フリードリヒ・エンゲルス

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フリードリヒ・エンゲルス
フリードリヒ・エンゲルス(1893年)
生誕 1820年11月28日
死没 1895年8月5日(満74歳没)
時代 19世紀哲学
地域 西洋哲学
学派 唯物論
マルクス主義
研究分野 政治哲学歴史哲学経済学階級闘争資本主義
主な概念 科学的社会主義の共同創設者(カール・マルクスと共に)、疎外 (Marx's theory of alienation) と労働者の搾取、史的唯物論
署名
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フリードリヒ・エンゲルスFriedrich Engels, 1820年11月28日 - 1895年8月5日)は、ドイツ社会思想家政治思想家ジャーナリスト実業家共産主義者、軍事評論家、革命家、国際的な労働運動の指導者。

カール・マルクスと協力して科学的社会主義の世界観を構築、労働者階級の歴史的使命を明らかにし、労働者階級革命による資本主義がもたらした発達した生産力の継承と資本主義そのものの廃絶、共産主義社会の構築による人類の持続的発展を構想し、世界の労働運動、革命運動、共産主義運動の発展に指導的な役割を果たした。

人物像[編集]

若い頃より活動的で、正義感と勇気があり、終生マルクスの誠実な友人であったと共に、病にあって苦しんだ死の間際まで、周囲への思いやりと闊達なユーモアを欠かさなかった。工場経営者として地元経済界との交流もそつなくこなし、その間ではエンゲルスは酒のよくわかる、乗馬好きの快活な大男だった。

エンゲルスは、軍事の分野に特に通暁し、マルクスは、その軍事分野への造詣と博学、軍事的な国際関係の分析力に敬意を表して「マンチェスターの将軍」と呼んでいた。マルクスが持ち込んだ百科事典『ニュー・アメリカン・エンサイクロペディア』の原稿執筆の仕事を2人で分担した際には、エンゲルスは「軍隊」の項目を担当し、その知識を総動員して長大な軍事史を執筆した。マルクスは、その原稿を評して「その分量には頭に一撃をくらったような思い」と述べ、また、当初記事は匿名であったために、「これを執筆したのはスコット将軍であろう」という噂が流れたという。

また、エンゲルスは語学に堪能であった。コミューンのある戦士は「エンゲルスは20か国語で言葉を詰まらせる」と述べた。エンゲルスのマルクスへの手紙の中には、マルクスのロシア語の習熟を喜ぶエンゲルスの言葉を見ることができるほどである。エンゲルスの語学力は、マンチェスター時代のビジネスにおいても大いに役立った。エンゲルスは、商売にかかわる諸国への通信業務について、何か国語をも操り、会社の発展に大きく貢献した。エンゲルスは、実務面からのみならず、学問的にも言語に関心を持ち、ドイツの古語のほか、エンゲルスのヨーロッパ諸国の言語に関する知識は方言にまで及んだ。

エンゲルスは、科学的社会主義を継承する後輩たちに対して、年老いてなお、若々しい精神で接した。時には教師として、時には謙虚に、その博学と戦士の魂とを以て、志高き青年たちに刺激を与え、激励し、鼓舞した。フランツ・メーリングは、老エンゲルスのその若さに感嘆し、「エンゲルスの最盛期は老年時代だった」と述べた。後にエンゲルスと思想的に逆の立場に立ったコンラート・シュミットは、エンゲルスとの邂逅について、「学者的な杓子定規も、もったいぶって偉そうに見せる内気も、うぬぼれも全くなかった」と、エンゲルスの死後、思い出を語っている。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

若き日のエンゲルス(1840年)

紡績工場を共同経営する父親のもと、バルメン・エルバーフェルト(現在のヴッパータール)に生まれた。8人兄弟の長男である。青年期は、学問が優秀でありながら、書斎に引きこもることを好まない、活発で社交的で好奇心旺盛であった。エンゲルスは、封建的遺習の残る地域社会に反発を覚えながらも、弟と、特に母と妹に対しては終生愛情を持ち続けた。

1837年、エルバーフェルトギムナジウムを中退し、独立した父の仕事を手伝うようになる。のちに、ブレーメンのロイボルド商会でも働いた。1841年、兵役義務としてベルリン近衛砲兵旅団に入る。軍務の合間にベルリン大学で聴講し、ヘーゲル左派に加わった。

マルクスとの出会い[編集]

マルクス一家と

1842年、父は、イギリスマンチェスターで共同経営する綿工場に従事させるために、彼をマンチェスターのエルメン・アンド・エンゲルス商会に送った。そこで彼は、都市の広範囲に拡がった貧困に衝撃を受けた。エンゲルスは都市の貧困の中で暮らす人々の生活の中に入り込み、取材と調査を進め、都市の人口やその状態の詳細などを考察した報告を執筆した。この報告は、後に1845年に『イギリスにおける労働者階級の状態』(Condition of the Working Class in England in 1844) として出版され、カール・マルクスによって労働者階級に関する歴史的な文献として極めて高い評価を与えられることとなった。エンゲルスはすでにこの頃より、持ち前の好奇心と行動力によって活発な取材を展開し、ジャーナリストとしての才を示している。

1842年にマルクスと初めて面会した時は、マルクスの誤解もあって、そっけないものであった。しかし交信はその後も続き、1844年にエンゲルスがイギリスよりドイツへ帰る途中、パリで二人は再会し、お互いが資本主義に関する同じ考え方を共有していることを認識し、仕事面でも親密な関係を築いていった。

1845年、エンゲルスは後にパリでマルクスによって編集・出版される『独仏年誌』(Franco-German Annals) という雑誌に、当時最先端の経済学であった古典派経済学を批判的に検討した自らの論文「国民経済学批判大綱」を寄稿した。この論文は、その執筆当時においては経済学の分野の研究においてマルクスに先んじていることを示しており、マルクスが経済学の道へ本格的につき進む契機となるとともに、のちのマルクスによって、経済学に対する歴史的パースペクティブから、その歴史的価値を高く評価された。

1845年1月、マルクスがフランス政府当局から強制国外退去を命じられた後、二人はヨーロッパの他の国よりも比較的表現の自由が保証されていたベルギーに活動の場を移した。1846年1月、エンゲルスとマルクスはブリュッセルにおいて、来るべき革命期に備えヨーロッパ各地の社会主義運動を団結させることを狙いとして、共産主義通信委員会 (Communist Correspondence Committee) を設立した。マルクスの思想に影響を受けたイギリスの社会主義者たちが、自分たちで新しく組織を形成した共産主義者同盟1847年 - 1850年)と呼ばれる会議をロンドンで開き、エンゲルスは代表として出席、その成熟した活動の戦略の形成に大きな影響を与えた。

1848年、エンゲルスとマルクスは共産主義の概要に関する大衆的なパンフレットを執筆した。エンゲルスの「共産主義の原理」に基づいて書かれたその12,000語あまりのパンフレットは6週間で完成、『共産党宣言』と題されたこの文献は1848年2月に出版された。同年3月、エンゲルスとマルクスはベルギーを追放されてドイツのケルンに移り、急進的な新聞『新ライン新聞』(Neue Rheinische Zeitung) を発刊した。

イギリス時代[編集]

1849年までに、二人はドイツのみならず大陸各国から追放され、やむなくイギリスに渡った。プロイセン当局はイギリス政府に対して、エンゲルスとマルクスを追放するように圧力をかけたものの、当時の英国首相ジョン・ラッセルは表現の自由に関してリベラルな考え方を持っていたためその要請を拒否した。

1848年の革命の機運が収束しヨーロッパの革命的情勢が後退して以降、イギリスは、エンゲルスにとってその後の生活の拠点となった。エンゲルスは、父親の工場のあるマンチェスターでエルメン・アンド・エンゲルス商会の経営に参画することとなった。1850年から1860年は一般社員、1860年から1864年まで業務代理人、そして1864年から1869年は支配人として勤め、最終的には共同経営者の地位にまで上り詰めた。

昼間は工場経営に従事する一方、夜は科学的社会主義の研究を進めた。政治経済情勢については、多くの新聞と雑誌からの情報収集を通じて分析を継続した。殊に、世界の戦争に関する軍事情勢分析には抜群の才を発揮し、この分野では、時にはマルクスに代わって情勢論文をマルクスの名で新聞社に寄稿することもあった。

エンゲルスは、マルクスの頭脳の偉大さを認め、早い時期からマルクスの理論の発展に対して重要な助言者の役割を担ってきたが、マンチェスター時代には、エンゲルスは、マルクスの主著『資本論』を完成させる上でこの上なく重要な助言者となった。資本主義経済の渦中で有能な経営者として頭角を現しつつあったエンゲルスは、マルクスに対してしばしば現実の経営の実情、資本家の実務や慣例について情報を提供した。時には、マルクスの要請に応じて、『資本論』の原稿に対して経営者の観点から助言や指摘を行った。

エンゲルスは、マルクスの手で完成を見た唯物史観の普遍性を社会から自然の領域に拡張することを試みた。政治経済と並んで自然科学についても学び、哲学的な唯物論の立場から、自然の弁証法の解明と論理的把握を試みた。エンゲルスの書き残した自然の弁証法に関する論考は、最新の自然科学が常に(今日でも)直面する哲学的危機に対して、重要な、多くの示唆を与えている。

このようなマンチェスター時代の「二重生活」は、約20年間に及ぶこととなったが、その間に得た報酬の少なくない部分をマルクスに仕送り、生活を支援した。亡命者として政府の監視の下貧困の極みにあったロンドンのマルクスとその家族の生活を何度となく救ったのはエンゲルスの財政的支援であった。1870年には、自らもロンドンに移住した。

マルクスの死後[編集]

晩年のエンゲルス(1891年)

1883年3月14日にマルクスが死去、葬儀は家族とエンゲルスら友人で計11人で行なわれた。このときのエンゲルスの弔辞は「カール・マルクスの葬儀」として残されている。

マルクスの死後、エンゲルスは、『資本論』に関するマルクスの遺稿の編集、それまでのマルクスとエンゲルス自身の著作の諸言語への翻訳に尽力した。当時の諸情勢と全世界の労働運動における自らの位置とを考慮し、エンゲルスは的確にもマルクスの主著『資本論』の完成をマルクス亡き後の自らの最重要課題と位置付けた。

実際、マルクスの主著『資本論』の第2巻および第3巻の刊行は、エンゲルスの知力と実務力なしには為しえなかった。遺稿は膨大な量にのぼり(一説では数m³にのぼったともいわれる)、その筆跡は解読が難しいもので、しかもその内容は著作としての完全な筋道をなしていない部分が多かった。内容の難しさのみならず、原稿が未完成であったことも編集を困難にした。エンゲルスは、これらマルクスの遺稿の編集を、晩年の視力の衰えと闘い、全世界の労働運動の助言者としての激務の合間を縫いながら進めた。長く困難な数年にわたる編集作業の末、『資本論』第2巻は1885年に、第3巻は1894年に刊行、マルクスの「遺産」を世に送り出した。

この間、エンゲルスは、『資本論』の編集とともに喫緊の政治情勢に対し諸国の労働者階級の組織に助言と助力を与えながら、自分が構想を温めていたいくつかの著作(例えば、「自然の弁証法」)についてはその著述を諦めている。エンゲルスの最晩年の大部分は、『資本論』の編集と刊行、そしてますます盛んになりつつあった諸国の労働運動に対する支援と助言に捧げられた。

エンゲルスは単なる『資本論』の編集者、マルクスの遺稿の整理執行人ではなかった。編集の最中に現れるマルクスの理論、殊に『資本論』に対する剽窃、中傷、誤解に対しては論陣を張った。『資本論』第2巻、第3巻のエンゲルスによる序文に、資本主義論の最前線でマルクスの理論の擁護に奮闘するエンゲルスの姿を垣間見ることができる。

また、エンゲルスは、資本主義の最新の発展段階の諸現象を分析するとともに、資本主義社会と労働者階級の最新の発展を観察し、それまでの自分とマルクスの活動を振り返り、未来社会への道筋の新しい見地を提示した。かつての潤色な革命への展望は、『資本論』の登場とともにより一層確固たる世界観となった唯物史観と、まもなく独占資本主義、帝国主義の段階を迎えんとしていた資本主義の急速な発達の現実の政治経済情勢分析の蓄積とによって、現実的な、したがってより具体的かつ政治的な歴史変革の必然性と民主主義の発展とに関する展望に置き換えられた。

エンゲルスの最晩年の到達は、『家族、私有財産、及び国家の起源』『フォイエルバッハ論(ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結)』『フランスにおける階級闘争 1895年版序文』「エルフルト綱領草案批判」ほか多くの著述と、マルクスの死後、多くの人物に対して語られたエンゲルスの書簡の中の言葉に表現されている。それらの中でエンゲルスは、自分たちの大局的な展望と行動・運動の正しさを正当にも主張すると共に、自分たちの置かれた情勢の諸事情から不可避的に生じたそれぞれの局面での誤りや限定的な正当性について率直に述べている。そのような振り返りも、自分たちが作り上げてきた世界史的運動の後世の継承者たちへの思いやりをもって語られている。

最晩年のエンゲルスは、減退する視力、そして困難な病と闘った。しかし、エンゲルスは、病床にあってもユーモアを絶やさず、明晰な頭脳を保ち続けた。声を出しての会話が困難になり、石板を使って対話をせざるを得なくなった最中にも、エンゲルスはなお、ユーモアと労働者階級に対する楽観的な展望を石板上に言葉として書き記すことによって、むしろ来客を勇気づけた。

第一インターナショナル崩壊後再建された第二インターナショナルでは指導的役割を担いながら、エンゲルスは、『資本論』第3巻をようやく仕上げて約1年後の1895年8月5日、ロンドンで死去した。74歳であった。その遺灰は、エンゲルスの遺言により、イギリス南部のドーバー海峡に面する風光明媚な彼のお気に入りの地イーストボーンの沖合いに散骨された。

主な著作[編集]

参考文献[編集]

  • 『マルクス・エンゲルス全集』(大月書店)
  • 『モールと将軍』(大月書店)
  • 『エンゲルス伝』(労働大学)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]