ヴェネツィア共和国

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最も高貴な共和国ヴェネツィア
Serenìsima Repùblica de Venessia
ラヴェンナ総督領 697年 - 1797年 オーストリア帝国
フランス領イオニア諸島
チザルピーナ共和国
ヴェネツィア共和国の国旗 ヴェネツィア共和国の国章
(国旗) (国章)
国の標語: Pax tibi Marce, evangelista meus
汝、我が福音伝道者、マルコに平和を
国歌: Juditha triumphans
勝利のユディータ
ヴェネツィア共和国の位置
ヴェネツィア共和国の領土の変遷
言語 ヴェネト語ラテン語イタリア語
その他口語としてギリシア語南スラヴ語群など
宗教 カトリック
首都 エラクレーア
(697年 - 742年)

マラモッコ英語版
(742年 - 810年)

ヴェネツィア
(810年 - 1797年)
ドージェ
697年 - 717年 パオルッチョ・アナフェスト英語版(初代)
1789年 - 1797年ルドヴィーコ・マニン英語版(120代)
面積
15世紀末推定70,000km²
人口
15世紀末推定2,100,000人
変遷
建国 697年
コンスタンティノープル包囲戦1204年
レパントの海戦1571年
パッサロヴィッツ条約1718年
レオーベン条約・滅亡1797年4月17日
通貨ドゥカートリラ
現在イタリアの旗 イタリア
スロベニアの旗 スロベニア
クロアチアの旗 クロアチア
モンテネグロの旗 モンテネグロ
アルバニアの旗 アルバニア
ギリシャの旗 ギリシャ
キプロスの旗 キプロス
 ウクライナ
ヴェネツィア共和国(薄赤)の領域はポー平原北部からイストリア半島ダルマチアに及んでいた。1494年時点の状況

最も高貴な共和国ヴェネツィア(もっともこうきなきょうわこくヴェネツィア、ヴェネト語: Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)イタリア語: Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(ヴェネツィアきょうわこく、Repùblica de VenessiaRepubblica di Venezia)は、現在の東北イタリアヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「晴朗きわまる所[1]」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。

年表[編集]

政府[編集]

15世紀から16世紀にかけてのヴェネツィア共和国の領域。濃赤は15世紀初頭までの領土、赤は16世紀初頭までの領土、ピンクは一時的に領有していた土地を示す。黄色い領域は制海権を持っていた海域、オレンジの線は主要な商業航路、紫の四角は商業拠点があった場所を示す。

初期のヴェネツィア共和国では、ドージェが独裁的な権限を持っていた。しかし後にドージェは就任の際に宣誓を求められるようになり、結果として権力は大評議会と共有されることになった。大評議会の定足数は480であり、ドージェも大評議会も互いに相手を無視して決定を行うことはできなかった。

1175年リアルト英語版の有力貴族が小評議会を設立した。これは6人から成るドージェの顧問である。また、1179年には3人から成る最高裁判所Quarantiaが設けられた。これらは1223年にシニョリーア(Signoria)として統合された。これはドージェを含めて10人で構成され、政府の中枢であった。ドージェが死亡した際には、その葬儀で「ドージェは死んだ。しかしシニョリーアは健在である」と述べられた。また、2人から成るサピエンテス(sapientes)も設立され、後に6人に拡張された。これは他の集団と合わせてコッレージョ(collegio)を構成し、政府の実行部門となった。1229年に設立されたコンシリオ・デイ・プレガディ(Consiglio dei Pregadi)は貴族院のようなものであり、大評議会により選出された60名の議員が構成した[2]。これらの機関のために、ドージェの実権は限定的なものとなり、実際の職権は主として大評議会に委ねられた。1335年十人委員会が設立され、政府の中枢として、非公開の活動を行った。1600年頃には、十人委員会の影響力が大評議会を凌ぐようになり、その権限は縮小された。

トマス・アクィナスは、ヴェネツィア共和国の政体は共和制とドージェによる君主制、そして貴族院による貴族政治と大評議会による民主政治の複合政体であると考えた[3]。また、ニッコロ・マキャヴェッリは、『君主論』でヴェネツィアを共和制国家に分類した[4]

1454年に3人の調査官からなる情報機関が設立され、諜報、防諜、および国内監視のための情報網を充実させた。これは非合法な政体変革の企て等を阻止することが目的であった。調査官の一人は赤い外套を着用することからイル・ロッソ(赤い男)と呼ばれ、ドージェの顧問により任命された。他の2名はイ・ネグリ(黒い男)と呼ばれる黒い外套の人物であり、十人委員会に任命される。この情報機関は、徐々に十人委員会の影響下に置かれるようになった[2]

1556年にprovveditori ai beni incultiが設立され、農業技術や、農業技術開発への個人投資が促進された。これは、16世紀穀物価格上昇を受けてのことである。

元首[編集]

Corno Ducale(ドージェの冠)を被ったレオナルド・ロレダンの肖像画。ジョヴァンニ・ベリーニ、1501年以降、ナショナル・ギャラリー (ロンドン)蔵。

ヴェネツィア共和国の元首はドージェヴェネト語: Doxe, イタリア語: Doge)と呼ばれ、その語源はラテン語: Duxであり、軍の指揮官または公爵を表す。ドージェは貴族による選挙で決定され、終身制である。年配者が選ばれることが多い。日本語で統領総督と訳されることもある。

選挙[編集]

ドージェフランチェスコ・ドナート英語版の金貨。ドージェがヴェネツィアの守護聖人マルコの前に跪いている。

初期のヴェネツィア共和国では、ドージェの選任方法は明確には定められておらず、有力な家門から選出するという慣例があるのみであった。それ故に、初期のヴェネツィアではドージェが自身の血縁者に後を継がせようとする傾向が強かった。そこで、ドージェが世襲制となることで共和制が崩壊することへの危機感から、ドージェが後継者を指名することを禁じる法律が制定された。1172年には、ドージェは40人の委員による選挙により決められることとなった。この委員は大評議会から選ばれた4人により選任され、この大評議会は12人の委員会が毎年任命する。1229年に支持が20対20となり決着しなかったため、これ以後、委員の数は41とされた。

1268年に制定された選挙方法では、まず30人の委員がにより大評議会から選ばれる。この30人はさらに籤で9人に絞られ、この9人が40人を選び、そしてその40人は籤で12人に減らされ、その12人が25人の委員を選ぶ。その25人は籤で9人となり、この9人が45人を定める。45人は11人に絞られ、この11人が、実際にドージェを決める41人を選任するのである[5]。この複雑な制度のために、有力家門といえどもドージェの位を自由にすることは難しくなった。この制度は1797年の共和国滅亡まで維持された。

新しく選ばれたドージェは、就任の宣誓を行う前に、ヴェネツィア市民からの承認を受けなければならなかった。実際には上述の選挙によりドージェの位は確定するのだが、それでも形式的にはヴェネツィア市民がドージェを決めていたのである。

制約[編集]

ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿

共和国初期にはドージェは独裁的な権力を持っていたが、1268年にその権限を厳しく監視する法律が制定された。外国からの公文書を開封する際には他の官吏の立合いが求められ、国外に私有財産を保有することは禁じられた。

ドージェの任期は、一部には中途で解任された例もあったが、通常は終身であった。ドージェが死亡した後は、その生前の職務について厳しい調査が行われた。この際には、不正の証拠がないかどうか、私有地も調べられた。ドージェに与えられる報酬は決して高額ではなく、在任中も交易などで収入を得る必要があった。こうした収入も、調査の対象となった。

1268年7月7日から、ドージェが空位の間は、参事官がドージェの職務を代行することになった。

式典[編集]

16世紀に行われたドージェの大行進

ドージェには様々な式典を執り行う義務があったが、その中で最も重要なものは「海との結婚」であった。これは指輪をドージェの公式座乗船ブチェンタウロからアドリア海に落とすものであった。この祭礼の始まりは、ダルマチア征服を記念してピエトロ・オルセオロ2世英語版1000年昇天祭で行ったものであった。教皇アレクサンデル3世神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世1177年にヴェネツィアを訪問した後、この祭典は、より盛大に行われるようになった。

ドージェは、他にもサン・マルコ広場から始まる大行進を行った。この行進は下級の公務員が先頭に立ち、順に上級の公務員が続き、ドージェが中央を占め、そして上級の貴族から下級の貴族へ続いた。フランチェスコ・サンソヴィーノ英語版は、1581年にこの行列の詳細を記述し、チェーザレ・ヴェッチェッリオ英語版1586年にこの大行進の絵を描いた。

14世紀以降、ドージェが式典の際に被った冠はCorno Ducaleと呼ばれるものである。これは宝石細工の施された錦のボンネットであり、先が角のように尖っていた。これは軟らかな麻のカマウロ英語版の上に被られた。復活祭の翌日にドージェはサン・マルコ広場からサン・ザッカリア修道院まで行進し、そこで女子修道院長から、修道女が織った新しいカマウロを贈られた。

大評議会[編集]

大評議会はヴェネツィア共和国の最高決定機関であり、1300年前後に制定されたセッラータと呼ばれる一連の法的措置によって、大評議会議員は貴族階級の世襲制とされていた[6]。国家元首であるドージェも含め重要な国家官職はすべて大評議会議員の中から選ばれた[6]

大評議会には、十人委員会、四十人委員会、シニョリーアおよびサン・マルコ財務官や司法長官が属していた。

サン・マルコ財務官[編集]

サン・マルコ財務官イタリア語: Procuratori di San Marco)当初はサン・マルコ寺院の施設及び財産を管理する責任者として創設された官職。のちに、サン・マルコ寺院に寄進される莫大な資産や財宝、国内で徴収される教会税、政府の税収や戦利品を管理・運営する職責も与えられたことから、国家官職の中でもドージェに次ぐ大きな権力を持つようになった[7]

十人委員会[編集]

フランチェスコ・アイエツの「ドージェマリーノ・ファリエロの死」における十人委員会 (1867)

十人委員会(ヴェネト語: Consejo de i Diexeイタリア語: Consiglio dei Dieci)は1310年に設立され、1797年の共和国滅亡まで存続した政府の中枢機関である。その活動はしばしば秘密にされたが、市民からは効率的かつ公正な機関であると認識されていた。十人委員会は、1310年7月10日にバイヤモンテ・ティエポロイタリア語版が共和国に対して起こした反乱を鎮圧するために、臨時職として設けられた。当初は2ヶ月間の暫定機関であったが、期限の更新が繰り返され、1335年に常設化された。

十人委員会の公式な任務は、共和国の治安維持ならびに政府転覆および汚職の防止である。しかし、組織が小さく迅速な決定が可能なため、その職務範囲は徐々に拡大し、1457年の時点では政府の業務全般を取り扱うようになった。特に、十人委員会は共和国の外交および諜報活動を監督し、軍を管理し、そして奢侈禁止令を始めとする様々な法律の執行を司った。また、十人委員会は不道徳な行い、特に賭博の取り締まりを試みたが、これはうまくいかなかった。

四十人委員会[編集]

四十人委員会英語版ヴェネト語: Cuarantiaイタリア語: Quarantia)は大評議会議員から選ばれ司法権限を有していた。

シニョリーア[編集]

シニョリーア英語版イタリア語: Serenissima Signoria)は、ドージェ、6名の評議員(Minor Consiglio)、四十人委員会の3名の代表から構成される合計10名の執政機関。日本語で政庁[8] と表記されることもある。

経済[編集]

ヴェネツィア共和国は、イタリア最大の水系であるポー川を含む河川と、アドリア海の制水権を獲得しつつ商業を拡大させた。のちにはイオニア海、東地中海へと領地を拡大して支配力を高めた。

食料交易[編集]

食料を自給できないヴェネツィアにとって、初期の交易では食料の調達が特に重要とされた。ポー川をはじめとして内陸からアドリア海に流れる河川にそって交易が行われ、イタリア王国内にあるヴェネツィアの修道院や貴族の土地や、内陸の都市から食料を入手した。重要な河川には警備のための要塞や艦隊が用意された。

海路では、東ローマ帝国の食料交易などに加えて、教皇領のあるマルケ地方シチリア王国ラテン帝国アカイア公国などのギリシア諸国、クレタ島などから食料を輸入した。さらには、小麦、ワイン、オリーブ油、いちじく、チーズ、塩などの食料を海外から内陸都市へ再輸出することを独占し、対立する都市には禁輸を行うなどの政治的手段も用いた[9]

東ローマ帝国での交易[編集]

ヴェネツィア商人は東ローマ帝国内での特権によって、帝国内の都市間や、シチリア王国、十字軍国家、エジプトなどの諸国家と交易を行った。胡椒や絹などの東方貿易の商品のほか、オリーブ油、ワイン、綿、羊毛皮、インディゴ、武具、木材、奴隷などが取引された。帝国内では大土地所有者が支配的地位にあり、商人は排除されていたため、帝国内で多大な利益をあげた。

黒海での交易[編集]

13世紀には、黒海東部にモンゴル人国家のジョチ・ウルスイル・ハン国が成立した。一方で地中海ではマムルーク朝によって十字軍国家が消滅し、教皇はキリスト教徒とマムルーク朝との交易を禁じた。このためヴェネツィアは東方貿易の商品を黒海経由で取引するようになり、黒海は香辛料、絹、奴隷などの一大供給地となった[10]

地中海西部での交易[編集]

イベリア半島でレコンキスタが進行し、ジブラルタル海峡での交通が安定すると、ヴェネツィアもロンドンブリュージュまで商船を送るようになった。地中海と北ヨーロッパは、それまでの陸路にかわって海路が活発となる。イタリア北部では綿工業が盛んになり、ヴェネツィアは原料と製品の輸送を行った。

本土の市場[編集]

カナル・グランデに面したリアルト市場で取引が行われた。商船が帰港し、出航するまでの間に輸入商品の販売と輸出商品の購入がされた。地中海は冬は航海に適さず、夏と冬に取引が多かった。

金融[編集]

商業金融として、東ローマ帝国法の影響を受けたコレガンツァ(同輩組合)があった。コレガンツァには融資者とされる者の双方が出資する形式と、片方のみが出資する形式があった。前者はソキエタス、後者はコンメンダとも呼ばれる。双方が出資するコレガンツァは融資者が3分の2、商人が3分の1を出資し、利潤は折半した。片方のみ出資するコレガンツァは融資者が全額を出資し、利潤は融資者が4分の3、商人が4分の1を受け取った。資本の増加とともに片方のみ出資するコレガンツァが増え、資本がなくても能力がある者によって商人階層が拡大した。のちには海上貸付や為替などの金融も用いられるようになった。

通貨[編集]

ヴェネツィア共和国の通貨単位はリラ(: lira)であり、複数形はlireである。1807年までは独自のヴェネツィア・リラを発行していた。1リラは20ソルド(: soldo、複数形soldi)であり、1ソルドは12デナロ(: denaro、複数形denari)である。ドゥカートは124ソルドであり、「ゼッキーノ」(: zecchino)としても知られるtalleroは7リラである。1807年、ナポレオンのイタリア王国の下でイタリア・リラが通貨として定められた。

18世紀後半には、以下の硬貨が鋳造された。ビロン硬貨として6デナロおよび12デナロ。銀貨として5, 10, 15,および30ソルド。 1/8, 1/4, 1/2,および1ドゥカート、1/8, 1/4, 1/2,および1 tallero。金貨として1/4, 1/2,および1ドゥカート、1 doppia,そして 4, 5, 6, 8, 9, 10, 12, 18, 20, 24, 25, 30, 40, 50, 55, 60, 100, および105ゼッキーノ。

1797年の臨時政府は10リラ銀貨を発行し、続くオーストリアによる占領下では、1/2, 1, 1.5,および2リラ銀貨と1 zechinno金貨が1800年から1802年の間に発行された。

会計監査[編集]

イタリアでは都市国家によって組合の構成が異なり、会計にも影響を及ぼした。ヴェネツィアでは、貴族の血縁を中心とした家族組合(ソキエタス)による口別損益計算が行われた[11]ルカ・パチョーリがヴェネツィアで出版した数学書『スムマ』(1494年)は、複式簿記を最初に体系化・理論化した書籍でもあった[12]。イタリア諸都市では13世紀には職業会計士(rationator)が営利事業の会計と監査に関わっており、ヴェネツィアでは1581年に世界初の職業会計士協会が設立され、1585年に会計専門学校(Collegio dei Raxonati)も設立された。これは公会計と監査の人材育成という目的があった[13]

ヴェネツィアの簿記は国外に伝わり、15世紀にはニュルンベルクを中心とする南ドイツの商人が複式簿記を採用した。フッガー家ヤーコプ・フッガーや、フッガーの会計主任になるマッティウス・シュヴァルツ英語版もヴェネツィアで複式簿記を学び、フッガー家の繁栄の一因となった[14]

交通・通信[編集]

船舶[編集]

13世紀以降の地中海では船舶の種類が増え、コグ船ガレー商船などが導入された。ヴェネツィアはガレー商船が他国に比べて多く、統一規格にもとづいて国立造船所(アルセナーレ)で建造し、国家の所有のもとで定期航海を行った。船団の利用権は有力商人たちの競売にかけられ、ガレー商船は積載量が小さいため高価軽量の商品を運んだ。海軍によって安全を確保し、定期的に船団が運営される点は、ヴェネツィアのガレー商船の特徴だった。一方で、帆船は多くが私立造船所で建造され、ヴェネツィア人以外にも用いられた。帆船は積載量が大きいため、食料、綿や羊毛などの原料、資材などの低価格で重量のある商品を運んだ。

商業通信[編集]

13世紀以降は、それまでの行商から、通信による取引への移行が進んだ。商人は船便による文書で連絡を取り、遠方の市場にいる代理人に取引を頼んだ。15世紀にダマスクスの代理人からヴェネツィアへ送られた文書としては、商業書簡、勘定書、価格表、購入報告書の4種類の記録がある。このように文書によって遠方の取引を行っていた[15]

領土[編集]

ヴェネツィア共和国の領土は、大きく分けてドガードイタリア語版英語版スタート・ダ・マールドミニ・ディ・テッラフェールマイタリア語版英語版の3つに分かれる。

ドガート[編集]

ドガードイタリア語版英語版は、いわゆるヴェネツィア共和国の首都、あるいは本国と呼ぶべき場所である。現代のヴェネツィア市が該当する。

スタート・ダ・マール[編集]

スタート・ダ・マールは、イストリア半島ダルマツィア地方を筆頭に、クレタ島ヴェネツィア領クレタ)やキプロス島ヴェネツィア領キプロス英語版ギリシア語版)などの海外植民地を指す。

後にオスマン帝国の台頭により、ギリシャやエーゲ海の島々、キプロス島、クレタ島などを奪われ、共和国滅亡時にはイストリア半島やダルマツィア地方などのアドリア海沿岸地域のみが残っていた。

ドミニ・ディ・テッラフェールマ[編集]

ドミニ・ディ・テッラフェールマイタリア語版英語版は、現代のヴェネト州を中心にフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州西部やロンバルディア州東部などのイタリア北東部地域においてヴェネツィア共和国が統治した属領を指す。

ミラノ公国フェラーラ公国マントヴァ侯国教皇領などと境を接しており、イタリア戦争でたびたび戦場になった。共和国滅亡時にも、フランス革命戦争によりナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍とオーストリア軍の戦場になっている。

出版[編集]

ヨハネス・グーテンベルク活版印刷が1460年代からイタリアに導入され、ヴェネツィアがヨーロッパ最大の印刷センターとなった。ヴェネツィアの印刷技術は鮮明さ、紙質、字体で定評があり、現在はインキュナブラと呼ばれる印刷物が多数製作された[16]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ 『伊和中辞典(第2版)』小学館、1983年、1427頁。
  2. ^ a b Catholic Encyclopedia, "Venice", p. 602.
  3. ^ The Political Ideas of St. Thomas Aquinas, Dino Bigongiari ed., Hafner Publishing Company, NY, 1953. p. xxx in footnote.
  4. ^ Niccolò Machiavelli, The Prince, trans. & ed. by Robert M. Adams, W.W. Norton & Co., NY, 1992. Machiavelli Balanced Government
  5. ^ Miranda Mowbray and Dieter Gollmann. “Electing the Doge of Venice: Analysis of a 13th Century Protocol”. 2007年7月12日閲覧。
  6. ^ a b 桃山学院大学国際教養学部 和栗珠里 ヴェネツィア共和国の外国人貴族 https://ci.nii.ac.jp/naid/110007046766
  7. ^ 桃山学院大学国際教養学部 和栗珠里 16世紀ヴェネツィアの門閥家系 : サン・マルコ財務官就任者の分析より https://ci.nii.ac.jp/naid/110007818653
  8. ^ ハリントンの統治原理に関する一考察 http://www.law.nihon-u.ac.jp/publication/pdf/kiyo/54/05.pdf
  9. ^ 齊藤「ヴェネツィアの市場」 p100
  10. ^ 齊藤『中世後期イタリアの商業と都市』
  11. ^ 渡邉 2014, pp. 23–24.
  12. ^ 渡邉 2014, pp. 98–100.
  13. ^ 山浦 2008, p. 38.
  14. ^ 中野, 清水編 2019, pp. 46–47.
  15. ^ 齊藤「ヴェネツィアの市場」 p118
  16. ^ 雪嶋 2002, pp. 2–5.

参考文献(著者五十音順)[編集]

日本語文献(著者五十音順)[編集]

  • 齊藤寛海  『中世後期イタリアの商業と都市』 知泉書館、2002年。
  • 齊藤寛海 著「ヴェネツィアの市場」、山田雅彦 編『伝統ヨーロッパとその周辺の市場の歴史 市場と流通の社会史1』清文堂出版、2010年。 
  • 中野常男; 清水泰洋 編『近代会計史入門 (第2版)』同文舘出版、2019年。 
  • 山浦久司『会計監査論』中央経済社、2008年。 
  • 雪嶋宏一パチョーリ『スムマ』の書誌学的位置付け」『Accounting, Arithmetic & Art Joumal』、日本パチョーリ協会、2002年11月、2-5頁、2020年8月3日閲覧 
  • 渡邉泉『会計の歴史探訪 - 過去から未来へのメッセージ』同文館出版、2014年。 

外国語文献[編集]

  • Patricia Fortini Brown. Private Lives in Renaissance Venice: art, architecture, and the family (2004)
  • Chambers, D.S. (1970). The Imperial Age of Venice, 1380-1580. London: Thames & Hudson. The best brief introduction in English, still completely reliable.
  • Garrett, Martin, "Venice: a Cultural History" (2006). Revised edition of "Venice: a Cultural and Literary Companion" (2001).
  • Grubb, James S. (1986). "When Myths Lose Power: Four Decades of Venetian Historiography." Journal of Modern History 58, pp. 43-94 — the classic "muckraking" essay on the myths of Venice.
  • Deborah Howard and Sarah Quill. The Architectural History of Venice (2004)
  • John Rigby Hale. Renaissance Venice (1974), ISBN 0571104290
  • Lane, Frederic Chapin. Venice: Maritime Republic (1973) — a standard scholarly history with an emphasis on economic, political and diplomatic history; ISBN 0801814456
  • Laven, Mary, "Virgins of Venice: Enclosed Lives and Broken Vows in the Renaissance Convent (2002). The most important study of the life of Renaissance nuns, with much on aristocratic family networks and the life of women more generally.
  • Mallett, M. E. and Hale, J. R. The Military Organisation of a Renaissance State, Venice c. 1400 to 1617 (1984), ISBN 0521032474
  • Martin, John Jeffries and Dennis Romano (eds). Venice Reconsidered. The History and Civilization of an Italian City-State, 1297-1797. (2002) Johns Hopkins UP — The most recent collection on essays, many by prominent scholars, on Venice.
    • Drechsler, Wolfgang (2002). "Venice Misappropriated." Trames 6(2), pp. 192-201 — A scathing review of Martin & Romano 2000; also a good summary on the most recent economic and political thought on Venice.
  • Muir, Edward (1981). Civic Ritual in Renaissance Venice. Princeton UP — The classic of Venetian cultural studies, highly sophisticated.
  • David Rosand. Myths of Venice: The Figuration of a State (2001) — how writers (especially English) have understood Venice and its art
  • Manfredo Tafuri. Venice and the Renaissance (1995) — architecture
  • アポストロ・ゼーノ, Compendio della storia Veneta, self-published, Venezia, 1847.
  • WorldStatesmen-Italy
  • Benvenuti, Gino (1989). Le repubbliche marinare. Rome: Newton Compton 
  • Norwich, John Julius (1982). A History of Venice. New York City: Alfred A. Knopf 
  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Venice". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 27 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 995-1007.

一次史料[編集]

  • Contarini, Gasparo (1599). The Commonwealth and Gouernment of Venice. Lewes Lewkenor, translator. London: "Imprinted by I. Windet for E. Mattes." — The most important contemporary account of Venice's governance during the time of its blossoming; numerous reprint editions; online facsimile.

関連文献[編集]

関連項目[編集]