チャールズ・ダーウィン

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チャールズ・ダーウィン
卓越した地質学者・生物学者で、種の形成理論を構築。
卓越した地質学者生物学者で、の形成理論を構築。
生年 1809年2月12日
イングランド、シュロップシャー州
シュルーズベリーMount House
没年 1882年4月19日
イングランドケント州 ダウン
居住国 イングランド
国籍 英国
研究分野 博物学自然科学
研究機関 ロンドン地理学協会
母校 エディンバラ大学
ケンブリッジ大学
主な業績 種の起源
主な受賞歴 Royal Medal (1853)
Wollaston Medal (1859)
コプリ・メダル (1864)
信仰 英国国教会,
家族は ユニテリアン,
1851年以降不可知論.

チャールズ・ロバート・ダーウィンCharles Robert Darwin, 1809年2月12日 - 1882年4月19日)は、イギリス自然科学者。現代科学における進化論の方向性を確立したことで知られ、また進化論以外でも生物学上のいくつもの重要な功績を残した。 2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第4位となった。

目次

[編集] 家庭

イギリスシュロップシャー州シュルーズベリーで、高名な哲学者であるエラズマス・ダーウィンの息子で裕福な医師で投資家であった父ロバート・ウォーリング・ダーウィンと、陶芸家、企業家として名を成したジョサイア・ウェッジウッドの娘である母スザンナの間に、6人兄弟の5番目の子供として生まれた。

父方の祖父であるエラズマス・ダーウィンと母方の祖父であるジョサイア・ウェッジウッドは親しい友人の間柄であった。またジョサイアの跡を継いだジョサイア2世は兄弟が事業に不向きだったため、会社の運営を堅実な医者であったロバート・ダーウィンにたびたび相談していた。ダーウィン家とウェッジウッド家は、両親やダーウィン自身など数組の婚姻が結ばれ、近しい姻戚関係にあった。母スザンナはダーウィンが8歳の時に没し、キャロラインら3人の姉が母親代わりをつとめた。ロバートは思いやり深かったが、妻の死によって厳格さを増し、子供たちには厳しく接することもあった。

ウェッジウッド家は、チャールズ・ダーウィンの誕生当時は既に英国国教会を受け入れていたが、両家とも元々は主にユニテリアン教会の信徒だった。ダーウィン家はホイッグ党の急進的でリベラルな考え方に同調しており、一家の女性はみな信仰深かったが、男性は祖父をはじめとして信仰心にあまり篤くはないという環境で育った。

妻エマは母方の従姉妹であり、ウェッジウッド家当主ジョサイア・ウェッジウッド2世の娘。 陶器で有名なウェッジウッド家からの多額の持参金をあてにし、研究に没頭するための結婚であったと言われる。 エマとの間には10人の子供を儲けた。長男の幼児期の観察記録が、後に『幼児の伝記的記述』として発表され、観察という研究法方法の古典として知られている。 優生学の提唱者フランシス・ゴルトンは従弟にあたる。

更に、チャールズ・ダーヴィンから数えて6代後の子孫に映画「ナルニア国物語」出演で有名な俳優のスキャンダー・ケインズがいる。

[編集] 経歴

子供のころは、貝や昆虫の採集といった当時裕福な市民の間で流行した博物学的趣味を好んだ。父ロバートは祖父とは異なり博物学に興味はなかったが、園芸が趣味だったので、幼少のダーウィンは自分の小さな庭を与えられていた。また祖父と同名の兄エラズマスは化学実験に没頭しており、たびたびダーウィンに手伝わせた。ダーウィンは兄をラズと呼んで慕った。

シュルーズベリーの寄宿舎校にしばらく通ったあと、1825年に父の医業を助けるため親元を離れエジンバラ大学で医学を学ぶ。しかし、人間の流血沙汰が苦手で、また昆虫採集などを通じて実体験に即した自然界の多様性に魅せられていたことから、麻酔がまだ導入されていない時代の野蛮な外科手術や、アカデミックな内容の退屈な講義になじめず、1827年に大学を去ることになる。この間、黒人の解放奴隷で剥製製作の講師であったジョン・エドモンストーンから動物の剥製製作術を学んだ。これはのちのビーグル号の航海に参加した際に役立った。またエドモンストーンとの交流はダーウィンの人種観に影響を与えた。博物学に本格的に触れたのもこの頃で、プリニウス協会(古代ローマのプリニウスにちなむ博物学のクラブ)に所属し、海生生物の観察などに従事した。初期の進化論者ロバート・グラントに出会い、また祖父エラズマスの著作を読んだのもこの頃である。

エジンバラ大学で良い結果を残せず、父はダーウィンを牧師とするために1827年ケンブリッジ大学クライスト・カレッジに入れ、神学や古典、数学を学ばせた。ダーウィンは牧師なら空いた時間の多くを博物学に費やすことが出来ると考え、父の提案を喜んで受け入れた。ケンブリッジ大学でも彼のはとこ、ウィリアム・ダーウィン・フォックスとともに必修ではなかった博物学や自然科学に傾倒した。フォックスの紹介で、聖職者であり博物学者でもあったジョン・スティーブンス・ヘンズローに師事し、私的にも深いつきあいをすることになった。ダーウィンは学内では、ヘンズローが開設した庭園を二人でよく散歩していたことで知られていた。後にヘンズローとの出会いについて、自分の研究にもっとも強い影響を与えたと振り返っている。また同じく聖職者で地層学者であったアダム・セジウィッグに学び、層序学に並々ならぬ才能を発揮した。同時に当時のダーウィンは神学の権威ウィリアム・ペイリーの『自然神学』を読み、デザイン論(全ての生物は神が天地創造の時点で完璧な形でデザインしたとする説)に納得し信じた。しかし同書の言う「神による創造」よりも、生物の多様性や環境への適応のすばらしさに興味を引かれたとも言われる。この時代には音楽や、後に残酷だからとやめることになる狩猟を趣味としていた。また一年目の1827年夏にはジョサイア2世やその娘で将来の妻になるエマ・ウェッジウッドとヨーロッパ大陸に旅行し、パリに数週間滞在している。これは最初で最後のヨーロッパ大陸滞在であった。 1831年に中の上の成績でケンブリッジ大学を卒業した。多くの科学史家はこの両大学時代をダーウィンの人生の中でも特に重要な時期であったと見ているが、本人はのちの回想録で「学問的にはケンブリッジ大学も(エジンバラ大学も)得る物は何もなかった」と述べている。

[編集] ビーグル号航海

若き日のダーウィン。航海から帰国後、30歳前後と見られる。
若き日のダーウィン。航海から帰国後、30歳前後と見られる。

1831年にケンブリッジ大学を卒業すると、恩師ヘンズローの紹介で、同年末にイギリス海軍測量船ビーグル号に乗船することになった。父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型のブリッグ船は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対したが、叔父ジョサイア2世の取りなしで参加を認めた。専任の博物学者は他におり、ロバート・フィッツロイ艦長の会話相手のための客人としての参加だったため、海軍に規則にそれほど縛られることはなかった。しかし幾度か艦長と意見の対立があり、のちに「軍艦の中では、艦長に通常の範囲で意見表明するのも反乱と見なされかねなかった」と述べている。

ビーグル号は1831年12月27日にプリマスを出航した。南米に向かう途中にカーボヴェルデに寄港した。ダーウィンはここで火山などを観察し、航海記録の執筆を始めている。そのあと南米東岸を南下しバイーアを経てリオデジャネイロに立ち寄ると、正式な艦の博物学者であった艦医マコーミックが下船したため、非公式ながらダーウィンがその後任を務めることになった。ビーグル号が海岸の測量を行っている間に、内陸へ長期の調査旅行をたびたび行っている。モンテビデオを経て出航からおよそ1年後の1832年12月1日にはティエラ・デル・フエゴ島についた。ビーグル号はこの島から若い男女を連れ帰り、宣教師として教育し連れ帰ってきていたが、ダーウィンはフエゴ島民と宣教師となった元島民の違いにショックを受けた。フエゴ島民は地面に穴を掘ったようなところに住み、まるで獣のようだと書き記している。東岸の調査を続けながら1834年3月にフォークランド諸島に立ち寄ったとき、ヘンズローから激励と標本の受け取りを知らせる手紙を受け取った。

1834年6月にマゼラン海峡を通過し、7月に南米西岸のバルパライソに寄港した。ここでダーウィンは病に倒れ、1月ほど療養した。ガラパゴス諸島のチャタム島(現サンクリストバル島)に到着したのは1835年9月15日であり、10月20日まで滞在した。当時のガラパゴス諸島は囚人流刑地であった。ダーウィンは諸島が地質学的にそう古いものとは思えなかったため(現在ではおよそ500万年と考えられている)、最初ゾウガメは海賊たちが食料代わりに連れてきたものだと考えていたが、ガラパゴス総督からゾウガメは諸島のあちこちに様々な変種がおり、詳しい者なら違いがすぐに分かるほどだと教えられ、初めてガラパゴス諸島の変種の分布に気づいた。 尚、この時、ダーウィンがガラパゴス諸島から持ち帰ったとされるガラパゴスゾウガメ、ハリエットは175歳まで生き、2006年6月22日に心臓発作のため他界している。

一般にはガラパゴス諸島ダーウィンフィンチの多様性から進化論のヒントを得たと言われているが、ダーウィンの足跡を研究したフランク・サロウェイによれば、ダーウィンはガラパゴス諸島滞在時にはゾウガメやイグアナ(ガラパゴスリクイグアナおよびウミイグアナ)、マネシツグミにより強い興味を示した。しかしまだ種の進化や分化に気がついていなかったので、それは生物の多様性をそのまま記載する博物学的な興味であった。鳥類の標本は不十分にしか収集しておらず、それらが近縁な種であるとも考えておらず(ムシクイなど別の鳥の亜種だと考えていた)、どこで採取したかの記録も残していなかった。ガラパゴス総督から諸島の生物の多様性について示唆を受けたときには既に諸島の調査予定が終わりつつあり、ダーウィンはひどく後悔している。鳥類標本については後に研究に際して同船仲間のコレクションを参考にせざるを得なかった。また標本中のフィンチ類やマネシツグミ類がそれぞれ近縁な種であると初めて発見したのは、帰国後に標本の整理を請け負った鳥類学者のジョン・グールドであった。

1835年12月30日にニュージーランドへ寄港し、1836年1月にはオーストラリアシドニーへ到着した。その後、インド洋を横断し、モーリシャス島に寄港した後6月にケープタウンへ到着した。ここでは当時ケープタウンに住んでいた天文学者のジョン・ハーシェルを訪ねている。またヘンズローからの手紙によって、イギリスでダーウィンの博学的名声が高まっていることを知らされた。セントヘレナ島ではナポレオンの墓所を散策している。8月に南米バイーアに再び立ち寄ったが天候の不良のため内陸部への再調査はかなわなかった。カーボヴェルデ、アゾレス諸島を経て1836年10月2日にファルマス港に帰着した。航海は当初3年の予定であったが、ほぼ5年が経過していた。

ビーグル号の航海
ビーグル号の航海

後にダーウィンは自伝で、この航海で印象に残ったことを三つ書き残している。一つは南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていく様子に気づいたこと、二つめは南米で今は生き残っていない大型の哺乳類化石を発見したこと、三つ目はガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほど南米のものに似ていることであった。つまりダーウィンはこの航海を通して、南半球各地の動物相植物相の違いから、が独立して創られ、それ以来不変の存在だとは考えられないと感じるようになった。またダーウィンは、航海中にライエルの『地質学原理』を読み、地層がわずかな作用を長い時間累積させて変化するように、動植物にもわずかな変化があり、長い時間によって蓄積されうるのではないか、また大陸の変化によって、新しい生息地ができて、生物がその変化に適応しうるのではないかという思想を抱くに至った。

ダーウィンはこの航海のはじめには自分を博物学の素人と考えており、何かの役に立てるとは思っていなかった。しかし航海の途中で受け取ったヘンズローの手紙から、ロンドンの博物学者は自分の標本採集に期待しているのだと知り自信を持った。サロウェイは、ダーウィンがこの航海で得た物は「進化の証拠」ではなく、「科学的探求の方法」であったと述べている。

[編集] 帰国後

5年にわたる航海から帰還してからのダーウィンは原因不明の不定愁訴を生じる病に苦しんだ。一説によると南米を訪れた際にオオサシガメ類を採集して自らの血液を与えて飼育しているため、シャーガス病の感染が疑われるが、不定愁訴は大学時代から訴えていたこと、当時のシャーガス病患者としては長命で、むしろ晩年には体調が回復していること、学会の論文発表などで体調を崩すなど、上がり症の兆候が見られることなどから、神経症などストレス性の体調不良ではないかとする説もある。

1837年、療養のため故郷シュールズベリーに戻った際にエマ・ウェッジウッドと再会した。エマは1歳年長のいとこで幼なじみであり、ビーグル号航海の前にジョサイアがロバート・ダーウィンを説得したとき以来の再会であった。姉キャロラインとエマの兄ジョサイア3世が1838年に結婚するとダーウィンも結婚を意識し始めた。家族を持てば出費が増え自分の時間を持てなくなることをおそれたが、話し相手と家事をしてくれる人ができると考え、エマに求婚し1839年1月に結婚した。12月には長男ウィリアムが誕生した。エマは信仰心が厚く、結婚の直前に「いくら追求しても答えが得られないこと、人が知る必要のないことにまで、必要以上に科学的探求をもちこまないでほしい」と手紙を送っている。父ロバートは、価値観の相違で破綻した夫婦をたくさん知っているからお前の考え(そのころ持ち始めていた神への疑問)は話さない方が良い、とダーウィンに忠告している。

1837年にはジョサイアの牧場で観察したミミズの活動がもたらす土壌への影響について、地質学会で発表した(ミミズの研究は晩年まで続くことになる)。この頃チャールズ・ライエルと知り合う。二人は意気投合し、ライエルはダーウィンのロンドン地理学協会入会を斡旋した。

考察ノートのスケッチ(1837)。生命の樹(Tree of life)と呼ばれる。
考察ノートのスケッチ(1837)。生命の樹(Tree of life)と呼ばれる。

1839年にはビーグル号航海の記録がフィッツロイ艦長の著作と合わせた三巻本の一冊として出版され好評を博した。これは1843年までに全五巻の『ビーグル号航海の動物学』として独立して出版され、その後も改題と改訂を繰り返した。続いて1842年から『ビーグル号航海の地質学』全三巻が出版された。

[編集] 進化論への到達

ダーウィンはビーグル号航海で観察した動植物の変異に着目し、ライエルの斉一説が生物にも当てはまるのではないかと考えた。その後考察を進めながらマルサスの『人口論』を読み、またハトの品種改良の研究をする中で、選択と淘汰が自然の現象の中にも当て嵌まる事に思い当たり、自然淘汰にもとづく進化論を確立した。

種の不変性に対する疑問は航海中に感じていたといわれ、それに関する考察ノートは1836年から書き始められている。1837年中頃には種の変性を確信し、1844年には進化についての理論の萌芽となる結論を得ていたと考えらている。初めて種の変性を告白した相手は植物学者ジョセフ・フッカーで、殺人を告白するような物だと言い添えている。それから10年以上も発表を遅らせたことについては様々に議論されてきた。教会やキリスト教の教義を聖書の記述そのままの形で信じる知識人社会からの批判を恐れたとするのが一般的だが、当時すでに生物の進化に関する学説は知識階級には徐々に受け入れられつつあり、充分に説得力のある証拠を集めていたたのだとか、自らの努力で富と現在の地位を得た中産階級に生まれたため、家の地位を揺るがす決断には慎重だったとも言われる。

他の学者たちと意見を交わすため、帰国後しばらくはロンドンで生活していたが、療養もかねて1842年にケント州のダウン村に移り住み、生涯をその地で過ごした。1842年と1851年に相次いで娘を失い、宗教的にはそれまでの信仰を見直すきっかけになった(1868年にハクスリーが不可知論という言葉を造るとダーウィン夫妻はそれを受け入れた)。またこの時期には8年に及ぶフジツボ研究や珊瑚礁の形成に関する論文の著述などを並行して行っている。1848年には父ロバートが没した。医者として成功した父をダーウィンは生涯敬愛していた。この頃のダーウィン家は父や叔父の残した財産の運用で生計を立てていた。100ポンドで中流の暮らしができた当時に、夫妻は父と叔父から900ポンドの支援を受けていて、晩年には年8000ポンドの運用益があったと言われる。ダーウィンと同じように医者を目指し挫折した兄エラズマスものちにダウンに移住し、父の財産で優雅な隠遁生活を送っていた。1850年には世界航海から帰国したトマス・ハクスリーと知り合っている。

[編集] ダーウィンの進化論

詳細は自然選択説性選択進化論をそれぞれ参照。

生物の進化は、すべての生物は変異を持ち、変異のうちの一部は親から子へ伝えられ、その変異の中には生存と繁殖に有利さをもたらす物があると考えた。そして限られた資源を生物個体同士が争い、存在し続けるための努力を繰り返すことによって起こる自然選択によって引き起こされると考えた。

遺伝についてはメンデル遺伝の法則は当時まだ知られておらず、パンゲン説(パンゲネシス en:Pangenesis)を唱えて説明した。これはジェミュールen:Gemmulesという微小な粒子が体内を巡り、生殖細胞に戻ることで性質が子に受け継がれるという説で、ラマルクと同じように獲得形質の遺伝を認めていた。当時は遺伝物質の融合説(遺伝を伝える物質があったとしても、それは子ができる過程で完全に融合する)が広く知られていたが、ダーウィンはメンデルが行った実験と同じように、スイートピーの配合実験で形質が必ずしも融合するわけではないとつき止めていた。メンデルの遺伝に関する論文がダーウィンの書庫から未開封のまま見つかったといわれるが、これは後世の作り話で[1]メンデルの実験をダーウィンが知ることはなかった。(メンデル自身は『種の起源』を持っていたが、ほとんど目を通していなかった)。

自然選択を万能な物と見なしたウォレスはクジャクの羽やゴクラクチョウの長い尾羽など、一見生存の役に立ちそうもない性質にも適応的な意味があるのだろうと考えた。ダーウィンはその可能性を否定もしなかったが、多くの生物で雌がパートナー選びの主導権を握っていることに気づいており、生存に有利でない性質も雌の審美眼のようなもので発達することがあるのではないかと考えた。そして自然選択説とは別に性選択を唱えた。さらに性比(多くの生物で雄と雌の比率が1対1になるが、一部の生物では偏りがあること)や性的二型の問題を初めて科学的に考察する価値があると考えた。特に性比に関しては生物進化の視点から説明できると考え、後に頻度依存選択(頻度依存淘汰、生存と繁殖可能性が自然環境に左右されるのではなく、グループ中のその性質の多寡に依存する、つまりある性質が「少数派である」ことだけで生存と繁殖に有利に働くこと)と呼ばれることになる概念を先取りしていた。しかし、これらの問題は複雑なので後世に残した方が安全だろうとのべ、明確な答えを残さなかった。

[編集] 進化論の公表

進化論とダーウィンを揶揄する風刺画
進化論とダーウィンを揶揄する風刺画

1857年から1858年にかけてアルフレッド・ウォレスは滞在先のマレー諸島からダーウィンに手紙を送った。その手紙には自然選択説が書かれており、ダーウィンの理論に近い物であった。またチャールズ・ライエルの意見も聞いて欲しいと書き添えられていた。ダーウィンはウォレスの論文を発表すべきだと考えたが、長年理論を暖めてきたことを知っていたライエルとフッカーはダーウィンを説得し、同年7月1日にリンネ協会で、ダーウィンとウォレスの論文が併読されるという形で自然選択説の論文を発表した(ダーウィンは娘の病気で欠席した)。この説は当初、学会の関心を引かなかったが、自身の論をまとめた『種の起源』を1859年11月24日に出版し、すぐにベストセラーとなった。

もっともこれは進化論がすぐに受け入れられたからではない。当時、すでに生物の進化に関する著作はいくつも発表されおり、受け入れられる素地はあった。そしてダーウィンが予想したとおり、宗教界を中心に激しい反対を受けた。 例えばビーグル号航海での化石ほ乳類の分類をまかせ、友人でもあったリチャード・オーウェンは最も早く反対を表明した一人である。オーウェンの反発は学問的な嫉妬が動機だったとも言われ、私的な交流も途絶えることになった。ケンブリッジ大の恩師セジウィッグも道徳を破壊する物だとして批判した(が、セジウィッグとは生涯友好的な関係を保った)。進化論の構築に協力していたライエルはすぐには態度を明らかにせず、最終的には理論としてはすばらしいと評価したが、やはり道徳的、倫理的に受け入れることはできないと言ってダーウィンを落胆させた。『昆虫記』で知られるファーブルも反対者の一人で、ダーウィンとは手紙で意見の交換をしあったが意見の合致には至らなかった。

ダーウィンはあまりの反発の激しさに「この理論が受け入れられるのには種の進化と同じだけの時間がかかりそうだ」と述べた。しかしフッカー、トマス・ヘンリー・ハクスリーなどの支持者の支援を受けてこの学説は次第に社会における認知と影響力を拡大した。ヘンズローはすぐに支持を表明したうちの一人で、この師の支持はダーウィンを大きく安堵させた。博物学者のベイツやミュラーも支持者に名を連ね、進化論を補強する様々な資料を提供した。アメリカではハーバード大学の著名な植物学者であったエイサ・グレイが、ドイツではエルンスト・ヘッケルが進化論の普及に努めた。1860年にはオックスフォード大学で、ハクスリー、フッカーら支持者とウィルバーフォース大司教ら反対者による討論会が行われた。一般に知られるように、大司教が一方的に論破されたわけではなく(ウィルバーフォースは生物学の知識がなかったため聖書と感情にのみ基づいて論じ、議論はかみ合わなかった)聴衆は立派に弁じた両者に盛大な拍手を送った。しかしこの討論は進化論の知名度を押し上げることになった。1877年、ケンブリッジ大学はダーウィンに名誉博士号を贈った。

ウォレスが1858年に送った最初の手紙では(初めてウォレスがダーウィンに手紙を送ったのは1856年頃と言われる)、種は変種と同じ原理で生まれるのではないか、そして地理や気候の要因が大きいのではないか、という物だった(当時の創造論では種は神が作った不変なものだが、亜種変種品種改良などで誕生しうるという説が強かった)。しかし同年に再び送られてきた次の手紙ではライエルの『人口論』が反映されておりダーウィンの自然選択説に近いものになっていた。しかしこの頃ダーウィンは生態的地位適応放散にまで考察が及んでいた。翌年出版された『種の起源』を読んだウォレスは「完璧な仕事で自分は遠く及ばない」と述べている。

ダーウィンは自然選択の発見をウォレスに断りなく共同発表としたことを、手柄の横取りと受け止められることを畏れた。しかしウォレスはむしろその行為に満足し、ダーウィンを安心させた。自然選択以外は多くの点で意見を異にしていたにもかかわらず、ウォレスとダーウィンの友好的な関係は生涯続いた。しかしウォレス以外でこの行為を誤解した者もおり、手柄を横取りしたという批判を避けることはできなかった[2]。ダーウィンは後年、生活に困窮していたウォレスを助けるため、グラッドストン首相に年金下付を働きかけてるなど支援を行っている。

[編集] その他の研究

マーガレット・キャメロンによるポートレイト(1868年)
マーガレット・キャメロンによるポートレイト(1868年)

フジツボの分類、珊瑚礁の形成と分化、ハトの飼育品種の改良、ミミズによる土壌形成の研究などでも業績を残している。これらの研究それぞれ単独でも生物学史上に名声を残すだけの成果を挙げているため、進化論の理論的構築がなくても生物学史上に名を残す著名な生物学者となったであろうとする評価もある。

『ビーグル号航海の地質学』の最初の巻「サンゴ礁の構造と分配」(1842年)では、多様な様式の珊瑚礁の成立要因を考察した沈降説を唱えた。これはダーウィンの死後たびたび掘削試験が行われたが、1952年に核爆発の実験に伴う大規模な掘削調査で得られたデータにより、ようやく仮説が正しかったことが確認された。またフジツボの分類学研究によるモノグラフ1851年)は、今日でもフジツボの分類学研究の基本文献となっている。

進化論の分野では、さらに1871年には『人間の由来と性選択』を出版し、『種の起源』では触れていなかった人間の進化について論じた。

マダガスカルラン科植物 Angraecum sesquipedale の花に特異に発達した長大なの形状に着目し、その距の奥から蜜を吸い得る長い口吻を持つ昆虫がいるはずだと予想した(「昆虫によるランの受精についての論考」1862年)。ダーウィンの死後、この距の長さと同等の27cmの長さの口吻を持つスズメガキサントパンスズメガ)が発見された。こうした現象を引き起こす進化の様式は、今では共進化と呼ばれている。ヒトの由来についても、類人猿でヒトと近縁の種がアフリカにしか生息しないことから、アフリカで誕生したと予想した。これもダーウィンの死後にその予想が正しかったことが明らかになっている。

ビーグル号航海から帰国してすぐに発表されたミミズの働きに関する小論は、当時はミミズにそれほどの力はないと考えられていたため、批判を受けたが、最後の著作『ミミズと土(ミミズの作用による肥沃土の形成及びミミズの習性の観察)』(1881年)では40年にわたる研究結果がまとめられている。これはややミミズの働きを誇張していると言われるものの、ミミズと土壌に関する明快な論文と言う面と、現在を研究することによっていかにして過去を知りうるかについての隠された論議という面を持っている[3]

[編集] 晩年

1880年に兄エラズマスが闘病生活のすえ没すると、彼を慕っていたダーウィン一家は悲しみ、「頭が良く、慈愛に満ちた兄だった」と述べた。 1881年には最後の著作となる『ミミズと土』を出版した。 ダーウィンは1882年にケント県ダウンで没した。このころには偉大な科学者として広く認められており、ダーウィン自身は予想もしていなかったが、王立協会の仲介でウェストミンスター寺院に埋葬された。妻エマは1896年にダウンで没し、先に亡くなった兄エラズマスと同じくダウンの墓地に葬られている。ニューヨークタイムズ紙はダーウィンの死去の特集記事で「進化論を発見したのではなく、アリストテレスの時代からあった生物の疑問を科学的に解決したのだ」と述べた。[4]

ダーウィン家には、10人の子供がいた。ダーウィンは熱心な父で子供たちの面倒をよく見たが、そのうち2人は幼くして死んだ。1851年にもっとも愛していた長女アニーが10歳で死ぬと、夫妻をひどく悲しませた。特にいとこを妻としていたので近親婚の弊害ではないかとひどくおそれた。彼の息子のうちウィリアムは銀行家、ジョージは天文学者、フランシスは数学者、医者となった。ホリスは土木技師、実業家、そして1896年から97年までケンブリッジ市長を務めた。レオナルドは軍人、政治家で優生学者でもあり、またロナルド・フィッシャーの親しい友人でもあった。彼らはそれぞれ王立協会の会員もつとめた。

[編集] 思想

ダーウィンは当時の多くの人と同じように人種平等主義者ではなく、また女性は能力が劣るとも考えていた。しかし一般に考えられていたのとは異なり、人種間の生物学的な差異は非常に小さいので、人種を異なる生物種と考えるべきではないと主張していた。またダーウィン家もウェッジウッド家も奴隷制度には反対しており、ダーウィン自身も反対していた。ビーグル号艦長のフィッツロイと衝突したのも奴隷制度に対する意見の相違であった。フィッツロイが「(奴隷たちが)現在の状態に満足していると答えた。だから彼らは奴隷でいて幸せなのだ」と言ったのに対し、「主人の前でそう言ったのだから、本心かどうか分からない」と答えフィッツロイの怒りを買った。ブラジルでは主人による奴隷虐待の場面に遭遇しており、ブラジルを出航するときに、奴隷虐待を二度と見ることがないのがうれしく、この国は二度と訪れないだろうと書き残している。帰国後には奴隷解放運動も支援した。

従弟のゴルトンに優生学の考えについて聞かされたときは、人種の改良のために効果があるだろうと答えたが、現実的に政策として行うことの困難さも理解していたと言われる。

宗教的には、後年に「無神論者ではなく、不可知論者というのがもっともふさわしいだろう」と述べている。典型的な手紙魔であったダーウィンは生涯で2000人と手紙による意見交換をしたが、そのうち約200人が聖職者であった。決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではなかったが、しかしもっとも愛した長女アン・エリザベス(アニー)が献身的な介護の甲斐無く死ぬと、元来信仰心が薄かったダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信した。

ダーウィンが死の床で信仰を告白したとか、創造論を認めたと言われることがあるが、これは後年の作り話である。彼の死の直後にホープ婦人という女性がダーウィンの最後の告白を聞いたと吹聴したが、ダーウィンの娘ヘンリエッタは、そのような人は知らず父とも会ったことがないと証言した。最後の言葉は息子フランシスに向かって言った「死ぬことは、ちっとも怖くない」だったと言われている。 また、生物の多様性について、何か偉大な存在を感じないかと問われこう答えている。 「その大きな存在は、たびたび私の考えを圧倒するのですが、しばらくすると綺麗に消えてしまうのです」

[編集] 著作

[編集] 邦訳された物

[編集] 脚注

  1. ^ R・ドーキンス『悪魔に使える牧師』P125
  2. ^ この批判は現代でも健在である アーノルド・C. ブラックマン『ダーウィンに消された男』朝日新聞社 1997年
  3. ^ S.J.グールド『ニワトリの羽』9章 ミミズの一世紀と常世
  4. ^ http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0212.html

[編集] 関連項目


[編集] 参考文献

  • ピーター・J. ボウラー 『チャールズ・ダーウィン 生涯・学説・その影響』 朝日新聞社ISBN 4022596716
  • 松永 俊男『ダーウィンをめぐる人々』 朝日新聞社 ISBN 4022594438

[編集] 外部リンク

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