ジョン・F・ケネディ

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ジョン・F・ケネディ
John F. Kennedy
John F. Kennedy, White House color photo portrait.jpg

任期 1961年1月20日1963年11月22日
(死亡退任 本来は1965年
副大統領 リンドン・B・ジョンソン

任期 1953年1月3日1960年12月22日

任期 1947年1月3日 – 1953年1月3日

出生 1917年5月29日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ブルックライン
死去 1963年11月22日(46歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国テキサス州ダラス
政党 民主党
配偶者 ジャクリーン・ケネディ
署名 John F Kennedy Signature 2.svg

ジョン・フィッツジェラルド・"ジャック"・ケネディ英語: John Fitzgerald "Jack" Kennedy1917年5月29日 - 1963年11月22日)は、アメリカ合衆国政治家下院議員上院議員、第35代アメリカ合衆国大統領を歴任。

概要[編集]

1960年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党候補として指名を受け、対立候補の共和党リチャード・ニクソンと歴史的な接戦の結果、わずかな差で破り、翌1961年1月20日に第35代大統領に就任した。大統領就任時43歳、合衆国の歴史上、選挙で選ばれた大統領としては最も若い大統領であった(副大統領からの昇格を含めればセオドア・ルーズベルトに次いで二番目になる)。

20世紀生まれの最初の大統領であり、カトリック教徒として初の(現在までで唯一の)大統領であり、アイルランド系アメリカ人としても最初の大統領となった。さらに(著作『勇気ある人々』で)ピューリツァー賞を受賞した唯一の大統領である。ケネディの在任中、ピッグス湾事件キューバ危機ベルリンの壁の建設、米ソの宇宙開発競争公民権運動の高まり、ベトナム戦争早期撤退計画の発表など多くの歴史的事件が発生しているが、特にキューバ危機の対応においては「第三次世界大戦」「米ソ全面核戦争」の危機を回避したと評価される。

1963年11月22日、テキサス州ダラスで遊説のため市内をパレード中に暗殺された。犯人として捕らえられたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、わずか二日後にジャック・ルビーによって銃殺された。FBIウォーレン委員会下院暗殺特別委員会(HSCA、House Select Committee on Assassinations)のいずれもオズワルドが犯人であるという結論を出している。(HSCAのみが単独犯でなく共犯者のいる可能性を否定できないとしているが、特定の団体がかかわっているとはいえないと結論づけている。)この暗殺事件は数々の謎と共に、歴史に残る事件となったが、若かったケネディは就任時からアメリカ国民に期待され、現在に至るまでアメリカ人の好きな大統領ランキングの上位に上がり続けている。

生い立ち[編集]

1917年5月29日にマサチューセッツ州ブルックラインで、アイルランド系移民で実業家のジョセフ・P・ケネディ・シニアローズ・フィッツジェラルド・ケネディ夫妻の次男として生まれた。名前は母方の祖父でアイルランド系アメリカ人の有力者であり、ボストン市長と下院議員を務めたジョン・F・フィッツジェラルドにちなんでいる。

ケネディは10歳までブルックラインで暮らしたが、体が弱い子だった。生まれつき背骨に障害があり、怪我をしやすく、しばしば激しい苦痛に襲われた[1]。 三歳の時に猩紅熱にかかった際には、母ローズが教会に通ってその回復を祈るほどであった[2]。ケネディはエドワード・デボーション・スクール (Edward Devotion School) の幼稚舎から小学校へあがり、デクスター・スクール (Dexter School) へ転校し、父の引越しに伴ってニューヨークのリバーデール・カントリー・スクール (Riverdale Country School) に転校した。1930年、カトリックの寄宿学校であるカンタベリー・スクールCanterbury Schoolコネティカット州ニューミルフォード)に入学したが体調不良になり、一年後に家に送り返された。父はケネディを兄ジョセフ・P・ケネディ・ジュニアの在籍していたチョート校(現在のチョート・ローズマリー・ホール)に転校させた。兄に対して激しいコンプレックスを持っていたケネディにとってチョート校での日々も鬱屈したものになり、学校では「モッカー」(校則違反者)というあだ名をつけられた。卒業の前年には再び体調を崩し、消化器の障害と判断され、ステロイドの投与を受けた。第二次世界大戦後には副腎機能不全(アジソン病)で苦しむが、常に日焼けしたような皮膚の色であったのはその症状の一つであり、このときの大量のステロイド投与が原因であるとの説もある[3]。ケネディは生涯、背骨の痛みに悩まされた。ケネディ家では「大学時代のフットボール中の怪我が原因」とされていたが、実際のケネディはとてもフットボールなどできる健康状態ではなく、ケネディの生来の腰痛を隠すためともいわれている[4]

1935年にチョート校を卒業したケネディは兄と同じようにロンドン・スクール・オブ・エコノミクスハロルド・ラスキ教授のもとで学んだが、すぐに体調を崩して「黄疸」の診断を受けて帰国した[5]。 兄のいたハーバード大学を避けてプリンストン大学に入学したが、ここでも体調不良で白血病の診断を受け通学できなくなり入院している。翌年改めてハーバード大学に入学した。ケネディの成績ではハーバード大学入学は不可能だったが、父の尽力で入学できた。在学中の成績は落第ぎりぎりであった[6]

ハーバード在学中に父が在イギリスアメリカ合衆国大使に任命されたこともあり、ケネディは二度ヨーロッパを旅行して見聞を広めた。1939年にベルリンを訪れた際には、駐ベルリン米大使のアレックス・カークから「開戦近し」のメッセージをロンドンの父に届けている。卒業論文はミュンヘン会談を扱った『ミュンヘンの宥和』 (Appeasement at Munich) であった。ケネディがこの論文を父に送ると、父は自らのスピーチライターであるハービー・クレマーに推敲させ、さらに自らの御用記者としていた『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、アーサー・クロックに送った。クロックはさらに原稿を手直しし、チャーチルの著書『英国が眠っている間に』(While England Slept) を踏まえて『英国は何故眠ったか』(Why England Slept) というタイトルをつけた。父は『タイム』を創刊した保守派ジャーナリストのヘンリー・ルースに序言を書いてもらい1940年に出版した。ケネディは優等の成績で1940年6月にハーバードを卒業した[7]。 『英国は何故眠ったか』はイギリスとアメリカで8万部が売れた。ケネディはイギリスの分の利益をドイツ空軍により爆撃され被害を受けたばかりだったプリマス市に寄付した。

軍歴[編集]

PT109に乗船中のケネディ

1941年の春にケネディは陸軍への入隊を試みたが、健康状態を理由に拒絶された。そこで父が大使館付き武官だったアラン・グッドリッチ・カーク海軍大佐に頼んで、海軍に入れるよう手配してもらった[8]。 ケネディは1941年9月に海軍士官に任官されたが、父の配慮で戦場に赴くことがないワシントンD.C.海軍情報局に配属された[9]。この頃ケネディはインガ・アバドというスウェーデン女性と情事を重ねていた。スウェーデンは中立国であったが、FBIはアバドがアドルフ・ヒトラーと会ったことがあるナチス党支持者であることをつきとめスパイではないかと疑ったため、周囲の勧めもあって2人は別れた[10]。父は2人が会うことがないよう、1942年7月に海軍長官ジェームズ・フォレスタルに頼んで息子ケネディを海上勤務に転勤させた[11]。魚雷艇操縦訓練を受けたケネディは、1943年4月に大日本帝国海軍と対峙していたツラギ島に配属され、パトロール魚雷艇艇長となり、4月25日にソロモン諸島へ向かった。

魚雷艇PT109英語版1943年8月1日ソロモン諸島ニュージョージア島の西で日本海軍艦隊の輸送業務を妨害すべく他の13艘と出撃したが、深夜になっても敵を発見できず基地に帰還しようとした。その帰路で8月2日午前2時半にPT109は日本海軍の駆逐艦天霧」に不意に遭遇し衝突した。小さな魚雷艇の船体は引き裂かれ乗組員は海に投げ出され、2名が死亡、数名が重傷を負った。事故直後は生存していた10名の乗組員は海に飛び込み、日本軍が去るまでじっとしていた。その後大破した船体の木にしがみついて夕刻になって近くの島まで泳ぐこととした。ケネディは負傷した仲間を命綱で結びつけて6キロ泳ぎ、なんとか小さな島(ケネディ島)にたどり着いた。そこは水も食料も無い島であった。そこでヤシの実がある島へ移り、そこで島民に出会い、Biuki Gasaが操るカヌーと接触した。ケネディはココナッツにメッセージを刻んでGasaに託し、Gasaはオーストラリア軍兵士にこれを届けた。司令官は痕跡を残さずに沈んだと判断して、捜索を開始しなかった。海軍省は乗組員全員が戦死したとみなした。しかしコースト・ウォッチャーズオーストラリア軍監視員アーサー・レジナルド・エヴァンズ中尉はPT109の爆発を確認し、捜索の為に原住民のカヌー2艘を派遣していた。救助隊が到着した日は遭難から6日がたっていた[12]。このココナッツはホワイトハウスの執務室にケネディが置いていた。

海軍内では、駆逐艦と魚雷艇の衝突時にケネディがとった行動および彼の魚雷艇指揮に疑問を呈する意見もあった[13]。しかし父ジョーはこのチャンスを見逃さずケネディが海軍・海兵隊勲章を受け取れるよう手をまわした。1944年6月17日付けの『ニューヨーカー』誌で記者ジョン・ハーシーにケネディの英雄譚を掲載させ、さらに『リーダーズ・ダイジェスト』1944年8月号がその要約を掲載したことでケネディの名前は全米に知られるようになった。後にケネディが下院に立候補した際には父ジョーは『リーダーズ・ダイジェスト』のコピーを大量に配布した[14]。ケネディは救出後に部隊に復帰したが、健康不良を理由に1944年1月に本国に帰還した。1944年秋にケネディは海軍病院で背中の治療を受けたが、背中の痛みはとれずマラリア感染も判明したため、1945年3月1日に退役した[15]1952年の上院選と1960年の大統領選の際には天霧の元乗員一同から激励の色紙を贈られている。

ケネディは20年後にエヴァンズをホワイトハウスでの大統領就任式に招待している。Gasaも招待されていたものの、イギリス当局からの妨害で式典に間に合うように出立することが出来なかった[注 1]

なお、ケネディの娘キャロラインは2013年、駐日大使就任直後に応じた日本の新聞へのインタビューにて、ケネディは自らの魚雷艇を撃沈した天霧の艦長を大統領就任式に招待したと語っているが[17]、実際に就任式に招待されたのは当時の艦長が花見弘平少佐であることを突き止めた、国際政治学者で当時は青山学院大学の教授だった細野軍治である[18]

政治経歴[編集]

下院議員[編集]

第二次世界大戦終結後の1946年に、ジェームズ・M・カーレイがボストン市長になるために民主党下院議員を辞職すると、ケネディはその議席の補欠選挙に立候補した。父のジョセフは長男のジョー・ジュニアを政界入りさせようと計画していたが、ジョー・ジュニアは戦争中の1944年8月12日に海軍パイロットとして任務中事故死したため、ジョンにその役割を期待して、父の支援により政治資金に困ることはなく実現不可能な公約をせず理想主義を語ることができた。長く精力的なキャンペーンの末に、母方の祖父で前ボストン市長でもあったジョン・F・フィッツジェラルドの協力もあり、大差で共和党候補を破り、29歳の若さで下院議員となった。

上院議員へ[編集]

下院議員を3期務めて、やがて1952年にマサチューセッツ州上院議員選挙に出馬し、約70,000票差で共和党候補のヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを破り、上院議員となる。

結婚[編集]

1953年9月12日フランス系アメリカ人の名門の娘であるジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚した[19]。 式のミサの前にはローマ教皇ピウス12世からの祝辞が読み上げられるなど豪華なものだったが、ジャクリーンの父は前日に酔い潰れて式に出席できなかった[20]

その後2年間に多くの脊柱の手術を受け上院本会議を長期にわたって欠席せざるをえなかった。妻ジャクリーンの勧めもあり手術から回復するまでの間に、8名の上院議員たちの伝記とケネディの政治家としての信念を綴った『勇気ある人々』 (Profiles in Courage) を執筆した。同書は1956年1月2日ハーパー&ロー社から出版されるとベストセラーとなりピューリツァー賞を授与された。同書は出版当時から、ケネディのスピーチライターを務めていたセオドア・C・ソレンセンが執筆したものだとの噂が囁かれていた。コラムニストのドルー・ピアソンは1957年のABCのテレビ番組で「ケネディはゴーストライターの本で賞をとった」と発言している[21]。 ピューリツァー賞の審査では最終選考になって突然現れたことでも不正が疑われた[22]。ソレンセンは2008年に出版した自伝の中で、自身が『勇気ある人々』の調査、執筆に関わっていたことを認めている。

赤狩りへの協力[編集]

ジョセフ・マッカーシーとロイ・コーン

ケネディは後にリベラル派とみなされるようになったが、1950年代初めには父のジョーの友人であるアイルランド系の共和党上院議員ジョセフ・マッカーシーによる赤狩りマッカーシズム)に協力的であった。民主党リベラル派のエレノア・ルーズヴェルトはそのことを忘れず、後の大統領選でもケネディを信用しなかった。マッカーシーの行き過ぎた言動は批判を呼ぶようになり、上院は1954年12月2日に65対22でマッカーシーを「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として非難し、マッカーシズムは終結にむかった。民主党の方針でマッカッシーの譴責決議案に賛成票を投じざるをえなかったケネディは、「かねてから必要とされていた手術を受ける」ことを口実に投票を棄権している。同年にハーバード大学である演説者が「そこいらの大学と違ってハーバードからはアルジャー・ヒス国務省職員でソ連のスパイ)やジョー・マッカーシーのような人物を出していないのが自慢だ」という発言をしたのに対し、ジャックは「偉大なアメリカの愛国者と売国奴の名をよくも一緒くたにできたものだ」と激怒した。

1950年のカリフォルニア州選出上院議員選挙で共和党候補リチャード・ニクソンがリベラル派の民主党候補ヘレン・ガーガン・ダグラスを「国家社会主義者」、「アカの信奉者」と批判するなど激しい組織的中傷により勝利した際には、秘密裏にニクソン陣営に献金していた。

マクレラン委員会[編集]

ケネディは組織犯罪労働組合の腐敗を追及する「上院マクレラン委員会」(ジョン・マクレランが委員長を務めた。旧称「バラキ公聴会」)の委員として名を連ねていた。実弟で後の司法長官ロバート・ケネディはこの委員会の首席顧問として司法省から派遣され検事役を務めた。この委員会の最大の功績は、アメリカ一の組合員数を誇ったトラック運転手組合の「チームスター組合」とマフィアとのつながりを明らかにしたことである。また、「マクレラン委員会」はバティスタ政権下のキューバからアメリカに密輸されるヘロインの中継基地が、南部の港湾都市で港湾労働者組合をマフィアが掌握していたニューオリンズであると特定した。

これによりチームスター組合のジミー・ホッファとケネディとの対立が始まった。この委員会の活動によりケネディ兄弟は知名度を高めた。それと同時に、妹パトリシアの夫でハリウッド俳優のピーター・ローフォードとその親友のフランク・シナトラを通じて、サム・ジアンカーナジョニー・ロセリなどのマフィアとの関係を構築していった[23]

ケネディは1956年民主党全国大会において、民主党大統領候補に指名されたアドレー・スティーブンソンと組む民主党副大統領候補の候補者となり、エステス・キーフォーヴァーに敗れた。有力候補ではなかったケネディの善戦は民主党党員に良い印象を残した。

1960年大統領選[編集]

民主党予備選[編集]

資金調達パーティーにおけるフランク・シナトラとエレノア・ルーズベルト元大統領夫人

1960年1月2日にケネディは上院幹部会議室において民主党予備選挙に立候補することを表明した。

民主党予備選挙が行われる7州で出馬しヒューバート・H・ハンフリーウェイン・モースなど他の候補者に対し勝利したが、一部の民主党幹部は彼がカトリック教徒であることが不利になると考えていたが、しかしこれは明確に争点にはならなかった。むしろ、その若い年齢が不安視されて、彼らの声を代表して元大統領のハリー・S・トルーマンミズーリ州インディペンデンス市で記者会見を行い、テレビを通じてケネディに出馬を思いとどまるよう訴えた。その若さが不利であるとのトルーマンの指摘に、ケネディはこれを逆手にとってニューヨークで記者会見を開き、全ての予備選に出馬したのは自分だけであること、14年間の自分の政治経歴が大統領職に十分でないのであれば、トルーマン自身を含めて歴代の大統領の大部分が経験不足ということになること、44歳以下の人間が国家に対して責任ある地位に就けないのであれば、建国の父たちは存在し得なかったことを挙げて反論し、民主党内の支持を募った。

また、義弟ピーター・ローフォードの協力を受けて、ハリウッド俳優や歌手などの芸能人による選挙協力を受けた。ローフォードの友人でマフィアとの関係も深いフランク・シナトラやサミー・デイヴィスJr.などが、カリフォルニア州ネバダ州ハワイ州で行われた選挙資金調達パーティーに出演するなど、ケネディの予備選勝利に向けて協力を行った[24]

さらに1960年7月10日の民主党大会の初日前夜に、ビバリーヒルズのビバリー・ヒルトン・ホテルで開かれた資金調達パーティーでは、シナトラやローフォード、デイヴィスのほかにも、ジュディ・ガーランドトニー・カーティスが出席し、シナトラはアメリカ国歌を斉唱したばかりか、会場をまわり代議員へのケネディへの投票を呼びかけた[25]

選挙戦開始[編集]

7月13日に行われた1960年民主党全国大会においてケネディは大統領候補に指名された。副大統領候補にはテキサスの上院議員リンドン・B・ジョンソンを指名した。ケネディはこの大会の指名受諾演説で「ニューフロンティア精神」を高く掲げた。その後有名になったこの演説の中でケネディはアメリカ国民に対し、「現状維持に固執するのではなく新しい未来への先駆者となるよう」呼びかけた。

ケネディはソビエト連邦に対してアメリカの弾道ミサイルの開発、配備が遅れていると主張し、これはそれまで政権を維持していた共和党の責任であると批判した(ミサイル・ギャップ論争)。

大統領選終盤では、当時中国人民解放軍から砲撃を受けていた(金門砲戦)、台湾統治下の金門馬祖の問題が取り上げられた。ケネディは中国大陸本土に隣接する金門、馬祖は米華相互防衛条約の対象外ではないかと発言したのに対し、ニクソンから共産主義者の侵略行為に弱腰すぎると批判された。

宗教問題[編集]

1960年9月12日にテキサス州ヒューストンのグレーターヒューストン聖職者協会(Greater Houston Ministerial Association)において、自身の帰依するカトリックへのプロテスタントら偏見を宥め、政教分離を確約する演説「I believe in an America where the separation of church and state is absolute...(私は教会と政治の分離が絶対であるアメリカを信じる)」を行い[26][27]、支持を訴えている。 結果として当選し、アメリカ初のカトリックの大統領となる。

テレビ・ディベート[編集]

ニクソンとのテレビ討論

1960年9月26日に選挙では初めてテレビ・ディベートが取り入れられ、選挙に大きな影響を与えた。ケネディは知名度では現職の副大統領であるニクソンに劣っており、テレビ・ディベートの直前に行われた支持率調査でもニクソンの支持率が優っていた。選挙後に出版された多くの書物内ではテレビ・ディベートがケネディがニクソンに勝利した原因であるとされている。

ケネディの好印象の理由の一つは、彼が着ていたスーツの色と言われる。演説の時、ケネディは濃い色のものを、それに対してニクソンは薄い色のものを着ていた。当時のモノクロテレビに映しだされた画面では、ケネディは濃いグレーで表示され力強く見え、反対にニクソンは薄いグレーで表示され、たよりなく見えたとされる。ラジオでテレビ・ディベートを聞いていたケネディ陣営は「(討論内容だけ聞く限りでは)負けたと思った」と後に証言している。ケネディは俳優でテレビにも出演していたローフォードのアドバイスを受けて、綿密にテレビ用のメーキャップをした上に、持病の治療のために服用した薬品の副作用で肌の色が浅黒くなったために「日焼けしたスポーツマン」に見えた。それに比べ、ニクソンは直前に病気をしたため、病み上がりで顔色が悪かったにもかかわらず、「議論の内容が重要である」と言ったが選挙戦の疲れからやつれて見えた。これ以降、大統領選では両党の候補者がテレビ・ディベートを行い、さらにメーキャップを行うことが定着化している。

キング牧師釈放への関与[編集]

アイゼンハワー前大統領とケネディ(1960年)

大統領選キャンペーンが最後の追い込みに入った10月半ば、公民権運動家のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、座り込みデモのために南部のジョージア州アトランタで逮捕された。この事件に対しコメントを求められると、ニクソンはノー・コメントの姿勢を貫き通したが、ケネディは即座にキング夫人に事態を憂慮しているとの電話をかけた。翌日に弟のロバート・ケネディがキングに有罪判決を言い渡した判事に電話をかけキング釈放を求め、この翌日キングは釈放された。黒人の多くはプロテスタントの一派であるバプティスト派の信者であり、プロテスタントのクエーカー教徒であるニクソン支持に回っていたが、この一件により黒人層のケネディ支持が拡大した。

キングの父親はニクソン支持からケネディ支持に鞍替えした理由を尋ねられた時、「私の妻が息子の逮捕に涙を流している時、彼(ケネディ)は、その涙を拭ってくれた。このような時にこうした行動をとる事は勇気のいる事だからだ」と答えた。前大統領のドワイト・D・アイゼンハワーは、「たった2回の電話(ジョン・ケネディからキング夫人への電話とロバート・ケネディから判事への電話)が民主党を勝たせる結果になってしまった」と語った。

この電話は当時ケネディのアドバイザーを務めていたノートルダム大学教授で後の上院議員ハリス・ウォフォードの助言を受けたものだった。

選挙不正とマフィアとの関係[編集]

サム・ジアンカーナ

父親のジョセフ・ケネディ・シニアは禁酒法時代に密造酒の生産・販売を行っておりマフィアと関係を持っていた。大統領選挙においてジョセフの依頼でマフィアやマフィアと関係の深い労働組合、非合法組織により、買収や不正な資金調達、複数の州における二重投票など大規模な選挙不正が行われた[28][29]

またケネディは、予備選挙中にフランク・シナトラから紹介されたシナトラの元恋人で、その後愛人関係を持つことになったジュディス・キャンベルを経由して、マフィアの大ボスのサム・ジアンカーナを紹介してもらい(キャンベルはジアンカーナの元愛人でもあった)、ウェスト・ヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した。

さらにシナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたこともFBIの盗聴により明らかになっている[30]

選挙終盤にケネディ陣営の大掛かりな不正に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、アイゼンハワーから「告発を行い、泥仕合になると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている[31]

この選挙運動に関するセオドア・ホワイト1961年の著書『 The Making of the President 1960 』は、ベストセラーであるだけでなく、しばしば高校と大学のアメリカ政治と歴史のコースの中で補足のテキストとして使用される。

大統領職[編集]

就任式[編集]

大統領就任式

1961年1月20日に第35代大統領に宣誓就任した。合衆国史上最も若くして選ばれた大統領[注 2]であり、初めてのカトリック教徒の大統領だった。

就任演説において、「松明の炎が今やアメリカの新しい世代に引き継がれた」として「自由を維持と成就のために、如何なる代償も払い、如何なる重荷を背負い、如何なる苦難にも立ち向かい、如何なる友邦をも支援し、如何なる敵にも対抗することを知らせよう。」としてアメリカと世界の市民全てが「アクティブ・シチズン」となることの必要性を語り、さらに「人類の共通の敵」である暴政、差別、貧困、疾病そして戦争との戦いに共に参加するように世界の国に訴えた。就任演説はその多くが「自由」という概念の価値と自由を守り発展させるために人々が成すべき行動をアメリカ国民及び世界の人々に問うものであったが、日本では演説の最後に語られた「我が同胞アメリカ国民よ、国が諸君のために何が出来るかを問うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい。」「世界の友人たちよ。アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、人類の自由のためにともに何が出来るかを問うてほしい。」「最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい」とのフレーズが特によく引用されている[32]

外交政策[編集]

ベルリン危機やキューバ危機では硬軟取り交ぜた機敏な対応を取り事態を収拾したものの、ピッグス湾事件では優柔不断な対応により失敗を招き、ベトナム情勢に対しては、南ベトナムのジェム政権と対立したままに、軍事援助の大規模な増加と「軍事顧問団」名義での大幅なアメリカ正規軍の増派を行い、より状況を悪化させただけでなく、後に泥沼化させるきっかけを作ることとなった。

ピッグス湾事件[編集]

亡命キューバ人を訓練してカストロ政権を転覆させることを目的としたピッグス湾事件が就任後すぐに起きた。ピッグズ湾侵攻計画はキューバ革命後、アイゼンハワー政権末期にCIAにより準備された。アイゼンハワーはこの作戦にはほとんど関わらず、副大統領のニクソンが主導していた。ケネディが大統領に当選すると、作戦を主導してきたCIA長官のアレン・ウェルシュ・ダレスや、作戦局担当次官リチャード・ビッセルらはケネディにこの侵攻計画を説明した。なお、選挙期間中、ケネディもニクソンもキューバに関する公約として、「必要とあらばキューバ侵攻を認める」という姿勢を通していた。

ロバート・マクナマラとケネディ

1961年4月4日、この計画に関する最後の会議が国務省で開かれた。出席者はケネディ、国務長官ディーン・ラスク、国防長官ロバート・マクナマラ、財務長官C・ダグラス・ディロン、その他に国防次官クラスの閣僚のほか、上院外交委員長J・ウィリアム・フルブライトアーサー・シュレジンジャーほか2人の大統領顧問とダレス(CIA長官)、ビッセル(CIA作戦局担当次官)、統合参謀本部議長ライマン・レムニッツァーであった。なお、上記のように選挙中からキューバ侵攻の可能性を口にしていたケネディは、この会議で作戦の実行を命令したものの「いかなる場合もアメリカ軍の“正規軍”は投入してはならない」という条件付きとし、出席者は全員ケネディの条件を承諾した。

しかし、それまでCIAは上陸する亡命キューバ人部隊に対してはアメリカ正規軍の援助を約束していたにもかかわらず、ケネディがつけた条件の「非正規軍」の爆撃機や補給船などを準備したものの、作戦終盤に急遽ケネディが戦闘機による護衛を行うまで正規軍の投入を控えたことや、作戦計画がキューバ側に漏れていた為にキューバ軍が亡命キューバ人部隊2000人弱に対して20万人を動員して迎え撃ったこともあり作戦は完全な失敗に終わった。やがて、アメリカ政府が主導して、この作戦を実行したことが世界中に知られたため、それを推し進めたケネディ政権はラテンアメリカ諸国をはじめとする各国からの非難を浴びた。

さらにアメリカ正規軍の投入を土壇場で拒否したために、亡命キューバ人団体やCIA、軍部からも反感を買った。ケネディはこの事件を期にダレスとCIA副長官チャールズ・カベルを更迭、ジョン・マコーンをダレスの後任とした。ケネディは、キューバへのゲリラ活動や空軍機による空中偵察活動をその後も暫くの間継続させたが、CIAが行なっていたカストロ暗殺計画を知っていたかは意見が分かれている。

ベルリン危機[編集]

ウィーン会談中のフルシチョフとケネディ

ピッグズ湾事件から2ヶ月も経たないうちに、次なる試練であるベルリン危機 (1961年)英語版が勃発した。1961年6月のウィーン会談で、ケネディはソビエト連邦書記長兼首相ニキータ・フルシチョフを相手に通訳のみを同席させて、一対一の首脳会談に臨んだ。議題はベルリンに関してだった。この会談でフルシチョフは、「第二次世界大戦の終結を受けて、西ドイツ(西ベルリンを管理している)、アメリカ、イギリス、フランスの四ヶ国とソ連は、東ドイツと平和条約を結んで第二次世界大戦の戦後処理を終結すべし」と主張し、「もしそれがなされれば米英仏の軍隊は西ベルリンから撤退せねばならない」と説いた。

そんなフルシチョフに対してケネディは、「西側の権利は放棄しない」と反論。これに対しフルシチョフは、「西側が東ドイツと平和条約を結ぶつもりがないのなら、今年中にソ連は単独で結ぶ」と伝え、ケネディを揺さぶった。しかしケネディは、「西ベルリンの自由を妥協の対象にはしない」と通告。この会談は明日にも戦争が起きそうな緊迫感を帯びていたという。当時、会談に同席していたフルシチョフの通訳は、後に会談でのケネディの様子について「明らかに緊張しているのが見た目にも分かった」と証言している。会談終了後、ケネディは周囲の人間に、頑なに姿勢を変えなかったフルシチョフを罵ったとされる。

翌月、ケネディはベルリン危機に関するテレビ演説を行い、改めて西ベルリンを守り抜く決意を表明した。ケネディの強硬姿勢に対して1961年8月13日にフルシチョフは、ベルリンの壁を建設するという手段で対抗した。これに対してケネディは西ベルリン駐留軍を強化。結局ソ連と東ドイツの間に平和条約が結ばれることはなかったが、この後もベルリンを巡って米ソの緊張は続いた。後に西ベルリンを訪問したケネディが演説中に言った「自由を求める者は皆、ベルリン市民である。私も1人のベルリン市民である (Ich bin ein Berliner:イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー)」という言葉は、アメリカの西ベルリンに対する決意の強さを表すものとしてソ連に対する強いメッセージとなったばかりか、多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることにもなった。

1961年10月27日にはベルリンの壁の検問所のチェックポイント・チャーリーで、外交問題を発端に米ソの戦車が18時間にわたって睨み合いを続け、もし戦闘が始まれば米ソの直接対決により第三次世界大戦の発端になりかねない事件が発生した。水面下でフルシチョフとケネディは連絡を取り、戦車を撤退させることに合意して危機は回避された。

ベトナム政策[編集]

ケネディ政権がその短い政権期間に行った外交政策の中で、最も大きな議論を呼ぶとともに最も大きく非難され、さらにその後のアメリカの外交政策だけでなく、内政に対しても長く深刻な影響を残したのが、対ベトナム政策であると言われている[33]

ワシントンD.C.を訪れたゴ・ディン・ジエム大統領を迎えるアイゼンハワー大統領
南ベトナム陸軍にアメリカから貸与されたM24軽戦車
ビエンホア基地に展開するアメリカ軍「軍事顧問団」のダグラス B-26(A-26)爆撃機

アイゼンハワーの後を継いで大統領に就任したケネディは、就任直後に、東南アジアにおける「ドミノ理論」の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置するとともに、統合参謀本部に対してベトナム情勢についての提言を求めた。これを受けて特別委員会と統合参謀本部はともに、ソ連や中華人民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていたベトナム共和国(南ベトナム)へのアメリカ正規軍による援助を提言した。

これらの報告を受けてケネディは、正規軍の派兵は、「ピッグス湾事件」や「キューバ危機」、「ベルリン危機」などの他の地域において起きていた対立を通じて、世界各地で緊張の度を増していたソビエト連邦や中華人民共和国を「過度に刺激する」として行わなかったものの、「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行についての交渉を行うべき」とのチェスター・ボウルズ国務次官とW・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を却下し[34]、「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定した。

この決定に併せてケネディは、フルブライト上院外交委員会委員長に対し、「南ベトナムとラオスを支援するために『アメリカ軍』を南ベトナムとタイに送る」と通告し、併せてこの決定を正当化させるために、ジョンソン副大統領とマクナマラ国防長官をベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた[35]。 ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で、「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」として迅速な支援を訴え[36]、同じくマクナマラも、その後南ベトナムの大統領となるグエン・カーンへの支持を表明した上に「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と報告し[37]、ケネディの決定を支持した。

その後ケネディは、アイゼンハワー政権下の1960年には685人であった南ベトナムに駐留するアメリカ軍事顧問団を、1961年末には3,164人に増加させ、さらに1963年11月には16,263人に増加させた。併せて1962年2月にケネディは「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなど、軍事顧問団を、その規模・内容ともに実質的にはアメリカ軍の正規軍と変わらないものとさせた。さらにケネディは、1962年5月に南ベトナムとラオスへの支援を目的に、タイ国内の基地に数百人規模の海兵隊を送ることを決定した。

このようにケネディは、軍事顧問団の増派と、南ベトナム軍への軍事物資支援の増強という形の軍事介入拡大政策を通じてベトナム情勢の好転を図ろうとしたものの、ケネディやジョンソン、マクナマラの思惑に反して、アブバクの戦いで南ベトナム軍とアメリカ軍事顧問団が南ベトナム解放民族戦線に敗北するなど、一向に事態は好転しなかった。

その後、内政干渉を行うケネディとその政権を完全に敵対視するようになった南ベトナム大統領ゴ・ディン・ジェムに対して、ケネディは1963年9月2日ウォルター・クロンカイトとのインタビューの中で「サイゴン政府(南ベトナム)が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的にはこれは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ」とジェムに対して警告した上で「『アメリカは(南ベトナムから)撤退すべきだ』という人たちには同意できない。それは大きな過ちになるだろう」と述べ[38]、南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収を主張する国内の一部の世論に対して反論した。

ジェム率いる南ベトナム政府への単純な軍事支援を続けることに限界を感じていたケネディとマクナマラは、対立が深まりアメリカ政府によるコントロールが利かなくなっていたジェムへの揺さぶりをかけることも踏まえて、これまでのような軍事顧問団の増強方針から一転して、10月31日に「1963年の末までに軍事顧問団から1,000人を引き上げる予定」であることを発表した。そして11月には、マクナマラが年内の1,000人の「軍事顧問団の引き上げ予定」を再確認するとともに、「軍事顧問団を段階的に撤収させ、1965年12月31日までには完全撤退させる計画がある」と発表し、自らが拡大した軍事介入を縮小させると発表することで、最大の支援国であるアメリカに対し敵対的な態度を取り続けるジェム政権に揺さぶりをかけた。

しかしケネディは、「軍事顧問団の段階的な撤収計画」の概要こそ発表したものの、軍事顧問団の完全撤退後の具体的なベトナム政策については何も発表していなかった上、上記のように、ケネディ自体が南ベトナムからの軍事顧問団の早期撤退論に対してあからさまな嫌悪感を表明していたため、この軍事顧問団の段階的撤収作戦が、ケネディと対立を深めるジェム政権に揺さぶりをかけるためだけのものであったのか、それとも本気で段階的に撤収しようとしていたかという点については議論が別れる。

なお、後に国務長官となり、泥沼化したベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤収を決めた「パリ協定」調印に向けた交渉を行ったヘンリー・キッシンジャーは、自著の中で「ケネディ政権のかつてのメンバーの中には、ケネディがアメリカ軍(軍事顧問団)を完全撤退させる決定を1964年の大統領選挙の後にするつもりだったと論じている人もいるが、その他の同様の要職に就いていた人はこれを否定している」とケネディ大統領とその政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の存在を否定している[39]

キューバ危機[編集]

キューバ危機の回避は、おそらくケネディの大統領在職中の外交施策の中で数少ない、全面的に称賛されるものであった。巧みな政治手腕と側近からのサポートそして運によって、ケネディは戦争を望んだ政権中の強硬派のコントロールと、ソ連の脅迫によって脅威が増すことを防ぐことの両方を試み、それに成功した。後に、多くの人々がキューバ危機を「世界が核戦争に最も接近した時」であると考えている。

U-2偵察機

ケネディはピッグス湾事件の失敗以降も、キューバがソ連と急速に親密な関係を築いていたことからアメリカ空軍機によるキューバ軍施設の偵察活動を継続させており、実際にキューバ危機は、アメリカ空軍U-2偵察機が、ソ連がキューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影した1962年10月14日に始まった。

ケネディは国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)を設置して対応に当たった。エクスコムの会議において、統合参謀本部のメンバーはキューバ奇襲攻撃を主張したが、マクナマラや司法長官ロバート・ケネディは海上封鎖を主張した。ケネディは海上封鎖の実施を決断し、同盟国の支持を得るために元国務長官ディーン・アチソンをフランスのシャルル・ド・ゴールのもとに派遣するとともにイギリスのハロルド・マクミラン、西ドイツのコンラート・アデナウアーのもとに国務次官を送り、NATO主要国である彼らの支持を得た。また、OAS諸国にはアメリカ大使館を通して事態を知らせた。

元大統領のフーヴァー、トルーマン、アイゼンハワーをホワイトハウスに招きケネディ自身が状況説明を行い、さらに議会指導者に対しても自身で状況説明を行った。この議会指導者との会談でJ・ウィリアム・フルブライト、リチャード・ラッセル・ジュニアの両上院議員は海上封鎖に反対し、キューバ爆撃を主張した。

国内の軍隊をアメリカ南東部に移動、空軍戦略航空軍団を最高の警戒レベルに引き上げ、180隻の海軍艦艇をカリブ海に展開させて海上封鎖の準備を整えた。

10月22日午後7時、これらの準備が整った上でケネディは演説を行い、キューバに攻撃用ミサイルが持ち込まれた事実と米国によるキューバ海上封鎖措置を発表し、キューバ国民に対して攻撃用ミサイルは何の利益にもならないと強調した。この演説は合衆国海外情報局 (USIA) を通してスペイン語に訳され中南米諸国に放送された。この演説の翌日、OASは全会一致で米国による海上封鎖措置の支持を決議した。ケネディの演説から2日後の朝に海上封鎖が発効し、潜水艦に守られていたソ連船18隻のうち16隻が洋上で停船・またはUターンし、翌日にはこれら16隻全てがUターンした。

10月23日には、ケネディはキューバのミサイル基地の写真を国連用および報道・出版用に公開し、10月25日にはアメリカ国連大使のアドレイ・スティーヴンソンがこれらの写真を用いてソ連国連大使のワレリアン・ゾリンと対決し、劇的な効果を収めた。

しかしこの後もキューバ国内では、すでに持ち込まれた資材をもとにミサイル基地建設が急ピッチで進んでいた。10月27日にはルドルフ・アンサーソン少佐が操縦していたU-2偵察機がキューバのSAM(地対空ミサイル)により撃墜される事件が起こった。これに対してエクスコムのほぼ全員がSAM基地の破壊で一致したが、ケネディは彼らを引き戻し、キューバに対する攻撃は、ベルリンやアメリカのジュピター・ミサイルが配置されているトルコに対するソ連の攻撃を誘発しかねないことを訴え、攻撃しないことを決定した。

この間、10月26日と10月27日に、ニキータ・フルシチョフから書簡が届いており、前者は柔軟、後者は強硬な内容であった。ロバート・ケネディと大統領顧問テッド・ソレンセンは前者に対する回答を起草し、これが送信された後、ロバート・ケネディは駐米ソ連大使アナトリー・ドブルイニンを司法省に呼び会見した。フルシチョフはこの回答に対する返事の中で、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き換えにキューバのミサイル基地を解体することに同意した。キューバ危機の後、ケネディはトルコに配置してあるジュピター・ミサイルを撤去した。後の歴史学者の間では、当時のソ連第一副首相アナスタス・ミコヤンからの強い進言がフルシチョフにキューバの核ミサイル撤去に踏み切らせたと考えられている。

ケネディとフルシチョフは、互いの陣営を巧みに操りながら核戦争の危機をうまく回避したことにより世界中からの尊敬を集めたが、後にフルシチョフはこの際の軟弱な対応などを理由に1964年10月に失脚させられてしまった。

ラテンアメリカと共産主義[編集]

部分的核実験禁止条約[編集]

ケネディはキューバ危機が去った1963年6月10日に、アメリカン大学の卒業式において『平和のための戦略 (THE STRATEGY OF PEACE) 』という演説を行なった[注 3]。 さらに米英ソの間で核実験禁止条約に関する話し合いを始めることを明言し、「他の国が核実験をしない限り、アメリカも再開することはない」と宣言した。この演説はノーカットでソ連の新聞やラジオで伝えられ、その後1963年7月25日、米英ソの間で部分的核実験禁止条約 (PTBT) を締結することになる。

しかし、この条約はその内容よりも、「核軍縮への第一歩としてのシンボルである」という点に重点を置かれていたため、実際にはこの条約は大気圏内、海中、宇宙空間での核実験は中止したが、地下での実験は禁止されていなかったために、地下核実験はこれまで同様に行われた。さらに、この条約の締結国に含まれていないフランスや、その後新たに核兵器を保有することとなった中国は、その後も大気圏内での核実験を行っていた。

さらに核兵器の削減だけでなく、通常兵器の削減も全く考慮されていなかったために、ケネディは上記のようにベトナムでの軍事介入を続けた上に、通常兵器に対する予算が削減されたわけでもないため、核兵器の製造や配備はその後も削減されずに継続された。

対イスラエル政策[編集]

ケネディはまた、イスラエルの核開発に対し強硬に対応した数少ない合衆国大統領として知られている。建国直後から、アメリカやイギリス、フランス等から明暗の力を得て核開発に邁進したイスラエルだが、ケネディは大統領就任直後から「イスラエルが核を取得することは中東に大きな戦禍をもたらすことになる」という考えを元に、何度も外交勧告を行い、ついには査察団まで送り込んでいる。

「平和部隊」[編集]

ケネディが最初に行ったことのうちの1つは、1961年3月1日大統領令10924号に署名し[40]、「平和部隊」(Peace Corps)を創設することだった(同年9月22日に議会により承認)。志願した人々によって実行されるこのプログラムは、下記のような批判を受けながら今日まで存続している。「教育、農業、ヘルスケアおよび建設の部門で友好国の支援にあたる」とされるこのプログラムは、その実績が出る前から「世界の至る所での多くの人々の尊敬を勝ち取った」とケネディによって自画自賛された。

しかし実際はこの「平和部隊」は、「アメリカによる過剰な他国への介入の象徴」として世界各国から拒否、批判される事が多く、実際にアメリカ企業の進出の地盤固めとして機能しているという指摘も多い。

国内政策[編集]

ケネディは、大統領選挙中から一貫して提唱してきた「ニューフロンティア精神」に基づき、その国内政策を「ニューフロンティア政策」と総称した。教育への連邦政府支出と高齢者医療保険、政府による景気対策を柱とする野心的な公約であり、独立以来続いていた人種差別法案の撤廃も含まれた。

1963年には中間選挙での人気取りを鑑み、所得税減税を含んだ税制改革を提案したが、これらの政策を実現させるための追加支出だけでなく、冷戦下において増加を続ける軍事費や、ケネディが進めていたベトナムへの軍事援助の増加やアポロ計画などへ対する支出の増加に対する明確な財源の確保のための施策を持ち合わせていなかったため、予算法案の多くが、ケネディの死後の1964年まで議会を通過することはなかった。

ケネディの生涯の間、主要な政策はわずかしか議会を通過しなかったが、後継者ジョンソン政権下の1964-65年度会期中にそれらは可決された。しかし上記のように財源の確保という重大な問題への配慮にかけていたために、下記のようにアメリカ経済に大きな悪影響を与えることとなった。

なお、1963年当時7月1日より1964年の財政年度が始まっていたが、重要な13の予算法案のうち9つが議会を通過せず、議会の議事妨害(フィリバスター)によってケネディ政権は行き詰まっていた。これらのことに合わせて、内政、外交におけるいくつかの大きな失策により、もし暗殺されていなかったとしても1964年の大統領選挙での再選は絶望的とする見方が有力であった[41]

経済政策[編集]

政府紙幣#アメリカも参照の事。

ケネディはアイゼンハワー政権末期から始まった不況への対策として、失業手当の13週間延長、失業者の子供への補助金、早期退職を奨励するための年金増額、最低賃金の向上、スラム再開発のための政府融資などの法案を通過させるとともに、各省庁の物資調達や公共投資の前倒しを行い、経済回復へと向かわせようとした。しかし、同時にケネディが推進したアポロ計画の莫大な開発費と、ケネディが軍事介入を進めた結果、拡大し泥沼化したベトナム戦争による戦費支出は、公共事業などへの投資の縮小をもたらし、不況を解消するばかりか結果的に不況を後押しする一因となっただけでなく、政府の債務を増加させることとなった。

ケネディの経済政策で特筆されるのが鉄鋼産業との対決であった。戦後から1960年にかけて、鉄鋼産業の労使交渉ではストライキ、大幅な賃上げ、鉄の価格引き上げというパターンが続いていたが、それによる急激なインフレーションを懸念したケネディは鉄鋼業界の経営陣と労組の幹部をホワイトハウスに招き、労組の幹部に“責任ある”要求をするよう説得、労組側もこれを受け、経営陣が鉄価格の値上げなしに飲み込めるだけの賃上げ率に抑えた。しかしUSスチール会長のロジャー・ブローは従来通り値上げを通告し、それに合わせるように他の大手鉄鋼各社も続々と値上げを発表した。

そのためケネディはこれを非難する演説を行い、司法省はこのような鉄鋼産業の値上げが独占禁止法違反に抵触するかどうかの調査を始め、国防総省は値上げに加わらなかった鉄鋼会社の材料を使ったメーカーのものを調達することを決定。このような政府の動きを受けて鉄鋼各社は値上げを撤回し、インフレは回避された。「ウォール・ストリート・ジャーナル」は政府が経済に介入するこのような事態に対して「政府の力による抑圧」であると批判した。ケネディは「賃金や商品価格の設定は自由に行われるべきであるが、経済人には公共の利益に対する責任がある」と演説の中で訴えた。

アポロ計画[編集]

有人宇宙船フレンドシップ7号を見学するケネディ

ケネディは、アメリカが宇宙開発競争の先頭に立つことを熱望した。当時、ソ連は世界で最初の人工衛星スプートニクをアメリカに先駆け成功させたのに続き、その後も1961年に初の有人飛行を成し遂げるなど、宇宙開発については完全にアメリカに先立っており、ケネディは「アメリカが宇宙開発競争で後れをとることはできない」と発言していた。

その後ケネディは、アメリカ人を月に到達させるという計画(アポロ計画)のために220億ドル以上という巨額の予算を承認してくれるように議会に依頼し、この計画の推進によって大きな利益を得ることになる大手軍事産業ロビー活動の後押しもあり、これを無事に通過させることに成功した。ケネディによって推進されたアポロ計画は、ケネディの死後ジョンソン政権とニクソン政権に引き継がれ、ニクソン政権下の1969年アポロ11号はついに月面に人類を送り届けることに成功した。

アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争には、宇宙空間における探検や冒険、研究といった側面の他に、冷戦下においてソ連との間で宇宙空間の軍事的覇権を争う側面や大手軍事企業へ利益を与える側面もあった。ケネディが議会を通過させたアポロ計画をはじめとする宇宙開発競争が、ケネディ政権下で拡大したベトナムへの軍事介入の拡大と併せて進んだ結果、マクドネル・ダグラスノースロップロッキードなどの軍産複合体の中心的存在である大手軍事産業は大きな利益を得た。しかし、同時にアポロ計画の莫大な開発費と、ケネディの死後にさらに軍事介入が進み戦争へと拡大したベトナム戦争による戦費支出は、公共事業などへの投資の縮小をもたらし、不況を後押しする一因ともなった。

人種差別問題[編集]

大統領執務室から公民権についての演説を行うケネディ

ケネディは大統領権限でできることとして、アフリカ系アメリカ人を積極的に連邦政府の幹部に任命した。その結果司法省では黒人の連邦検事は10人から70人に増え、また連邦判事もゼロから5人に増えた。また、企業や労働組合に対しても黒人を積極的に雇うよう働きかけた。連邦政府の補助金を受けている病院や図書館での差別は大統領府令によって禁止し、連邦雇用局に対しては白人だけを雇う企業の求人を拒否するよう命じた。さらに、ケネディは黒人の選挙権に対する2つの南部の悪習「ポール・タックス」(投票するために支払う税金)と「リテラシー・テスト」(黒人を選挙から締め出すことを目的としたテスト)を撤廃させるよう努力し、ポール・タックスを廃止する法案を通過させ、この法案は合衆国憲法修正第24条となったが、リテラシー・テストを廃止する法案は上院を通過できなかった。

連邦最高裁は、1954年に公立学校の中での人種の分別を違憲とする判決(ブラウン判決)を下していたが、南部の州には、依然としてこの決定に従わない学校が多くあった。1962年、ジェームズ・メレディスという黒人学生がミシシッピ州立大学に入学しようとして拒否される事件が起き、ケネディは軍隊を動員して人種差別主義者の暴動を鎮圧した(メレディス事件)[注 4]

この事件後、黒人学生を認めなかったほかの南部諸州も黒人学生の受け入れをはじめたが、アラバマ州知事のジョージ・ウォレスだけは違った。ケネディは司法省幹部によるバーミンガムの地域リーダーの説得を続け、大学側に黒人学生の入学を認めさせた。1963年6月11日、2人の黒人学生ジェームズ・フッドとヴィヴィアン・マローンが司法次官ニコラス・カッツェンバックにつきそわれてアラバマ州立大学の門前に到着した。司法長官ロバート・ケネディはウォレスに対して電話で妨害しないよう説得したが、ウォレスはこれを拒否し、州兵で大学の周囲を固めて自ら大学の門に立ちはだかった。ケネディは州兵を連邦軍に編入・指揮下に置くとともに大学周辺を関係者以外立ち入り禁止にし、バーミンガム郊外に連邦軍を集結させた。カッツェンバックが大統領布告を読み上げ、州兵の司令官が連邦政府の任務遂行を妨害するなら逮捕すると宣告し、ウォレスはようやく引き下がった。これにより全米50州の中で黒人学生を締め出す州はなくなった。

ケネディは、同日夕方、公民権運動を助けるためにより強い処置を講ずる時期が来たと決断し、議会へ新しい公民権法案を提案、テレビで大統領執務室から直接国民に訴えかけた。「エイブラハム・リンカーンが奴隷を解放して以来100年間の猶予が過ぎた、彼らの相続人、彼らの孫は完全に自由ではない」と言った[注 5]。 この公民権法はケネディ政権下では成立しなかったが、人種差別廃絶に対し積極的な姿勢を持っていたジョンソン政権下で議会を通過し、1964年公民権法として成立することとなった。8月28日にキング牧師がワシントン大行進I Have a Dreamの演説を行った後、ケネディはキングをホワイトハウスに招待し、「私も夢見ている」と語った。

内閣[編集]

職名 氏名 任期
大統領 ジョン・F・ケネディ 1961-1963
副大統領 リンドン・ジョンソン 1961-1963
国務長官 ディーン・ラスク 1961-1963
財務長官 C・ダグラス・ディロン 1961-1963
国防長官 ロバート・マクナマラ 1961-1963
司法長官 ロバート・ケネディ 1961-1963
郵政長官 J・エドワード・デイ 1961-1963
  ジョン・グロノウスキー 1963
内務長官 ステュアート・リー・ユードル 1961-1963
農務長官 オーヴィル・ロスロップ・フリーマン 1961-1963
商務長官 ルーサー・ハートウェル・ホッジズ 1961-1963
労働長官 アーサー・J・ゴールドバーグ 1961-1962
  W・ウィラード・ウィルツ 1962-1963
保健教育福祉長官 エイブラハム・アレグザンダー・リビコフ 1961-1962
  アンソニー・ジョーゼフ・セレブレズ 1962-1963
国家安全保障担当大統領補佐官 マクジョージ・バンディ 1961-1963
CIA長官 アレン・ウェルシュ・ダレス 1961
  ジョン・マコーン 1961-1963


最高裁判所判事[編集]

暗殺[編集]

赤線がパレードの経路。黄色字のザプルーダーの位置のほぼ正面の赤線上で射撃された。

1963年11月22日に、前日からテキサス州を遊説して、この日は大統領専用機でダラスに到着して空港から市内をへ向けてオープンカーでのパレード中に狙撃され、ケネディは暗殺された。43歳で大統領に就任してから、わずか2年10か月と2日の在任期間であった。この余りにも突然で衝撃的な事件は、全米を震撼させ、世界中に大きなショックを与えた。今日でもその第一報を聞いた瞬間、自分がどこで何をしていたかを覚えている人は多い[42]

ケネディ大統領夫妻はこの日、午前11時40分にダラス空港に到着して、その後大統領専用車に乗って、コナリーテキサス州知事夫妻とともに市内をパレードしてヒューストン通りからエルム通りに左折して入り、12時30分にディーレイプラザで後方のテキサス教科書倉庫ビルから3発の銃弾が発射され、その内2発が大統領に命中して、後の1発が大統領の後頭部に当たりこれが致命傷となった。急ぎパークランド病院に担ぎ込まれたが殆ど生存の希望が持てる状態ではなかった。病院から大統領専用機に遺体が運ばれて、ジャクリーン夫人が同席してジョンソン副大統領の大統領就任宣誓が行われた。まだ東西対立が厳しく核戦争の危機がまだ去っていない時代では権力の移行はすばやく行われなければならなかった。

ケネディ暗殺事件に関しては、公式にはウオ-レン報告が翌年まとめられてオズワルドの単独犯行という結論であったが、以下のような説もある。その主な原因は、証拠物件の公開が政府によって2039年まで不自然に制限されたり、また大規模な証拠隠滅が行われたと推測できる事象が多くあるためである。

衣料販売店を経営するエイブラハム・ザプルーダーによって撮られた暗殺の瞬間の8ミリ映像(「ザプルーダー・フィルム」と呼ばれている[注 6])は、映画『JFK』やインターネットなどで容易に見ることができる。ケネディの頭部は致命的と見られる射撃によってひどく破壊され、後方に動いている。その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、この映像はリー・ハーヴェイ・オズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。直後にケネディ夫人が動揺した様子で後方に目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、シークレットサービスにすぐ引き戻されている映像が独立した複数の映像から確認できる。但しケネディ夫人自身はその後のウオーレン委員会ではそのことは全く覚えていないと証言している[注 7]。彼女はケネディの頭部の骨片を医師に渡している[43]

また、ケネディが撃たれた場所の前方の丘の上(グラシー・ノール grassy knoll)での不審な事象について複数の一般人の証言がある[注 8]

これらは、射撃はすべて「後方から」オズワルド一人によって行われたとする暗殺真相究明委員会(ウォーレン委員会)による政府側報告書と矛盾しており、陰謀の存在が指摘される理由となっている[44]

ケネディの急進的なベトナム戦争撤退の方針が政府側もしくは軍産複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという説など、様々な主張が存在する[注 9]

結局暗殺犯とされたオズワルドは、警察の尋問に対し一貫して「はめられた」と主張するのみで、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送途上に市警本部の地下通路で、市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビーに射殺された。この射殺事件にもケネディの暗殺事件の真相の隠蔽行為(口封じ)であるとする意見がある。ルビーは1964年3月に殺人罪で有罪判決が下されるが、事件について多くを語らないまま4年後に肺塞栓症によりダラスのパークランド病院で死亡した。

クレイ・ショー裁判[編集]

ケネディ暗殺はアメリカ合衆国の最暗部に属する事件であるが、それが唯一法廷上で検討されたのがクレイ・ショー裁判であった。ニューオリンズのジム・ギャリソン検事はクレイ・ショーを大統領暗殺に関わる陰謀罪で逮捕した。ギャリソンはクレイ・ショーがCIA経由でケネディ暗殺事件に関わっており、事件はCIA、軍部、国家の関与するクーデターであると主張した。裁判はギャリソンが敗北するが、後に、CIAがウォーレン委員会の批判者たちへ圧力をかけたこと、クレイ・ショーが実際にCIAのために働いていたことが公的に示された[45][46]。 また、ケネディ暗殺事件の多くの目撃者、関係者が変死しているとする説がある[注 10][注 11]

スキャンダル[編集]

1950年代後半から、妹パトリシアの夫でハリウッド俳優のピーター・ローフォードから紹介された映画女優のマリリン・モンローとの不倫関係を持ち、就任後に至るまで不倫の関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどにより証言されている[49]

さらに大統領予備選挙前の1960年2月には、シカゴのマフィア「シカゴ・アウトフィット」のボスのサム・ジアンカーナの指示を受けたフランク・シナトラから、シナトラの元恋人のジュディス・キャンベル英語版(ジアンカーナの愛人でもあった)を紹介され[50]、その後の大統領予備選挙時においてモンローと並行して不倫関係を持っていただけでなく、その後もたびたび会っていたことが明らかになっている[51]。 ホワイトハウスでのキャンベルとの通話記録は70回を数え、2人っきりの食事が20回はあったという。

なお、モンローとの関係は、ケネディがマフィアと関係の深いシナトラを介してモンローと知り合った上に、ジアンカーナらのマフィアが2人の関係を知っており、このことをマフィアの取り締まりを強化しようとしていたケネディ政権に対する取引に使おうとしていたことを憂慮したFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーが、司法長官を務めるロバートに強く忠告したことで終焉を迎えた[52]。同じくキャンベルとの関係も間もなく終焉を迎えることになった。

マディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの誕生パーティーの後にケネディと話すモンロー(1962年)

モンローは、その関係が終焉を迎えた直後の1962年5月19日に、ニューヨーク州のマディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの45歳の誕生日パーティーに、体の線が露わになったドレス姿で赴き、「ハッピーバースデー」の歌を披露した[53]ハッピーバースデー・ミスタープレジデントも参照)。なおこの際に、ケネディとモンローの関係を快く思っていなかったジャクリーン夫人は、パーティーにモンローが来ると知ってあえて欠席した。なお、ケネディとモンローが同時に写っている写真は、シークレットサービスにより回収されたために、この際に撮影された写真が現存が確認されている唯一のものとなっている[54]

ケネディ家[編集]

ケネディ一家

ケネディの名を冠した施設など[編集]

ケネディの肖像を使用した50セント硬貨

関連作品[編集]

書籍[編集]

  • ジョン・F・ケネディ、宮本喜一訳 『勇気ある人々』、英治出版、2008年、ISBN 4-86276-023-6
  • ジョン・F・ケネディ、高村暢児編訳 『ケネディ登場』、中公文庫BIBLIO、2004年(ケネディの演説集)
  • ローズ・F・ケネディ著、大前正臣訳 『わが子ケネディ』、徳間文庫、1984年 母ローズの回顧録
  • セオドア・H・ホワイト著、渡辺恒雄・小野瀬嘉慈訳 『大統領への道』、弘文堂(フロンティア・ライブラリー)、1965年
  • セオドア・ソレンソン著、大前正臣訳 『ケネディの道』、弘文堂、1966年/ サイマル出版会、1987年
  • ギャレス・ジェンキンス著、沢田澄江訳 『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』、原書房、2006年
  • ロバート・ケネディ著、毎日新聞社外信部訳 『13日間 キューバ危機回顧録』、中公文庫BIBLIO、2001年(元版毎日新聞社、1968年)
  • ビル・アドラー編、井坂清訳 『ケネディのウィット』、扶桑社セレクト、2002年
  • ロバート・ドノヴァン著、波多野裕造訳 『PT109 太平洋戦争とケネディ中尉』、日本外政学会、1963年
  • 大森実 『ケネディ-挑戦する大統領』、講談社、1978年
  • 土田宏 『ケネディ兄弟の光と影』、彩流社、1992年
  • 土田宏 『ケネディ 神話と実像』、中公新書、 2007年 ISBN 978-4-12-101920-2
  • 井上一馬 『ケネディ その実像を求めて』、講談社現代新書、1994年
  • 松尾弐之 『JFK 大統領の神話と実像』、ちくま新書、1994年
  • ピーター・コリヤー、デヴィッド・ホロウィッツ著、鈴木主税訳 『ケネディ家の人々』(上下)、草思社、1990年
  • ロナルド・ケスラー著、山崎淳訳 『汝の父の罪』、文藝春秋、1996年
  • ネリー・ブライ著、桃井健司訳 『ケネディ家の悪夢』、扶桑社、1998年
  • エドワード・クライン著、金重紘訳 『ケネディ家の呪い』、集英社、2005年

ケネディに関連する映画[編集]

舞台[編集]

音楽[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Kumanaは『ケネディのPT109の捜索』 ('The Search for Kennedy's PT-109') で「救出の後に、ケネディは、彼が再び私たちに会うと言いました」と述べている。そして「彼は大統領になったとき、我々を招待してくれた。しかし、空港に着いた時、我々はある事務員に引き会わされ、我々が出国出来ない旨を告げられた。Biukuと私が英語を全く話せないことが理由だった。私の気持ちはひどく沈んでしまった。」という証言を残している[16]
  2. ^ セオドア・ルーズベルトはケネディより若い42歳で大統領になったが、ウィリアム・マッキンリーが暗殺された後を埋めるため自動的になったもので、選挙で選ばれた大統領はケネディが史上最年少である。
  3. ^ この演説の中でケネディは、「私の言う平和とは何か、我々が求める平和とは何か、それはアメリカの戦争兵器によって世界に強制されるパックス・アメリカーナではない。そして墓場の平和でもなければ奴隷の安全性でもない。(中略) ソ連への我々の態度を再検討しようではないか。(中略) 我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を呼吸している。我々はみな子供たちの将来を案じている。そして我々はみな死すべき運命にある。(中略) 我々の基本的、長期的なジュネーブでの関心は全面的かつ完全な軍縮である。この軍縮は段階的に行われるよう計画され、平行した政治的な進展が兵器に取って代わる新たな平和機構を設立することを可能にするものである」と語った
  4. ^ メレディスは一年前から州政府と法廷で争い、地方裁判所から連邦最高裁までことごとくメレディスが勝訴してきた。しかしミシシッピ州知事ロス・バーネットは裁判所の判決を拒否したため、連邦控訴院はバーネットに法廷侮辱罪で有罪を宣告し、連邦政府に対して裁判所の命令を実行するよう要請した。司法長官ロバート・ケネディはバーネットや大学当局に対し説得を開始し、大学側はメレディスの入学受け入れを決定した。しかしバーネットはあくまでも拒否の姿勢を貫き、州兵を動員して大学の周囲を固め、メレディスが大学へ入るのを妨害した。ケネディは州兵を連邦化する行政命令を出し、連邦保安官にメレディスを目立たぬように夜中に大学の寮内に連れ込ませた。しかしこれを知ったクー・クラックス・クランメンバーをはじめとする人種差別主義者約2500人が暴動を起こした。ケネディはこの件に関する演説を行ったが、連邦保安官や連邦化した州兵では対処し切れなかったのでついに軍隊を動員してこれを鎮圧した。
  5. ^ アメリカは多くの国家および背景の人、そして人は皆平等に作られたという原理によって設立されたことを訴え、ケネディはアメリカ人がみな彼らの皮膚の色にかかわらず、アメリカで幸福な生活を楽しむべきであることを明らかにした。この演説の中でケネディは人種差別を単なる憲法や法律上の問題ではなく、「道徳的危機」であると断じた。ケネディは議会に対する説得にも力を入れた。6月19日に法案を議会に送るとともに、法案に関する特別メッセージを送った。その中でケネディは「この法案の提出は、単に経済的効率のためでも、外交的配慮のためでも、ましてや国内の平穏を保つためでもない。ただ何よりもそれが正しいことだからだ」と訴えた
  6. ^ フィルムには幾つかの版があり、損傷によりフィルムの数コマが欠落したものもある
  7. ^ これは後の検証により単に危機回避をはかり車外に飛び出ようとしていただけではないかという説があるが、射撃しやすいオープンカーの後方部分に危機回避のために這い出したとするのは不自然であるという意見もあるが、実はザプルーダーフィルムから見ると、大統領の頭部に当たってから殆ど1秒も置かずに動いているのは、全くとっさの反射的な行動であって意図を持った行動として見るのは不可能という見方もある。
  8. ^ ジーン・ヒル(Jean Hill)はグラシー・ノールから銃声がしたとウォーレン委員会において証言した。1980年代には、男が銃撃したと述べている。ウォーレン委員会において、トリプル・アンダーパスの陸橋にいたサム・ホランド(Sam Holland)はアーケードの背後の木立から煙が上がったと証言し、同じ場所にいたオースティン・ミラー(Austin Miller)も煙かスチームを見たと証言した。ウォーレン委員会において、ダラス市警の制服警官ジョー・スミス(Joe Marshall Smith)はグラシー・ノールで当日は配置されていなかったシークレットサービスを名乗る私服の男を見たと証言した。エイブラハム・ザプルーダーの秘書マリリン・シッツマン(Marilyn Sitzman)はジョサイア・トンプソン(Josiah Thompson)のインタビュー(1966年)において、昼食を取っていた黒人のカップルが走っていくのを見たが、他には誰もいなかったと証言した。
  9. ^ 映画『JFK』は軍産複合体主犯説を主張している。なお、映画『JFK』はフィクションと歴史事実を意図的に混合しているので注意が必要である
  10. ^ 陸井三郎は、目撃証言者12人が変死または怪死していると述べている[47]
  11. ^ ダラスの熱い日』は、事件後に3年間で18人が死亡したとする説を引用している。この説には批判もある[48]

出典[編集]

  1. ^ ピーター・コリヤー、デヴィッド・ホロウィッツ、鈴木主税訳、『ケネディ家の人々』、1990年、草思社、上p48
  2. ^ コリヤー、ホロウィッツ、上p48
  3. ^ 土田宏、『ケネディ 神話と実像』、中公新書、2007年、pp12-18
  4. ^ 土田宏、p25
  5. ^ コリヤー、ホロウィッツ、上p90
  6. ^ 土田宏、p21
  7. ^ ロナルド・ケスラー、山崎淳訳、『汝の父の罪』、文藝春秋社、1996年、pp275-277
  8. ^ 土田宏、p28
  9. ^ コリヤー・ホロウィッツ、p182
  10. ^ ケスラー、pp322-333
  11. ^ コリヤー・ホロウィッツ、p189
  12. ^ コリヤー・ホロウィッツ、pp198-199
  13. ^ コリヤー・ホロウィッツ、p200
  14. ^ ケスラー、p356
  15. ^ 土田宏、pp32-33
  16. ^ Ted Chamberlain National Geographic News, 20 November 2002
  17. ^ “精神生きている…ケネディ氏、JFKへの思いも”. 読売新聞. (2013年11月24日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20131124-OYT1T00320.htm 2013年11月24日閲覧。 
  18. ^ “紅陵に生命燃ゆ その11(拓殖による掲載)”. 東京新聞. (2010年11月6日). http://www.takushoku-u.ac.jp/newspotal/publication/takushoku110th_sankei101106.pdf 2013年11月24日閲覧。 
  19. ^ PHOTOS: JFK AND JACKIE'S WEDDING, 1953 - LIFE.TIME.com(ライフ画像アーカイブ).2013年9月11日閲覧.
  20. ^ ニューズウィーク 2011.5.4/11号
  21. ^ ケスラー、p438-440
  22. ^ 土田宏、pp84-85
  23. ^ ジェイムズ・スパダ著、広瀬順弘訳、『ピーター・ローフォード-ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』、読売新聞社、1992年、下p76
  24. ^ スパダ、p342
  25. ^ スパダ、p346
  26. ^ グレーターヒューストン聖職者協会での演説” (日本語訳と動画) - JOHN F.KENNEDY PRESIDENTIAL LIBRARY AND MUSEUM.2013年9月11日閲覧.
  27. ^ Address of Senator John F. Kennedy to the Greater Houston Ministerial Association, September 12, 1960” (原文と動画) - JOHN F.KENNEDY PRESIDENTIAL LIBRARY AND MUSEUM.2013年9月11日閲覧
  28. ^ ジョン・H・デイヴィス著、市雄貴訳、『マフィアとケネディ一族』、朝日新聞社、1994年 、ページ数不明
  29. ^ サム・ジアンカーナ、チャック・ジアンカーナ著、落合信彦訳、『アメリカを葬った男―マフィア激白!ケネディ兄弟、モンロー死の真相』、光文社、1992年、ページ数不明
  30. ^ スパダ、p344
  31. ^ 田久保忠衛、『戦略家ニクソン 政治家の人間的考察』、中公新書、1996年、ページ数不明
  32. ^
    就任宣誓・演説
    。演説全文はwikisource:John F. Kennedy's Inaugural Addressに見ることができる。
  33. ^ デイビッド・ハルバースタム著、浅野 輔訳、『ベスト&ブライテスト』(上・中・下)、朝日文庫、1999年、ページ数不明
  34. ^ ヘンリー・キッシンジャー著 、岡崎久彦訳、『外交』、日本経済新聞社、1996年、p292
  35. ^ キッシンジャー、ページ数不明。同著の中でキッシンジャーは、「このような情勢視察は常に、ある決定(=アメリカ軍「軍事顧問団」の増派)が既になされていたということを示すだけのものである」と、情勢視察を行う前にアメリカ軍「軍事顧問団」の増派が決定されていたことを指摘している
  36. ^ キッシンジャー、ページ数不明
  37. ^ アレックス・アベラ著、牧野洋訳、『ランド~世界を支配した研究所』、文藝春秋社、2008年、ページ数不明
  38. ^ ロバート・マクナマラ著、仲晃訳、『マクナマラ回顧録 ベトナムの悲劇と教訓』、共同通信社、1997年、p97
  39. ^ キッシンジャー、p298
  40. ^ Document for September 22nd: Executive Order 10924: Establishment of the Peace Corps” - United States National Archives and Records Administrationアメリカ国立公文書記録管理局).2013年9月12日閲覧.
  41. ^ 陸井三郎の解説による(『日本大百科全書』(小学館))。
  42. ^ この日は日本とアメリカ間のテレビ中継衛星通信実験が行われており、初の太平洋を跨いで同時中継が実現した。ホワイトハウスではケネディ大統領の声明のビデオ撮りもして、お祝いムードに包まれるはずであった。しかし画面に映ったのはケネディ暗殺のニュースであった。
  43. ^ 大統領の骨と脳組織の一部は前列のコナリー知事も被っており、ザプルーダーフィルムを見ると前方に血が噴き出ているように見える。
  44. ^ 下院暗殺調査委員会はオズワルドには少なくとも一人の協力者がいたと結論を下したが、重要な証拠とされた口述録音機用録音テープの証拠は後に証拠認定を取り消されている。
  45. ^ ジム・ギャリソンとクレイ・ショー裁判については、ジム・ギャリソン著、岩瀬孝雄訳、『JFK ケネディ暗殺犯を追え』、早川書房、1992年およびオリバー・ストーン、ザカリー・スクラー著、中俣真知子、袴塚紀子訳、『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』、テンプリント、1993年等参照。また、クレイ・ショー裁判を批判した著作としてEdward Jay Epstein The Assassination Chronicles: Inquest, Counterplot, and Legend(Carroll & Graf Pub 1992)。
  46. ^ 参考:クレイショー裁判
  47. ^ 『日本大百科全書(小学館)』
  48. ^ 奥菜秀次『捏造の世界史』第三章 祥伝社、2008年
  49. ^ スパダ、p348
  50. ^ ジアンカーナ、p331
  51. ^ スパダ、p347
  52. ^ デイヴィス、p266
  53. ^ The Night Marilyn Sang to JFK: Rare Photos” - LIFE.TIME.comライフ画像アーカイブ)
  54. ^ 「マリリン・モンローとケネディ兄弟の貴重な写真が公に」2010年6月2日 CNN[リンク切れ]
  55. ^ 朝日新聞・1964年8月2日記事

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


公職
先代:
ドワイト・D・アイゼンハワー
アメリカ合衆国大統領
1961年1月20日 - 1963年11月22日
次代:
リンドン・B・ジョンソン
議会
先代:
ヘンリー・カボット・ロッジJr.
マサチューセッツ州選出上院議員(第1部)
1953年1月3日 - 1960年12月22日
同職:レヴァレット・サルトンストール
次代:
ベンジャミン・A・スミス
議会
先代:
ジェームズ・マイケル・カーリー
マサチューセッツ州選出下院議員
マサチューセッツ州第11選挙区

1947年1月3日 - 1953年1月3日
次代:
トーマス・P・オニールJr.
党職
先代:
アドレー・スティーブンソン
民主党大統領候補
1960年
次代:
リンドン・B・ジョンソン
先代:
デヴィッド・I・ウォルシュ
民主党上院議員候補
マサチューセッツ州(第1部)

1952年, 1958年
次代:
エドワード・ケネディ
名誉職
先代:
第二次世界大戦および朝鮮戦争の無名戦士
アメリカ合衆国議会議事堂ロタンダに棺が安置された者
1963年11月24日 - 1963年11月25日
次代:
ダグラス・マッカーサー