ボリビア

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ボリビア多民族国
Estado Plurinacional de Bolivia(スペイン語)
Bulibiya Suyu(ケチュア語)
Buliwiya Mama Llaqta(アイマラ語)
ボリビアの国旗 ボリビアの国章
国旗 国章
国の標語:La unión es la fuerza!
スペイン語: 統一は力なり)
国歌ボリビアの国歌
ボリビアの位置
公用語 スペイン語ケチュア語アイマラ語グアラニー語
首都 スクレ(憲法上)¹
ラパス(事実上)
最大の都市 サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ
政府
大統領 エボ・モラレス
首相 なし
面積
総計 1,098,580km227位
水面積率 1.3%
人口
総計(2008年 9,863,000人(86位
人口密度 8人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 1,265億[1]ボリビアーノ (Bs)
GDP (MER)
合計(2008年 174億[1]ドル(101位
GDP (PPP)
合計(2008年 434億[1]ドル(103位
1人あたり 4,330[1]ドル
独立 スペインより
1825年8月6日
通貨 ボリビアーノ (Bs) (BOB)
時間帯 UTC -4(DST:なし)
ISO 3166-1 BO / BOL
ccTLD .bo
国際電話番号 591
註1 : スクレは、憲法上の首都であり、司法府(最高裁判所)の所在地。ラパスは、立法府・行政府の所在地。

ボリビア多民族国(ボリビアたみんぞくこく)、通称ボリビアは、南アメリカ共和制国家。国の面積はアメリカ大陸では8番目に、世界的には27番目に大きい国である。かつてはより広大な国土面積を有し太平洋沿岸部にも領土があったが、周辺国との戦争に負け続けたために現在では最大時の半分ほどになってしまった。ブラジルアルゼンチン、南東をパラグアイ、南西をチリ、北西をペルーに囲まれた内陸国である。憲法上の首都スクレだが、議会をはじめとした政府主要機関はラパスにある。

かつて「黄金の玉座に座る乞食」と形容されたように豊かな天然資源を持つにも関わらず貧しい状態が続いており、現在もラテンアメリカ最貧国の一つである。

国名[編集]

公用語による正式名称は、スペイン語で Estado Plurinacional de Bolivia[2]。公式のケチュア語表記は Bulibiya Suyu, 公式のアイマラ語表記は Buliwya である。通称は Bolivia

2009年3月18日に、それまでのRepública de Bolivia(ボリビア共和国)から現国名へ変更した。[3]

公式の英語表記は Plurinational State of Bolivia。通称は Bolivia となっている。

日本語の表記は、ボリビア多民族国[4]。通称は、ボリビア。現地公用語であるスペイン語の発音では b と v の区別が基本的には存在しないが、英語読みでカタカナ表記を使ってボリヴィアとも表記される。また公式ではないが、漢字表記としては「暮利比亜」「保里備屋」「玻里非」「波力斐」などが使われる。漢字一文字の略称では「暮国」が使われることが多い。

独立前はアルト・ペルー(上ペルー、高地ペルー)と呼ばれていたが、独立に際してラテンアメリカの解放者として知られるシモン・ボリバル将軍と、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍に解放されたことを称えて、国名をボリビア、首都名をスクレ(旧チャルカス)と定めた。

歴史[編集]

ティワナク文明の遺産
2,000年以上昔のインカマチャイの壁画

先コロンブス期の発展[編集]

スペイン植民地時代[編集]

解放戦争から独立まで[編集]

初代ボリビア大統領にして「解放者」、シモン・ボリバル

独立から混沌へ[編集]

第2代大統領にして「アヤクーチョ大元帥」
アントニオ・ホセ・デ・スクレ
  • 1826年8月 アルト・ペルーはボリーバルの名に因んで、「ボリビア」という国名になり正式に独立した。11月19日、ボリーバル憲法を公布する。同時に首都も憲法上はチャルカスが改名されてスクレとなった。12月9日、スクレが終身大統領に就任する。自由主義的な改革がなされるが、保守派の恨みを買い、ベネズエラ人の支配を嫌う声も囁かれた。
  • 1828年 スクレ大統領が侵攻してきたペルーのアグスティン・ガマーラ英語版を打ち破るが、すぐにガマーラと結んだ国内保守派の陰謀により大統領を辞任し、キートヘ亡命する。(実はサンタ・クルスも関わっていたといわれている。)
  • 1829年 ボリバルの推薦により、5月25日、サンタ・クルスが大統領に就任する。サンタ・クルスはインカ帝国の後継者を自称し、大学、港湾、鉱山など国内の開発を続け、軍備を強化した。保護貿易を導入して国内の綿産業を保護した。
  • 1836年 大統領のアンドレス・デ・サンタ・クルスがアグスティン・ガマーラを破ってペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合を打ち立てる。連合は三州に分けられ、首都は南ペルー共和国タクナに置かれた。
  • 1839年 連合に脅威を抱いたチリ(既に死去していたディエゴ・ポルターレスの影響が大きい)とアルゼンチンフアン・マヌエル・デ・ロサス軍の攻撃により連合は崩壊する。これによりサンタ・クルスが追放されるとボリビアは無政府状態に陥った。
  • 1841年 国内の混乱の中、サンタ・クルス派のホセ・バジビアンスペイン語版がペルーから侵攻してきたアグスティン・ガマーラをインガビの戦い英語版で打ち破り、ガマーラは戦死した。以降、ペルーとボリビアの合邦を望む動きはなくなった。
  • 1847年 メスティーソの軍人マヌエル・イジドロ・ベルススペイン語版の反乱によりバジビアンが亡命する。
  • 1848年 ベルスが大統領になる。ベルスは保護政策を採り、ポプリスモ的な政策で大衆の支持を得る。
  • 1857年 ホセ・マリア・リナレス文民政権成立。ボリビア初の文民政権として自由主義政策を採り、インディオを弾圧した。このころ太平洋沿岸部のリトラル県(アントファガスタ)で最初の硝石鉱山が発見された。
  • 1861年 クーデターによりリナレスが追放される。
  • 1864年 それまで影で権力を握っていたベルスを暗殺したメスティーソの軍人、マリアーノ・メルガレホが政権につき、国内の混乱が頂点に達する。「野蛮カウディージョ」と呼ばれたその手法により国内すべての階層が大打撃を受け、特にインディオは大弾圧され、共有地は解体されて奪われた。その後メルガレホはアントファガスタの硝石の採掘権をチリに売却した。
  • 1867年 アヤクーチョ条約スペイン語版の締結でアクレ県がボリビアに帰属。
  • 1871年 メルガレホ大統領が失脚する。
  • 1874年 バジビアン政権の永代所有禁止法により、インディオの共有地は壊滅的な被害を受け、以降インディオは鉱山やプランテーションの日雇い労働者となっていった。
  • 1879年 アントファガスタをチリに占領され、さらにペルーと硝石問題に関して秘密同盟を組んでいたことが仇となり、チリがペルー・ボリビア両国へ宣戦布告して硝石戦争(太平洋戦争(1879年-1884年))となる。
  • 1883年 ペルーとチリの間での、硝石戦争(太平洋戦争(1879年-1884年))の休戦。チリに対する事実上の敗北が決まる。

内陸国化と相次ぐ敗戦[編集]

ボリビアの領域の変遷。戦争により広大な領土が近隣諸国に併合された
  • 1884年 チリとのバルパライソ条約硝石の鉱山が豊富な太平洋岸の領土(リトラル県)を割譲し、海への出口を持たない内陸国になる。保守党のグレゴリオ・パチェコが大統領になり、以降鉱山主の支配が1899年まで続く。
  • 1888年 この頃から北部のアクレ県にブラジル人が侵入してきた。
  • 1899年 アクレ県に入植したブラジル人ゴム労働者の反乱によりブラジルと紛争が発生し(アクレ紛争スペイン語版)、「アクレ共和国」(1899年 - 1903年)として半独立状態となる。同時にこの年初の日本人移民が渡り、リベラルタトリニダのゴム農園に就労した。錫鉱山主を基盤にするラパスの自由党が反乱を起こし、スクレ・ポトシの銀鉱山主を基盤にしていた保守党支配が終わった(連邦革命)。以降自由党のホセ・パンドが大統領になり、以降自由党の支配が1920年まで続く。
  • 1900年 自由党派がラパスを拠点としていたため、議会、政府がスクレからラパスに移転し、ラパスが事実上の首都になる。
  • 1903年 アクレ紛争に結果的に敗北し、ゴムの一大生産地だったアクレ県をブラジルに割譲。
  • 1904年 チリと正式に和平条約を結び、リトラル県の割譲を承認した。
  • 1910年 の生産量が1890年代の20倍に達する(「錫の世紀」)。
  • 1914年 コチャバンバの農園主らが基盤となって共和党が結成された。
  • 1920年 クーデターにより自由党支配が終わる。
  • 1921年 共和党のバウティスタ・サアベドラが大統領になる。在任中にスタンダード・オイル社により東部低地地帯の油田開発が進む。
  • 1926年 共和党のエルナンド・シレスが大統領になる。
  • 1929年 大恐慌により大打撃を受け、社会不安が起こる。
  • 1931年 共和党右派のダニエル・サラマンカが大統領になる。7月、パラグアイと国交断絶。
  • 1932年 6月にサラマンカ政権、植民地時代からの領土問題を持ち出し、グランチャコ地方とパラグアイ川の通行権を求めてパラグアイに宣戦布告(チャコ戦争)。
  • 1935年 ボリビア領の東部油田地帯に侵攻したパラグアイと休戦。ボリビアの戦死者は6万5000人。ボリビア、パラグアイ共に財政は崩壊状態になった。

チャコ戦争後の不安定化[編集]

ボリビア革命とその挫折[編集]

ゲバラの戦死から現在まで[編集]

政治[編集]

ラパスの国民議会宮殿(左)と大統領府パラシオ・ケマード(右)
スクレの最高裁判所
2005年に就任した現大統領エボ・モラレス社会主義への運動)。ボリビア史上初の先住民出身の大統領である

大統領元首とする共和制国家であり、国家元首である大統領は行政府の長として実権を有する。任期5年。選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や辞任により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、副大統領が閣議を主宰する。

建国以来政治的に非常に不安定なため、クーデターが起こりやすい政治文化があり、過去100回以上のクーデターが起きている。

議会は両院制。上院は全36議席で、各県から4名ずつ比例代表制選挙により選出される。代議院(下院)は、全130議席で、そのうち77議席は小選挙区から選出、53議席は比例代表制で選出されるが、全体の議席配分は比例代表制によって決まる(小選挙区比例代表併用制。ただし 超過議席英語版が出ないようになっている[7]ため、連用制に近い)。両院とも議員の任期は5年で、同日選挙である。前回投票は、2009年12月9日に行われ、政党別の獲得議席数は、以下の通り。

  • 上院(36)
  • 代議院(下院)(130)
    • 社会主義運動 (MAS) 88[8]
    • ボリビアのための進歩計画ー国民結集(PPB-CN)37
    • 民族一体戦線 (FUN) 3
    • 社会同盟(AS)2

ボリビアの歴代大統領の一覧は、ボリビアの大統領を参照。

2006年7月2日、制憲議会選挙が行われた。定数は255議席。与党・社会主義運動(MAS)が137議席を確保した。第2党は、野党中道右派・民主社会勢力(PODEMOS)で60議席を占めた。同時に実施された地方自治権の拡充の賛否を問う国民投票では、与党の主張が半数を占める。新憲法草案は、1年以内に3分の2以上の賛成で提案され、国民投票に付される。

ボリビアの181周年独立記念日の2006年8月6日に、制憲議会の開会式が行われた。同議会発足を祝って、36の先住民による約3万人のパレードも実施された。

就任2年目になるエボ・モラレス大統領は、2007年1月22日、国会で年次報告を行い、新憲法を制定する重要性を改めて強調した。新憲法には、を含む資源主権や先住民の権利確立、教育行政に対する国の責任などが盛り込まれる予定である。制憲議会は2006年8月、発足したが、議事運営方法、地方自治、首都制定等を巡って与野党や地方間の対立が続いている。与党・社会主義運動党が定数255のうち142議席を占めている。

2009年1月25日、先住民の権利拡大や大統領の再選を可能とする新憲法案が60%あまりの賛成を得て、承認された。 2009年12月6日、ボリビア大統領選挙が行われ、現職のモラレスが6割を超える得票[9]で勝利した。

軍事[編集]

陸軍空軍海軍を保有しており、12ヶ月の徴兵制度が敷かれている。

ボリビアは領土に海岸線をもたないが、海軍は大西洋やチチカカ湖で演習を行う他、河川が国境となっている北部・東部のブラジルやパラグアイでの国境付近で国境警備の任務に就いている。海に面していないのに海軍をもっている国には、他にパラグアイやオーストリアなどがある。

地方行政区画[編集]

ボリビアの県の一覧

ボリビアには、9つの県(departomentos)が設けられている。カッコ内は、県庁所在地。

主要都市[編集]

主要な都市はスクレ(憲法上の首都)、ラパス(事実上の首都)、サンタ・クルス・デ・ラ・シエラエル・アルトコチャバンバがある。


地理[編集]

ボリビアの高山
Vista de La Cordillera Central desde la Isla del Sol
山名 標高(m)
ネバダ・サハマ 6.542
イリャンプ 6.421
イリマニ 6.462
アンコウマ 6.380
チェアロコ 6.127
ポメラペ 6.240
チャチャコマニ 6.074
パリナコタ 6.362
ワイナ・ポトシ 6.088
アコタンゴ 6.052
アカマラチ 6.046
チャウピ・オルコ 6.040
ウツルンク 6.008

太平洋戦争 (1879年-1884年)による敗戦以来内陸国となったボリビアの地理は大きく3つに分けられる。

一つはチチカカ湖から国土を南に貫くアンデス山脈地域で国土面積の約29%に及び、標高3000m以上の年中寒冷な気候を持つ。ラパス市・オルロ市にかけて標高4000mくらいの広大な平らな土地が広がり、この地域はアルティプラーノと呼ばれる。アンデス地域にはオクシデンタル山脈スペイン語版英語版オリエンタル山脈スペイン語版英語版の二つの山脈がある。

国土の北東側から東側は国土の約62%を占めるアマゾンの熱帯地域であり、リャノ (llano)またはオリエンテ (oriente)と呼ばれる。リャノはさらに、熱帯雨林(いわゆるジャングル)が広がる北側と、乾燥しているグランチャコ地方(パラグアイ国境近く)とに分かれる。サンタクルス県の東部にはチキタノ山塊が存在する。

国土の約9%を占めるコチャバンバ県やラパスユンガス地方などの、アンデス地帯とアマゾン地帯の中間に位置する場所はバジェ (valle) 地域と呼ばれ、温暖で果樹栽培などに適した気候である。この地域ではインディヘナ農民によるコカの栽培も盛んである。 ユンガスは標高3300mから2500mの高地ユンガス、2500mから1500mの中央ユンガス、1500mから600mの低地ユンガスに分類される。 このユンガスにある保養地コロイコとラパス市を結ぶ道路は、毎年多くの死者を出し、「死の道路」と呼ばれていた。

ボリビアはかつて太平洋に面する海岸線も領土に保有していたが、1884年に太平洋戦争で敗れ、 バルパライソ条約と、1904年の正式な講和によりそれを全て失った。ボリビアでは3月23日を「海の日 (día del mar)」として「海を取り戻そうキャンペーン」をおこなっている。

ボリビアの海運での輸出入貨物はチリの港で陸揚げされている。チリの港にはボリビアが管理する保税上屋(TRANSIT SHED)と呼ばれるタックス・ヘイヴンがあり、ここからチリの通関を行わないままボリビア国境へ運ばれ、ここで初めてボリビアの税関が通関を行う。

経済[編集]

観光地にもなっているグラシアール湖
ユンガス地方の山道
絶景で知られるウユニ塩原

アンデス共同体南米諸国連合に加盟し、メルコスールの準加盟国でもある。

国家統計局の発表によるボリビアの経済指標は以下の通り。(いずれも2003年の値)

国内総生産(GDP) 7,856 百万ドル
同国民一人当たり 870 ドル
経済成長率(前年比) 2.45%
公的為替レート(対ドル) 7.67 Bs/$us
輸出額 1,650.7 百万ドル
輸入額 1,684.6 百万ドル
国内所得 8,085.4 百万ボリビアーノス
  • スズ、鉛などの鉱山物資を産出する。
  • 2006年1月、天然ガス事業を国有化する発表があった。

鉱業[編集]

植民地時代から19世紀末までは金と銀が、20世紀以降はがボリビア経済の主軸であった。 石油の輸出も盛んであり、1930年代に東部で油田が発見されたことがチャコ戦争の一因ともなった。 2001年に世界最大規模の天然ガス田が発見され、ボリビア経済再生の頼み綱となっている。

南部のウユニ塩原には推定540万トンのリチウム(世界埋蔵量の半分以上)が埋蔵されていると見積もられているが、ボリビア政府にはそれを抽出する技術も資本も持ち合わせていない、という事情がある。

農業[編集]

1952年のボリビア革命以来、サンタクルスを中心とした東部の低地地帯で開墾、農業開発が進み、近年大豆サトウキビ綿花コーヒーバナナなどの大規模な輸出用農業が盛んになっており、北部の熱帯地域ではカカオなどが産出する。一方で、西部のアルティプラーノではインカ帝国以来の零細小農業やコカ栽培などが行われている。

農地改革[編集]

  • 1958年、第一次農地改革。2006年現在では分配された土地の95%、3200万ヘクタールが企業の手に渡っている。
  • 第二次農地改革、2006年5月16日、ガルシア副大統領より「第二次農地改革」計画案が発表された。「生産的でない」土地及び国有地を農民や先住民に分配するというもの。

観光[編集]

主な観光地としてはティワナクの遺跡や、チチカカ湖ウユニ塩原ポトシの鉱山、チェ・ゲバラの戦死したイゲラなどがあり、南米諸国の中でも特に物価が低いため、ヨーロッパや、カナダアメリカ合衆国日本イスラエルといった先進国に加えて、韓国や南米諸国のアルゼンチン、ブラジル、チリなどからも多くの観光客がボリビアを訪れている。アンデス山脈の高山が各国から登山家を引き寄せている。

国民[編集]

民族衣装を着るラパスの少女
ボリビア人の年齢ピラミッド
1961年から 2003年までのボリビアの人口増のグラフ

国家統計局 (INE : Instituto Nacional de Estadistica) が発表している2001年国勢調査(Censo Nacional)の結果によると、人口は8,274,325人、うち女性4,150,475 人、男性4,123,850人。都市部の人口は5,165,230人、地方の人口は3,109,095人。人口密度は7.56人/Km2

ユニセフの発表によると、5歳以下で死亡する子供の比率は77/1,000。1歳以下で死亡する子供の比率は60/1,000。 平均寿命は女性64歳、男性61歳、合計63歳。

民族・出自[編集]

ケチュア人が約30%、メスティーソ(混血)が約30%、アイマラ人が約25%、ヨーロッパ系が約15%、アフリカ系が約0.5%であると見られるが、正式な統計は取られていない。

先住民としては南東部のチャコ地方にはグアラニー族も若干居住しており、数を示すとケチュア人が250万人、アイマラ人が200万人、チキタノ人が18万人、グアラニー人が12万5000人程になる。

メスティーソのうち、伝統的な衣装を身に付けている女性はチョリータと呼ばれる。彼女らの格好はボリビアを特徴づける習俗となっている。

クリオーリョスペイン系)の出身地としては植民地時代からのスペイン人が最も多いが、ドイツアメリカ合衆国イタリアクロアチアロシアポーランドなどにルーツを持つ者やバスク民族系なども存在している。

全人口の0.5%程であるアフリカ系は元々ブラジルに奴隷としてやってきた人々が移住してきたのが始まりであり、ラパス県の南北ユンガスに最も多い。日本系は7,000人ほど存在する。ペルーへの日系移民がボリビアへ来たのが始まりといわれている。1900年代日本人移住者が当時起きていたアマゾンのゴム景気に引き寄せられ、ゴム労働者として北部アマゾン地域のリベラルタトリニダに移住した。1954年からは主に沖縄県九州からの移住者がサンタ・クルス県に移住し、オキナワ移住区サンフアン・デ・ヤパカニ移住区を開拓した。

言語[編集]

言語はスペイン語ケチュア語アイマラ語グアラニー語が公用語である。田舎ではケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が用いられているが、スペイン語を全く解さない人は近年少なくなってきている。都市部ではスペイン語以外の言葉を話せない人の方が多い。

宗教[編集]

信仰の自由を認めたうえでローマ・カトリックを国教に定めている。国民の95%がローマ・カトリックを信仰しているが、近年プロテスタント福音派が勢力を増している。東部にはメノニータも入植している。

社会福祉[編集]

年金[編集]

2008年2月1日、昨年の11月に成立した新年金法が実施され、無年金者への「尊厳ある年金」の支給が始まった。この政策は、資源主権の確立を通じて様々な社会政策を実施しているベネズエラや無年金救済制度をつくったアルゼンチンなどの経験に学んだものである。財政的裏付けは、天然ガス国有化による国家収入の増大である。60歳以上の無年金者は年2,400ボリビアーノス(約35,500円、最低賃金の4.6か月分)、何らかの国の年金を既に受けている人は1,800ボリビアーノスが支給される。約70万人が受給する見通しである。

文化[編集]

伝統的なコカ茶。高地で生きるボリビア人にとってコカは必需品である

プレ・インカ期やインカ帝国の文明圏ではケチュアがアイマラを支配する形で一体化は進み、スペイン統治下のペルー副王領リオ・デ・ラ・プラタ副王領の勢力圏などでもアルト・ペルーと呼ばれ、ペルーとボリビアはほぼひとまとまりの地域として扱われてきたため、現在でも両国は文化的に近い関係にある。

例えば、アンデス地方を特徴づける文化として世界的に有名なのはフォルクローレであるが、その曲調、使用する楽器などはボリビアとペルーでほぼ同じであり、これはアルゼンチン北西部とも共通する。スペイン統治時代に広まった伝統的な衣装を着続けるチョリータと呼ばれる女性たちも、両国に共通する特徴的な習俗である。

アンデス地域とアマゾン地域はその気候の大きな違いや町の起こりの経緯の違いにより、互いに文化的な差異を感じているようである。アンデス地方の町の多くはインカ帝国時代の集落がペルー副王領時代に町として興されたものであるのに対し、アマゾン地域の町は植民地時代にはパラグアイ方面から開拓されていったものが多いが、スペイン当局にはほとんど手をつけられず、グランチャコ地方の領有問題なども放置されていた。東部の主要都市サンタクルスが開発されたのも第二次世界大戦前後からである。 俗語では、アンデス地域またはそこに住む人々はコージャと呼ばれ、アマゾン地域またはそこに住む人々はカンバと呼ばれる。

食文化[編集]

食文化としては、パンジャガイモトウモロコシを主食とし、副食として主に牛肉鶏肉を食べる。豚肉は高級な食材とされる。クイと呼ばれる天竺鼠の一種も食用としている。暖かい地方ではユカイモ(キャッサバ)やパパイアマンゴーなども食べる。内陸国のため、魚介類ではチチカカ湖のトゥルーチャ(の一種)やペヘレイといった川魚が食べられる。海産物は主にチリなどから輸入される。

朝には道ばたでパンを売る姿がよく見られ、高地ではサルテーニャが、低地ではクニャペがよく売られている。

第二次世界大戦前後にドイツなどから逃れてきた人たち(戦前はユダヤ人、戦後はナチスの残党)がビールを広めた結果、ラパスでは「パセーニャ (Paceña)」、オルロでは「ウァリ (Huari)」、コチャバンバでは「タキーニャ (Taquiña)」、サンタクルスでは「ドゥカル (Ducal)」など、それぞれの都市を代表するビールの銘柄がある。

ビール以外の酒類としては、スペイン侵略以前から飲まれているチチャという発酵酒や、ブドウを蒸留して作ったシンガニや、中米から輸入したロン (Ron)(ラム酒)などが飲まれる。 ボリビア人のチチャにかける情熱は強く、チチャを侮辱したイギリスの公使が、暴君メルガレホによりロバの背中に裸にしてくくりつけられ、スクレの市中を引き回しにされた事件がある。

また、アルゼンチンに近いタリハはボリビア屈指のワインの産地であり、ワインも好まれている。

文学[編集]

ボリビア文学はインカ帝国時代の先住民の口承文学に根を持ち、植民地期にもバルトロメ・アルサンス、パソス・カンキ、フアン・ワルパリマチなどの作家がいた。19世紀の独立後、ロマン主義の時代にはマリア・ホセファ・ムヒア、リカルド・ホセ・ブスタマンテ、アデラ・サムディオなどがいる。20世紀初めになるとアルシデス・アルゲダスの『ワタ・ワラ』や、『青銅の種族』により、インディオの困窮や教会の腐敗を告発したインディヘニスモ文学が始められた。この頃の作家にはオスカル・セムートやガブリエル・レネ・モレーノなどがいる。

現在活躍する作家としては、エドムンド・パス・ソルダン日系ボリビア人ペドロ・シモセが特に有名である。

音楽[編集]

ボリビアの音楽は土着の音楽が発達したアウトクトナ音楽と、ヨーロッパから持ち込まれた音楽を基盤に都市で発達クリオージャ音楽に大きく分けられるが、どちらもフォルクローレと呼ばれる。

ボリビア全体がフォルクローレの里と呼ばれるが、特にオルロポトシが有名である。オルロでは年に一度、ユネスコ無形文化遺産にも登録されているカルナバルカーニバル)が行われるが、これはクスコリオデジャネイロと並んで南米三大祭りの一つといわれる。主なリズムとしてはワイニョクエッカ(クエッカ・ボリビアーナ)、バイレシートなど。『我が祖国ボリビア』というクエッカの曲は第2国歌と呼ばれている。 ペルーやチリなど周辺国のフォルクローレにも使われるチャランゴはボリビア起源の楽器である。

ポトシやその近くのチュキサカの田舎町などには、スペイン侵略以前の習俗を色濃く残しているものと思われる、特異な歌や踊りをいまでも見ることができる。ノルテ・ポトシのプトゥクンという歌や、タラブコの祭りなどがその例である。

ポピュラー音楽の世界ではクリオージャ音楽とアウトクナ音楽は相互に影響し合い、従来のフォルクローレとロックジャズのクロスオーバーも盛んである。コロンビア生まれのクンビアも広く聴かれている。

映画[編集]

ボリビアにおいて初めて長編映画『ワラ・ワラ』を撮影したのはホセ・マリア・ベラスコ・マイダーナであり、1930年のことだった。その後1953年にボリビア映画協会が設立され、ホルヘ・ルイスらが活躍した。

1966年にホルヘ・サンヒネス(es:Jorge Sanjinés)を中心にウカマウ集団が結成され、日本でも現代企画室太田昌国の協力により『地下の民』(1986)などが公開された。

世界遺産[編集]

ボリビア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件ある。詳細は、ボリビアの世界遺産を参照。

無形文化遺産[編集]

ボリビア国内の無形文化遺産

祝祭日[編集]

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Año Nuevo -
移動祝日 謝肉祭(カーニバル) Carnaval 2005年は2月7日-8日
移動祝日 聖金曜日 Viernes Santo 2005年は3月25日
5月1日 労働者の日(メーデー Día del Trabajo -
移動祝日 聖体の祝日 Corpus Cristi 2005年は6月9日
聖霊降臨節の10日後の木曜日。
8月6日 独立記念日 Aniversario Patrio -
11月1日 諸聖人の日 Todos Los Santos -
12月25日 クリスマス Navidad -
2月10日 オルロ県の日 Aniversarios Cívicos de Oruro オルロ県のみ
4月15日 タリハ県の日 Aniversarios Cívicos de Tarija タリハ県のみ
5月25日 チュキサカ県の日 Aniversarios Cívicos de Chuquisaca チュキサカ県のみ
7月16日 ラパス県の日 Aniversarios Cívicos de La Paz ラパス県のみ
9月14日 コチャバンバ県の日 Aniversarios Cívicos de Cochabamba コチャバンバ県のみ
9月24日 サンタ・クルス県の日 Aniversarios Cívicos de Santa Cruz サンタ・クルス県のみ
10月1日 パンド県の日 Aniversarios Cívicos de Pando パンド県のみ
11月10日 ポトシ県の日 Aniversarios Cívicos de Potosi ポトシ県のみ
11月18日 ベニ県の日 Aniversarios Cívicos de Beni ベニ県のみ

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 国際連合地名標準化会議作業部会 (2009年8月). “UNGEGN List of Country Names, August 2009 (PDF)” (英語). pp. 15頁. 2010年5月31日閲覧。[リンク切れ]
  3. ^ DECRETO SUPREMO No 0048 del 18 Marzo 2009” (スペイン語). 2010年5月31日閲覧。
  4. ^ 日本国外務省 (2010年5月). “外務省: ボリビア多民族国” (日本語). 2010年5月31日閲覧。
  5. ^ ボリビア年表2 2009年11月8日閲覧([2]
  6. ^ その収益を教育の充実や貧困層、高齢者支援に振り向けている
  7. ^ Matthew Shugart & Martin P. Wattenberg (ed). 2001. Mixed-Member Electoral Systems: The Best of Both Worlds? Oxford, UK: Oxford University Press. P.23.
  8. ^ うち4議席は、恐れなき運動(MSM)
  9. ^ 2005年の初当選の時は51%であった。

参考文献[編集]

総合[編集]

歴史[編集]

地理[編集]

社会[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]