スコットランド

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スコットランド
Scotland英語スコットランド語
Caledoniaラテン語
Albaスコットランド・ゲール語
スコットランドの国旗 スコットランドの国章
国旗 国章
国の標語:In My Defens God Me Defendスコットランド語
国歌スコットランドの花(事実上)
(他に複数の非公式な国歌的愛唱歌がある。詳細はスコットランドの国歌を参照)
スコットランドの位置
公用語 英語スコットランド・ゲール語が公用語。スコットランド語およびスコットランド英語も使用される。
首都 エディンバラ
最大の都市 グラスゴー
政府
連合王国国王 エリザベス2世
首相 アレックス・サモンド (MSP)
面積
総計 78,772km2???位
水面積率 1.9%
人口
総計(2012年 5,254,800人(???位
人口密度 65.9人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2010年 1,397億7,400万UKポンド
GDP(MER
合計(xxxx年 xxx,xxxドル(???位
GDP(PPP
合計(xxxx年 xxx,xxxドル(???位
1人あたり xxxドル
建国 841年ケネス1世即位年
通貨 UKポンドGBP
時間帯 UTC 0(DST:+1 UTC)
ISO 3166-1 不明
ccTLD 不明
国際電話番号 44

スコットランド英語: Scotland)は、北西ヨーロッパに位置するグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの国(カントリー)のひとつである。

概要[編集]

1707年連合法 (Acts of Union) によってグレートブリテン王国が成立するまでは独立した王国(スコットランド王国)であった。スコットランドの名称は、この地を統一したスコット人 (Scots) に由来する。スコットランド・ゲール語では「アルパ (Alba)」と呼ぶ。ラテン語では「カレドニア」と呼ばれる。

スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部でイングランド国境に接する。東方に北海、北西方向は大西洋、南西方向はノース海峡およびアイリッシュ海に接する。本島と別に790以上の島から構成される。

首都エディンバラは人口でスコットランド第2の都市であり、ヨーロッパ最大の金融センターの一つである。最大の都市であるグラスゴー大グラスゴーの中心であり、スコットランドの人口の40%が集中する。スコットランドの沿岸部は北大西洋および北海に接し、その海洋油田の石油埋蔵量はヨーロッパ随一となっている。

スコットランドの法制度、教育制度および裁判制度はイングランドおよびウェールズならびに北アイルランドとは独立したものとなっており、そのために、国際私法上の1法域を構成する。スコットランド法、教育制度およびスコットランド教会は、連合王国成立後のスコットランドの文化および独自性の3つの基礎であった。しかしスコットランドは独立国家ではなく、国際連合および欧州連合の直接の構成国ではない。

スコットランドの花 (The Flower of Scotland) が事実上の「国歌」である。

地理・地質[編集]

Scotland map-en.jpg

グレートブリテン島の3分の1を占める北部、およびシェトランド諸島オークニー諸島ヘブリディーズ諸島などの島々からなる。南西部のキンタイア半島からアイルランドまで30キロメートル、東海岸からノルウェーまで305キロメートル、北のフェロー諸島まで270キロメートルである。北部(ハイランド)は山岳地帯であり、氷河に削られた丘陵や陸地に食い込んだフィヨルドなど北欧に近い地形である。最高峰ベンネビス山(標高1344メートル)はグランピアン山地英語版西端にある。グレートブリテン島最大の淡水湖であるネス湖もある。地質学的には先カンブリア時代とカンブリア紀の岩石から成り、それらはカレドニア造山運動で隆起した。例外はデボン紀の旧赤色砂岩で主にマレー湾フォース湾岸に分布する。それに対し、中部(ローランド)は、古生代の岩石から成る谷あいで、産業革命に重要な石炭と鉄鉱石を産出した。火山活動も盛んであった。南部(アップランド)はシルル紀の岩石が風化されて形成したなだらかな丘陵地帯が続き、イングランドの地形に近い。

気候[編集]

典型的な西岸海洋性気候で、北大西洋海流メキシコ湾流の延長)と偏西風の影響により緯度の割に比較的穏やかである。

  • 冬は緯度の割には暖かく、最寒月平均気温は2〜6 °Cで、日本関東中部から北部にかけてと同じぐらいの気温にしか下がらない。
  • 夏は最暖月でも14~19℃程度と涼しく、年較差が小さく過ごし易い。

歴史[編集]

古代[編集]

紀元前10世紀頃、大陸よりケルト系ピクト人が到来。その後紀元前43年よりローマ軍が侵入し、現在のスターリングに前線司令部を設置。ハドリアヌスの長城アントニヌスの長城及びヴィンドランダ要塞英語版等の拠点が築かれた。ローマ軍は、各地の要塞を拠点としながらブリテン島支配を図り、たびたびピクト人との戦いにも勝利したが(グラウピウス山の戦い)、スコットランド全域を支配するまでには至らなかった。

中世[編集]

407年のローマ軍撤退後、ブリトン人等諸民族が数波にわたり到来する中、隣のアイルランド島より、現在の直接の祖先となるケルト系スコット人英語版ゲール族英語版)が到来。スコットランド北西部をスコット人(ダルリアダ王国)、北東部をピクト人(アルバ王国)、南部をブリトン人(ストラスクライド王国英語版)とアングル人ノーサンブリア王国)が支配し、12世紀頃まで諸民族による勢力均衡・群雄割拠の時代が続いた。

9世紀(伝統的立場では843年)に、ダルリアダ王国ケネス1世アルバ王国を征服し、スコットランド王国が成立した。1071年、ブリテン島南部イングランド王国を支配するウィリアム征服王が、北部のスコットランド王国への侵攻を開始。以降、両王家には婚姻関係も生まれ、しばしば和議が図られるが、イングランドとスコットランドとの争いはやまず。13世紀から14世紀にかけて長期にわたり、両国間の緊張が続き(スコットランド独立戦争)、1314年ロバート・ブルースがスコットランドの大部分を再征服した(バノックバーンの戦い)。

近世[編集]

1603年ステュアート朝ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世となり、イングランドと同君連合を結ぶ。スコットランドの宗教改革清教徒革命主教戦争三王国戦争スコットランド内戦英語版イングランド内戦アイルランド同盟戦争英語版アイルランド革命英語版アイルランド侵略))、イングランド共和国の成立、イングランドの王政復古)。殺戮時代名誉革命

1707年には、イングランド王国と合同して、グレートブリテン王国(略称:GB)(又はグレートブリテン連合王国(略称:UK))となる。

現代[編集]

1999年スコットランド議会が設置された。これは、権限委譲と分権議会の設置を定めた1998年スコットランド法英語版の改正によって決定されたプロセスである。2007年5月3日2007年スコットランド議会総選挙英語版スコットランド国民党 (SNP) が第一党となった。2011年5月5日2011年スコットランド議会総選挙英語版でSNPが過半数を獲得。

2012年10月15日Edinburgh Agreementを締結。

2013年11月26日、スコットランド行政府のアレックス・サモンド(Alex Salmond、SNP党首)は、スコットランドの独立の是非を問う住民投票に対する公約となる独立国家スコットランドの青写真「Scotland's Future」を発表[1][2]

2014年9月18日スコットランドの独立の是非を問う住民投票を実施。反対票が55%を占め、独立は否決された[3]

政治[編集]

1707年連合法 (Act of Union) によって、それまで同じ君主を冠してきたものの別々の王国であったイングランド王国とスコットランド王国は合邦し、グレートブリテン王国が成立した。この合邦は形式的には対等とされていたが、新国家の議会や王宮など主な機関は旧イングランド王国に座することになり、イングランドによる不公平な併合であったと考えるスコットランド人が少なくない。

スコットランドは伝統的に労働党の支持者が多く、トニー・ブレアゴードン・ブラウンと2代続けてスコットランド出身の党首・連合王国首相を輩出しているが、先述の経緯からスコットランド独立を掲げる民族主義的な政党(スコットランド国民党)も多くの支持を集めている。

ウェストミンスター議会[編集]

2005年5月現在、スコットランドに割り当てられているイギリス議会(ウェストミンスター議会)下院の議席数は59である。2005年総選挙で各政党が獲得した議席数は次のようになった。

スコットランド議会[編集]

1707年の連合法でスコットランド議会は閉鎖され事実上廃止となったが、1998年スコットランド法の制定により1999年5月6日1999年スコットランド議会総選挙英語版を行い、再開された。スコットランド議会は一定範囲で所得税率を変更することができる他、スコットランド法でウェストミンスター議会留保事項と規定されている事柄以外について、独自の法令を成立させることができる。これまでに、福祉政策や狐狩り規制、公共施設内での禁煙などに関して、スコットランド独自の法令が施行されている。ウェストミンスター議会留保事項には、外交、軍事、財政・金融、麻薬取締り、移民の規制など、全国的に取り組む必要がある事柄が規定されている。

2003年の選挙結果[編集]

2003年5月1日に開催され、圧倒的な労働党支持の中、スコットランド労働党党首ジャック・マコンネル英語版が首相に任命された。

2007年の選挙結果[編集]

2007年5月3日に開催され、スコットランド国民党が第一党の座を獲得。5月16日にはスコットランド国民党党首のアレックス・サモンドが首相に選出された。

  • スコットランド国民党 (SNP) - 47議席
  • 労働党 - 46議席
  • 保守党 - 17議席
  • 自由民主党 - 16議席
  • 緑の党 - 2議席
  • その他 - 1議席

2011年の選挙結果[編集]

2011年5月5日に開催され、スコットランド国民党が過半数を獲得。党首アレックス・サモンドが首相に再選された。再開以来、初めて単一政党が過半数を獲得した。

  • スコットランド国民党 (SNP) - 69議席
  • 労働党 - 37議席
  • 保守党 - 15議席
  • 自由民主党 - 5議席
  • 緑の党 - 2議席
  • その他 - 1議席

エリザベス女王の呼称問題[編集]

1952年にエリザベス王女が連合王国の国王に即位した際、その呼称が「エリザベス2世女王 (Queen Elizabeth II)」となることをめぐって問題が生じた。というのも、イングランドには過去に同名の国王(エリザベス1世)がいたが、スコットランドには過去に同名の国王がいなかったので、イングランドを基準にすれば新国王の呼称は「エリザベス2世女王」であるが、スコットランドを基準にすれば新しい国王の呼称は「エリザベス(1世)女王 (Queen Elizabeth)」となるからである。

そこで、スコットランドの民族主義政党であるスコットランド国民党の指導的立場にいたジョン・マコーミック英語版は、新国王がスコットランドにおいて「エリザベス2世女王」と名乗ることは1707年連合法違反だとして裁判を起こした。裁判の結果はマコーミックの敗訴であった。王がどう名乗るかは国王大権 (royal prerogative) に属することであり、マコーミックに裁判で争う権利は認められないとされたのである。これでエリザベスはイングランドでもスコットランドでも「エリザベス2世女王」と堂々と名乗れるようになった。

エリザベス2世は後に将来においても発生し得るこの問題を公平に解決するための新基準を提案している。スコットランド基準とイングランド基準で呼称の「~世」の部分が異なる場合、数値が大きな方を採用するというものである。たとえば、将来ジェームズという名の王が即位する場合、イングランド基準では「ジェームズ3世男王 (King James III)」となるが、スコットランド基準では「ジェームズ8世男王 (King James VIII)」となるため、大きな方の「ジェームズ8世男王」を採用するというものである。ただし実際にこのようなことが起きたとしても、この基準を新国王ジェームズが採用するとは限らない。裁判所が表明したように、どう名乗るかは国王大権に属することであるから、「ジェームズ3世」と「ジェームズ8世」のどちらを名乗るかはそのジェームズに委ねられるからである。

この新基準は過去に遡って適用することが容易である。1707年以降この呼称上の問題が生じるイギリス国王は4人(ウィリアム4世エドワード7世エドワード8世、エリザベス2世)いるが、この新基準の適用を受けても4人の呼称はイングランド基準のままであり、変更の必要がないからである。

イギリスの郵便ポストには王の名が頭文字で刻印されているが、エリザベス2世即位後にスコットランドに設置された郵便ポストは王冠が描かれているのみで王の名は書かれていない。これは、彼女の呼称に不満を抱いた一部の過激な民族主義者がエリザベス2世の名が刻印された郵便ポストを破壊したり、「2世」の部分を削り取ったりしたためである。

[編集]

スコットランド法大陸法を基調とする。チャンネル諸島を除くブリテン諸島ではアイルランド共和国にいたるまで英米法を採用しており、スコットランドが唯一の大陸法社会である。

経済[編集]

古くは石炭がスコットランドの主要産業であり、産業革命を支えた。

1960年代に北海油田が開発されると、漁港アバディーンは石油基地として大きな発展をとげた。石油資源の存在はスコットランド独立派の強みとなっている。

1980年代からは半導体産業や情報通信産業の誘致が盛んに行われており、スコットランド中部のIT産業の集積地帯はシリコングレンと呼ばれている。

国民[編集]

文化[編集]

タータンのキルトをはいたバグパイプの男性演奏者(エディンバラにて)

民族衣装として名高いタータンキルトは、元々はハイランド地方の伝統衣装であった。ジャコバイト反乱(1715年の反乱英語版1745年の反乱英語版)後、18世紀半ばに禁止された。その後、1822年ジョージ4世がスコットランド訪問の時にタータン柄のキルトを着用したため、スコットランド全域に広がった。

経済学の父」ことアダム・スミス、詩人のキーツシャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイル、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作家ロバート・ルイス・スティーヴンソン、俳優のショーン・コネリーユアン・マクレガージェラルド・バトラーなどはスコットランドの生まれである。

スコットランドは、産業革命以前より、科学・技術の中心地であったため、多くの科学者・技術者を輩出している。その発見・発明は、現代社会にはなくてはならないものが多い。電話を発明したグレアム・ベルペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング蒸気機関を発明したジェームズ・ワットファックスを発明したアレクサンダー・ベインテレビを発明したジョン・ロジー・ベアード、空気入りタイヤを発明したジョン・ボイド・ダンロップ、道路のアスファルト舗装マカダム舗装)を発明したジョン・ロウドン・マカダム消毒による無菌手術を開発したジョゼフ・リスターなどはスコットランドの生まれである。

羊の内臓を羊の袋に詰めて茹でたハギスが有名。また、スコッチ・ウイスキーは定義上スコットランド産でなければならない。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界的にも愛好家が多い。

宗教[編集]

カトリックプロテスタントがほぼ拮抗している。公立学校も、カトリック校と無宗教校(事実上プロテスタント)に分かれている。これはスポーツの世界にも影響を及ぼしており、カトリック系住民が応援するセルティックFCとプロテスタント系住民が応援するレンジャーズFCと激しいライバル関係となってあらわれている。

スポーツ[編集]

スコットランドはゴルフ発祥の地としても知られ、セント・アンドルーズは聖地として世界中のゴルファーの憧れの地となっている。またカーリングもスコットランド発祥とされるため、国際大会の前には勇敢なるスコットランドが演奏される。

国民的にはサッカーが最も人気のあるスポーツであり、セルティックFCレンジャーズFCは絶大な支持を得ている。国際試合では目立った成績を残せていないものの、伝統的に優れた指揮官をイングランドへ輩出しており、特にマット・バスビーアレックス・ファーガソンサーの称号を得たほどである。

行政区画[編集]

ScotlandLabelled.png

32のカウンシル・エリア (council area) に区分される。

代表的な都市[編集]

教育[編集]

著名人[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]