共産主義者同盟

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共産主義者同盟(きょうさんしゅぎしゃどうめい、共産同ブント)は、1958年に結成された日本の新左翼党派。学生主体の前衛党派としては、世界初といわれている。

主に全学連を牽引していた学生らが日本共産党から離れて結成し、安保闘争の高揚を支えたが1960年解体。1966年に再建され(二次ブント)、1970年に再び解体し、戦旗派全国委員会派ML派赤軍派など多数の党派に分裂した。

ブントは1960年代後半の学生運動・全共闘と重なる部分が多い[1]。またブントは複数の解体や分裂を経験したため、その組織実態や人員は時期により異なる[2]。 事務局は、東京都文京区元町、後に千代田区神田神保町に置かれた。

名称[編集]

略称の「ブント」(ドイツ語: Bund)は、「同盟」を意味し、党名の「共産主義者同盟」は1847年ロンドンで亡命ドイツ人を中心に結成された「共産主義者同盟」(ドイツ語: der Bund der Kommunisten)に由来する。

共産主義者同盟(ブント)創設[編集]

1950年代日本共産党は、米ソ冷戦の激化・中華人民共和国の成立(1949年)・朝鮮戦争の勃発(1950年)、そしてそれに伴うコミンフォルムスターリンからうけた批判により、主流派(所感派)と反主流派(国際派)に分裂するなどの混乱状態に陥った。そして終戦直後の、占領軍・GHQの「解放軍」規定、議会主義的な「愛される共産党」(野坂参三)の方針から転換し武装闘争路線をとった。その経過につれ、終戦直後の人々の支持も離れ、議会の議席はゼロとなった。当時、密かに渡航し、北京で指導部(北京機関)を形成していた書記長徳田球一1953年客死した[3]1955年、共産党は、宮本顕治主導下に混乱を回復しようとし、武装闘争路線を廃棄(六全協)したが、党中央が以前持っていた権威は大きく低下した。また1956年ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判・ハンガリー事件が起こり、ソ連の権威そのものも大きく揺れ動いた。

当時、全学連という動員数最大の大衆運動を独自に牽引し、レッドパージの大学への実施を阻止する・砂川闘争を成功させるなど、さまざまな具体的実績を持っていた学生は、共産党中央の指導に大きな不満を抱くこととなる[4]。そして、共産主義者同盟、略称ブント(Bund)を1958年12月に結成した[5]。世界初の共産党からの独立左翼といわれる。初期の指導部は、香山健一森田実らであったが、やがてより若い島成郎、姫岡玲冶(青木昌彦)、清水丈夫北小路敏らのグループに移っていった。ちなみに綱領は作成されず[6]、機関紙に掲載されたマニフェストがあるのみだった。組織も厳密に前衛党的な中央集権体制を強いたものではなく、ルーズなもので、組織づくりも大衆闘争のなかでしかありえない[7]、という発想のもとに成り立っていた[8]。同盟員数は設立時点で約300人、1959年8月時点で約1400人、60年安保闘争時には約3000人程度だった[9]。若い活動家の中には、林道義西部邁柄谷行人平岡正明加藤尚武長崎浩、などもいた。

59年6月全学連新人事で同盟員の唐牛健太郎[10]が全学連委員長に就任。1960年までブント主導下の全学連が実現することとなる。唐牛は全学連委員長就任時「天真爛漫にデモストライキを行います」と言ったという[11]。実際ブントの行動形態は、従来の左翼教条主義的なリゴリズムとは一線を画すものとなり、ジャーナリズムの非難も、「赤い太陽族」「赤いカミナリ族」といった、それまでの左翼攻撃とは異質なものとなった。

第一次ブントに結集した人々[編集]

  • 青木昌彦(姫岡玲冶):「姫岡論文」は終始ブント全体に大きな影響を与え理論的支柱の役割を果たした。後、経済学者。[7]
  • 生田浩二(=加藤明男):日共分裂時は主流派。[7]静岡県立静岡高等学校から東京大学に進み、島の右腕となる。その後ペンシルベニア州立大学に留学し、火事で33歳の若さで事故死。
  • 大瀬振(=鈴木潔)[7]
  • 加藤尚武
  • 唐牛健太郎
  • 柄谷行人
  • 樺美智子:創生からまもなくして東大から事務所に常駐する。物静かで、黙々と事務をこなす。その後、東大に戻り文学部自治会副委員長となる。[7]
  • 北小路敏:後、中核派[7]
  • 香村正雄:東大経卒。ブント創設までは全学連や反戦学同で活動。創設とともに機関誌の編集発行を初めとした裏方を一手に引き受け、事実上の事務局長の役割を担う。当時大金の何十万かを捻出してブントの事務所を立ち上げる。現公認会計士。[7]
  • 香山健一
  • 小泉修吉:『共産主義者』編集部の責任者。後に映画監督。[7]
  • 古賀康正(=坂田静明、=岡田行男):東京都立新宿高等学校、東大農卒。幼少期から極貧の中、祖母の面倒をみながら活動を続けてきた苦労人で、東大細胞の最も協力な牽引車。ブント創生時は職員組合書記となっていた数少ない給料取りであったが、職を投げ捨てブント書記局常任となった。ブント初めての「職業革命家」である。後に農学者。[7]
  • 佐伯秀光(=山口一理) 旧制横浜第一中学校(現、神奈川県立希望ヶ丘高等学校)から東大理学部に進学。

日共分裂時は主流派。ブント結成以前、東大細胞機関誌にスターリン全面批判の論文を敬載し、党内に大きな波紋を投ずる。ブント結成の理論的指導者。後に、ブントを離脱しポーランドへ「留学」。後に数学者。[7]

  • 島成郎:結成時、書記長。東大医学部3年。[7]

60年安保闘争[編集]

1959年岸信介内閣による、日米安全保障条約という国際政治における占領体制の総決算が行われようとしていた。改定反対派、改定推進派ともに、次第に、条約改定点の具体的争点[12]ではなく、「平和」「民主主義」「ヒューマニズム」「進歩主義」といった戦後体制の理念そのものが争われる場となっていった[13]。ブントは、1959年8月第三回大会において「ブントのすべてをぶちこんで戦う」ことを決議した[7]。59年11月27日には、総評社会党などからなる二万数千人の国民会議と全学連5千人[14]が統一行動をとり、全学連は正門を突き破り[15]国会構内に入った。構内は一万余のデモ隊と組合旗や自治会旗に埋め尽くされた(11・27国会構内大抗議集会)。これは周囲を驚愕させた。1960年1月16日政府代表団渡米阻止の羽田空港篭城では、唐牛健太郎青木昌彦以下幹部同盟員のほとんどを含む77名が検挙され、「ゼンガクレン」の名は世界中にニュースで配信された。しかし、これには非難が巻き起こり、自民党は全学連にたいする特別立法を提案し、社会党は安保共闘から全学連を排除することを主張し、共産党は反革命的挑発者と非難した。当時裁判を担当する弁護士の成り手がいなかったという。4月26日には国会チャペルセンター前に主流派全学連一万人が集まった。この動員は根こそぎだった。ブント中央はこの闘争に命運をかけた。全学連委員長唐牛健太郎が国会前で板張りトラック阻止線を飛び越え、後に続くことを求めた。学生3千人が後に続いた(4・26国会チャペルセンター前バリケード突破闘争)。

しかし、この闘争を境にしてブントは中央から末端細胞にいたるまで、解党状態に陥ってしまう[16]

5月19日国会で強行採決が行われ、院内に自民党は300名の右翼集団を入れた。ここで展開が起こり、連日大衆デモが行われるようになった。5月26日には空前の17万人のデモが国会前で発生した。しかし、全学連1万人は何ら行動方針をもたず、統一行動の巨万の波間に終日埋没するだけだった。

現実の展開は全学連書記局指導部の予想と思惑をはるかにこえて動き始める。

6月4日には国鉄労組がはじめて政治ストを行い、丸山真男が「行動へ」という文章を書き、鶴見俊輔らが無党派を標榜する市民グループ「声なき声の会」を結成し、吉本隆明は6月行動委員会というグループを結成して、ブント全学連と同伴し、石原慎太郎大江健三郎江藤淳寺山修司谷川俊太郎らは「若い日本の会」を結成した。一方、全学連主流派は、6月15日当時の全学連委員長代理の北小路敏の指揮の元、2時に学生2万人が国会前に集結し、5時に南通用門から国会構内に入り、集会をおこなった。7時に排除命令が出て排除されたが、8時にデモ隊は再度構内に入った。そのときには、全学連の行動を心配した教員・教官たちが多数、デモに参加した。10時に機動隊による強制排除が行われ、催涙弾が打ち込まれた。重軽傷者712人逮捕者167人が発生した。ここで同盟員でもあった樺美智子が軋轢の中死亡した。

この死亡に抗議し、大学では多数ストライキが行われた。教員たちも全学連に同情的となった。6月18日、国会前で学生・労働者・市民の33万人のデモ・包囲が徹夜で発生した。そのなか岸内閣は、日米安全保障条約を自然発効させた後、総辞職した。1ヶ月後平和な秩序が戻った。

ブント解体[編集]

ブントは、闘争が大きくなればなるほど普段政治に関心をそれほどもたないものの参加が雪だるま式に膨れ上がり、また彼我の対立が大きくなればなるほど組織体としての統一を保持することはできなくなった。直接行動主義は、あるものからすれば指示系統のなさからくる跳ね上がり・無駄な流血・体当たりの極左戦術に見え、またあるものからすれば指示系統の重視・優先は、はじめから全てのことを理解していたかにいう、「火中の栗」を拾おうとしない現実的な手腕のなさからくる党派性に見えた。また、動員の「倍々ゲーム」を際限なく推し進めることは不可能だった[17]。ブントは1960年7月29日第5回大会を行ったが、60年安保闘争評価をめぐって紛糾のうちに自然流会し、以後統一した行動はなされず、事実上解体した[18]。後に指示系統と党の必要性を感じたもの(清水丈夫北小路敏など)は黒田寛一の革共同に合流した[19]。近代経済学(西部邁・青木昌彦など)や学究に移行したものも多数いた。島書記長は沈黙を守った[20]。いずれにしても60年安保時、指導的位置を占めていたものは多数ブントから離れた[21]

第1次ブント解体後の諸派[編集]

二次ブント結成[編集]

廣松渉によれば1950年代後半には東大駒場学生の7割が安保反対・共産党支持であったという[23]。一次ブントと二次ブントは、名称こそ同じであるが規模は異なる。分裂経験前の68年3月末の第7回大会の時点で二次ブントの同盟員は330名程度であった[24]

まず、1960年一次ブント崩壊後も、関西では「関西地方委員会」は丸々残っていた。1962年には「関西ブント」ができる[25]。関東では、ブントではなく、いわゆる「下部組織」である社学同(社会主義学生同盟)の結成の模索が、さまざまな背景を持ちつつ、ごくごく少人数であるが進められ[26]、最終的に、中央大学・明治大学を中心とした独立社学同[27]が、関西ブントと1965年6月、統一委員会を形成した。次に、岩田弘の「世界資本主義論」を基盤としたマルクス主義戦線派[28]が、統一委員会と合同し、1966年9月、再建第6回大会をもち、二次ブントが結成された[29]。岩田弘の『世界資本主義論』「生活と権利の実力防衛」などの内容が綱領的な中身となった。同月、全学連再建準備会がもたれ、「全国の大衆的な学生自治会の連合による徹底的な大衆闘争を戦う」[30](三派全学連)ことを目指した、いわゆる三派全学連[31]が再建され、35大学178自治会が参加し、1966年12月、明治大学記念講堂で大会を持った。のべ3000人はいたという[32]

第二次ブントに結集した人々[編集]

街頭闘争[編集]

60年代後半の激しい政治活動は、1967年の10・8佐藤栄作首相訪ベトナム阻止(第一次羽田事件)から始まる[33]。ここではじめてヘルメット角材[34]が公然と登場し、2000人の三派全学連が機動隊と激しく衝突し、58人が検挙される[35]。1967年11月3日には三里塚闘争に初めて三派全学連が組織的に参加。1967年11月12日には、3000人が集まった第二次羽田闘争。347名が検挙される[36]。1968年1月、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。東京と現地で抗議活動が行われ、1968年1月17日には三派全学連1500人が佐世保で機動隊1400人と激突した。佐世保市民も三派全学連を応援したという[37]。1月18日には社共主催の佐世保5万人集会。1月19日には東京日比谷で昼一万人、夜は5千人の集会とデモ。社学同250名は外務省4階に乱入、89名が逮捕された。2月26日には三里塚空港実力粉砕現地総決起集会。反対同盟1千人、三派学生1600人など3000人が集まった。3月には王子野戦病院設置阻止闘争。三派系全学連1500人が集まり150人が逮捕。このころから「市民」ならぬ「群集」が登場し5000人が、機動隊を包囲して投石を行った[38]。闘争ごとに大量逮捕が当たり前となっていく。

このころまで街頭闘争を支えていたのはあくまで各党派の活動家集団だったが、背後で、「なにかとんでもない量的・質的拡大が準備」されていく[39]。都内のデモ隊列の脇の歩道にはいつも膨大な「野次馬」が随伴した[40]東大紛争が盛り上がり、無風地帯だった最大マンモス大学の日本大学でも1968年秋には闘争が始まる。それまでほとんど見えなかった無党派の活動家がどっと出てきて、「ノンセクト・ラディカル」という言葉も聞かれるようになる[41]。1968年11月22日に東大本郷構内で東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会、学生二万人が参加した[42]

1968年10月8日、21日と新宿で米軍タンク車運行阻止闘争、特に21日の国際反戦デーには、新宿駅前で群集・野次馬が10万人集まり[40]、新宿伊勢丹前まで人がうまった。750人が逮捕され、騒乱罪が適用された(新宿騒乱)。21日には同時に、社学同の学生たちにより、防衛庁前でも突入が図られた[43]。全学連委員長だった藤本敏夫はここで検挙された。

全国学園闘争[編集]

一般に思われているのと異なり、全学共闘会議(全共闘)は、その活動の指導的立場にいた当事者の多くは沈黙を選び、その経過の全貌、理念、形態は未だ充分明らかにはなっていない[44]三派全学連や二次ブントその他の新左翼諸党派との関連も不鮮明で、三派全学連と全共闘を混同するな、とする当事者も存在する[45]。従来の学生自治会、そして全学連を基盤とした運動とは違うことに留意が必要である。

なおすが秀実がその著『革命的な、あまりに革命的な-「1968年の革命」史論』において「68年(の革命)において決定的な重要性」[46]をもつとしている、ノンセクトのアクティビストであった津村喬は、全共闘を、1984年になって「国家権力奪取が革命だとはだれも考えなくなり、具体的な局所での国家との対峙が課題」となり「大義に頼らず、消費社会の相対主義に解体されてしまうことなしに、どうやって国家とのあらゆる局面での対峙を続けうるのか、「交通」を可能にするか、これこそが、ここ十余年にわたっていく十いく百万人の人々が必死で模索してきたことである。この実践の束と網の目にこそ全共闘の「総括」はあった」[47]と総括している。

例外的に学生側の勝利に終わった、65~69年の中央大学学費・学館闘争の指導的立場にいた神津陽は、「当初の全共闘的組織は、65年の慶大学費闘争での全塾闘争委員会、65~69年の中大全中闘(全学中央闘争委員会)の学費・学館闘争や66年の明大全学闘(全学闘争委員会)の学費値上げ反対闘争のように、特定のストライキ目標のためにつくられた全学自治会決議による処分対象者を少なくするための臨時闘争委員会の形を取った。だが学部自治会はあるが革マル派・解放派民青系などの党派対立で全学自治会が作れなかった早稲田大学での、66年の学部自治会共闘組織としての早大全学共闘会議が、名称のみが一人歩きして後の「全共闘」の名称の由来となったのだ。68年東大闘争では当初は医学部全共闘委員会、次に各学部組織の寄り合いに大学院も加えた全共闘が自治会組織にとって代わった。同じく日大闘争においては全共闘は自治会を認めぬ学校にたいする自主的学生組織名となったのだ。68年初めから東大・日大闘争に併行して燎原の火のように広がった自発的全共闘運動は、瞬く間に革マルや民青や栄誉を誇った三派系などの自治会単位加盟の全学連組織に取って代わった。なぜなら、上部組織としての全学連の加盟には自治会組織の特別参加決議が必要であり、加盟金も上納し役員も出さねばならぬし、上命下服の組織的拘束もあったからだ。だが全共闘の最大の特色は学校状況に不満を持つ有志があつまり結盟すれば、勝手に全共闘を名乗れた点だ。全共闘のこの気楽さといい加減さは、政治変革を志す意識的学生の集合体である全学連活動家像とは異なる広範な拡大を見せた」と述べている[48]。68年~69年にかけて30数大学がバリケード封鎖のまま越年した。

二次ブントは65~69年の中大学費・学館闘争、66年明大学費闘争などに関わり、69年1月の東大安田講堂事件には社学同200名が、バリケード封鎖に加わった[49]。しかし、1969年1月安田講堂の機動隊によるバリケード封鎖解除時は、ブントの政治局は「すべて社学同は政治局の支援なしに独自にやるべし」という方針だった。また66年明大学費闘争時は、1967年「2・2協定」と呼ばれる大学当局と自治会執行部トップのみでの独断的合意が政争の源となり、明大から出た社学同系の三派全学連委員長は辞任した[50]。また、68年2月16日の中央大学学費値上げ白紙撤回時には、当時の学対部長塩見孝也の意を受けた「70年安保までの永続バリケード」が一部提起されたが、学生からは非難を受けた[51]

二次ブント分裂と解体[編集]

まず1967年前半、明治大学2・2協定問題で、明治大学独立社学同グループが四散する[52]。次に1968年3月末のブント第7回大会で67年10・8羽田闘争をリードしてきたマル戦派が離脱[53]する。結果として関西派主導の新執行部となり[54]、その関連で、塩見孝也の「過渡期世界論―世界同時革命」論[55]が、前景に出る。68年12月の第8回大会では、中央大学学費値上げ白紙撤回を獲得した中央大学独立社学同(後に叛旗派結成[56])との兼ね合いで、「軍事」力学主義の関西派は後景に退き、統一委員会派のさらぎ徳二が議長となった[57]

68年10月21日の防衛庁突入闘争、新宿騒乱地点あたりから、ブント政治局は、明確な方針を打ち出せなくなる。69年1月東大紛争では、荒岱介率いる社学同に撤退を指示したが拒否される。中大独立社学同は、ブント中央ー学対の統制を離れる傾向を強る。ブント政治局は4・28沖縄闘争前3月塩見孝也に政治局を辞めることを要求する。塩見孝也グループは、塩見の「過渡期世界論―世界同時革命」以来の「軍事」主義をさらに強め「前段階蜂起」[58]という主張の元、4・28沖縄反戦デー闘争の前に、分派を形成する。6月あたりから「赤軍派」と名乗ることとなる。

1969年4月28日の学生など一万人が、霞ヶ関占拠を目指し東京―新橋―御茶ノ水駅などで「武装」デモを行った、沖縄反戦デー闘争では、その前日に、ブント議長さらぎ徳二などに破壊活動防止法が個人適用される。ブントへの団体適用ではなかったが、明確に組織潰しが目的とされていた。また沖縄反戦デー闘争では、すでに東大闘争や各大学のバリケード攻防戦でベテランアクティビストは検挙されていて、初歩的なデモの知識もない層が主体となっていたため惨澹たるものとなった[59]。機動隊の武装も進み、ジュラルミンの大盾や投石ネット、装甲車から特殊車両まで部隊編成も刷新されていた[60]

このような情況のなか、1969年7月6日、塩見孝也率いる赤軍派フラクション150~200名が、東京医科歯科大学で総決起集会を行った後、ブント合同会議(地区代表・学生細胞代表)[61]が開かれる予定だった明大和泉校舎へ行き、破防法で指名手配されていたさらぎ徳二議長をクーデター的に監禁し、会議の場を制圧し議長を椅子に縛って暴行を加える。さらぎ徳二議長はその過程の結果、逮捕された。 翌日には、報復的に、『叛旗』に結集する中大のグループ100~150人が東京医科歯科大に行き、塩見以下赤軍フラクションのメンバーを連れ去り、中大学館に2週間ほど監禁する。ここで分裂が決定的なものとなった。1969年8月22日ブント第9回大会で、赤軍派幹部12名は除名された。

さらに、1970年6月豊島公会堂で開かれた政治集会で、叛旗派[62]情況派[63]と荒岱介率いる戦旗派[64]が公然と対立する。その後6月14日には叛旗派と情況派が代々木公園の集会場でぶつかり合う。

このように、二次ブントは4年余りで完全に分裂し、四分五裂し、全体として勢力を失った[65]

余波としての赤軍派「軍事」路線[編集]

赤軍派は除名後も、除名を認めず、「ブント赤軍派」分派と言う形で活動を開始する。1969年8月28日赤軍派結成総会が30名で開かれ、塩見孝也が議長となった[66]。9月4日には政治集会が開かれ、300名程度を動員、自衛武装から攻撃的武装への開始を宣言(「世界革命戦争宣言」)。武器奪取、街頭遊撃線戦の開始を開始する「大阪=東京戦争」を宣言。前段階武装蜂起を宣言した。

そして9月5日の2万6千人が集まった日々谷野外音楽堂で開かれ全国全共闘連合結成大会(議長山本義隆副議長秋田明大)に赤軍派は公然と登場し、烏合の社学同[67]を蹴散らした。

しかし、11月5日山梨県大菩薩峠で、首相官邸占拠のための軍事訓練をしているところを警察に発見され(大菩薩峠事件)、53名が逮捕。実質的な決起戦闘部隊が壊滅した[68]。この敗北の中で「国際根拠地論」が出てくる。70年1月19日、700~800名集まった御茶ノ水電通会館で再起のための政治集会が開かれ[69]、70年秋期前段階武装蜂起、国際根拠地などの方針のもとに再起を宣言。3月初めには、中央委員会で、ハイジャックの方針を決めた。3月15日塩見は逮捕されるが、予定通り、3月31日よど号ハイジャック事件は決行され、北朝鮮に渡った。当時は目標地としてのキューバへの中継地として設定されていた。この事件のあと日本に残った中央委員はほとんど逮捕。指導系列は解体した。

さらに別の一部メンバーはアラブの地へ赴き日本赤軍を結成した[2]。最後まで日本に残った赤軍派のメンバーの残党一部は京浜安保共闘(日本共産党(革命左派)神奈川県委員会)と統合して連合赤軍を結成。「山岳ベース事件」、「あさま山荘事件」を起こした。

四分五裂以降(1)[編集]

70年安保闘争の結果は、新左翼運動の急速な後退化をもたらした。そのような状況の総括と展望をめぐって、ブントは四分五裂状態になる。この第二次ブント分裂で「赤軍派」「戦旗派」「叛旗派」「情況派」「烽火派」など大小様々なセクトが誕生した。赤軍派が「赤軍」の形成を主張し、戦旗派は「共産主義突撃隊」の形成を主張するなど、過激な武装闘争路線を打ち出すセクトもあった。なお、同じ武装闘争路線でも赤軍派と戦旗派は軍事の主導権をめぐり党派闘争を開始する。また、軍事には反対していた叛旗派(ただし、三里塚第二次強制代執行においては武威をしめした)や情況派(のちに遠方派遊撃派に分裂)が、赤軍派や戦旗派と対立した。叛旗派はブントの機関紙『戦旗』の編集局をおさえ、戦旗派に属したブントの議長をはじめとする最高幹部や中枢を、「ブントから除名する」という内容の『戦旗』特別号を発行した。ただちに戦旗派は、ブント中央の名前で、叛旗派を除名する。しかし、戦旗派では赤軍派との抗争、叛旗派への対応をめぐり戦旗派の中にも内部闘争が起こり、70年12月18日に事務局を掌握した、日向翔(荒岱介)率いる「戦旗派」(戦旗日向派、戦旗荒派)と、第8回ブント議長の仏徳二(さらぎ・とくじ)率いる「鉄の戦線派」に分裂した。鉄の戦線派はさらに、同じく第二次ブント分裂の際誕生した神奈川県左派南部地区委員会と合同してもう一つの戦旗派(蜂起派、連合戦旗派 通称12・18ブント)を結成し、戦旗日向派と対立する。その後も、各派は更なる分裂を繰り返し、最終的には共産同系のセクトは17、8派にまで細分化してしまった。その後もたびたびブント諸派を統一しようという「大ブント構想」(革マル派によるネーミングである)が持ち上がるが、実現しないまま現在に至っている。

なお、70年代以降の学生運動の退潮期においても、学生自治会・サークルなどの大衆基盤で比較的強い勢力を維持していた関西の諸大学(および首都圏の一部大学)では、ブントの学生組織がそのまま脱セクト化した結果、ノンセクトであるにも関わらず、ブントのシンボルカラーである赤色のヘルメットを1980年代に至るまで被り続けており、「赤ヘルノンセクト」と称された[70]

共産主義者同盟第二次分裂概要図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(第二次)共産主義者同盟
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
情況派
 
叛旗派
 
戦旗派
 
神奈川県左派
 
烽火派 赤軍派
 
 
京浜安保共闘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
遠方派 遊撃派
 
戦旗派
 
鉄の戦線派
 
 
 
 
 
 
 
 
日本赤軍
 
 
 
 
 
 
連合赤軍
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日向派 西田派
 
蜂起派 ML派
 
 
ボリシェビキ派 ML派 プロ独派
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
革命の旗派
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
紅旗派
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
BUND 共産同統一委
 
 
 
 
 
赫旗派
 
 
 
 
 
日共ML
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アクティオ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
共同・未来
 
労働者共産党
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
革命21 (準)

※党派名は略称・通称を使用

四分五裂以降(2)[編集]

1980年代、社会主義労働者党(社労党)は4時間労働制実現を掲げて各種選挙に挑戦したが、議席獲得には至らず、党勢は停滞。「ワーカーズ・ネットワーク」などとの分裂を経て、2002年に「マルクス主義同志会」に改称して現在に至る。共産同ML派(第一次ブント分裂の際誕生)の系譜を引くマルクス主義青年同盟は民主統一同盟に改称し、日本共産党に接近するも失敗。現在は「がんばろう!日本!! 国民協議会」と名乗り、右翼に転向した。戦旗派は1973年、地下軍事組織が爆弾闘争を行い(黒ヘルグループが冤罪で逮捕された)、その総括をめぐって、日向派(荒派、戦旗・共産同、党建設重視)から西田派(両川派、共産同戦旗派、武装闘争重視)が分裂した。荒派は1997年、名称をブント(BUND) に変更。2008年にはアクティオ・ネットワークと改称し、エコロジスト系市民団体(首都圏反原発連合等)に転換、若手の獲得にも成功した。一方、西田派は共産同全国委員会(烽火派)と合併し「共産主義者同盟(統一委員会)」となった。

第二次ブント分裂時に派生した幾つかのセクトが統合して誕生した赫旗派はさらに親中共派系の日本共産党(マルクス・レーニン主義)と統合し労働者共産党を結成、さらなる他セクトとの統合を目指している。

脚注[編集]

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  1. ^ イマニュエル・ウォーラステインは『反システム運動』(大村書店, 1992年)において、「世界革命は、これまで二度あっただけである。一度は1848年に起っている。二度目は1968年である」と述べている。この視点ー68年を中心として世界的に発生した反システム運動ーから60年代後半の学生運動・全共闘を検証したものに、すが秀実『革命的な、あまりに革命的なー「1968年の革命」史論』(作品社2003)がある。
  2. ^ 「安保全学連」蔵田計成(三一書房.1969)が1960年代以降のニューレフトの通史として最も詳しい。戦後学生運動の70年代初頭までの通史としては山中 明『戦後学生運動史』(196青木新書1、1981再発群出版 )が最もコンパクトにまとまっている。
  3. ^ 『戦後日本共産党史』参照。小山弘健 芳賀書店 1966こぶし書房より2008再発
  4. ^ 森田実『戦後左翼の秘密 60年安保世代からの証言』(潮文社1980)参照 。指導的立場にいた森田によれば、1956-60年当時、全学連は全国で10万から20万人程度のデモならいつでも組織できる力をもっていたという。また共産党員数・集会への動員力・街頭カンパによる資金集め能力も群を抜いていたという。当時の学生党員数は2-3000人である。また共産党は全国の党員数の4割を東京都の党組織が占めていた。
  5. ^ 60年安保ブントに関しては、ブント書記長・島成郎の回想(島成郎 1999)、当時の理論家・姫岡玲冶(青木昌彦)の『私の履歴書 人生越境ゲーム』(日本経済新聞出版社、2008年)などがある。西部邁の『60年安保センチメンタルジャーニー』(1986年/2007年洋泉社から再刊)が当時の文化的雰囲気と人物像を伝えている。
  6. ^ 草案で終わったという。島成郎 1999参照。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 島成郎 1999.
  8. ^ これに関しては、全学連の「輝ける委員長」と呼ばれた初代全学連委員長武井昭夫(後に「活動家集団思想運動」代表)以来の戦闘的な伝統が大きいといわれる。武井の戦後学生運動最初期に関する論考は、『武井昭夫論集③(層としての学生運動)』(スペース伽耶、2005)参照。すが秀実は『革命的な、あまりに革命的なー1968年の革命試論』(作品社2003)で、「ブント結成も大きく見ればその(全学連)の延長上にあったといえる」と述べている(p20)ちなみに大学進学率は当時全体の10%程度だった。
  9. ^ 府川充男 2006, p. 68.
  10. ^ 唐牛に関しては、その友人である西部邁の『60年安保センチメンタルジャーニー』がその人物像を伝えている。
  11. ^ 島成郎 1999参照。書記長となった島は、その同盟を、「明晰な決断と天衣無縫な行動パターン、八方やぶれな自由な集団」を理想としたという
  12. ^ 以前の条約は、アメリカの対日防衛義務を明記しないまま、アメリカに軍事基地を提供していた。したがってある視点からすれば、日本の自主性を一定程度回復するものであった。
  13. ^ これに関して西部邁は1986年になって、『60年安保センチメンタルジャーニー』でブントの視点は、「対米従属」「民族独立」という方針と、日本の中立化を求める社会党や共産党の方針と違い、戦後民主主義の理念、特に「平和」と「民主主義」そのものの前提を疑おうとしたものであったと述べる。同時代的にはブント同伴知識人第二号となった吉本隆明の「戦後世代の政治思想」(『中央公論』1960.1→『吉本隆明著作集13(政治評論集)』(勁草書房.1978)および『擬制の終焉』『吉本隆明著作集13(政治評論集)』(勁草書房.1978)参照。吉本は『中央公論』1960年4月号において、島成郎らと『トロツキストとよばれても』という対談を行っている。 
  14. ^ 森田実は1955年の砂川闘争以降、学生の大衆的運動を社会党を中心とする運動の一環として位置づけようと模索していた。森田は1959年12月中旬にブントから退く
  15. ^ 先頭の清水丈夫葉山岳夫(現在救援連絡センター代表)は装甲車にとびうつったことで手配され、東大駒場寮に篭城する。
  16. ^ 蔵田計成「ブント主義ー倍々ゲームの陥穽」さらぎ徳ニ『我かく闘えり 破防法闘争32年』(情況出版2001)収録
  17. ^ 当時全学連書記局にいた蔵田は、2001年になって、「国家総力の暴力装置が現存する限り、人民は一時的に軍事的、政治的、社会的に勝利を収めることができたとしても、それは部分的勝利に過ぎず、その勝利と引き換えに、無数の敗北を経験し、それを受容せざるを得ないという革命の公理が存在する」「ブント主義路線は、闘争対象=国家権力への直進をめざす限りない自己目的化と絶対化を前提にしているがために、闘争の性格と運動の度合いに応じた闘争形態や闘争手段への適応能力を失い、形態や手段に従属化させる。その結果、闘争形態や闘争手段は、党組織の自己保身という制動が作用してもなお、際限なくエスカレートし、歯止めを失うことになる」と述べている。蔵田計成「ブント主義ー倍々ゲームの陥穽」pp64-65さらぎ徳ニ『我かく闘えり 破防法闘争32年』(情況出版2001)収録
  18. ^ プロレタリア通信派革命の通達派戦旗派などに四分五裂した。戦旗派(ブントの事務局や出版を担っていた。ブント機関紙「戦旗」が由来。森茂など)は、革共同全国委へ合流した。プロレタリア通信派(清水丈夫西部邁青木昌彦など全学連書記局グループ)も解散を決議した後に、一部が革共同に合流した。革命の通達派(服部信司星野中長崎浩などの東大本郷支部グループ。青木昌彦の理論と、ブント中央の安保時の行動に批判的だった)は、分裂・四散したあと、その流れを汲むマルクス主義戦線派(マル戦派)によって、岩田弘の世界資本主義論を「発見」、これは後に分裂を経験せず独自に残った通称「関西ブント」の60年安保総括「政治過程論」と並んで、再建二次ブント(1966)の主導理論となった。また長崎浩は1968年、「叛乱論」を「情況」に発表(合同出版, 1969)60年安保の経験を68年学生反乱に接木し、構造分析した。長崎は60年と68年とのあいだに切断を認めず、「『革命の科学的根拠』(歴史の必然)の放棄はわたしたちにとって自明の前提だった」とする。長崎にとって、革命は必然的なものではなく「アジテーター」によって今ここに組織されるべき現実的なもの、とされた。
  19. ^ 【後、中核派】清水丈夫、陶山健一、北小路敏、藤原慶久(社学同書記長)、田川和夫 【後、革マル派】森茂(鈴木啓一)、根本仁(土門肇)だけ。(島成郎 1999)
  20. ^ 島の死後公開されたノートで、その当時の分裂情況がわかる(『ブント書記長島成郎を読む―島成郎と60年安保の時代〈1〉』情況出版 .2002)。1961年1月22日付けの日記にはこうある。「私が考えたもう一つの実態。第一に、革命を考えた。10年間の私の共産主義者としての歴史の中で、革命というものを実感をこめて、数世代後の理想ではなく、われわれの世代が当面し、私が当面しなければならない現実的なものとした革命というものを考えた。そのとき、私は「いかなる革命を欲しているのか?」「いかなる社会をつくろうとするのか」という問いに答えることを全く知らなかった。ブント綱領も、素朴に問題を提出する労働者になんの実感もイメージも与えない、干からびたものであったのだ。私の全思想体系、ブントの全理論は、この実感の前に崩れ去った。この実感の上に批判が開始されねばならなかった。」「(・・・)もしこの過渡を意識しないで固定化したばあい、それは腐敗し堕落し妨害物以外にはなりえないであろう。だから私の立場は、一方では本質的批判ーしかも私がブントの代表であった点において自己打倒を目指したーを準備しつつ、他方プロレタリア通信派、戦旗派(後、革共同に移行)の固定化を防ぐ、混乱させる意地悪の役目を担う」
  21. ^ 一般に思われているのと異なり、1961年10月24日島は森田実らとともに、ブント再建の集会を招請したが、求心力を持つにいたらなかった。そのとき吉本隆明対馬忠行らが講演をもった。『ブント書記長島成郎を読む―島成郎と60年安保の時代〈1〉』(情況出版 .2002)参照
  22. ^ 荒岱介 2001, p. 43.
  23. ^ 神津陽 2007, p. 29.
  24. ^ 府川充男 2006, p. 68 マル戦派とそのシンパ150名・反マル戦の旧統一委員会派とそのシンパが180名程度だったという。
  25. ^ 塩見孝也 2003, p. 31参照 京都大学と同志社と大阪市大が軸であったと言う。
  26. ^ 短い期間に幾多の解体と分裂を経験している。荒岱介 2005古賀暹・望月彰インタビュー、神津陽 2007巻末年表などを参照。『ブント書記長島成郎を読む―島成郎と60年安保の時代〈1〉』福地茂樹の論文参照(情況出版 .2002)
  27. ^ 廣松渉が門松暁鐘のペンネームで書いた『現代資本主義論への一視覚』を理論的基盤としている。1967年『情況』を発刊した古賀暹が進めた。なお『情況』は機関紙ではなく、党派とは独立したジャーナリズムとして発刊されている。
  28. ^ 革命の通達派が前身。
  29. ^ 議長松本礼二、書記長服部信司、労対さらぎ徳二、学対古賀暹。マル戦派が実務を担った。
  30. ^ 荒岱介 2001, p. 45.
  31. ^ 60年のブント解体後、全学連主流派は、棚ぼた的に革マルが主導権を握る(創設以来の全学連旗は革マル系全学連のもとにある。)。一方それに反対するものが統一を模索し、1966年12月三派全学連を立ち上げた。なお60年全学連反主流は民青全学連として独立した。60年安保以降3つに全学連は分派したといえる。68年7月三派全学連は中核派が離脱、反帝全学連と名称を変える。この反帝全学連委員長となったのが、藤本敏夫である。
  32. ^ 塩見孝也 2003, p. 51。さらぎ徳二によれば1600人。委員長は斉藤克彦。またこのころから、一般にイメージされる「われわれはー(…)」などの、全学連・全共闘特有のアジテーションの定型化・大衆化が起こったという。60年安保あるいはそれ以前には、演説者の口調は、それぞれの個性にまかされ、現在一般にイメージされるものとは違っていたという。荒岱介 2005古賀暹のインタビュー参照
  33. ^ 中上健次も参加している。『中上健次発言集成5』p138-9参照。なお内部事情は、神津陽 2007, p. 193、荒岱介 2001, pp. 61-65に詳しい。
  34. ^ もともとは内々の乱闘のとき使用されていた。
  35. ^ このころから警察から「過激派」という名称をつけられることとなる。
  36. ^ 機動隊がここではじめてジュラルミン盾を持つ。(荒岱介 2001, p. 67)
  37. ^ 府川充男 2006, p. 37.
  38. ^ 荒岱介 2001, p. 78.
  39. ^ 府川充男 2006, p. 51.
  40. ^ a b 府川充男 2006, p. 38.
  41. ^ 荒岱介荒岱介 2001, p. 82において、「三派全学連もまた、残念ながら全共闘運動の問題提起にこたえられなかったと私は思う。大衆運動を本質的に言って利用主義的にしか考えていない革共同両派。だがだからといって、その運動をブントが集約できたわけでもない。結局学生大衆は「ノンセクト・ラディカル」という、新しい学生運動の形態を選択する方向に向かっていったのだ」と述べている。
  42. ^ 日大全共闘だけで一万人近くいたという
  43. ^ 三派が分裂したあとの、反帝全学連委員長だった藤本敏夫はここで検挙され、その後獄中で加藤登紀子と結婚する。
  44. ^ 2005年、「本郷学生隊長」として安田講堂に立てこもった当事者の書物が出版された。島泰三『 安田講堂 1968‐1969』(中央公論新書 2005)
  45. ^ 小阪修平『思想としての全共闘世代』(ちくま新書 2006)
  46. ^ 『革命的な、あまりに革命的な-「1968年の革命」史論』p161参照、国文社
  47. ^ 『〈逃走〉するものの〈知〉』、雑誌『中央公論』1984年9月号
  48. ^ 神津陽 2007, p. 23.
  49. ^ 荒岱介が当時の社学同委員長だった。(荒岱介 2001, pp. 88-103)
  50. ^ 神津陽 2007, pp. 178-181、荒岱介 2001, pp. 48-52、荒岱介 2005, pp. 124-129古賀暹インタビュー
  51. ^ 神津陽 2007, pp. 212-218 塩見考也の独断だったと言う
  52. ^ 廣松渉が門松暁鐘のペンネームで書いた『現代資本主義論への一視覚』を理論的基盤としている。資本主義の破綻がおこらないという前提での運動を提示していた。古賀暹が除名される。その後67年に廣松渉から100万円の援助を受け、雑誌『情況』を創刊する。明治大学から出ていた三派全学連委員長斉藤克彦も解任。
  53. ^ 詳細は不明。関西ブント、特に塩見孝也と綱領論争が行われたらしい。マル戦派側の回想としては荒岱介 2005望月彰インタビュー参照。望月彰はさらぎ徳ニがキャップを務める統一派に暴行を加えられ、岩田弘宅前に放り出される。実行したものには塩見考也もいた。
  54. ^ 佐野茂樹(一次ブント全学連副委員長)議長・高原浩之学対部長・旭凡太郎労対部長・塩見孝也大衆運動部長
  55. ^ 塩見は「過渡期世界論ー世界同時革命」を当時書き上げ、中大社学同機関紙「解放」に掲載した。(神津陽 2007, p. 214,226)
  56. ^ 吉本隆明の影響が強く、自立派と呼ばれた
  57. ^ 渥美文夫書記長 高原浩之学対部長
  58. ^ 2009年になって、塩見は「前段階蜂起」について足立正生市田良彦をインタビューワーとして、振り返っている。[1]
  59. ^ 翌日の共同通信配信の記事にはこうある。「〈沖縄デーの28日、沖縄返還を要求する集会やデモが沖縄現地をはじめ本土の東京や新潟、札幌など各地でくりひろげられた。東京・代々木公園では夕方から沖縄連など三者共催による初の統一集会が平穏のうちに行われた。しかし反日共系学生4000人は“首都総反乱”を叫んで都内各所で実力行動に出て、佐藤首相の私邸を襲ったほか、東京駅や新宿駅の線路上に座り込むなどし、国鉄は一時ストップするという事態まであった。こうした学生の動きに対し警視庁は1万人を超す機動隊をくり出し、排除にあたったが、学生側と各所で衝突、警官、学生側に多数の負傷者を出した」
  60. ^ 荒岱介 2001, pp. 113-115.
  61. ^ 塩見孝也 2003によれば拡大中央委員会となっているが、誤認。>府川充男『覚書=「歴史的対象」としての第二次ブントと赤軍派』p151参照、雑誌『情況』2008年5月号
  62. ^ 吉本隆明の影響を受けていた。中央大学の三上治神津陽がリーダー格
  63. ^ 古賀暹によれば、雑誌「情況」は、党派とは独立したジャーナリズムであり「機関紙」ではないという。荒岱介 2005古賀暹インタビュー参照。
  64. ^ 荒によれば、赤軍派的な「漫画的」(荒)武装を目指すのではなく、厳格なレーニン主義的党を目指すことを主張していた。
  65. ^ この過程で「情況派」廣松渉も70年5月襲われ、一ヶ月ほど寝込む。廣松渉『哲学者廣松渉の告白的回想録』(河出書房新社2006)pp196-197
  66. ^ 議長塩見考也 軍事委員長田宮高麿八木副委員長、高原浩之組織部長
  67. ^ 社学同中央の指導機能自体が停止しているのだから各大学からなんとなく集まってきただけのものだった。(府川充男 2006, p. 38)
  68. ^ 遺言状を書いていたという。「お前いけ!行って死ね!」といわれて集まった人間が大半だったという。(塩見孝也 2003, p. 99)
  69. ^ 関西500人。(塩見孝也 2003, p. 101)
  70. ^ 全国的に見てノンセクト学生は黒色、すなわちアナキストのシンボルカラーのヘルメットを被るのが一般的であり、「赤ヘルノンセクト」の存在する大学は、60年安保後の「関西派」「独立派」の拠点校であったものが多い。

参考文献[編集]

  • 島成郎 『ブント私史 : 青春の凝縮された生の日々ともに闘った友人たちへ』 批評社、1999年ISBN 4826502699 一次ブント書記長の回想録
  • 府川充男 『ザ・一九六八』 白順社、2006年ISBN 483440093X マル戦派からみた二次ブント
  • 荒岱介 『破天荒伝 : ある叛乱世代の遍歴』 太田出版、2001年ISBN 4872335627二次ブント戦旗派リーダーの回想録 
  • 荒岱介 『破天荒な人々 : 叛乱世代の証言』 彩流社、2005年ISBN 4779111153
  • 神津陽 『極私的全共闘史 中大 1965-68』 彩流社、2007年ISBN 9784779113116 巻末に詳細かつ具体的な60年代年譜記載 叛旗派リーダーから見た二次ブント
  • 塩見孝也 『赤軍派始末記-元議長が語る40年』 彩流社、2003年ISBN 4882027984 関西ブントから見た二次ブント設立から、分裂・赤軍派の結成:「人名・組織名を含めた固有名詞の誤謬乃至根本的事実錯認が多いことには夙(つと)に旧ブント系諸氏の間でも定評がある」(府川充男『覚書=「歴史的対象」としての第二次ブントと赤軍派』p150参照、雑誌『情況』2008年5月号)という。
  • イマニュエル・ウォーラステイン『反システム運動』(大村書店, 1992年)
  • すが秀実『革命的な、あまりに革命的な-「1968年の革命」史論』(作品社2003)
  • 蔵田計成「安保全学連」(三一書房.1969)
  • 山中明『戦後学生運動史』(青木新書1961 再発群出版1981 )
  • 小山弘健『戦後日本共産党史』参照(芳賀書店 1966こぶし書房より2008再発)
  • 森田実『戦後左翼の秘密-60年安保世代からの証言』(潮文社1980)
  • 武井昭夫『武井昭夫論集③-層としての学生運動』(スペース伽耶、2005)初代全学連委員長の、50年代の学生運動の記録・「先駆性理論」の提示
  • 西部邁『60年安保センチメンタルジャーニー』(文藝春秋1986 再発洋泉社2007)
  • 西部邁「ブントっと、ブントっと」『サンチョ・キホーテの旅』(新潮社、2009年、pp. 228-231) ISBN 9784103675051
  • 青木昌彦『私の履歴書-人生越境ゲーム』(日本経済新聞出版社2008)一次ブント理論家の回想録
  • 吉本隆明「戦後世代の政治思想」「擬制の終焉」:『吉本隆明著作集13(政治評論集)』収録(勁草書房1978) 1960年安保の総括と時代精神
  • 岩田弘『世界資本主義〈1〉新情報革命と新資本主義の登場 』(批評社2006)
  • 長崎浩『1960年代-ひとつの精神史』(作品社1988)
  • 『ブント書記長島成郎を読む―島成郎と60年安保の時代〈1〉』(情況出版2002)
  • 廣松渉『哲学者廣松渉の告白的回想録』(河出書房新社2006)
  • 藤本敏夫『農的幸福論-藤本敏夫からの遺言』(家の光協会 2002) 1968年10月21日時の国際反戦デー防衛庁抗議行動時の反帝全学連委員長、かつ後に有機農産物宅配事業「大地を守る会」を立ち上げる。
  • さらぎ徳二『我かく闘えり-破防法闘争32年』(情況出版2001) ブント第8回大会議長
  • さらぎ徳二『革命に生きる』 ブント第8回大会議長の詳細な二次ブント回想録。情況1997年7月号、1997年10月号、1998年3月号 、1999年7月号に連載された。未完。
  • 荒岱介『破天荒な人々-叛乱世代の証言』(彩流社2005) 雑誌『情況』創刊者かつ明大独立社学同を一から立ち上げた古賀暹のインタビューやマル戦派望月彰インタビューなど、二次ブント設立直前やそこにおける廣松渉の役割などがわかる。
  • 府川充男『覚書=「歴史的対象」としての第二次ブントと赤軍派』雑誌『情況』2008年5月号
  • 三上治『1960年代論』(批評社2000)
  • 荒岱介『新左翼とは何だったのか』(幻冬舎2008)
  • 山本義隆『東大闘争資料集』全23巻('68・'69を記録する会編、1992年)国会図書館に寄贈
  • 渡辺眸、寄稿・山本義隆『東大全共闘1968-1969』(新潮社、2007年)
  • 米田隆介「明大学費と闘争資料集」(2006)
  • 小阪修平『思想としての全共闘世代』(ちくま新書 2006) 1969年5月三島由紀夫が東大全共闘と対話したときの積極的な発言者
  • 島泰三『 安田講堂 1968‐1969』(中央公論新書 2005)「本郷学生隊長」として安田講堂に立てこもった当事者の証言
  • 津村喬『〈逃走〉するものの〈知〉』、雑誌『中央公論』1984年9月号

(現存)共産同系諸派[編集]

外部リンク[編集]