フェルディナンド・マゼラン
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フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan、1480年? - 1521年4月27日)はポルトガルの男性航海者、探検家。南アメリカ大陸の南端を発見して、初めてヨーロッパから西回りで太平洋に到達し、途中フィリピンでラプ=ラプ王との戦いにより4月27日に戦死したが、残された艦隊が史上初めての世界一周を達成した。
ポルトガル語名(本名)はフェルナン・デ・マガリャンイス (Fernão de Magalhães: IPA/fɨɾˈnɐ̃w̃ dɨ mɐɣɐˈʎɐ̃j̃ʃ/)、スペイン語(カスティーリャ語)名はフェルナンド・デ・マガリャネス(Fernando de Magallanes, 名はエルナンドHernandoとも)。「マゼラン」は英語での綴りを基にした慣用表記で(発音はマゼランではなく「マジェラン」)、日本ではこの呼び方が浸透している。この項では「マゼラン」で統一する。
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[編集] 生涯
[編集] 前歴
ポルトガルのオポルト村の近郊で下級貴族の子として生まれる。少年の頃に小姓として宮廷に入り、1505年、25歳でアルメイダの艦隊に入って初の航海に出る。その後、マラッカ・モルッカ諸島などで航海の経験を積む。
1512年に一旦リスボンに帰還し、翌年のモロッコでの戦闘に参加するが、この時に右足を負傷して以後は右足が不自由になった。
航海者としての自信を付けたマゼランはポルトガル王・マヌエル1世に対してモルッカ諸島への西回り航路開拓のために船長にしてもらえるように要請した。モルッカ諸島は別名を「香料諸島」と言い、香辛料の産地であった。このマゼランの案は受け入れてもらえなかった。また今までの航海に対する報酬の増額を訴えたが、これも受け入れてもらえず、モロッコでの戦利品を独占したとの疑いを受ける。
嫌気が差したマゼランはポルトガルを出て、スペイン・セビリャの親戚の家に移り住んだ。この時に居候先の娘ベアトリックスと結婚した。
[編集] 出航
1517年、ポルトガルでかなえられなかった野望を遂げるべく、スペイン王・カルロス1世(後の神聖ローマ帝国皇帝・カール5世)に面会したマゼランはモルッカ諸島への西回り航路開拓を熱心に宣伝し、カルロス1世はこれに大いに心を動かされ、マゼランを艦隊の長に任命した。
1519年9月20日、旗艦トリニダー号(110トン)以下、サン・アントニオ号(120トン)、コンセプシオン号(90トン)、ビクトリア号(85トン)、サンティアゴ号(74トン)の5隻のカラベル船に265名の乗組員を乗せてサンルーカル・デ・バラメダ港を出港した。
大西洋を横断した後、南アメリカ大陸に沿って南下していき、1520年1月9日にラプラタ河の河口に到着。当時はここが太平洋へと出るための海峡の入り口だと思われており、マゼランはラプラタ河の全ての入り口に綿密な調査を行ったが、結果はここは海峡ではなく河であったということがわかっただけであった。
落胆したマゼラン艦隊は南のサン・フリアン湾で越冬することに決めるが、絶望的になった船員の間ではマゼランに対する不満が大きくなっており、3隻が参加する大規模な反乱が起きる。
[編集] 海峡発見
この反乱はわずか5日間で収束した。艦隊は1520年8月24日に航海を再開、さらに南下を続けるが、それまでの調査航行中にサンティアゴ号が難破して失われてしまった。
そして1520年10月21日、ついに西の海へと抜ける道を発見した。これは後にマゼランの名前をとってマゼラン海峡と呼ばれることになる。しかしマゼラン海峡を抜ける途中で艦隊最大の船であったサン・アントニオ号(エステバン・ゴメスの船)が反乱分子の手に落ち、多くの食料を積んだまま本国に向けて逃亡(後の1521年5月6日スペインに帰国した。なお、この船は喜望峰に向かう途中にサン・アントン諸島を発見している)。これで艦隊は3隻となってしまった。
1520年11月28日、艦隊は海峡を抜けて大海に達する。マゼランはこの海が穏やかなことを喜んでマール・パシフィコ(El Mare Pacificum 平和の海、太平洋)と名づけた。しかし、これから先が再びの地獄となる。
[編集] イスラム教徒との戦いに敗北
海峡を抜けた後はひたすら何も無い海が続き、途中ふたつの無人島を発見したが、100日ほどに渡って食糧補給の機会を得られず、飢えに苦しんだ。1521年3月6日、太平洋に出てから実に99日目にしてついに有人の島を発見、島の村落を襲って島民らを殺して食料を強奪するが、現地住民によって奪還され、怒ったマゼランは焼き討ちをかけ、ここをラドロネス諸島(泥棒諸島)と名づける。現在のグアムだとされる。
3月16日にフィリピンのサマール島最南端のホモンホン島に上陸しフィリピン諸島への第一歩を記す。南へ進み、レイテ島南端沖のリマサワ島でフィリピンで最初のミサを行ったと地元では伝えられている。レイテ島を回りまっすぐ西へ進み、3月28日にフィリピンのセブ島に上陸。ここで長い間身辺に置いていたマレー人奴隷エンリケを先に使者として上陸させたが、この時にエンリケが現地の言葉を理解できた。すなわちマゼランがかつて東回り航路でやってきたマレー語圏に再びやってきたのであり、マゼランは世界一周を成し遂げたのである。
セブ島で現地の指導者ラジャ・フマボンに面会し、彼をキリスト教に改宗させる。そして彼を王として認めるように周辺の島々に要求したが、これに隣島のマクタン島の領主でイスラム教徒のラプ=ラプが反対し、マゼランとの戦闘になった。この戦闘に敗北し、マゼランは戦死した。4月27日のことである。
[編集] 世界一周
残された乗組員はひどく人数が少なくなってしまったため、損傷の激しいコンセプシオン号をセブ島で焼き捨てることにした。そして残った2隻の船長らが中心となって再び航海を続けるため出航し、しばし迷走しながらも1521年11月8日当初の目的地であったモルッカ諸島に何とかたどり着くことができた。しかしティドーレ島で大量の香辛料を積み込んだもののトリニダー号が破損し、大掛かりな修理をしないと出航不能なことが判明。やむなくビクトリア号だけが先に西を目指して帰航の途に就くことになるが、結果的にこれが最後の一隻となった。この時、最後の指揮官となったのが船長のフアン・セバスティアン・エルカーノである。香辛料を満載したビクトリア号は1521年12月21日、残された航路を急ぐためティドーレ島を出航。喜望峰を回って1522年9月6日にスペインに帰還した。生き残り無事に帰りついた乗組員は、わずかに18名であった。船内ではビタミンC不足による壊血病が多くの船員の命を奪った。 その後、マゼランが提唱した西回り航路は危険が大きすぎるために省みられずにポルトガルへ売却されることになる。しかしマゼランが「地球が丸い」ことを実証したことはヨーロッパの大航海時代にとって非常に大きな意味があったと言える。なお、マゼランを殺したラプ=ラプはフィリピンで侵略者を撃退した英雄として伝説になっている。
マゼランが発見した海峡はマゼラン海峡と呼ばれるようになり、またマゼランが航海中に観測したという話から大マゼラン銀河、小マゼラン銀河の名がついた。また、太平洋は、マゼランが一度も嵐に合うことなく、大きな海を乗り切った静かなる海という意味で名付けられたといわれる。
[編集] 関連書籍
- 「マゼラン ツヴァイク伝記文学コレクション」(著:シュテファン・ツヴァイク、訳:関 楠生・河原忠彦、みすず書房)ISBN 4-622-04661-X
[編集] 関連項目