電量に占める比率は70.3%にもなる。

エクアドルの油田の問題点は、主要な油田がアンデス山脈の東側に位置しながら、輸出のためには山脈の西側の港湾まで輸送しなければならないことである。輸送にはパイプラインを用いているが、地震国でもあるため、いったん損傷が起こると輸出が停止してしまう。

有機鉱物資源の品目では、石油(2046万トン、2002年)に偏っており、天然ガス(6.8千兆ジュール)が次ぐ。石炭は採掘されていない。金属鉱物資源の種類は多く、亜鉛(100トン)、金(11トン)、銀(2トン)、銅(100トン)、(200トン)のほか、ビスマスも確認されている。ただし、鉱業として成立しているとは言い難い。その他の鉱物資源としては塩(9万トン)がある。

[編集] 観光

キト、クエンカの歴史的な町並みや、アマゾンでのエコツアーが多くの観光客を惹きつけているが、エクアドルの観光地として特筆されるのはやはり、多様な生態系で知られるガラパゴス諸島である。

[編集] 軍事

詳細は「エクアドルの軍事」を参照

徴兵制が敷かれており、エクアドル軍は兵員約50,000人を有している。

過去にペルーとの紛争でアマゾン流域の領土を併合されたことや、強権的な弾圧を行った軍事政権が少ないこと、主要な政治改革が主にクーデターによって政権を握った軍部の革新派将校によって進められたことから、国民の軍への信頼は強い。

なお、コロンビアとの国境付近はコロンビア革命軍(FARC)の活動地域であり、危険である。また、エクアドル政府は2005年のグティエレス政権時代からFARCに庇護を与えていたが、このことが2008年のコレア政権下で再び発覚し、コロンビアとの外交問題になった。

なお、太平洋岸の港湾都市マンタにはアメリカ空軍の基地(マンタ空軍基地)が存在し、コロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っている。

[編集] 国民

詳細は「エクアドルの国民」を参照

エクアドルは非常に多様性に富んだ国である。2007年の時点では、国内で最も多い民族集団は国民の67%を占める メスティーソであり、二番目に多いのは22%を占めるインディヘナとなり、白人が12%を、ムラートサンボを含んだアフリカ系エクアドル人が8%を占める。また、特にイタリアスペインアメリカ合衆国カナダ日本には出稼ぎエクアドル人のコミュニティがあり、2007年の時点で約250万人のエクアドル人が海外で暮らしていると推測されている。国民の多くはコスタやシエラに住み、オリエンテには国民の3-5%ほどしか居住していない。

[編集] 人口

1950年の調査で約327万人となり、1970年のセンサスでは8,884,768人、1983年年央推計では約1168万人になった。

[編集] 言語

公用語スペイン語のみであるが、インディヘナによりキチュア語シュアール語が話され、特にキチュア語は「統一キチュア語」が制定されて学校教育でも教えられている。また、オリエンテのアマゾン低地に住む先住民によって多様な言語が使用されている。

[編集] 宗教

カトリック教徒が国民の80%であるが、近年、先住民社会を中心にプロテスタントの数が増加しつつあり、社会問題になっている。他にはユダヤ教イスラーム教を信仰するものが少数存在する。ユダヤ人にはセファルディムが多い。

[編集] 教育

5歳から14歳までを対象に、1年間の就学前教育、6年間の初等教育、3年間の前期中等教育からなる10年間の義務教育制度が敷かれているが、エクアドルの教育水準は決して高いとはいえない。義務教育が終わると、3年間の後期中等教育(高校)があり、高校を卒業すると高等教育(大学)への道が開ける。2001年の成人識字率は91%である。[2]

主な高等教育機関としてはエクアドル中央大学(1586年)、グアヤキル大学(1867年)、クエンカ大学(1868年)などが挙げられる。

1980年代以降、先住民が教育文化省内に「異文化間二言語教育局」を設置し、スペイン語と先住民言語(主にキチュア語、シュアール語)による二言語教育が実施されている。

[編集] 文化

詳細は「エクアドルの文化」を参照

[編集] 食文化

地形の多様性に伴い、食文化も地域によって異なる。

コスタでは主にエビ貝類などを主食としている。中でも有名なのがセビッチェといわれる、冷たいエビや貝などのスープである。

シエラではユカを主食とし、などを飼いミルクを売ったり食べたりして生活している。海産物はめったに手に入らない。クイと呼ばれる天竺鼠の一種を食べる習慣がある。ペルーボリビアとは違ってエクアドルではコカ栽培は非合法である。

[編集] 音楽

エクアドルの音楽は、シエラの先住民系音楽、メスティーソ音楽、アフリカ系音楽に三大別される。また、ニューヨーク生まれのサルサや、コロンビア生まれのクンビアバジェナート、ベネズエラ経由でもたらされたメレンゲなども広く愛好されている。

[編集] 文学

ラテンアメリカ文学」も参照

エクアドルの文学は先住民の口承文学に伝統を持ち、スペイン人による征服以後も独自の発展を遂げた。

独立前後の作家としては、エウヘニオ・エスペホホセ・ホアキン・オルメドフアン・モンタルボなどが有名である。

近代小説はルイス・マルティネスの『海岸へ』(1904年)が出発点になったとされており、フェルナンド・チャベスによってエクアドルでもインディヘニスモ文学が始まると、ホルヘ・イカサの『ワシプンゴ』や、ウンベルト・マタの『塩』などのインディオを描いた小説が生まれた。

現代小説家としてはホルヘ・エンリケ・アドウムベラスコ・マッケンジーアリシア・ヤネス・コシーオグスタボ・アルフレド・ハコメエリエセル・カルデナスなどが有名である。

[編集] 世界遺産

エクアドル国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が2件ある。詳細は、エクアドルの世界遺産を参照。

[編集] 祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Año Nuevo
3月から4月 聖木曜日 Jueves Santo
3月から4月 聖金曜日 Viernes Santo
5月1日 メーデー Día del Trabajador
5月24日 ピチンチャ戦勝記念日 24 de mayo Batalla de Pichincha
7月24日 シモン・ボリーバル生誕記念日 Natalicio del Libertador Simón Bolívar
8月10日 独立記念日 Día de la Independencia
10月9日 グアヤキル独立記念日 Independencia de Guayaquil
10月12日 スペイン人の日 Dia de la Hispanidad (Conquista Española)
10月31日 国章の日 Dia del Escudo Nacional
11月2日 死者の日 Día de los Difuntos
11月3日 クエンカ独立記念日 Independencia de Cuenca  
12月6日 キト建設の日 Fundación Española de Quito (Conquista)
12月25日 クリスマス Navidad
12月31日 大晦日 Fin de Año

[編集] スポーツ

多くのラテンアメリカ諸国と同様に、エクアドルでもサッカーが大変盛んである。1957年にプロリーグが創設された。主なプロクラブとしては2008年のFIFAクラブワールドカップで準優勝に輝いたLDUキトエル・ナシオナルCSエメレクコパ・リベルタドーレスで2度の準優勝経験があるバルセロナSCなどが挙げられる。

サッカー以外のスポーツとしてはテニスや、サッカーボールを使った三人制のオリジナルスポーツ、エクアボレーなどが盛んである。

[編集] 脚註

  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ec.html

[編集] 参考文献

  • 新木秀和(編著) 『エクアドルを知るための60章』明石書店、2006年(ISBN 978-4-7503-2347-0)
  • 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社、1985年
  • 増田義郎(編)『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史II』山川出版社、2000年 (ISBN 4-634-41560-7
  • 下中彌三郎(編)『世界文化地理体系24 ラテンアメリカ』平凡社、1954年
  • 福井英一郎(編)『世界地理15 ラテンアメリカII』朝倉書店、1978年 (ISBN 4-254-16545-5 C3325)
  • P.E.ジェームズ(著)、山本正三、菅野峰明(訳)『ラテンアメリカII』二宮書店、1979年
  • エドゥアルド・ガレアーノ(著)、大久保 光夫(訳)『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』新評論、1986年
  • 野沢敬(編)『朝日百科 世界の地理12 ラテンアメリカ』朝日新聞社、1986年(ISBN 4-02-380006-6 C6325)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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