マハトマ・ガンディー

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モーハンダース・カラムチャンド・
ガーンディー
મોહનદાસ કરમચંદ ગાંધી
Portrait Gandhi.jpg
インド独立の父 マハトマ・ガンディー
通称: マハトマ・ガンディー
生年: 1869年10月2日
生地: British Raj Red Ensign.svg イギリス領インド帝国
グジャラート州ポールバンダル
没年: 1948年1月30日(満78歳没)
没地: インドの旗インド連邦ニューデリー
活動: 公民権運動
インド独立運動
所属: インド国民会議

モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディーグジャラーティー文字表記:મોહનદાસ કરમચંદ ગાંધીデーヴァナーガリー文字表記: मोहनदास करमचन्द गांधीラテン文字表記:Mohandas Karamchand Gandhi1869年10月2日 - 1948年1月30日)は、インドグジャラート出身の弁護士宗教家、政治指導者。

マハトマ・ガンディー(=マハートマー・ガーンディー)として知られるインド独立の父。「マハートマーमहात्मा)」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされているガンディーの尊称である(自治連盟の創設者、アニー・ベザントが最初に言い出したとの説もある[1])。また、インドでは親しみをこめて「バープー」(बापू:「父親」の意味)とも呼ばれている。日本語では「ガンジー」とも表記される。

1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になったが[2]、受賞には至っていない[3]。ガンディーの誕生日にちなみ、インドで毎年10月2日は「ガンディー記念日」(गांधी जयंती、ガーンディー・ジャヤンティー)という国民の休日となっており、2007年6月の国連総会では、この日を国際非暴力デー英語版という国際デーとすることが決議された。

人物[編集]

南アフリカ弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力不服従」(よく誤解されているが「無抵抗主義」ではない)を提唱した。

この思想(彼自身の造語によりサティヤーグラハ英語版、すなわち真理の把握と名付けられた)はインドを独立させ、イギリス帝国イギリス連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えた。特にガンディーに倣ったと表明している指導者にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアダライ・ラマ14世等がいる。

性格的には自分に厳しく他人に対しては常に公平で寛大な態度で接したが、親族に対しては極端な禁欲を強いて反発を招くこともあったという。なお、インドの政治家一族として有名な「ネルー・ガーンディー・ファミリー」(インディラー・ガーンディーら)との血縁関係はない。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

イギリス領インド帝国、現在のグジャラート州の港町ポールバンダルで、当時のポールバンダル藩王国宰相カラムチャンド・ガーンディーと、その夫人プタリーバーイーの子として生まれた。ポールバンダルの小学校に入学後、ラージコートの小学校に入りなおす。成績が悪く融通もきかない面があった。

小学校時代は素行も悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出し、タバコ代を工面する為に召し使いの金を盗み取ったこともあった。

その後、12歳でアルフレッドハイスクールに入学。13歳の若さ(インド幼児婚の慣習による)で生涯の妻となるカストゥルバと結婚。18歳でロンドンに渡り、インナー・テンプル法曹院に入学し、法廷弁護士となるために勉強する。

弁護士に[編集]

南アフリカ時代のガンディー (1895年

卒業後、1893年にはイギリス領南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)で弁護士として開業した。しかし、白人優位の人種差別政策下で、鉄道の一等車への乗車を拒否され荷物もろとも放り出されるなどの強烈な人種差別を体験したことで、イギリス領南アフリカ連邦の人種差別政策に反対し、インド系移民の法的権利を擁護する活動に従事するようになる。

1880年代以降、ガンディーはインドの宗教的叙事詩バガヴァッド・ギーターロシア小説家レフ・トルストイの影響を受けていたが、『新約聖書』の「山上の垂訓」など基督の十字架の道を深く理解し、「非所有」の生涯を決意する。後の非暴力運動思想を形成していく。

20世紀初頭には、南アフリカ連邦となり、1913年に原住民土地法が制定されるなど人種差別政策の体制化が進んだ南アフリカにおいて、インド系移民の差別に対する権利回復運動を行った。

1908年初めて逮捕され、その後1913年トランスバールの行進を企画し初めて投獄された。しかし、不正を追及し撤廃させ初めて勝利を手にした。

ダーバン近郊でアーシュラマ共同農園を創設。そこで、禁欲、断食、清貧、純潔を実践し、精神面を強化し、イギリスからの独立を展望している。[4]。 この時の経験は1915年にインドに帰国してからの民族運動にも生かされている。

イギリスによる裏切り[編集]

1914年第一次世界大戦が起こると、イギリスは将来の自治を約束して、植民地統治下のインド人に協力を求めた。ガンディーはこの約束を信じ、インド人へイギリス植民地軍への志願を呼びかける運動を行った。

「私は、インド人は戦争に協力すべきである、と思った。イギリスの危機をインドのチャンスに変えてはいけない。戦争が続いている間、要求を突きつけることなく大英帝国に協力したほうがかえってインドの利益になる。だから私は、人々に志願兵を応募するように呼びかけた。大英帝国を通じて自分の民族の現状を改善しようと期待していたのだ。」[5]


しかし戦争がイギリスの勝利に終わっても、自治の拡大は、インド人が期待したほどの速度では進行せず、またドイツからの援助を受けていた一派による蛮行を抑えるため、インド帝国政府は強圧的な「ローラット法」を制定するにいたる。

さらに1919年4月13日には、パンジャーブ地方アムリットサルシク教の聖地)でスワデーシー(自分の国の意で国産品愛用)の要求と、ローラット法発布に対する抗議のために集まった非武装の市民に対して、グルカ族およびイスラーム教徒からなるインド軍部隊が無差別射撃し数百人を虐殺した「アムリットサル事件」が発生した。この一連のインド帝国政府の態度は、ガンディーに「イギリスへの協力が独立へとつながらない」という信念を抱かせるようになった。

不服従運動[編集]

インドの糸車を廻すガンディー。但、本葉はライフ誌を飾った有名なCongress Party & Gandhiではない

第一次世界大戦後は、独立運動をするインド国民会議に加わり、不服従運動で世界的に知られるようになる。またイギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行った。「インドの糸車を廻すガンディー」の写真はこの歴史的背景による[6]

こうした一連の運動のために、ガンディーはたびたび投獄された。例えば1922年3月18日には、2年間の不服従運動のために、6年間の懲役刑の判決を受けている。第一次の不服従運動は、1922年にインド民衆が警察署を襲撃して20人ほどの警官を焼死させる事件が発生し中止されたが、1930年より不服従運動は再開された。とりわけ、「塩の行進」と称されるイギリスの税に抗議した運動は有名である。

ガンディーが不服従運動のための協力者の要員を募集する際のその条件は、やはり多くの人と信頼を構築でき、その協力を得られるような人格者であったが、この「非暴力運動」に参加すること自体でも、暴力で運動を止めさせようとする兵士に対して反撃を行わず、逃げもしないという非常な勇気が必要とされ真の強さと忍耐が必要とされる。

非暴力の思想はインドと距離的に近い西アジアなどでも見られ、アジアで生まれたヒンドゥー教イスラーム教仏教キリスト教[7]でそれはあてはまり、アジアの思想に共通するという思想からガンディーは自分はヒンドゥー教徒であり、イスラム教徒でもあり、また、原始キリスト教という意味ではキリスト教に賛同するとして宗教グループ間や世界の人々に対話を呼びかけた。

ガンディーとカースト制度[編集]

ガンディーは、カースト制度を職業の分担という観点から肯定的にとらえていた。生涯を通して、「不可触民」制度を撤廃する活動に精力的に励んだもののカースト制度そのものの制度廃止には賛成しなかった。

このようなカースト制度は容認してもカーストによる社会的差別に反対する姿勢は、同時期の政治指導者に多く見られる。このため、インドにおける仏教革新運動の指導者であるB・R・アンベードカルと意見を対立させている。

第二次世界大戦[編集]

インド国民会議派元議長のスバス・チャンドラ・ボースラース・ビハーリー・ボースA.M.ナイルなど、インド国外でイギリスに対する独立闘争を続けていた独立運動家は、「欧米帝国主義国の植民地からの解放」を掲げた日本がイギリスの間で1941年12月に開戦し、その後日本軍が香港マレー半島などの東南アジア一帯のイギリスの植民地からイギリス軍を放逐した直後に、日本の支援を受けてインド国民軍を組織し、インドの外側から軍事的にイギリスに揺さぶりをかけようとした。しかしインド国内に留まっていたガンディーは、この様な動きに連携することはなかった。

ただし、日本軍が英米をはじめとする連合国軍を撃破し続け、インド洋からイギリス海軍を放逐しインドに迫った1942年初頭から1943年中盤の時期には、日本との連携を模索する姿勢を見せていたことが指摘されている[8]。実際に1942年には、日本軍のインドへの接近にあわてたイギリスが、インドをイギリス連邦内自治領として認めるとしたことでインド人の懐柔を狙おうとしたが、イギリスの魂胆を見抜いたガンディーはこれを拒否し、民衆は「クイット・インディア」(インドから出ていけ)を掲げ、その結果2年間投獄されることとなった[9]

しかし、同時にガンディーは「すべての日本人に」と題された声明を発表し、「欧米帝国主義国の植民地からの解放」を掲げつつも、強権的かつ人種差別を明確に掲げるドイツやイタリアと組み覇権主義的な行動を見せつつある日本の姿勢に対する疑問を明らかにした。

独立[編集]

インド初代首相となったジャワハルラール・ネルー(左)とガンディー

1945年9月に第二次世界大戦が終結しイギリスは戦勝国となったが、日本やドイツとの戦いで国力は衰退し、もはや、本国から遠く離れている上に独立運動が根強く続けられてきたインドを、植民地として支配していくことは困難であった。

さらにはチャンドラ・ボースやラース・ビハーリー・ボース、A.M.ナイルらが設立したインド国民軍の一員として、これを支援した日本軍とともにイギリス軍やアメリカ軍オーストラリア軍などと戦ったインド人将官が、イギリス植民地政府により「反逆罪」として裁判にかけられることとなった。これに対してガンジーは、「インドのために戦った彼らを救わなければならない」とインドの国民へ独立運動の号令を発した。

この運動をきっかけに再びインド全体へ独立運動は広がり、これに耐えることができなくなったイギリスはインドの独立を受け入れ、1947年8月15日デリー赤い城にてジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立した(その後1950年には共和制に移行し、イギリス連邦内の共和国となった)。

なお、ガンディーの「ヒンズーとイスラームが融合したインド」との思い通りにはいかず、最終的にイスラーム教国家のパキスタン[10]との分離独立となった。

暗殺[編集]

ガンディーはヒンドゥー教徒だけでなくイスラーム教徒にも影響を与えている。1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとした。しかし、ヒンドゥー原理主義者からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視された。

1948年1月30日、ガンディーはニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人ナートゥーラーム・ゴードセー英語版नाथूराम गोडसे)らによって暗殺された。

3発のピストルの弾丸を撃ち込まれたとき、ガンディーは自らの額に手を当てた。これはイスラーム教で「あなたを許す」という意味の動作である。そして、ガンディーは「おお、神よ」(「ヘー ラーム हे राम」)とつぶやいてこの世を去った。78歳であった。国葬が行われ、遺灰は、ヤムナー川ガンジス川と南アフリカの海に撒かれた。

主義・信条[編集]

真理[編集]

ガンディーは自分の人生を何よりも真理(Satya)探究という目的のために捧げた。彼は、自分の失敗や自分自身を使った実験などから学ぶことを通して、この目的の達成を試みた。実際、彼は自叙伝に『真理を対象とした私の実験について(英語: The Story of My Experiments with Truth)』という題をつけている。

ガンディーは、非暴力運動において一番重要なことは自己の内の臆病や不安を乗り越えることであると主張する。ガンディーは、自分の理念を纏め、初めは「神は真理である」と述べていたが、後になると「真理は神である」という言葉に変えている。よって、ガンディー哲学における真理(Satya)とは「神」を意味する。

非暴力[編集]

非暴力アヒンサーअहिंसा)の概念はインド宗教史上長い歴史を持ち、ヒンドゥー教、仏教(仏陀に代表される)、ジャイナ教の伝統において何度もよみがえった。また、彼の非暴力抵抗の思想は、新約聖書や『バガヴァッド・ギーター』の教えに特に影響されている。自らの思想と生き方を、ガンディーは自叙伝の中で書いている。以下にガンディーが語った言葉からの引用を列記する。

  • 「私は失望したとき、歴史全体を通していつも真理と愛が勝利をしたことを思い出す。暴君や殺戮者はそのときには無敵に見えるが、最終的には滅びてしまう。どんなときも、私はそれを思うのだ」。
  • 「狂気染みた破壊が、全体主義の名のもとで行われるか、自由と民主主義の聖なる名のもので行われるかということが、死にゆく人々や孤児や浮浪者に対して、一体何の違いをもたらすのであろうか」。
  • 「“目には目を”は全世界を盲目にしているのだ」。
  • 「私には人に命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない」。

また、ガンディーは自分の非暴力の信条を実行に移すとき、彼は極限まで論理的につきつめることを辞さなかった。1940年にドイツ軍がいよいよイギリス本土に侵入しようとしたとき、ガンディーはイギリス国民に次のように助言した。

持っている武器を下に置いてほしい。武器はあなた方を、ないしは人類を、救う役には立たないのだから。あなた方はヘル・ヒトラーとシニョール・ムッソリーニを招きいれることになるだろう。あなた方の国、あなた方が自分たちのものと称している国から、かれらは欲しいものを持っていってしまうだろう。もしこの紳士たちがあなた方の故郷を占領したなら、あなた方は立ち退くことになる。もし、かれらが脱出を許さなかったなら、あなた方は男も女も子どもも、虐殺されることになる。しかしあなた方は、かれらに忠誠を尽くすことは拒むだろう

また、1946年6月、ガンディーは伝記作者ルイ・フィッシャーにこう語っている。

ヒトラーは500万人のユダヤ人を殺した。これは我々の時代において最大の犯罪だ。しかしユダヤ人は、自らを屠殺人のナイフの下に差しだしたのだ。かれらは崖から海に身投げすべきだった。英雄的な行為となっただろうに。

ガンディーはこうも言っている。

わたしの信念によると、もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力をすすめるだろう。インドがいくじなしで、はずかしめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、わたしはインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。しかし、わたしは非暴力は暴力よりもすぐれており、許しは罰よりも、さらに雄雄しい勇気と力がいることを知っている。しかし、許しはすべてにまさるとはいえ、罰をさしひかえ、許しを与えることは、罰する力がある人だけに許されたことではないだろうか。

カースト制度[編集]

当初ガンディーはカースト制度を「ヒンドゥー教の根本的な制度」[11]として擁護し、称賛した。 彼によれば「カーストは人間の本性であり、ヒンドゥー教徒はそれを「科学」に仕立てただけ」であり[12]、 同じカーストとしか結婚できないという制限も「自己抑制を深める優れた方法」[13]であった。

彼にとってカースト制度は「分離されているが平等」[13]なのである[14]

そのうちガンディーは自分がある種の自己矛盾に陥っている事に気付き、カースト制度とヴァルナを区別し、ヴァルナを好むようになった。 ヒンドゥー教徒をバラモンクシャトリアヴァイシャシュードラの四階層に区分するヴァルナの法則は、彼によれば人が両親に似て生まれてくるのと同じ「遺伝の問題」[13]であった。

またヴァルナによって両親の職業を選べば、「精神的な目的の為専念する時間が増える」[13]ので、「幸福と深い宗教的生活の為の最上の保証」[15]であった。 ただしガンディーは、ヴァルナを「神の創造物全体における絶対平等の法則」[13]ととらえており、ヴァルナの階層間に上下は無く平等なものだと考えていた。

一方ヴァルナをさらに細分化するカースト制度に関しては「宗教と何の関係もなく、起源不明の習俗に過ぎない」[13]と考えるようになり、後年『カーストはなくなれ』という小冊子を発行するにいたった。

菜食主義[編集]

ガンディーはインドを初めて離れたときこそ肉食を試みたが、のちに厳格な菜食主義者になった。英国では菜食主義者協会 (英語: Vegetarian Society) の集会に参加して菜食主義運動家ヘンリー・ソールトに出会い、この問題について、ロンドンに滞在する間、何冊かの本を著した。菜食主義の思想はインドのヒンドゥー教およびジャイナ教の伝統、そして彼の故郷グジャラートに深く根づいており、ヒンドゥー教徒のほとんどが菜食主義者であった。彼はさまざまな飲食物を試したのち、菜食は体に必要な最低限度を満たすという結論に達した。そして、日常の食事は穀物、豆類、果実、牛乳、はちみつに限定していた[16]。ガンディーの菜食主義は殺されるのを嫌がっているものは食べないという信念に基づいており、自ら実をつけて熟して実を落とすものをとるべきという徹底されたものであった[17]

西洋文明批判[編集]

「鉄道によって欲望が加速するため邪悪が広げられる」「病院があるせいで体に注意を払わなくなる」「(自身が弁護士であるのに)弁護士などいらない」と西洋近代文明に対しても批判を繰り返した。船旅で出会ったドイツ人の持っている望遠鏡に対してそのようなものがあるから欲望が止まらないので捨てるべきであるとして言い争いになったが、最終的には望遠鏡がなかったらそもそもこのような言い争いになることはなかったと説き伏せ海に望遠鏡を放り投げた。

ブラフマーチャーリヤ[編集]

ガンディーが16歳のときに、父が末期の病気にかかった。ガンディーは、父の臨床の場において精力的に看病に励んでいたが、ある夜、叔父が来て看病を交代してくれるよう言ってくれた。ガンディーはそれを快く引き受け、感謝の意を表し、寝室へと戻った。そこで、ガンディーは、部屋で寝ていた妻を起こし同衾している隙に、下僕がやって来て父の死を告げた。このため、ガンディーは、父の死に目に会えなかったのである。ドイツの心理学者エリク・H・エリクソンは、ガンディーの禁欲主義的傾向や、特に36歳の時、結婚したまま一切の性行為を断って禁欲を開始するなどのブラフマーチャーリヤの誓いを果たしたことには、この経験が大きく関係していると指摘する。

このような禁欲主義や苦行と密接な関連を持ったブラフマーチャーリヤ(心と行為の浄化、ブラフマンすなわち宇宙の最高原理の探求)は、ヒンドゥー教苦行者の間で昔から行われていた。ガンディーのユニークな点は、結婚と家庭を維持したまま禁欲生活を送ったことである。ガンディーはこのブラフマーチャーリヤを自らの指導する非暴力不服従運動の基礎であると考えていた。また、それは神に近づくための手段であり、自己の完成のための重要な土台であるとも捉えていた。

彼は13歳の若さでカストゥルバと結婚をするが、自叙伝において当時における性欲や過激な嫉妬などに対する戦いを語っている。彼は独身者でいることを自分の義務と感じたので、欲情によらずに愛することを学ぶことができるのだと考えた。ガンディーによれば、ブラフマーチャーリヤは「思想・言葉・行為の抑制」を意味する。

ガンディーはブラフマーチャーリヤを生涯追求し、1948年78歳で暗殺される直前まで「ブラフマーチャーリヤの実験」を行っていた。しかしガンディーの弟子であったニルマール・クマール・ボースは『ガンディーとの日々(英語: My days with Gandhi)』において、ノーアカーリーにおけるガンディーの晩年のブラフマーチャーリヤの実験に関して、批判的見解が述べられている。このことは、ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』の中にも引用されている。彼らによれば晩年のガンディーは裸体の若い女性たちをぴったり体にくっつけてベッドを共にするのが常だった。こうした件を「問い詰められたガンジーは、最初は裸の女性を横にして眠ると言うことを公然と否定し、その後それはブラフマーチャーリヤの実験であると言った」[18]

しかし、ガンディーの姪のアバ・ガンディーはボーズの主張を認め、結婚してからも彼と寝ていたと証言したし[19]、もう一人の姪のマヌや女医(厚生大臣であった時期もある)のスシラ・ナヤルも「ガンジーを暖めた女性であった」[20]。 またある女性は「裸になり、ガンジーの腕に抱かれた」と証言した[21]

ボースや弟子たちはそのことに関して、ガンディーを批判したが、ガンディーは聞き入れようとしなかったようである。ボースの本の中には、ガンディーとボースとの手紙のやり取りの中でこのように述べていると書かれている。

私にとっては女性に触れぬことがブラフマチャリヤなのではない。今していることは私には新しいことではない。……実験の前提に女性の劣等性があるとお考えになるとは驚かざるを得ない。もし私が色情を持ちあるいは相手の同意なく女性を見れば、そのとき女性は劣等者であろう。私の妻は私の欲望の対象だったとき、劣等者であった。私の隣に裸で妹として寝るようになってからは、彼女はもはや劣等者ではなかった。かつてのように妻ではなく他の妹であっても同じことではないか。隣に裸で寝る女性に対して私がみだらなことを考えるなどと思わないでいただきたい。AあるいはB(ボースによる匿名)のヒステリーは私の実験とは関わりがないと思う。彼女たちはこの実験の前から多かれ少なかれヒステリーだったのだ。[22]

あるドイツの精神医学的人名辞典は、ガンディーのためにあてられた全8行ばかりの記事のうちの1行をさいて、彼が『一つのベッドで数人の女性使用人と眠った』という情報―――そのような習慣の時期や期間は明確にしないで―――を提供している。同様にアーサー・ケストラーはThe Lotus and The Robot, London:Hutchinson, 1996.の脚注において、老年のガンディーは一人の若い裸の女性とベッドにいるところを英国の官憲にみつけられたが、彼らは賢明にもそれを公表しなかったと述べている。

しかし、エリク・エリクソン著『ガンディーの真理2』を翻訳した星野美賀子は、脚注の中で、これらの情報を以下のように批判している。「このゴシップは以下の事実を無視している。つまり、伝えられる事件のおりにはもう英国の官憲がガンディーを夜中に急襲することはなかったこと。インドの寝室のつくりにはベッドもドアもないこと、熱帯地方においては裸体は特別なものではないこと、そして、その事件全体は秘密ではなかったこと、を」[23]

晩年の女性とのブラフマーチャーリヤの実験に関しては、どこからどこまでが事実なのかを明確に判断することは難しい。しばしば、これらの実験が、ガンディーの他の莫大な業績に先行して指摘されるのは、エリクソンによると、「結局のところ、偉大な混乱は偉大さのしるしでもありうる」[23]からであろう。

沈黙の日[編集]

ガンディーは週に一度を沈黙して過ごした。話すのを控えることで、心の平穏が得られると信じたのである。これは モウナ(मौन:沈黙)と シャーンティ(शांति:平穏) というヒンドゥー教の理念から来るものであった。沈黙を守る日には、筆談によって他人と意思疎通した。ガンディーは37歳からの3年半、騒然とした世界情勢は心の平穏ではなく混乱をもたらすとして、新聞を読むことを拒んだ。

現代におけるガンディー[編集]

独立後半世紀以上もの年月が経つにつれ、ガンディーならびに彼の思想はインドの社会一般において往時のような無批判な賞賛という扱いは受けなくなってきている。

独立後20年近くの期間にも渡って国民会議がインド全土で政権の座を握り続けていられたのは「独立の父」ガンディーの威光によるところも大きく、それゆえ独立後間も無く暗殺されたガンディーは殊更に神格化されてきたとも言える。しかしながら、ガンディーの後継者とされた独立後初代首相のネルーは、経済政策の上ではガンディー主義(Gandhism)に真っ向から対立するネルー主義(Nehruvism)開発経済体制を導入し、生前ガンディーが反対していた産業の機械化・工業化を積極的に推し進めた。

このため、インドで多くの人々がガンディーを「国家を独立に導いた偉大な人物」として表向きには称える一方、その反面では彼の人物像やその思想に対して「時代遅れで非現実的」という評価を下す風潮が顕在化してきた[24]

ネルーが独立直後にイギリス政府高官に「ガンディーはあくまでインドを引き裂いてはならないという。しかしイスラーム教徒は我々がいかなる妥協を示しても自分達の国家をつくると言って譲らない。インド各地で起きている血塗れの惨劇はエスカレートするばかりである。我々は敢えて頭痛から逃れる為に、頭を切り落とさなければならない。最早ガンディーのような立場は非現実的である。残念ではあるが、ガンジーは今政治の中心から逸れてしまっている」と述べたように、当時から現在までイスラム教徒と他教徒との争いは顕在化しており、そうした実態を結果的に無視する形となった宥和政策も、民衆感情に反するものであった。

そのような状況の中、新たな形でのガンディー再考の試みが映画や演劇などの分野でなされてきている。なかでも現在インドで最も注目を集めているのが、2006年にインドで公開された『Lage Raho Munna Bhai』(लगे रहो मुन्नाभाई, ラゲー・ラホー・ムンナー・バーイー)というヒンディー語映画である。作品中ガンディーは、主人公である街のヤクザ者にだけ見える存在として登場し、DJとしてラジオで電話相談をする事になった主人公の口を通して街の人々に様々なアドバイスを与えている。

この作品は、いくつもの批判を呼び起こしながらも、人々が新たな角度からガンディーについて考え直す大きな契機を作り出す事に成功し、娯楽作品としての大ヒットも合わせて大きな注目を浴びた。特にこの映画中で提唱された「ガーンディーギリー」(गांधीगिरी, Gandhigiri)という言葉は、ガンディー主義を意味する旧来の「ガーンディーヴァード」(गांधीवाद)という言葉が帯びていた、「理念的過ぎて現実的ではない」というイメージを払拭する役割を果たし、にわかにインドでの流行語ともなっている[25]

ガンディーと日本[編集]

第二次世界大戦中、ガンディーは1942年7月26日に「すべての日本人に」と題する以下の公開文書を発表した。

私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが大きな誤解でありますように。 あなたがたの友 ガンディーより。

ガンジー暗殺後の1948年2月3日東京明治大学講堂に在京インド人代表が集まり、暴力に倒れたガンジーの追悼講演会が開かれた[26]

著作[編集]

  • マハトマ・ガンディ 『逮捕下獄前後の手記』 安島健訳、世界思潮研究会〈世界パンフレット通信 108〉、1922年
  • ガンデイ 『ガンデイ論集』 岩下三良訳、日本評論社、1922年
  • ガンヂー「ガンヂー論文集」高田雄種訳 、『世界大思想全集』第39巻、春秋社、1929年
  • ガンヂー 『ガンヂー全集』第1-5篇、高田雄種訳、春秋社、1927年-1930年。
  • マハートマ・ガンヂー 『ガンヂー死闘の叫び 不協力編』 日立九馬訳、和光社、1939年
  • マハートマ・ガンヂー 『印度独立運動編』 日立九馬訳、光融館書店、1940年
  • ガンヂー 『ガンヂー自叙伝』 金井為一郎訳、鄰友社、1942年
  • ガンヂー 『ガンヂー自叙伝』 木暮義雄訳編、羽田書店、1942年
  • ガンヂー 『ガンヂーは叫ぶ』 福永渙訳、アルス、1942年
  • ガーンディー 『ガーンディー聖書』 エルベール編、蒲穆訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1950年
  • ガンジー 『ガンジー自伝』 関忠志訳、松村三冬絵、実業之日本社〈少年少女世界の本 27〉、1959年
  • ガンジー 『ガンジー』 上笙一郎訳編、松井行正絵、小峰書店〈世界偉人自伝全集 5〉、1966年
  • ガンジー 『抵抗するな・屈服するな ガンジー語録』 K・クリパラーニー編、古賀勝郎訳、朝日新聞社、1970年
  • マハトマ・ガンディ 『わたしの非暴力』1、森本達雄訳、みすず書房〈みすず叢書〉、1970年
    • マハトマ・ガンディー 『わたしの非暴力』1、森本達雄訳、みすず書房〈みすずライブラリー〉、1997年9月。ISBN 4-622-05017-X
  • マハトマ・ガンディー 『わたしの非暴力』2、森本達雄訳、みすず書房〈みすず叢書〉、1971年
    • マハトマ・ガンディー 『わたしの非暴力』2、森本達雄訳、みすず書房〈みすずライブラリー〉、1997年9月。ISBN 4-622-05018-8
  • M・K・ガンジー 『ガンジーの健康論』 岡芙三子訳、編集工房ノア、1982年11月。
  • ガンジー 『ガンジー自伝』 蝋山芳郎訳、中央公論社〈中公文庫〉、1983年6月。
    • マハトマ・ガンジー 『ガンジー自伝』 蝋山芳郎訳、中央公論新社〈中公文庫〉、2004年2月、改版。ISBN 4-12-204330-1
  • ガンディー、タゴール 『万物帰一の教育』 弘中和彦著訳、明治図書出版〈世界新教育運動選書 30〉、1990年6月。ISBN 4-18-044000-8
  • マハトマ・ガンディー 『私にとっての宗教』 竹内啓二ほか訳、新評論、1991年7月。ISBN 4-7948-0100-9
  • M・K・ガンディー 『不可触民解放の悲願』 森本達雄ほか訳、明石書店〈インドー解放の思想と文学 第6巻〉、1994年6月。ISBN 4-7503-0599-5
  • モハンダス・カラムチャンド・ガンジー 『ガンジー自叙伝 真理の実験』 池田運訳、講談社出版サービスセンター、1998年1月。ISBN 4-87601-431-0
  • M・K・ガンジー 『ガンジー・自立の思想 自分の手で紡ぐ未来』 田畑健編、片山佳代子訳、地湧社、1999年6月。ISBN 4-88503-146-X
  • M・K・ガーンディー 『ガーンディー自叙伝 真理へと近づくさまざまな実験』1、田中敏雄訳注、平凡社〈東洋文庫〉、2000年6月。ISBN 4-582-80671-6
  • M・K・ガーンディー 『ガーンディー自叙伝 真理へと近づくさまざまな実験』2、田中敏雄訳注、平凡社〈東洋文庫〉、2000年6月。ISBN 4-582-80672-4
  • ガンディー 『わが非暴力の闘い』 森本達雄訳、第三文明社〈レグルス文庫 237〉、2001年3月。ISBN 4-476-01237-X
  • ガンディー 『非暴力の精神と対話』 森本達雄訳、第三文明社〈レグルス文庫 238〉、2001年9月。ISBN 4-476-01238-8
  • M・K・ガーンディー 『真の独立への道 ヒンド・スワラージ』 田中敏雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2001年9月。ISBN 4-00-332612-1
  • マハトマ・ガンディー 『私にとっての宗教』 竹内啓二ほか訳、新評論〈Shinhyoron selection 36〉、2002年12月。ISBN 4-7948-9964-5
  • マハートマー・ガンディー 『神よ マハートマーガンディー詩集』 横川秀夫翻訳・監修、インド大使館、2003年9月。
  • M・K・ガーンディー 『南アフリカでのサッティヤーグラハの歴史』1(非暴力不服従運動の誕生)、田中敏雄訳注、平凡社〈東洋文庫 736〉、2005年3月。ISBN 4-582-80736-4
  • M・K・ガーンディー 『南アフリカでのサッティヤーグラハの歴史』2(非暴力不服従運動の展開)、田中敏雄訳注、平凡社〈東洋文庫 738〉、2005年5月。ISBN 4-582-80738-0
  • モーハンダース・カラムチャンド・ガンディー 『ガンディー「知足」の精神』 森本達雄編訳、人間と歴史社、2008年3月。ISBN 978-4-89007-168-5
  • M・K・ガンジー 『ガンジーの教育論』 片山佳代子編訳、ブイツーソリューション、2009年9月。ISBN 978-4-434-13513-2
  • ガンディー 『獄中からの手紙』 森本達雄訳、岩波書店〈岩波文庫 33-261-1〉、2010年7月。ISBN 978-4-00-332611-4
  • ガンディー 『ガンディー 魂の言葉』 浅井幹雄監修、太田出版〈太田出版〉、2011年9月。ISBN 978-4-77-831276-3

脚注[編集]

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  1. ^ ベザントは「神智学協会」の2代目会長でもある。神智学におけるマハトマは「智恵の大師」を参照の事。
  2. ^ nobel_prizes/peace/nomination/databaseのSimple Searchで「Gandhi」と入力して検索すると確認することができる。
  3. ^ Mahatma Gandhi, the Missing Laureate(英語)にノーベル財団の説明がある。内容についてはノーベル平和賞#ガンディーが受賞しなかった理由を参照。
  4. ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 102-103ページ
  5. ^ NHKスペシャル映像の世紀・第2集大量殺戮の完成」の中から、マハトマ・ガンジー著「自叙伝」より(1995年4月15日放送、日本放送協会
  6. ^ 余談だが、『Congress Party & Gandhi』を撮影した『ライフ』誌のマーガレット・バーク=ホワイトは勝手に人の家に入ってきて光源のための戸を閉めたり執拗にフラッシュを浴びせるなどの、事実上の暴行ともいえる行動を行ったが本葉は大きな感銘を世界へ与えた。被害を受けたガンディーは文句は言わなかったが「彼女は私の目を焼こうとしている」ともらしたという
  7. ^ この宗教は中東地域人のイエスから始まる宗教である。ヨーロッパで広まったキリスト教と原始キリスト教では質が異なる。中東やその他中国などのアジア地域では昔からネストリウス派マロン派が他のイスラーム教徒やユダヤ教徒と共存してきた。
  8. ^ 長崎 1989
  9. ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 105ページ
  10. ^ 独立当時は西パキスタンと東パキスタン、東パキスタンは後のバングラデシュ
  11. ^ ドリージュ 2002、157頁
  12. ^ M・K・ガンジー「ヒンドゥー・ダルマ」、9-10頁。ドリージュ 2002の157頁より重引。
  13. ^ a b c d e f ドリージュ 2002、六章
  14. ^ 分離すれど平等」というのはアメリカ黒人を隔離・差別するために持ち出されたレトリックで、黒人用施設が白人用施設と平等であった例などほとんどなかった。
  15. ^ M・K・ガンジー「ヒンドゥー・ダルマ」、48頁。ドリージュ 2002の154-155頁より重引。
  16. ^ 落合敏監修 『食べ物と健康おもしろ雑学』 p.66-67 梧桐書院 1991年
  17. ^ 落合敏監修 『食べ物と健康おもしろ雑学』 p.67 梧桐書院 1991年
  18. ^ ドリージュ 2002、154頁
  19. ^ ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』、200-201頁。ドリージュ 2002の154-155頁より重引。
  20. ^ ドリージュ 2002、155頁
  21. ^ ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』、213頁。ドリージュ 2002の154-156頁より重引。
  22. ^ メータ 2004、249頁引用。
  23. ^ a b エリクソン 2002b、xxiii頁参照。
  24. ^ もちろん、独立前〜直後の時期においてもガンディーに対するその様な評価は少なからず存在していた。独立運動においてガンディーは多数の支持を得た指導者かもしれないが、彼の方針に同調しない様々な思想を掲げた運動家およびその支持者は当時から各地に多数存在していた。
  25. ^ ちなみに、この「〜ギリー」というのは、ムンバイヤー・ヒンディー(ムンバイで話される特徴的なヒンディー語の口語)において用いられる「〜に特徴的な一連の行動」というような意味の接尾辞である。
  26. ^ 日本ニュース 戦後編 第109号 より

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]