イタリア戦争

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イタリア戦争
Battle of Pavia, oil on panel.jpg
パヴィアの戦い
1494年1559年
場所 イタリア全域
結果 最終的な結果
衝突した勢力
Flag of the Duchy of Milan (1450).svg ミラノ公国/Flag of Most Serene Republic of Venice.svg ヴェネツィア共和国/Flag of Florence.svg フィレンツェ共和国/Emblem of the Papacy SE.svg 教皇領/Coat of arms of the House of Este (1471).svg フェラーラ侯国/Bandera de Nápoles - Trastámara.svg ナポリ王国/Armoiries Espagne Catholique.svg カスティーリャ・アラゴン/Royal Standard of the Kingdom of France.svg フランス王国/神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国/イングランド王国の旗 イングランド王国/スコットランド王国の旗 スコットランド王国/Ottoman flag.svg オスマン帝国/Early Swiss cross.svg スイス都市同盟
イタリア戦争

イタリア戦争は、16世紀に主にハプスブルク家神聖ローマ帝国スペイン)とヴァロワ家フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争である。戦争の期間は一般には1521年から1544年とされ、広く取って1494年から1559年とされることもあるが、戦争の期間や区分けは論者によって諸説あり、必ずしも一定していない。

ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執があったが、1519年カール5世神聖ローマ皇帝に即位し、スペイン王を兼ねていたため、重大な脅威を受けることになったフランスは、戦略上イタリアを確保することが必要になった。

異教徒であるオスマン帝国の存在や、折から始まった宗教改革もこの混乱に輪をかけた。イタリア各国も利害が相反してしばしば対立して、一致して対抗することなくハプスブルク家あるいはヴァロワ家と結んだため、付け入る隙を与えることになった。16世紀のイタリアはルネサンス文化の最盛期でもあるが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになる。

目次

前史[編集]

1435年以降、ナポリ王国を支配していたフランス系のアンジュー家(アンジュー=シチリア家、後にヴァロワ=アンジュー家)とアラゴン王家トラスタマラ家)が争い、1443年、ナポリはアラゴン王家の支配下に入った。

15世紀末以降、フランスがナポリあるいはミラノ継承を主張し、イタリアに侵攻した。一方のハプスブルク家は神聖ローマ皇帝としてローマ・カトリックの擁護者を自認していた。
  • 1494年:フランス王シャルル8世が「ヴァロワ=アンジュー家からナポリを継承した」と主張し、イタリアに遠征。この過程でメディチ家フィレンツェから追放された。翌年ナポリを占領するが、教皇アレクサンデル6世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、アラゴン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を結び対抗したため、撤退する。
  • 1499年:フランス王ルイ12世が「父オルレアン公からミラノを継承した」と主張し侵攻(オルレアン公はヴィスコンティ家の血を引いていた)。スフォルツァ家イル・モーロを幽閉、ミラノ公国を征服(1513年まで)。
  • 1503年:スペインのコルドバ将軍がナポリを征服。以後、スペインのナポリ総督が支配する。
  • 1504年:ブロア条約によりフランスがナポリを放棄。
  • 1511年:教皇ユリウス2世がアラゴン、ヴェネツィア、イングランド、スイスと神聖同盟を結び、フランスに対抗。
  • 1513年:ミラノからフランス軍が追放される。スフォルツァ家が一時復帰。
  • 1515年:フランス王フランソワ1世がミラノに侵攻。スフォルツァ家を追放し、ミラノを支配する。
  • 1519年:神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の死後、孫のスペイン王カルロス1世とフランス王フランソワ1世が皇帝選挙で争う。カルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世として即位し、フランスはハプスブルク家に両側(ドイツ・スペイン)から挟まれる形になった。

以上の1494年以降の戦闘も、広義にはイタリア戦争に含めることがある。

イタリア戦争[編集]

1521年以降、ヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)がイタリアを巡り争った期間を一般にイタリア戦争という(1544年まで、あるいは1559年にカトー・カンブレジ条約が結ばれるまでの期間)。

第1次イタリア戦争(1521年 - 1526年)
第2次イタリア戦争(1526年 - 1529年)
  • 1526年:釈放されたフランソワ1世はただちに条約を撤回。ハプスブルク家に反旗を翻し、教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)、ミラノ、ヴェネツィア、イングランドヘンリー8世コニャック同盟を結ぶ。
  • 1527年:コニャック同盟に報復のため神聖ローマ皇帝軍がローマを攻める(ローマ略奪)。ローマは蹂躙され、教皇庁は屈服する。一方、ローマ略奪の報が伝わると、フィレンツェからメディチ家が追放される。
  • 1529年:ジェノヴァがカール5世の支援を受け、フランスの支配下を脱する。
ボローニャにイタリア諸国(メディチ家追放中のフィレンツェを除く)が集まり、カール5世に服することを決める。
オスマン帝国による第一次ウィーン包囲(9月 - 10月)。
貴婦人の和約」でフランスは賠償金を支払い、イタリアを放棄(10月)。
  • 1530年:教皇クレメンス7世がカール5世に戴冠式を行う。
フィレンツェが皇帝軍に包囲され、凄惨な戦闘の末に敗北。メディチ家が復帰する(メディチ家はハプスブルク家との結びつきを深め、フィレンツェの支配体制を確立する)。

こうしてイタリアにおけるハプスブルク家の優位が確定する。これ以降もフランスとの戦闘は続くが、覆ることはなかった。フランソワ1世はカール5世に対抗するため、カトリックであるにもかかわらずドイツのルター派プロテスタント諸侯を支援し、異教徒のオスマン帝国皇帝スレイマン1世ともひそかに同盟を結ぶ。

第3次イタリア戦争(1536年 - 1538年)
  • 1536年:ミラノのスフォルツァ家に跡継ぎがないため、フランスはミラノ継承を主張してカール5世と争う。フランス・ドイツ国境付近で戦闘。
  • 1538年:教皇パウルス3世(在位:1534年 - 1549年)の仲介により10年間の休戦。
第4次イタリア戦争(1542年 - 1544年)
  • 北フランスが主戦場になった。フランスはオスマン帝国と同盟。
  • 1544年:フランス軍は北イタリアのピエモンテで勝利を収めたが、ドイツ・フランス国境方面で敗れる。「クレピーの和」を結ぶ。
その後
  • 1547年:フランソワ1世が死去し、アンリ2世が即位。
  • 1554年 - 1557年:フィレンツェがフランスと結んだシエナを攻撃、制圧する。
  • 1556年:カール5世が退位し隠棲。息子のフェリペ2世がスペイン、ナポリ、シチリア、ネーデルラントを継承し、ハプスブルク家のスペインがイタリアの大部分を支配することになる。
  • 1559年:カトー・カンブレジ条約。フランスがイタリアへの権利を放棄し、スペインのナポリ統治が確定する。また神聖ローマ帝国(オーストリア・ハプスブルク家)がミラノ公国を領有することが認められる。これによってイタリア戦争は完全に終結する。

一方のフランスは、カトリックとプロテスタントの抗争で1562年以降は内戦状態(ユグノー戦争)になる。

イタリア戦争以後のイタリア[編集]

イタリア半島は大部分が外国の勢力下というみじめな境遇に陥ってしまう。ルネサンス時代には先進国であったが、政治・社会的には立ち遅れた状態になってしまう。

ローマ教皇[編集]

フィレンツェ(トスカーナ大公国)[編集]

ヴェネツィア共和国[編集]

  • ヴェネツィア共和国はスペインの支配下には入らず、独立を保つ。
  • 1571年:レパントの海戦(オスマン帝国とヴェネツィア共和国、ローマ教皇、スペインの軍が戦う)
  • 1669年:オスマン帝国にクレタ島を奪われる。
  • 1797年:ナポレオンが侵入し、共和国滅亡。

ナポリ王国[編集]

ミラノ[編集]

  • 1535年:ミラノはスペインによって征服され、主権を持つミラノ公国はここに終焉した。
  • 1559年:カトー・カンブレジ条約により神聖ローマ帝国領と確定。スペイン軍が駐留する。
  • その後スペイン領になる。
  • 1714年:ユトレヒト条約によりオーストリア領になる。

関連項目[編集]