ジャガイモ飢饉
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ジャガイモ飢饉(じゃがいもききん、英語: Potato Famine、アイルランド語: An Gorta Mór あるいは アイルランド語: An Drochshaol)とは、19世紀のアイルランドで主要食物のジャガイモにジャガイモ疫病が発生し枯死したことで起こった食糧難をきっかけとする、植民地政策に起因する被害の増大とその結果をさす。
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[編集] 原因・背景
アイルランドは隣の宗主国であるイギリスのように製造業が発展せず国民の大半は農業に依存していた。さらにアイルランドの農民はすべての兄弟が土地を分割相続できる仕組みになっていた。このため農地の細分化が進む。また以前はおもに麦を栽培していた小作農家たちは、地主に納めなくてもよい自分らの小さな庭地で非常に生産性の高いジャガイモの栽培を始める。このことからジャガイモが貧農の唯一の食料となっていき、飢饉直前には人口の三割がジャガイモに生存を依存する状態になっていた。しかし、1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。ほかのヨーロッパでは地元の貴族や地主が救済活動を行うがアイルランドの貴族や地主はほとんどがイギリスに在住しており、自らの地代収入を心配してアイルランドの食料輸出禁止に反対するなど、飢饉を悪化させた。宗主国のイギリスも緊急に救済食料を他から調達することを予算の関係などからためらうだけでなく、調達した食料を(安値で)売るなどの間接的救済策に終始した。さらに政府からの救済措置を受けられるのは土地を持たない者に制限したため、小作農が僅かな農地と家を救済措置を受けるために二束三文で売り払う結果となり、これが食糧生産基盤に決定的な打撃を与え飢餓を長引かせることになる。最終的には人口の最低2割が餓死および病死。さらに10%-20%が国外脱出。またこれにより婚姻や出産が激減し最終的には国の総人口が最盛期の半分に激減する。これは"Great Famine"と呼ばれて、アイルランドにおいては歴史を飢餓前と飢餓後に分けるほど決定的な影響を与えた。
[編集] 発端
このジャガイモ飢饉の発端とされるジャガイモ疫病は、植物の伝染病の一種であるが、このような伝染病が蔓延する為には、感染源、宿主、環境の三つの要素が揃うことが必要である。ジャガイモが当初ヨーロッパに持ち込まれた時には、この中の感染源となる病原菌そのものがメキシコの特定の地域に限定されていて、ヨーロッパには未だ伝来していなかったものと推定されている。
その後、何等かの理由によりジャガイモ疫病の菌が北アメリカよりヨーロッパに持ち込まれて急速に蔓延して、ジャガイモ作物に壊滅的な被害を与えることになった。その当時はまだこのような微生物が病気を引き起こすという考え方そのものが一般的に受け入れられていない時代で、Phytophthora infestansがその原因となる菌であることが明らかにされたのはさらに下って1867年のことであり、アントン・ド・バリーの功績による。当時のヨーロッパでは、疫病のような病気そのものが存在することすら未経験であり、これがヨーロッパにおける最初の蔓延であった。
さらに、ジャガイモは通常前年の塊茎を植えるという無性生殖による栽培法を用いるが、ヨーロッパでは、収量の多い品種に偏って栽培されており、遺伝的多様性がほとんどなかった。そのため、菌の感染に耐え得るジャガイモがなく、菌の感染がこれまでないほど広がった。ジャガイモが主食作物であった原産地のアンデス地方では、ひとつの畑にいくつもの品種を混ぜて栽培する習慣が伝統的に存在し、これが特定の病原菌(レース)の蔓延による飢饉を防いでいたのである。
[編集] 状況・対応
[編集] 植民地政策
[編集] イングランドへの食料輸出
記録によれば、飢饉の最もひどい時期においても食料はアイルランドから輸出されていた。アイルランドで1782年から1783年に飢饉が起きた際は、港は閉鎖され、アイルランド人のためにアイルランド産の食料は確保された。結果すぐに食料価格は下落し、商人は輸出禁止に対して反対運動を行ったが、1780年代の政府はその反対を覆した。しかし、1840年代には食料の輸出禁止は行われなかった。
アイルランドの飢饉に関する権威の Cecil Woodham-Smith の著書 The Great Hunger; Ireland 1845-1849 によれば
(前略)飢餓でアイルランドの人々が死んでいっている時に、大量の食物がアイルランドからイングランドに輸出されていたという疑いようの無いこの事実ほど、激しい怒りをかき立て、この二つの国 (イングランドとアイルランド) の間に憎悪の関係を生んだものはない。
アイルランドは5年間の飢饉の間のほとんどを通して食料の純輸出国であった。
リバプール大学のフェローで飢饉に関する2つの作品、Irish Famine: This Great Calamity 及び A Death-Dealing Famineの著者の Christine Kinealy によれば、子牛、家畜類 (豚を除く)、ベーコン、ハムのアイルランドの輸出料は、飢饉の間に増加をしていた。飢饉が起きた地域のアイルランドの港からは、護衛に守られながら食料が船で輸出されていた。しかし、貧困層は食料を買う金もなく、政府は食料輸出禁止も行わなかった。
アイルランドの気象学者の Austin Bourke は著書 The use of the potato crop in pre-famine Ireland の中で、Woodham-Smith のいくつかの計算に異議を唱え、1846年12月の輸入量はほぼ2倍になっていると書いている。彼によれば
簡単なその場しのぎの穀物のアイルランドからの輸出禁止では、1846年のジャガイモの収穫を失った事による不足分に対応する事は出来なかったのは明らかである。
[編集] 結果
[編集] 犠牲者
| レンスター | 15.3 |
|---|---|
| マンスター | 22.5 |
| アルスター | 15.7 |
| コノート | 28.8 |
| アイルランド全体 | 20 |
この飢饉の間にどのくらいの死者が出たかは不明である。しかし、ヨーロッパを広範囲に襲ったコレラやチフスよりも多くの死者が出たとも言われている。当時国勢調査はまだ始められておらず、教会に残された記録も不完全である。多くのアイルランド教会の記録は(アイルランド教会へのカトリック地方教会の十分の一税徴収の記録を含む)、1922年のアイルランド内戦の際にフォー・コーツ放火により消失した。
一つの可能な見積もりとしては、1850年代の最終的な人口と比較することである。もし飢饉が発生しなければ、1851年にはアイルランドの人口は800-900万人になっていたはずだと考えられている。1841年に行われた調査では、人口は800万人を少し超えていた。
しかし飢饉の発生した直後、1851年に行われた調査では、アイルランドの人口は6,552,385人であった。10年でほぼ150万人が亡くなったと考えられる。現代の歴史家と統計学者は、病気と飢餓のせいで80万人から100万人が亡くなったと考えている。加えて、100万人以上のアイルランド人がイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどに移民し、その後10年でさらに100万人が移住した。
アイルランドは19世紀の人口に比べて20世紀の人口が減少している唯一の西欧の国である。近年の経済成長などもあり最近では増加傾向にあるが、2007年現在、アイルランド共和国と北アイルランドを合わせた全島の人口は未だに約600万人と、現在に至るも大飢饉以前の800-900万人という数字には及んでいない。
[編集] 移民
ジャガイモを主食としていた被支配層のアイルランド人の間では100万人以上ともいわれる多数の餓死者を出した。また、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどへ計200万人以上が移住したといわれる。
[編集] 影響
- 飢饉の際のイングランドの無策はアイルランドのイングランドへの不信感を増幅させ、宗教政策ともあいまって独立運動のきっかけとなった。
- イギリス政府の行動が意図的な飢餓輸出かそうではなかったかで、未だに歴史的評価が定まっていない。
- 犠牲となった多くが被支配層であるアイルランド人であったため、アイルランド語を話す人口が激減する結果ともなった。
- アメリカ合衆国に渡ったアイルランド人移民はアメリカ社会で大きなグループを形成し、経済界や特に政治の世界で大きな影響力を持つようになった。この頃アメリカへ移民した中にケネディ家の祖先も含まれていた。
[編集] 脚注
- ^ Joe Lee, The Modernisation of Irish Society (Gill History of Ireland Series No.10) p.2
[編集] 関連項目
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