ケネディ家

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ケネディ家(Kennedy family)はアメリカ合衆国における著名な政治家や実業家を輩出している名門の一族である。

目次

[編集] 概要

[編集] 第一世代

[編集] 第二世代

[編集] 第三世代

[編集] 第四世代

[編集] 悲劇のケネディ家

ケネディ一家

[編集] ジョン

大統領暗殺事件により死亡。ジョン・F・ケネディの死後、ワシントンD.C.で国葬が行われ、参列する大統領夫人ジャクリーン・ケネディや、まだ幼かった息子のジョン・F・ケネディJr.が亡き父の葬列に敬礼を送る健気な姿は全世界の涙を誘った。なお、ジャクリーンはギリシアの海運王アリストテレス・オナシス1968年に再婚した。

[編集] ジョゼフ・パトリック・ジュニア

ケネディ兄弟の長兄であるジョゼフ・パトリック・ケネディ・ジュニア(1915年-1944年)は、一家の期待を背負った人物であったが、1944年8月、アメリカ海軍の一員として第二次世界大戦に従軍中、飛行機事故のためイギリス海峡を横断中に墜落死した。

[編集] ロバート

ジョンとロバート、エドワードのケネディ3兄弟

実弟のロバート・ケネディはケネディ政権下で司法長官となり、兄ケネディの暗殺後、1968年の大統領選挙の予備選を戦っていた最中、カリフォルニア州ロサンゼルスのホテルで遊説中に、不可解な状況下で大学生のサーハン・ベシャラ・サーハンに暗殺された。なお、この事件についても疑問点が多く、暗殺の背景については現在に至るまで様々な憶測を呼んでいる。

[編集] エドワード

末弟のエドワード・ケネディは長く上院議員を務め一時は大統領候補として取りざたされた事もあったが、1969年に、パーティーからの帰りに飲酒したまま運転中に誤って川に転落し、同乗していた女性秘書を水死させる事件(チャパクィディック事件)を起こした。事件後、警察への通報が9時間以上も遅れるなど不可解な行動に不審が持たれた。この事件によって事実上大統領への道は閉ざされることになった。

[編集] ローズマリー

実の妹のローズマリー・ケネディは、先天性に軽い知的障害を患い、体面を気にした父親ジョセフにより、ロボトミー手術を無理矢理受けさせられた。結果、手術前よりも寧ろ知能が後退し、性格まで粗暴になってしまった。その後、マスコミの目を避けさせるかの様に、医療サナトリウム施設へ隔離入院させられてしまう。

[編集] キャスリーン

実妹キャスリーン・ケネディ(1920年-1948年)は、1944年に家族の反対を押し切って、プロテスタントであるイギリス貴族ハーティングトン侯ウィリアム(当時、第10代デヴォンシャー公の法定推定相続人)と結婚。長兄ジョゼフ・P・ケネディ・ジュニア以外の親族は彼女の挙式に参列しなかった。わずか4ヶ月後、夫ウィリアム侯が第二次世界大戦で戦死。未亡人となったキャスリーンはイギリスにとどまり、既婚者の第8代フィッツウィリアム伯ピーターの愛人となった。2人は、フィッツウィリアム伯の離婚後に再婚するつもりであったが、1948年キャスリーンの親族との関係を修復するためアメリカに向かう際、搭乗した飛行機が墜落、2人とも事故死した。葬儀に参列したのは実父ジョゼフ・シニアのみで、実母ローズを含む親族は、『カトリックであるためプロテスタントの儀式に参加しない』ことを理由に欠席した。

[編集] デイヴィッド

ロバート・ケネディとエセルの次男であるデイヴィッド・ケネディ(1955年-1984年)は、父の不慮の死をきっかけに常習的な麻薬中毒になった。クリニックで治療を受けるものの回復できず、1984年に麻薬の過剰摂取が原因で急死した。

[編集] マイケル

ロバート・ケネディとエセルの三男であるマイケル・ケネディ(1958年-1997年)は、アスペンのスキー場で家族と休暇中、誤って木に激突して事故死した。

[編集] ジュニア

息子のジョン・F・ケネディJr.は、1995年に大手出版社のアシェット・フィリパッキ・メディアから発行された政治雑誌「GEORGE」の発行人を務めており、これらのことによりマスコミなどからは「将来の大統領候補※1」と呼ばれていたが、ケネディ家の別荘のあるハイアニスポートに自家用機を操縦して向かう途中、大西洋上で墜落し不慮の死を遂げる。

この様に多くの家族が不幸に見舞われていることから「悲劇のケネディ家」と呼ばれている。

※1Jrは政治的な野心を自らは表明してはいなかった。

[編集] 関連項目