フォークランド諸島

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フォークランド諸島
Falkland Islands
フォークランド諸島の フォークランド諸島の
フォークランド諸島の旗 フォークランド諸島の紋章
モットー:Desire the right
国歌:God Save the Queen 女王陛下万歳
フォークランド諸島の位置
公用語 英語
首都 スタンリー
南緯51度42分 西経57度51分 / 南緯51.700度 西経57.850度 / -51.700; -57.850
本国 イギリス
君主 エリザベス2世
総督 コリン・ロバーツ (Colin Roberts)
首相 キース・パジェット (Keith Padgett)
面積
 -  総面積 12,173 km²
 -  水面積率 (%) 0%
人口
 -  推計(2013年) 3,140人
 -  人口密度 0.25/km²
GDP (PPP) (2005年)
 -  合計 7500万ドル
 -  1人当り 25,000ドル
通貨 フォークランド諸島ポンド及びイギリス・ポンド
時間帯 UTC-4 
 -  夏時間  UTC-3 
ISO 3166-1 FK / FLK
ccTLD .fk
国際電話番号 +500

フォークランド諸島(フォークランドしょとう、英語:Falkland Islands)は、南大西洋上にあるイギリス領諸島1833年からイギリス実効支配し続け、現在に至る。スペイン語名ではマルビナス諸島(Islas Malvinas)。首都スタンリー(またはポート・スタンリー、アルゼンチン名はプエルト・アルヘンティーノ)。人口2,967人(2003年調査)。通貨にフォークランド諸島ポンドイギリスポンドの両通貨が使われている。諸島の領有を主張するアルゼンチンとイギリスとの間で、1982年フォークランド紛争が勃発した。

フォークランド諸島の歴史[編集]

探検と調査[編集]

ヨーロッパ人で最初に島を発見したのは、1520年フェルナン・デ・マガリャンイスの航海中にはぐれた船団の内の一つの、エステバン・ゴメス船によるものだとされている。

しかしイギリス政府によると、イギリスの探検家ジョン・デイヴィス (John Davis) によって記録がなされたのは、1592年のことであり、これが現在のイギリスの領有権主張の根拠となっている。当時は無人島だったが近年木製のカヌーが発見され、フエゴ島先住民に既に発見されていたという説が有力視されている。

1598年オランダ人のSebald de Weertがこの島を訪れた。このため、当時オランダではこの島をSebald島と呼び、19世紀にはこの名が記載された地図がオランダで作られている。

フォークランドという名は、1690年に東フォークランド島と西フォークランド島の間の海峡を航海したイギリスの船長ジョン・ストロンの命名による。彼は、航海の援助をしてくれた海軍のアンソニー・フォークランド子爵(Anthony Falkland, 1659年-1694年)にちなんで命名を行った。

エグモントとソレダードの位置

フランスとイギリスの争い[編集]

1764年フランスが東フォークランドにあるバークレー湾の入り江に入植し、後にポール・サン・ルイ (Port St. Louis) と名づけられた。1765年、フランスとは別にイギリスの艦長ジョン・バイロンが東フォークランドのサン・ルイに気づかないまま、西フォークランドにあるソーンダース島の港にポート・エグモント (Port Egmont) と名づけ、諸島のイギリス領有を主張した。フランスとイギリスによる植民地拡大の背景には七年戦争など両国の対立関係が存在し、両国にとって争いは不毛だったが、戦略上重要な領有権を獲得するために派遣できる艦隊を保有していた。

1767年にフランスがフォークランド諸島から金銭と引き換えに撤退することにスペインと同意した。ボルボン朝スペインが領有を宣言すると、サン・ルイをプエルト・ソレダ (Puerto Soledad) と改名し、ドン・フェリペ・ルイス・プエンテ知事になった。1770年にはブエノスアイレスからフリゲートに海兵隊を乗艦させ、ポート・エグモントに上陸し、兵力で劣るイギリス軍は降伏した。

フランスの支援を受けられなかったスペインと北アメリカで高まっていた緊張(アメリカ独立戦争)に備えていたイギリスは戦争を避け、1774年には西フォークランド島の居住を認められる代償として、スペインの領有権を認める。領有権の放棄こそしなかったがエグモントのイギリス軍は1776年に解散した。1811年には南アメリカでの独立運動とイギリスの圧力を受け、スペインの移民もフォークランド諸島から撤退したが、スペインも領有権の主張は維持した。スペインが撤退した後はアメリカとイギリスの軍艦捕鯨船が悪天候時の避難港として頻繁に島を利用した。

アルゼンチンの介入[編集]

1820年にアメリカで私掠船の船長をしていたデイビッド・ジューエットの指揮下でリオ・デ・ラ・プラタ連合州(後のアルゼンチン)のフリゲートエロイナ (Heroína) がソレダードに到着し、アルゼンチンは諸島の領有と主権を宣言した。諸島は旧スペイン植民地だったため、旧スペイン植民地の四つの副王領のうち、パタゴニアに最も近かった旧リオ・デ・ラ・プラタ副王領の一部として独立に際して主権も受け継いだと、ポルテーニョ達には考えられたからであった。

連合州当局は諸島周辺のイギリスおよびアメリカ合衆国アシカ漁船に対して警告を発するが無視される。1823年にはラ・プラタ連合州がホルヘ・パチェコ (Jorge Pacheco) とルイス・ベルネト (Luis Vernet) に漁業権を与えた。翌年に二人はフォークランド諸島に向かったが、探検は失敗を重ね、パチェコは諦めてしまった。

1828年に植民地の樹立に成功することを条件に東フォークランドとその資源がベルネトへ与えられた。当時アルゼンチンに中央政府は存在しなかったため、ブエノスアイレス州知事フアン・マヌエル・デ・ロサスが基本法に基づいて外交権(と事実上の全土の行政権)を行使していたが、1829年にはアルゼンチン当局は島の知事にベルネトを任命し、アザラシの狩猟権も与えられた。これに対して駐ブエノスアイレス英国領事が抗議を行った。

ロサスは諸島周辺で操業していた捕鯨業者に、船籍を問わず1トンごとに一律5ペソの税金を課することを決定した。しかし、アメリカ船三隻がこの支払いを拒否し、この漁業権紛争により、アルゼンチン当局がアメリカ船舶の船長を逮捕した。

駐ブエノスアイレス合衆国領事は本国に報復を訴え、アメリカはサイラス・ダンカンスループレキシントン号の艦長に据え、海兵隊をフォークランド諸島に派遣した。レキシントン号はソレダードを襲撃すると住民を連行し、植民地の状態が良好ではないことを報告した。しかし、その代償は大きく、合衆国領事はロサスによって追放されることになる。アンドリュー・ジャクソン合衆国大統領はこの措置に対してさらに報復を行うことも考えたが、結局この問題に対してこれ以上深入りするのを避けることにした。

ビーグル号での航海の最中にフォークランド諸島を訪れたチャールズ・ダーウィンも植民地の悲惨な状態を報告したが、それがレキシントン号の攻撃が原因である可能性についても言及した。

イギリスの再領有[編集]

1833年1月3日、イギリスがブリッグ・スループ艦の「クレイオー」をフォークランド諸島に派遣し、無血占領に成功した。イギリス海軍のビーグル号に乗ったチャールズ・ダーウィンが1833年3月1日から4月6日まで滞在した[1]

イギリスは再びこの島に国旗を掲げることに成功し、この後はイギリスの支配下におかれる。アルゼンチン当局は抗議の声明を出したが聞き入られなかった。なおこの戦闘で勇敢に抵抗し、半年以上降伏しなかった囚人、アントニオ・リベロ(ガウチョ・リベロ)は現在もアルゼンチンの国家的英雄となっている。また1839年からはじまるウルグアイの内戦の最中にもアルゼンチンとイギリスは再び戦火を交えることになった。この時は1849年にイギリスがロサスへの敗北を認めて撤退したが、諸島の実効支配は確保した。

1843年にはスタンリーが開設され、1845年に行政府所在地となる。

1860年代から1870年代にかけては、スコットランド人入植者により牧畜のための羊と牛が島に持ち込まれた。やがて牛の牧畜は廃れ、羊産業が主産業になる。

外洋航海が可能な蒸気艦船イギリス海軍に普及すると、ポート・スタンリーは重要な給炭港となった。第一次世界大戦ではドイツ帝国海軍のマクシミリアン・フォン・シュペー中将旗下のドイツ艦隊がフォークランド諸島の襲撃を試みた(フォークランド沖海戦)。第二次世界大戦でもナチス・ドイツ装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペー」が南大西洋に進出してきたため、イギリス海軍は巡洋艦「カンバーランド」をフォークランド諸島からラ・プラタ川河口へ急行させた(ラ・プラタ沖海戦)。フォークランド諸島は2度の大戦を通じて補給基地として有効に機能することを実証し、その戦略的な重要性が確認された。

1982年4月には内政に行き詰まったアルゼンチンの軍事政権がフォークランド諸島を占領、これに端を発してイギリスとアルゼンチンが同島で大規模な武力紛争を展開した(フォークランド紛争/マルビーナス戦争)。イギリスは2ヶ月後に同島を奪還して勝利を収めたが、両国の国交が再開され戦争状態が終結したのは1990年2月5日のことだった。この国交再開交渉でもフォークランド諸島の領有権問題は棚上げされ、この状態で現在に至っている。

2013年に帰属をめぐる住民投票が行われたが投票者の99.8%がイギリスの帰属を望んだ[2]

政治[編集]

国家元首は、イギリス女王。総督が代行する。

首相は、議会で選出され、総督が任命する。

フォークランド諸島立法会議がある。全10人からなっており、スタンリーにあるギルバートハウスがオフィスである。議長は2009年から務めるキース・ビルズ。フォークランド諸島の知事 (CEO) と財務部長を務めるのはキース・パジェット。その他スタンリーとキャンプ町の2つの地区から選挙で選ばれた8人からなっており、選挙ではスタンリーの5区とキャンプ町の3区の全8選挙区で行われる。

2009年にフォークランド諸島憲法が発効された。

地方行政区分[編集]

地理[編集]

フォークランド諸島はアルゼンチン・パタゴニアから500㎞離れたアルゼンチン海上にあり、東フォークランド島西フォークランド島の2つの大きな島、そして776の小さな島からなる。これら諸島の総面積は12,173 km²で、北アイルランドや日本の長野県と同じぐらいである。東フォークランド島と西フォークランド島にはそれぞれ山脈がある。最高峰は東フォークランド島にあるアスポーン山 (754m) で、スタンリーは東フォークランド島の東端にある。両島はフォークランド海峡で隔てられる。島のほとんどが不毛な地であるが、東フォークランド島の平坦な土地は羊の牧草地になっている。

海水温の低い南大西洋に囲まれているため寒冷海洋性気候であり、冷涼で風が強い。スタンリーの1月最高気温15度・最低気温7度、7月は最高5度・最低0度である。降水量は比較的少なく年間500㎜程度であるが、毎月20日以上雨が降る。稀に雪が降り、しかも季節に関係なく降ることがある。

フォークランド諸島

主な島

経済[編集]

経済水域(イギリス)

島の経済は、かつてアザラシ猟や捕鯨も行っていたが中止され、その後は主にの放牧で羊毛は代表的な輸出品の1つである。19世紀にスコットランド人らイギリス人入植者らが島で羊産業を始めて以来、羊の数は現在約60万匹近くおり、フォークランド諸島の人口より多い。羊産業は島の代表な産業だが、近年の主力は漁業にとって代わっている。

フォークランド紛争後、1984年にイギリス政府の支援を受けて設立された開発会社 (Falkland Islands Development Corporation) は人口増加のため、経済を活性化させ、独自性を生かし農業漁場観光業を発展させた。道路教育機関医療施設もこの時期に整備された。羊毛価格の下落は多くの島民が従事する牧羊共同体の生活水準に影響を及ぼし、大量の失業者と島民の移住が危ぶまれた。これを免れたのは、領内で油田存在の可能性が判明したからである。

1987年から国外への漁業権の販売によって、財政上の問題を解決して来た。1990年代は2000万から2500万ポンドの収益をあげ、近年では年間で1200万から1500万ポンドと売上高を伸ばした。年間漁獲高200,000トンの75%はイカである[3]

アルゼンチンとイギリスの間で海底下の石油資源に関する協定が結ばれたが、2007年に破棄された。2010年にイギリスのBHPビリトンが調査を許可された。それは2010年2月から始められ、2か月後にはフォークランド諸島北部海域で石油を発見した[4]。同月、アルゼンチンの外務相はいかなる合法的な措置も辞さないと警告を出した[5]。その後、南部海域でも石油が発見されている。

交通[編集]

スタンリーに着陸したイギリス南極局のDHC-7

フォークランド諸島には舗装滑走路をもつ空港が2つある。その1つはマウント・プレザント空軍基地 (RAF Mount Pleasant) で、主要都市であるスタンリーから西へ約48kmの位置にあり、イギリス空軍の基地ではあるものの主に国際空港として利用されている。空軍の飛行隊はトライスターを装備し、燃料補給のためアセンション・アイランド空軍基地 (RAF Ascension Island) を経由してイギリス本国のブライズ・ノートン空軍基地 (RAF Brize Norton) へと向かう。また、必要に応じてチャーター機に使われることもある。現在はセーシェル航空ボーイング767で運航している。 同じイギリスの海外領土であるセントヘレナ島に空港を建設中だがこの空港が完成したあと、英国航空の協力を得たアトランティックスター航空が同空港を起点にアセンション基地と同基地を結ぶ計画がある。

ポート・スタンリー空港は郊外にある小さな空港で、フォークランド諸島では民用で唯一アスファルト舗装された滑走路をもち、諸島内への飛行に使用されている。事前に協議された上でフライトスケジュールを決めるフォークランド諸島政府航空のアイランダーが運航されている。イギリス南極局はロゼラ基地を始めとするイギリス領南極地域の観測基地とフォークランド諸島を結ぶためDHC-7を使用している。

住民[編集]

島の住民はイギリスから来たイギリス系白人の入植者がほとんどを占める。

フォークランド諸島の統治権をめぐって、イギリスとアルゼンチンの間には不穏な空気が流れており、島の住民は不穏なままの現状維持を覚悟している。

公用語英語

宗教英国国教会が55%で、その他のプロテスタントが28%を占める。

著名な出身者[編集]

  フォークランド諸島/マルビナス諸島
  イギリス
  イギリスを支持
  だいたいイギリスを支持
  アルゼンチン
  アルゼンチンを支持
  だいたいアルゼンチンを支持

脚注[編集]

  1. ^ パトリック・トール著、平山廉監修、南條郁子、藤丘樹実訳 『ダーウィン』 《「知の再発見」双書99》 創元社 2001年 46ページ
  2. ^ フォークランド諸島の住民投票、99.8%が英領維持を支持
  3. ^ Falkland Islands Government - Fisheries 英語
  4. ^ Falklands oil firm Rockhopper claims discovery
  5. ^ Argentina denounces British ‘pirates’ after oil discovery in Falklands waters

参考文献[編集]

外部リンク[編集]