朝鮮戦争
| 韓国での表記 | |
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| 各種表記 | |
| ハングル: | 한국 전쟁 / 육이오 사변 |
| 漢字: | 韓國戰爭 / 六二五事變 |
| 発音: | ハングク・チョンジェン/ユギオ・サビョン |
| 日本語読み: | かんこくせんそう/ろくにご じへん |
| ローマ字転写: | Hanguk jeonjaeng/6・25(Yugio) sabyeon |
| 北朝鮮での表記 | |
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| 各種表記 | |
| ハングル: | 조국해방전쟁 |
| 漢字: | 祖國解放戰爭 |
| 発音: | チョグッケバンジョンジェン |
| 日本語読み: | そこくかいほうせんそう |
| ローマ字転写: | Chogukhaebang-chŏnjaeng |
朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争[3][4]。
当事国ばかりでなく諸外国が交戦勢力として参戦し、朝鮮半島全土が戦場となって荒廃した。1953年に休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時のフロントラインが軍事境界線として認識され南北二国に分断された。現在も両国間に平和条約は結ばれておらず、緊張状態は解消されていない。北朝鮮側による領空・領海侵犯を原因とした武力衝突がたびたび発生している。
目次 |
概説 [編集]
1945年8月15日、第二次世界大戦で日本が連合国に降伏したが、その時点ですでに朝鮮半島北部には連合国の1国であるソ連軍(赤軍)が侵攻中であった。同じく連合国であり反共主義を掲げていたアメリカは、ソ連の急速な進軍により朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案した。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。
その後米ソの対立を背景に、南部は大韓民国、北部は北朝鮮として建国した。南北の軍事バランスは北側が優勢であり、朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、韓国軍主力が半島南部に移動していた機を見て、防御が手薄となっていた国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切った。
侵攻を受けた韓国側には進駐していたアメリカ合衆国軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦し、一方の北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「抗美援朝軍」「志願軍」。実態は中国人民解放軍)が加わり、直接参戦しないソ連は武器調達や訓練などの形で支援し、アメリカとソ連による代理戦争の様相を呈した。
なお、呼称に関しては、日本では朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)もしくは朝鮮動乱(ちょうせんどうらん)と呼んでいるが、韓国では韓国戦争や韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスでは英語でKorean War (朝鮮戦争)、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)と呼ばれている。また、戦線が朝鮮半島の北端から南端まで広く移動したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれる。
- 本項では、停戦後の朝鮮半島の南北分断の境界線以南(大韓民国統治区域)を「南半部」、同以北(朝鮮民主主義人民共和国統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接し合った国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する2つの政権(国家)」の関係にあるためである。
戦争に至るまでの経緯 [編集]
終戦時の朝鮮の政治状況 [編集]
1945年8月14日に通告されたポツダム宣言を9月2日に日本が正式に受諾、連合国に降伏し第二次世界大戦が終結すると、宣言に則り日本は朝鮮半島の統治権を放棄することとなった。
朝鮮半島内では日本の統治からの独立運動を志向する諸勢力があったものの、半島内で統一的に導ける組織は存在していなかった。このような組織は朝鮮半島内よりもむしろ国外にあり、亡命先での活動が主だった。大きく分けると中華民国上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ国内における朝鮮半島や中国における利権に敏感な活動家などが挙げられるが、いずれも大きな支持を得るに至らず、その影響力は限定的なものであった。
このような情勢から戦勝に際しても、朝鮮全土にわたって独立建国に向かう民意の糾合が醸成されていなかった。日本による植民地統治からの突然の「解放」は、あくまで連合国軍により「与えられた解放」であった[5][6]。朝鮮人が自ら独立を勝ち取ることができなかったこと、独立運動の諸派が解放後の、それも数年間にわたり激しく対立し続けたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた[7]。
朝鮮建国準備委員会 [編集]
諸勢力の中でも比較的統制のとれていた呂運亨の集団は、日本降伏を見越し、8月10日ひそかに建国同盟を結成していた。一方、朝鮮総督府は半島の突然の機能不全に動揺していた。8月8日に参戦したソ連は、日本降伏後も急激に満州から朝鮮半島に侵攻しつづけ、8月9日に豆満江を越えていた。総督府は、70万人もの在留邦人を抱え、未だアメリカの進駐がなく、有効な対抗勢力がないまま朝鮮全土がソ連に掌握されることを懸念し、呂に接触して行政権の委譲を伝えた。呂は政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件にこれを受け入れ、8月15日の敗戦の報を受けて直ちに朝鮮建国準備委員会を結成し、超党派による建国を目指した。
呂自身は左右合作による朝鮮統一を目指していた。8月16日には一部の政治犯が釈放されて建国準備委員会に合流したが、その多くがその思想から弾圧された共産主義者であったため、建国準備委員会は左傾化した。建国準備委員会は1945年9月6日に朝鮮人民共和国の成立を宣言した。要人には李承晩、金日成、朴憲永、金九、曺晩植らが名を連ねていたが、これは国内外の主だった活動家を本人の許諾なく列挙しただけに過ぎなかった。
連合国は自身の主導で戦時中の諸会談で朝鮮半島の信託統治の方針を決定しており(後述)、日本がポツダム宣言に反して連合国の承認を経ず勝手に建てた政権と映った。総督府も同じく左傾化を嫌うアメリカの意向を受けて態度を変え、建国準備委員会に解散を命じるなど混乱し、また建国準備委員会内部でも対立や離反が相次ぎ足並みが乱れた。アメリカ軍は9月8日に仁川に上陸、呂はアメリカ軍に面会を求めるが拒絶され、翌9日に総督府は降伏文書に署名し、アメリカ軍に総督府の権限を委譲した。9月11日アメリカによる軍政が開始され、朝鮮人民共和国は連合国、枢軸国のいずれからも承認を得ないまま事実上瓦解した。
建国準備委員会はその後も活動を続けたが、軍政庁はこれを非合法とみなした。また、反共を掲げる右派が湖南財閥と結び、9月16日宋鎮禹をトップとする韓国民主党(韓民党)を立ち上げて、上海から重慶に亡命していた大韓民国臨時政府支持を表明、建国準備委員会を否定した。
建国準備委員会が実際に果たした役割については諸説ある。日本が朝鮮統治から撤退した後に行政機構として機能したとする見方もあれば、突然当事者とされたことに呼応してできた組織であるとして、実際には朝鮮人民の意思を反映していなかった点を強調する見方もある。
信託統治案 [編集]
朝鮮内での足並みが揃っていない状況下、大韓民国臨時政府に弾劾されアメリカで活動していた李承晩や、ソ連の支援の元で国内で活動していた金日成を始めとする満州抗日パルチザン出身者など、様々な考え方を持った亡命者、逃亡者が次々に帰国し、独自の政治活動を再開、活発化させていた。現在の北朝鮮政府が「各地で自発的に生まれた」と自称する人民委員会は1945年10月にはソ連軍(赤軍)によって接収された。ソ連は1945年11月に朝鮮民主党を起こした曺晩植に接触し、信託統治の容認を求めたが容れられなかったため、代わりに朝鮮共産党の北部分局のトップに過ぎなかった金日成の支援に回った。後ろ盾を得た金日成によって、その後多数派の国内の他の共産主義者たちは時間をかけて粛清されることになる。
一方、連合国側は1945年12月27日、ソ連の首都のモスクワでアメリカ、イギリス、ソ連の外相会議を開き(モスクワ三国外相会議)、日本の管理問題のほかに、朝鮮半島問題も議題に上げた。
これまでに、アメリカ32代大統領ルーズベルトは、解放後の朝鮮半島について「新設する国際連合によって40年間は信託統治すべき」(1943年11月テヘラン会談)、「20~30年間は信託統治すべき」(1945年2月ヤルタ会談)と主張し、これに対してソ連のスターリンは「(統治の)期間は短いほど良い」と回答していた。しかし、その後の急速な日本軍の崩壊とソ連軍の侵攻に、アメリカは急遽ソ連に対し38度線での分割占領案を提示した[8]。
その後4月、ルーズベルトは死去、後継のトルーマンはこのモスクワ外相会談で、米ソ共同委員会米英ソと中華民国の4か国による5年間の信託統治を提案して決定され(モスクワ協定)、その後アメリカとソ連でその方法を継続して協議することになった。
ところが韓国民主党系新聞の東亜日報が協定について「アメリカはカイロ宣言を根拠に朝鮮は国民投票によって政府の形態を決めることを主張し、ソ連は南北両地域を一つにした一国信託統治を主張して38度線での分割が継続される限り国民投票は不可能だとしている」と事実と異なる報道をしたため、国内での反信託運動が大きく広まった。12月31日の集会とデモは空前の規模に達した。
信託統治に対してはほとんどの派が完全独立を主張し反対を表明していたが、年が明けると左派は一転して信託統治賛成に回った。右派は信託統治では反対だったが、内部では親日派や資産家が多い韓国民主党と臨時政府派が対立した。金九を主席とする臨時政府派は、即時独立を求めて全国ストライキを訴えるなど過激化していった。軍政庁にとっては軍政を運営する上で朝鮮人の登用が必要であることと、過激な運動を抑える治安上の問題の解決に、即時独立に固執せずにアメリカの方針を理解する韓国民主党を重用し、さらにアメリカ政府の意向に反して反信託運動を黙認してしまった。ここに李承晩が合流した。
アメリカとソ連は、1月16日からの予備会談を経て、独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、李承晩などが反信託運動とともに反共・反ソを激しく主張、ソ連はアメリカに李承晩らの排斥を訴えたが、アメリカは反信託よりも反共を重視して聞き入れずお互いの姿勢を非難して対立、5月6日委員会は決裂、信託統治案は頓挫した。
反米化する国内、米ソ対立 [編集]
不調に終わった米ソ共同委員会の再開を目指すアメリカ政府は、軍政庁の親米派(李承晩、金九など)に偏重した政策[9]を批判、極左、極右を排斥して呂運享などによる左右合作の親米政権の樹立を画策し始めた。
アメリカは常に朝鮮問題は東西対立の一部としてみなし、対立となる要素を国内からアメリカが主導して排除することに腐心した。一方ソ連は、朝鮮人自身の南北問題とみなし、ソ連と主義を一にする朝鮮人主導者を立てて統一を支援した。
ソ連の占領下にあった北半部では、1946年2月8日金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた暫定統治機関としての北朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月20日に北朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行して共産主義国家設立への道を歩み出した。これに対抗して李承晩は、南半部のみで早期の国家設立とソ連の排斥を主張し始めた(6月3日の「井邑発言」)。金九などはこれに反発して離反した。
このころ国内はインフレが進行し失業者が急増、5月には水害と疫病(コレラ)が発生して1万人規模での死者が出た。8月に入ると食料も不足し、各地で暴動が発生するようになるが、これを軍政庁は韓国民主党と結んで左派ともども武力鎮圧を図ったため市民が一斉に反発した。9月にはゼネストが発生、10月には全国で230万人が参加する騒乱となった(大邱10月事件)。軍政庁は戒厳令を敷き、鎮圧にあたったが、このことがアメリカ軍政への支持を決定的に失わせた。軍政庁はこれらの騒動を扇動した責任を左派、とりわけ朝鮮共産党から11月に結成した南朝鮮労働党に求め、朴憲永などの主要メンバーは弾圧を避けて北へ逃れた。
1947年3月12日、トルーマンは、イギリスがギリシャ内戦への関与から撤退した後にアメリカが引き継ぎ、これを機に世界的な反共活動を支援すると宣言(トルーマン・ドクトリン)、以降南朝鮮では共産勢力の徹底した排除が行われた。ここへ反共活動のため一時的に渡米していた李承晩が戻り、反共とともに南朝鮮政権樹立運動を活発化させる。1947年6月には軍政と対立したまま李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立された。7月には左右合作を目指していた呂運亨が暗殺され左右が決裂、北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。
金日成は、1948年3月には南半部(北緯38度線以南)への送電を停止(当時朝鮮半島を統治していた日本は山の多い半島北半部を中心にインフラ整備をすすめ、水豊ダムなどの水力発電所を建設していた。南半部は電力を北半部に依存していた)、李承晩はこれに対抗し、韓国内でも朝鮮労働党を参加させない選挙を実施して、正式国家を成立させることを決断した。済州島では1948年、南朝鮮労働党を中心として南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを警察が発砲する事件が起き、その後ゲリラ化して対抗、その鎮圧の過程で政府の方針に反抗した軍部隊の叛乱が発生(麗水・順天事件)、さらに潜伏したゲリラを島民ごと粛清、虐殺する事件が発生した(済州島四・三事件)。
分断の固定化と対立 [編集]
南北の分離独立 [編集]
1948年8月13日に、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言した。金日成はこれに対抗して自らも9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上当事国間の「国境」となった。
その後、金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めていたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は軍事顧問団を残し撤収した。それを受けて北朝鮮は「祖国統一民主主義戦線」を結成した。その後大韓民国では8月12日にジュネーブ条約に調印し[10]、11月に国家保安法が成立するなど、国家としての基盤作りが進んでいた。1949年12月24日に韓国軍は聞慶虐殺事件を引き起こし共産匪賊の仕業とした[11]。
同じ頃、地続きの中国大陸では国共内戦の末、ソ連からの支援を受けて戦っていた毛沢東率いる中国共産党が勝利し、1949年10月1日に中華人民共和国が成立した。敗北した蒋介石率いる中華民国政府は台湾に脱出しその後も中華人民共和国との対立を続けた。なおアメリカは、蒋介石率いる中華民国の国民党政府を抗日戦争から国共内戦に至るまで熱心に支援していたが、内戦の後期になると勝機が見えないと踏んだ上、政府内の共産主義シンパやスパイの影響を受けて援助を縮小していた。
アメリカの誤算 [編集]
反日家であった李承晩は、今度はポツダム宣言で日本が放棄したとする日本領土を含むいくつかの領土について、返還要求を主張し始めた。大統領就任の3日後の1948年8月18日の記者会見で「対馬は350年前に日本に奪取された韓国の領土」と主張、翌1949年1月7日には対馬領有を宣言した[12]。1950年半島南部で大演習を装って日本への侵攻の準備を始めたことに対して[13]警告の意味で在韓米軍を引き揚げた[要出典]。
1950年1月12日、アメリカのトルーマン政権のディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言(「アチソンライン」)し、台湾、インドシナなどとともに朝鮮半島には言及がなかった(これは、アメリカの国防政策において「太平洋の制海権だけは絶対に渡さない」という意味であったが、朝鮮半島は地勢学上大陸と太洋の境界に位置していることや、長く日本の統治下にあったこともあって、判断が難しい地域でもある)。さらに、極東地域のアメリカ軍を統括していた連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは占領下に置いた日本の統治に専念しており、1945年8月に着任して以降、朝鮮半島に足を運んだのは1回のみだった[14]。金日成はこれらを「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」と受け取った。
スターリンによる侵攻容認 [編集]
これらの状況の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(電報の内容を故意に曲解し「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりした)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。
これを受けて、同年5月に中華人民共和国を訪問した金日成は、「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けた。
南北の軍事バランス [編集]
詳細は「国境会戦 (朝鮮戦争)#作戦計画および戦力配置の概要」を参照
開戦直前の南北の軍事バランスは、北が有利であった。韓国軍は歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6000を有していたが、部内に多数潜入していたスパイの粛清、また独立以来頻発していた北朝鮮によるゲリラ攻撃の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。また、米韓軍事協定によって重装備が全く施されておらず、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機(それも練習機)を有するのみであった。
これに対して、朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8000、さらにソ連製を中心とした戦車240輌、砲552門、迫撃砲1728門、イリューシンIl-10やアントノフAn-2などのソ連製を中心とした航空機211機を有していた。また、1949年夏より、中国人民解放軍で実戦経験(国共内戦)を積んだ朝鮮系中国人部隊が編入され始めており、これによって優れた練度が維持されていた。
また、戦闘単位当たりの火力にも差があり、韓国軍師団と北朝鮮軍師団が1分間に投射できる弾量比については、1:10で北朝鮮軍師団の圧倒的優位であった上に、双方の主力砲の射程に関しても、北朝鮮砲兵の11,710メートル(ソ連製122mm榴弾砲M1938)に対して韓国軍砲兵は6,525メートル(アメリカ製105mm榴弾砲M3)と劣っていた。
戦争の経過 [編集]
北朝鮮の奇襲攻撃 [編集]
詳細は「国境会戦 (朝鮮戦争)」を参照
1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。 このことを予測していなかった李承晩とアメリカを始めとする西側諸国は衝撃を受けた。
なお北朝鮮では、当時から現在に至るまで、「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けているほか、中華人民共和国でも現在に至るまで「アメリカ合衆国による北朝鮮への軍事進攻によって戦争が始まった」と学校で教えられ[15]、中国国家主席習近平も「6.25は平和を守ろうとする侵略に対立した正義のある戦争」であると表明している[16]。 が、この様な北朝鮮や中華人民共和国による主張はソ連崩壊後のロシア政府にさえ公式に否定されている。
前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車であるT-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。ただしその一方、開戦の翌々日には、春川市を攻撃していた北朝鮮軍がその半数の兵力しかない韓国軍の反撃によって潰滅状態になるなど、韓国軍の応戦体制も整いつつあった。
連合国軍総司令官マッカーサーは日本に居り、日本の占領統治に集中していた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。奇襲砲撃開始を知ったのは1時間余り経った25日午前5時数分過ぎだった。
トルーマン大統領も、ミズーリ州にて砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時に報告を受けた。ただちに国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還したが、トルーマンの関心は、当時冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いていた。まずはアメリカ人の韓国からの退去、および韓国軍への武器弾薬の補給、海軍第7艦隊の中華民国への出動を命じただけで、すぐには軍事介入を命じなかった。
国連の弾劾決議 [編集]
6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「北朝鮮弾劾決議」を賛成9:反対0の全会一致で採択した。拒否権を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、この年の1月から中華人民共和国の中国共産党政府の国際連合による認証問題に抗議し、理事会を欠席していた。
決議の後、ソ連代表のヤコフ・マリクは国連事務総長のトリグブ・リーに出席を促されたが、スターリンからボイコットを命じられているマリクは拒否した。スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気付いていたが、粛清を恐れて誰も彼に逆らえなかったという。これを教訓に、11月に「平和のための結集決議」(国連総会決議377号)が制定された。
韓国軍の敗退 [編集]
詳細は「ソウル会戦 (第一次)」、「保導連盟事件」、および「漢江人道橋爆破事件」を参照
南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、6月27日に李承晩大統領による保導連盟員や南朝鮮労働党関係者の処刑命令が出された(保導連盟事件)[17]。同日、韓国政府はソウルを放棄し、水原に遷都。6月28日、ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した(漢江人道橋爆破事件)。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。
韓国軍の緒戦の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編した部隊など練度が高かったのに対し、韓国軍は将校の多くは日本軍出身者だったが、建国後に新たに編成された師団のみで各部隊毎の訓練は完了していなかった。
また、来るべき戦争に備えて訓練、準備を行っていた北朝鮮軍は、装備や戦術がソ連流に統一されていたのに対して、韓国軍は戦術が日本流のものとアメリカ流のものが混在し、装備はアメリカ軍から供給された比較的新しい物が中心であったが、米韓軍事協定の制約により、重火器はわずかしか支給されず戦車は1輌も存在しなかった。また、航空機も、第二次世界大戦時に使用されていた旧式のアメリカ製戦闘機が少数あるのみだった。その結果、陸軍はまたたく間に潰滅し敗走を続け、貧弱な空軍も緒戦における北朝鮮軍のイリューシン Il-10攻撃機などによる空襲で撃破されていった。
ところが、韓国軍が総崩れの中で北朝鮮軍は突然南進を停止、3日間の空白の時を作った。結果的に韓国軍とアメリカ軍はこの間で勢力を巻き返すための貴重な時間稼ぎができたが、形勢有利の筈の北朝鮮軍が3日間進撃を停止した理由について明確な理由は現在も不明である(「予想以上の戦線の伸びに補給が行き届かなくなった」、「北朝鮮軍の大勝を知って南側の住民が武装蜂起する事を期待していた」などの説もあるが、明確な根拠はない)。
アメリカ軍の出動 [編集]
マッカーサーは6月29日に東京の羽田空港より専用機のダグラスC-54「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察したが、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。マッカーサーは70歳を超えていたが、自ら戦場を歩き回った。マッカーサーは派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻った。なおマッカーサーはその後も韓国内にその拠点を置くことはなく、東京を拠点に専用機で戦線へ出向き、日帰りでとんぼ返りするという指揮方式を取り続けた。
マッカーサーは本国の陸軍参謀総長に在日アメリカ軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言したが、大統領の承認は得ていなかった。さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、ボーイングB-29やB-50大型爆撃機を日本の基地から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港を空襲した。トルーマンはマッカーサーに、1個師団のみ派兵を許可した。
この時、アメリカ陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは第二次世界大戦参戦時の1941年12月の半分に過ぎなかった。第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど帰国、退役し、新たに徴兵された多くの兵士は実戦を経験していなかった。
一方の韓国軍は、7月3日に蔡秉徳(日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、丁一権(日本陸士55期)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たっていた。派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月4日[18]に北朝鮮軍と交戦を開始したが7月5日には敗北した(烏山の戦い)。
国連軍の苦戦 [編集]
6月27日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成した。なおこの国連軍に常任理事国のソ連と中華民国は含まれていない(詳しい参戦国は後述)。
なお、朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には「国連軍」ではなく、「多国籍軍」の一つとなっていた。
準備不足の国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害したと言われている(保導連盟事件)[19]。
この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し[20](離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。金日成は「解放記念日」の8月15日までに統一するつもりであったが、国連軍は「韓国にダンケルクはない」と釜山橋頭堡の戦いで撤退を拒否して徹底抗戦をして、北朝鮮軍の進撃を止めた。
また、北朝鮮軍と左翼勢力は、忠清北道や全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして虐殺した[20]。また、北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜が虐殺される「303高地の虐殺」が起きた[21]。
仁川上陸作戦 [編集]
詳細は「仁川上陸作戦」を参照
マッカーサーは新たに第10軍を編成し、数度に渡る牽制の後の9月15日、アメリカ第1海兵師団および第7歩兵師団、さらに韓国軍の一部からなる約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功した。
また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。
補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。ソウル北西の高陽では韓国警察によって親北朝鮮とみなされた市民が虐殺される高陽衿井窟民間人虐殺(en)が起きた[22][23]。
この時敗走した北朝鮮兵は中央山地で再編成され、南部軍と称した。南部軍は中央山地沿いに潜入した北朝鮮政治指導部と、北朝鮮軍敗残兵、麗水・順天事件の韓国軍脱走兵、南朝鮮での共産主義シンパの活動家などから構成されていた。指揮官の李鉉相は済州島「4・3蜂起」の指導者であった。南部軍のゲリラ活動に国連軍は悩まされ、数度の大規模な鎮圧作戦を余儀なくされた。リーダーの李鉉相が戦死してゲリラ活動がほぼ収束したのは朝鮮戦争停戦後の1953年12月であった。
国連軍の38度線越境 [編集]
10月1日、韓国軍は「祖国統一の好機」と踏んだ李承晩大統領の命を受け、第8軍の承認を受けて単独で38度線を突破した。10月2日、韓国軍の進撃に対し北朝鮮の朴憲永は中華人民共和国首脳に参戦を要請。中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告、さらに中華人民共和国の参戦による戦線拡大を恐れていたトルーマン大統領も、マッカーサーに対して中国人民解放軍参戦の可能性を問い質した。しかし、マッカーサーはチャールズ・ウィロビーら部下の将校からの報告を元にこれを即座に否定した[24]。
国連安保理では、国連軍による38度線突破の提案はソ連の拒否権により葬られたが、10月7日、アメリカの提案により国連総会で議決した。これにより10月9日にアメリカ軍を中心とした国連軍も38度線を越えて進撃し、10月20日に国連軍は北朝鮮の臨時首都の平壌(北朝鮮は1948年から1972年までソウルを首都に定めていた)を制圧した。
さらにアメリカ軍を中心とした国連軍も、トルーマン大統領やアメリカ統合参謀本部の命令を無視し北上を続け、中国軍の派遣の準備が進んでいたことに気付かずに敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続け、日本海側にある軍港である元山市にまで迫った。さらに先行していた韓国軍は一時中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた。
中国人民志願軍参戦 [編集]
ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、同盟関係の中華人民共和国に肩代わりを求めた。毛沢東と数名の最高幹部は参戦を主張したが、林彪や残りの多くの幹部は反対だった。反対理由としては次のようなものがあった。
- 中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
- 長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
- 中華人民共和国建国後も中国国民党政府の支配下のままとなった台湾への「解放」や、チベットの「解放」など、国内問題の解決を優先すべき
しかしこの様な国連軍の攻勢を受けて、これまで参戦には消極的だった中華人民共和国も、遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することを決定する。派兵された「中国人民志願軍」は彭徳懐を司令官とし、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大軍だった。参戦も、威勢のいいスローガンとは裏腹に大きな不安を抱えての参戦だった事が判明し、周恩来はソ連軍の参戦を求めたがスターリンに「アメリカ軍との直接対決は避ける」と呆気なく断られ、彭徳懐はソ連なしでのアメリカ軍との戦争を恐れたと言う。
参戦が中華人民共和国に与えた影響として、毛沢東の強いリーダーシップのもとで参戦が決定され、結果的にそれが成功したため、毛沢東の威信が高まり、独裁に拍車がかかったという見方がある。毛沢東にはスターリンから参戦要請の手紙が届けられたようである[25]。
中朝国境付近に集結した中国人民解放軍は10月19日から隠密裏に北朝鮮への侵入を開始した。10月25日、迫撃砲を中心とした攻撃に韓国軍はこれを北朝鮮軍による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国人民解放軍の大部隊が鴨緑江を越えて進撃を始めたことを確認した。
中国人民解放軍は11月に入り国連軍に対して攻勢をかけ、アメリカ軍やイギリス軍を撃破し南下を続けた。国連軍は上記のように中国人民解放軍の早期参戦を予想していなかった上、補給線が延び切って、武器弾薬・防寒具が不足しており、これに即応することができなかった[26]。また、中国人民解放軍は街道ではなく山間部を煙幕を張って進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことに成功した。
11月24日には国連軍も鴨緑江付近より中国人民解放軍に対する攻撃を開始するが、中国人民解放軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲され、平壌を放棄し38度線近くまで潰走した。しかしマッカーサーやウィロビーなどの国連軍上層部は東京に留まり、最前線への視察に出ることはなかった[27]。
当時スターリンは、「中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てていた事も明らかになった[28]。
12月11日、韓国政府は国民防衛軍法を発効すると直ちに国民防衛軍を組織し40万人を動員した[1]。
初のジェット機同士の空中戦 [編集]
また、ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機のミコヤンMiG-15が投入され、国連軍に編入されたアメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のリパブリックF-84やロッキードF-80、F9F、イギリス空軍のグロスター ミーティアとの間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。当時はまだF4Uコルセア、P-51、F6Fなどのレシプロ戦闘機が現役で、レシプロ戦闘機からジェット戦闘機への時代の転換期であった。哨戒機、爆撃機は殆どの機体がレシプロ機で第二次世界大戦で使用していたB-29などの機体も投入された。
後退翼を採用したMiG-15は当初、速度差で国連軍のノースアメリカンP-51やホーカー シーフューリーなどのレシプロ戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していた直線翼のF-84やF-80、ミーティアに対しても有利に戦いを進めていた[29]ほか、太平洋戦争では空の要塞であったボーイングB-29やB-50爆撃機の撃墜率を高めていった。しかし、すぐさまアメリカ軍も後退翼を採用した最新鋭ジェット戦闘機であるノースアメリカンF-86Aを投入した。 旧式化したレシプロ戦闘機や直線翼のジェット戦闘機はその後の戦闘では対地攻撃などの爆撃任務や夜間戦闘任務に使用されたが、停戦後は多数の機体が退役したり練習機として運用されている。
初期のMiG-15は機体設計に欠陥を抱えていたこともあり、F-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始める。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入し、最終的には圧倒的な優位に立った。最新鋭機であり、数がそろわなかったF-86の生産はアメリカ国内だけでは賄いきれず、隣国カナダのカナデア社も多数のF-86(セイバーMk.5など)を生産してこれを助けた。
なお、北朝鮮軍の国籍識別標識をつけたMiG-15を操縦していたのは戦争初期にはソ連軍パイロットであったが、後半には中国軍のパイロットもかなりの人数が参戦するようになり、朝鮮人パイロットもある程度参加したと言われている。低い練度のまま参戦したこれらの北朝鮮軍に対し、十分な訓練を受けたアメリカ空軍のF-86が最終的に北朝鮮軍のMiG-15を圧倒し、最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1になった[30]。 ただしF-86の固定武装である12.7mm機関銃(ブローニングM2重機関銃)6門ではMiG-15のNR-23KM23mmやN-37D 37mm機関砲との火力差が大きく、苦戦を強いられた面もあった。以後、アメリカ製の戦闘機は重戦闘機となりF-86のような軽快さを失っていった。
なお朝鮮戦争は、第二次世界大戦後に実用化されたヘリコプターが、初めて実戦投入された戦争ともなった。アメリカ陸・海軍のシコルスキーR-5(HOS3E)などが配備され、敵の前線背後で撃墜された国連軍の操縦士や、前線で負傷した兵員の搬送に従事し、のちに様々な機種が実戦投入された。
朝鮮戦争後、余剰となったMiG-15は東側諸国に、F-86は西側のアメリカ同盟国を中心に多数の機体が供与され、航空自衛隊も初代主力戦闘機として運用している。
膠着状態に [編集]
MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。1月6日、韓国軍・民兵は北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺した(江華良民虐殺事件)[32]。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、国民防衛軍事件などの横領事件によって食糧が不足して9万名の韓国兵が命を落とした[31]。2月9日には韓国陸軍第11師団によって居昌良民虐殺事件が引き起こされた。
中国軍は日中戦争や国共内戦における中華民国軍との戦いで積んだ経験と、人命を度外視した人海戦術、ソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器をもとに、参戦当初は優勢だったが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。
それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3月14日にはソウルを再奪回した[33]ものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。
マッカーサー解任 [編集]
1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を発表した後に[34]38度線以北進撃を命令[35]し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破する[36]。
またマッカーサーは、日本が植民地統治をしていた頃に一大工業地帯を築いていた満州を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍で爆撃し、中国軍の物資補給を絶つために放射性物質の散布まで検討された(原子爆弾を使おうとしたともされる)。
この頃マッカーサーによる中華人民共和国国内への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入など、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢と政治的に対立する発言が相次いだことから、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーを解任した。
マッカーサーは連合国軍最高司令官の座からも追われ、4月16日に専用機「バターン号」で日本を去った。後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任した。
停戦 [編集]
この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。1952年1月18日、実質的な休戦状態となったことで軍事的に余裕をもった韓国は李承晩ラインを宣言し竹島、対馬の領有を宣言して連合国占領下にある日本への強硬姿勢を取るようになった。1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。
1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)。
停戦協定は結ばれたものの、板門店がソウルと開城の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であったとされる。
なお、その後両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。中国人民志願軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。
2013年3月11日、北朝鮮は朝鮮労働党機関紙で、休戦協定を白紙に戻すと言明した[37]。
犠牲と影響 [編集]
犠牲 [編集]
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷した。毛沢東の息子の一人毛岸英も戦死した[38]。
アメリカ国防総省によれば、アメリカ軍は戦死者3万3686人、戦闘以外での死者は2830人、戦闘中行方不明は8176人にのぼる。西側の推定によれば中国人民志願軍は10万から150万人(多くの推計では約40万人)、人民解放軍は21万4000から52万人(多くの推計では50万人)の死者をそれぞれ出している。また約24万5000から41万5000人にのぼる韓国側一般市民の犠牲が明らかにされ、戦争中の市民の犠牲は150万から300万(多くの推計では約200万)と見積もられている。
中華人民共和国側の公式情報によれば、中国人民志願軍は戦死者11万4000人、戦闘以外での死者は3万4000人、負傷者34万人、行方不明者7600人、捕虜2万1400人となっている。これらの捕虜のうち約1万4000人が中華民国へ亡命し、残りの7110人は本国へ送還された。また中華人民共和国側によれば、北朝鮮は29万人の犠牲を出し、9万人がとらえられ、「非常に多く」の市民の犠牲を出したとされる。これに対して、中華人民共和国と北朝鮮は約39万のアメリカ軍兵士、66万の韓国軍兵士、2万9000の国連軍兵士を戦場から「抹消」したと推定している[39]。
戦線が絶えず移動を続けたことにより、地上戦が数度に渡り行われた都市も多く、最終的な民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われ、全体で400万人~500万人の犠牲者が出たという説もある。内訳は北朝鮮側の死者250万人、韓国側は133万人で大多数が一般市民だった。
また、現在両国において日本統治時代の建造物が、同じく日本統治であった台湾に比べて極端に少ないのは、後の民族教育の一環で故意に破壊された事もあるが、それよりも目まぐるしく戦線が移動した上に、過酷な地上戦で建造物が破壊された朝鮮戦争の影響が強い。
アメリカ空軍は80万回以上、海軍航空隊は25万回以上の爆撃を行った。その85パーセントは民間施設を目標とした。56万4436トンの爆弾と3万2357トンのナパーム弾が投下され、爆弾の総重量は60万トン以上にのぼり、第二次世界大戦で日本に投下された16万トンの3.7倍である。
中国人民解放軍、北朝鮮軍に人的被害が特に多いのは、前述した如く旧式の兵器と人的損害を顧みない人海戦術をとった為に、近代兵器を使用した国連軍の大規模な火力、空軍力、艦砲射撃により大きな損害を被った事が一因とされる。しかも中国人民志願軍側は最前線に政治犯を投入し、正規軍の弾よけかわりに政治犯を使用したとされている。大規模兵力による人海戦術をとった中国人民志願軍は補給に問題があった。それが分かった国連軍は、のちに強力な砲兵による集中火力と空からの攻撃で戦果を挙げた。
分断と離散 [編集]
「夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された」、というような離散家族が多数生まれた。マッカーサーは平壌に核爆弾を投下する構えを見せ、そのため大量の人が南側に脱出し、離散家族大量発生の原因となった。両軍の最前線(今日の軍事境界線。厳密には北緯38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となった上、その後双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなった。
両国とも互いに国家として承認せず、北朝鮮の地図では韓国が、韓国の地図では北朝鮮地区が自国内として記載されている(行政区分や町名、施設のマークなどは記載されていない)。さらに国際法上では現在も戦闘が終結していない(休戦中)ままである。ここが、分断されながらも戦火を交えることがなかったこともあり、相互に主権を確認し、国交樹立、国際連合加盟、そして統一まで至った東西ドイツとの決定的な違いである。
なお、これに関しては日本も韓国と同じように北朝鮮を国家として承認していないが、地図上では曖昧な国境線がひかれたり(政府が認めていないにもかかわらず)教科書でも「北朝鮮」や「朝鮮民主主義人民共和国」と国名が記されることが少なくない。
韓国軍慰安婦 [編集]
詳細は「韓国軍慰安婦」を参照
韓国軍は慰安婦を制度化して、軍隊が慰安所を直接経営することもあった[40]。また、慰安婦で構成される「特殊慰安隊」と呼称された部隊は固定式慰安所や移動式慰安所に配属されており、女性達の中には拉致と強姦により慰安婦となることを強制されることもあった[41][42]。韓国軍やアメリカ軍の前線にはドラム缶に押し込められた女性達がトラックで補給され夜間に利用された[43]。
保導連盟事件 [編集]
詳細は「保導連盟事件」を参照
韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に上る民間人が裁判なしで虐殺された[44]。
輸送力不足への対処 [編集]
アメリカ合衆国はこの戦争遂行に際し、国防予備船隊から第二次大戦時に大量建造して保管されていた輸送船舶の内、540隻を軍隊輸送支援のため動員した。また戦争期間中は世界的に海上輸送力に不足を来たした時期にも重なっており、1951年から1953年までは国防予備船隊より600隻以上が北欧への石炭輸送とインドへの穀物輸送(民需輸送)に使用されている[45]。
日本への影響 [編集]
朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結後アメリカやイギリス、オーストラリアや中華民国、ソビエト連邦などを中心とした連合国の占領下にあった日本の政治、経済、防衛にも大きな影響を与えた。日本を占領しているアメリカ軍からは韓国への援軍が順次送られていたが、脱走兵による騒乱事件が起きた(小倉黒人米兵集団脱走事件)。また、在日韓国人と在日朝鮮人の間では騒乱事件が引き起こされた(高田事件、大梶南事件など)。
政治的、防衛的には北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が緩やかになったり、日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日に(旧)日米安全保障条約と共に締結された。さらに警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されたことで事実上軍隊が復活した。これらの事象をまとめて讀賣新聞は「逆コース」と呼んだ。
もっとも、日本の再軍備自体は連合国軍による占領終了後には必要となってくることから、アメリカ陸軍長官ケネス・ロイヤルが1948年に答申書を提出しており、朝鮮戦争勃発前からほぼ確定していた。
また、戦火を逃れるために朝鮮半島から大量の密入国者が流入することとなった[46]。韓国政府が摘発された密入国者の送還を拒んだため、日本政府予算を逼迫する深刻な事態となった[46]。
日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、開戦からの半年に限っても56名が命を落としている[2]。1950年11月15日、元山沖で大型曳船LT636号が触雷して沈没し日本人船員22名が死亡した[2]。アメリカ軍によって集められた日本人港湾労働者数千人が韓国の港で荷役作業を行った[2]。在日韓国人の団体である在日本大韓民国民団は在日韓国人の10人に1人にあたる6万人の志願者を予定した志願兵の募集を行ったが在日韓国人647名、日本人150名の志願者にとどまったため[47]、志願に応じた在日韓国人641名を選抜して韓国に送り込んだ(在日学徒義勇軍)[48]。休戦後には帰還事業を妨害するため在日義勇兵によって新潟日赤センター爆破未遂事件が引き起こされた。
日本国内では、北朝鮮を支持する在日朝鮮人による浅草米兵暴行事件によって、日本の占領任務にあたっていた連合国軍兵士(アメリカ軍兵士)に死傷者が出ている[49]。また、朝鮮総連とその関係者による日本政府や警察に対する武装蜂起事件も多数発生していた(吹田事件)。国連軍を支援する工場に対しても襲撃が加えられた(親子爆弾事件)。これら一連の事件は、朝鮮戦争を有利に進める為に米軍の後方を攪乱しようとするソ連と、それに呼応した日本共産党及び朝鮮総連による計画的な騒擾事件であった。
日本特別掃海隊 [編集]
朝鮮戦争には、第二次世界大戦の終戦以降日本を占領下に置いていた連合国軍、特に国連軍として朝鮮戦争に参戦していたアメリカ軍やイギリス軍の指示により、日本の海上保安庁の掃海部隊からなる「特別掃海隊」も派遣され、死傷者を出しながら国連軍の作戦遂行に貢献した。
派遣の経緯 [編集]
開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始しており、これを認めたアメリカ海軍第7艦隊司令官は9月11日に機雷対処を命じた。ところが、国連軍編成後も国連軍掃海部隊は極僅かであった。
元山上陸作戦を決定した国連軍は、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を求めることを決定する。10月6日アメリカ極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の掃海艇使用について、文書を以て指令が出された。
1945年9月2日の連合国最高司令官指令第2号には、「日本帝国大本営は一切の掃海艇が所定の武装解除の措置を実行し、所要の燃料を補給し、掃海任務に利用し得る如く保存すべし。日本国および朝鮮水域における水中機雷は連合国最高司令官の指定海軍代表者により指示せらるる所に従い除去せらるべし」とあり、連合国軍の命令により海上保安庁は朝鮮水域において掃海作業を実施する法的根拠は一応存在していた。
もっとも、朝鮮水域は戦闘地域であり、そこで上陸作戦のために掃海作業をすることは戦闘行為に相当するため、連合国軍による占領下にある日本が掃海部隊を派遣することは、国際的に微妙な問題をはらんでいた。また、国内的には、海上保安庁法第25条が海上保安庁の非軍事的性格を明文を以て規定していることから、これまた問題となる可能性があった。そこで、日本特別掃海隊は日章旗ではなく、国際信号旗の「E旗」を掲げることが指示された。
吉田茂首相の承認の下、日本占領にあたっていた連合国軍の指示に従い、10月16日に海上保安庁は掃海部隊を編成した。戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとって初めての参戦となった。しかし、国会承認もなしに掃海艇を派遣していた事実が明るみに出ると、憲法上の兼ね合いから当時の国会において問題となった。
部隊編成 [編集]
特別掃海隊の編成は次の通りである。
- 総指揮官:田村久三(航路啓開本部長、元海軍大佐[50])
- 第1掃海隊指揮官:山上亀三雄運輸事務官(第7管区航路啓開部長、元海軍中佐[50])
- 第2次第1掃海隊(11月15日編成)指揮官:花田賢司運輸事務官
- 第2掃海隊指揮官:能勢省吾運輸事務官(第5管区航路啓開部長、元海軍中佐[50])
- 第2次第2掃海隊(10月25日編成)指揮官:石野自彊運輸事務官
- 第3掃海隊指揮官:石飛矼運輸事務官(第9管区航路啓開部長、元海軍中佐[50])
- 第4掃海隊指揮官:萩原旻四運輸事務官(第2管区航路啓開部長)
- 第5掃海隊(10月29日編成)指揮官:大賀良平運輸事務官(元海軍大尉)
元山掃海作業 [編集]
日本掃海隊は10月10日に元山沖に到着した。10月12日午前から掃海作業に着手し、眼前でアメリカ軍の掃海艇2隻が触雷によって沈没する光景を目撃しつつも、3個の機雷を処分する。国連軍のアメリカ艦隊の陸上砲撃のため10月16日まで掃海作業は中断され、再開された10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名(烹炊長中谷坂太郎)及び重軽傷者18名を出した。
触雷を回避するため、日本隊は前進任務部隊指揮官スミス(Allan E. Smith)アメリカ海軍少将に作業手順の改善を要求した。小型で喫水の浅いLCVPが先行して海面近くの機雷を掃海した後、掃海艇が進む方式を採るよう求めたのだ。しかし、スミス少将は「日本掃海隊は明朝0700出港して掃海を続行せよ。しからずんば日本に帰れ。その15分以内に出なければ砲撃する」と田村久三総指揮官に命令した[50]。これを受け、能勢隊のMS 3隻は日本帰投を決定し、10月20日に下関に到着した。
10月20日に石飛隊のMS 5隻は元山沖に到着し、同地に残存していたPS 3隻を同隊に編入して掃海作業を行う。結局、元山における日本特別掃海隊は、10月10日から12月4日までの掃海作業において、能勢隊が処分した3個を含め計8個の機雷を処分する成果を挙げた。
元山以外の掃海作業 [編集]
- 仁川掃海作業
- 10月7日に下関を出港した山上隊は10日に仁川港外に到着し、掃海作業を行う。同隊は11月1日に海州を出発し、3日に下関に帰投した。
- 鎮南浦掃海作業
- 11月7日に、国連軍鎮南浦掃海任務隊(アーチャー(Stephen M. Archer)アメリカ海軍中佐)に、日本の石野隊が加わる。鎮南浦における第2掃海隊は2個の機雷を処分する成果を挙げる。石野隊は中国人民志願軍の侵攻間際まで活動を続けた。
- 群山掃海作業
- 萩野隊は10月17日に下関を出港し、19日に群山に到着して、掃海作業を実施する。萩野隊は3個の機雷を処分する成果を上げる。MS30号が座礁して沈没するが、死傷者はなかった。
派遣後 [編集]
12月15日に、国連軍のアメリカ極東海軍司令官は文書を以て掃海作業の終了を指示する。これにより日本特別掃海隊は解隊される。
特別掃海隊は、1950年10月から12月15日にかけて、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分する成果を挙げた。この作業により、海運と近海漁業の安全確保を得たと同時に、国連軍が制海権を確保する為に役立ち、後の朝鮮戦争の戦局を左右する事になる。しかし、極秘である筈のこの作戦の内容はソ連や中華人民共和国から、これらと関係の深い日本社会党と日本共産党に提供され、第10回国会以降に吉田茂首相への攻撃材料となった。
なお、国連軍の指示に従わず帰投した能勢事務官は1951年1月に運輸事務官を退職することとなるが、1952年7月に海上保安官として採用され、同年8月西部航路啓開隊司令に任じらる。その後は、海上自衛隊に入隊し横須賀地方総監部副総監等を歴任し、1959年に退官する。また、第5掃海隊指揮官の大賀良平運輸事務官は、その後も海上警備隊員、警備官、海上自衛官に進み、1977年に海上幕僚長となる。
朝鮮半島の反応 [編集]
1950年10月、北朝鮮外相朴憲永は「国連軍に日本兵が参戦している」と非難を行い、同様にソ連も「アメリカが日本兵を参加させている」として国連総会で非難を行なった[51]。1951年4月、李承晩韓国大統領は倭館駐屯の韓国軍部隊へ次のような演説を行った。
最近国連軍の中に、日本軍兵が入っているとの噂があるが、その真否はどうであれ、万一、今後日本がわれわれを助けるという理由で、韓国に出兵するとしたら、われわれは共産軍と戦っている銃身を回して、日本軍と戦うことになる[52][53]。
一方、日本側も韓国の対日感情を考慮して、なるべく掃海隊員を上陸させないよう指示していた。しかしある時、やむをえない事情で元山に上陸すると、韓国兵に日本人とすぐに見破られて取り囲まれ、問いただされたという。そこで隊員は正直に理由を話すと、流暢な日本語で「おー、そうか、ご苦労さんです。どうです一杯」と歓迎されたという[54]。
慰問 [編集]
国連軍の中で最大規模の軍隊を派遣したアメリカ軍に対して、アメリカ本国から慰問団の訪問が相次ぎ、ボブ・ホープやアル・ジョルスン、ジェリー・ルイスなどの当時人気の絶頂期にあった俳優やコメディアンが、日本国内の基地などを経由して前線に慰問に訪れ、兵士らを相手に公演を行った他、停戦後にも韓国に駐留するアメリカ軍に対して、日本をジョー・ディマジオとのハネムーンに訪れたマリリン・モンローが訪れた。
現状 [編集]
南北の緊張は2000年の南北首脳会談でアピールされたように、停戦当初に比べれば大幅に緩和されたが、双方の和解には至っておらず、2012年現在も両国間は準戦時体制にある。国際法上では「休戦」(戦闘の一時休止)であり、戦争は「継続中」である。
この為、現在に至るまで、両陣営間の軍事境界線上にある板門店の共同警備区域内に置かれた「中立国停戦監視委員会」と「軍事停戦委員」において、両陣営によって停戦状態の順守が行われているかを定期的に確認している。
しかし、2010年3月に韓国哨戒艦沈没事件が発生して6月に北朝鮮が戦争事態を宣言し、さらに同年11月23日に延坪島砲撃事件が発生して韓国全土で最大レベルの警戒がとられるなど、近年も関係が悪化している。
背景には、韓国と親密な関係にあるアメリカと、ソ連崩壊後のロシアに代わって急速に軍事力を増強しながら北朝鮮との交流を行っている中華人民共和国との軍事的なバランスと対立があり、双方ともそれらを後ろ盾にしている。近年では、六カ国協議(日本、韓国、アメリカ、ロシア、中華人民共和国、北朝鮮)の議長国である中華人民共和国の動向に関心が向けられ、元北朝鮮人民軍通訳がロシア亡命を求めたがロシア側が拒否するといった事件[55]も起き、冷戦下同様に日米韓VS北中露の構図ができつつある。[要出典]
しかし、2010年11月29日(日本時間)、ウィキリークスにより流出した約25万点にも及ぶアメリカ外交公電の中に、中華人民共和国当局が、友好国であるはずの北朝鮮に対して批判したとされる内容や、韓国による南北統一に言及したとされる内容を含んでいたことが発覚[56]、さらに北朝鮮も友好関係にあるモンゴル政府との協議で、中華人民共和国とロシアへの批判を繰り返していたことも発覚し[57]、また、同年12月に行われた日米韓外相会談の中でアメリカが中華人民共和国への柔軟姿勢を示したりなど、各国間の関係は混沌としている。
政治状況 [編集]
- 韓国
- 韓国は停戦後も引き続き李承晩大統領による独裁が維持され復興が遅れていた。このため北朝鮮の呼びかけにより在日朝鮮人の帰国事業が行われると日本に工作員を送り込み新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こし帰国事業を妨害した[58]。クーデターにより政権を掌握した朴正煕大統領が日本と財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定を締結することで多額の経済支援を獲得し、ベトナム出兵によってアメリカから多額の援助を受けることで急速な復興と成長を成し遂げ、『漢江の奇跡』と称された。朴の政治手法は開発独裁と呼ばれるものであったが、朴以降の30数年で、日本に次ぐアジア有数の工業国となり、北朝鮮との経済格差は朴の時代に2倍、全斗煥の時代には3倍に開いた。1972年までに1万人を超える北派工作員と呼ばれる武装工作員を北朝鮮に送り込んだ[59]。全の時代には独裁に対抗する市民や学生らの運動が高まり、政治的民主化が促進された。1988年に、アジアとしては2番目のオリンピックであるソウルオリンピックの開催に成功した時点の北との経済格差は4倍に拡大した(なお同オリンピックに北朝鮮は参加していない)。
- その後もアジア通貨危機に端を発する深刻な経済危機も日本などの援助で克服して、日本とともにFIFAワールドカップ(2002年)の開催を実現するまでに国際社会の信用を獲得している。1990年には国連加盟(北朝鮮と同時)その後、潘基文第8代国連事務総長も選出されている。また、長らくソウル北部は侵攻に備えて発展から取り残されてきたが、緊張緩和によって急速に住宅地として整備されている。また、戦車の侵攻を防ぐ目的で設けられていた戦車止めも取り壊されつつある。
- 一方、男子には一定の徴兵期間が義務として設けられているほか、数ヶ月に一回は各地方・都市で空襲に備えた民間防衛訓練(民防)が行われている。
- 李明博大統領の兄弟はアメリカの空爆で死んだが、李大統領はこれを事故として見なし、親米的で対北朝鮮政策を敷いている。
- 1992年の中韓国交樹立時、「朝鮮戦争で中国人民解放軍が韓国北部を侵攻した事に対して、中華人民共和国政府が謝罪をする」という情報が韓国外務省筋から流され、韓国マスコミが大騒ぎをしたが、駐韓中華人民共和国大使の張庭延はテレビで「そんなことはあるはずがないし、これからも絶対に遺憾の意を表明する必要はない」と一喝して、それ以降、韓国マスコミは謝罪に関して一切報道しなくなった[60]。朝鮮戦争で補給に難点があった中国軍は、ソウル占領には加わったが、南下は京畿道の南のはずれにあたる平沢止まりだった[61]。現在韓国と中華人民共和国の関係は官民ともに概ね良好であるが、近頃歴史問題の相違、日中問題の悪化(日中問題に関し韓国は日本支持)などで悪くなりつつある。
- 北朝鮮
- 北朝鮮は中華人民共和国やソ連からの支援を受けた金日成が国内派閥の粛清を進めて、個人崇拝を強化した軍事独裁政権が確立し、政治の「安定」が図られた。中ソ対立のあおりを受けて自主を掲げる主体思想を前面に掲げた国づくりを目指したが、対南工作と呼ばれるゲリラ戦やスパイを繰り返し、外国民の拉致を行った。冷戦終結に伴い、東欧革命、ソ連崩壊、金日成死去と立て続けに国家を揺るがす事態に遭遇した。
- 息子の金正日は一党独裁(朝鮮労働党以外にも政党はあるもののそれらは衛星政党である)による権力の世襲を行い、「先軍政治」と呼ばれる軍優先の社会を作り出し、主体思想を体系化して公式イデオロギーとした。政権初期の自然災害によって飢餓が生じたが有効な手立てを打てず、餓死者などが数多く出たと考えられている。2000年頃から中華人民共和国を手本にした改革を行っているが、かえって貧富の格差が広がった。また、偽札や覚醒剤の製造や、日本人の拉致を始めとした諸外国人の拉致など、国家ぐるみの犯罪と人権蹂躙を諸外国から非難されている。
- また、中華人民共和国が現在に至るまで、北朝鮮との高官レベル以上の交流や、北朝鮮に対して明確な批判を行わないばかりか様々な形で支援を続けており、北朝鮮の独裁体制維持や、弾道ミサイルを始めとした戦力維持に大きく貢献しているという意見がある。
- 同じく在日朝鮮人を代表する機関である朝鮮総連が、現在に至るまで北朝鮮に様々な形で支援を続けており、パチンコや覚醒剤の輸入、密売がその資金源となっているという意見がある。
- 朝鮮戦争において国連軍と対峙し、現在も国連軍との間において「停戦中」であるにもかかわらず、大韓民国と同時に国連加盟を果たしているという歪な状況にある。
軍事バランス [編集]
- 韓国
- 韓国軍の装備はF-16戦闘機、K1A1戦車など、おおむね現在の西側先進国の水準(ポルトガル、ギリシャなどと同規模)である。また、男子に対して徴兵制が施行されている。これに更に在韓米軍の戦力も加わる事になる。なお、韓国は首都ソウルが軍事境界線に近く、軍事境界線の北側からでも北朝鮮の長射程砲やスカッドミサイルの射程内に収まる事が弱点で、北朝鮮から侵攻しやすい。また、現在に至るまでアメリカ軍を中心とした国連軍が駐留している。国連軍[62]やアメリカ軍[63][64]には慰安婦が提供されていた[65][66][67]。
- 北朝鮮
- 北朝鮮の軍備はソ連から供与されたものが主で、現行水準の兵器はほとんどないという。2003年3月に公海上でアメリカ空軍のボーイングRC-135Sミサイル監視機「コブラボール」を2機のMig-29戦闘機が追尾する事件が発生したが、北朝鮮で動かせるMig-29はこれが最大限であろうと推測されている。各国の偵察衛星に写る北朝鮮機はMig-15やMig-17のような骨董品レベルの古典機ばかりで、部品調達や燃料調達の問題もあり実戦には耐え難い状況である。こうした状況から、核兵器の開発を進めている他、韓国主要都市および支援国を直接攻撃可能な弾道ミサイル(テポドン、ノドン、ムスダン)の開発に熱心であると見られ、たびたび発射実験を行っている。
万が一、戦闘状態が再燃した場合、北朝鮮軍がゲリラ戦術を取ってソウル周辺の短期間・限定的な戦闘に持ち込めれば、一時的には北朝鮮軍がやや有利であるが、いずれにしても北朝鮮が韓国に対して侵攻を行った場合、国際的な非難を受けて再度アメリカ軍を中心とした多国籍軍が編成され、徹底的な攻撃を受けて北朝鮮軍は潰滅状態になり、国家崩壊と韓国への吸収による朝鮮半島統一という状況は免れないと予想される。
韓国側が先制攻撃した場合、中華人民共和国が北朝鮮を支援する可能性もわずかに残っているが、対米全面戦争を行う力は持っておらず、たとえその様な場合でも介入は極力避けるという推測もある。また、中華人民共和国にとっては、北朝鮮が崩壊して韓国によって朝鮮半島が統一されてしまうと、北朝鮮を緩衝材として遠のいていたアメリカの軍隊ならびに基地が北京と目と鼻の先まで近づくことになり、安全保障上ならびに台湾海峡の軍事バランスにも大きな影響を与える可能性が高いのみならず、大量の難民が鴨緑江を越えて自国内に流入する恐れもあり、体制維持を望んでいると思われる。なお、北朝鮮の羅先には中国人民解放軍が進駐しているとする情報もある[68]。
参戦国一覧 [編集]
- 国連軍(22カ国)
- 大韓民国:兵力98,000人[要出典](14歳から17歳の少年少女14,400人[69])
- アメリカ合衆国:兵力302,483-480,000 人
- イギリス:兵力15,700人
- フランス共和国:兵力7,400人
- オランダ王国:兵力7,200人
- ベルギー王国:兵力5,600人
- カナダ:兵力5,400人
- トルコ共和国:兵力4,600人
- エチオピア帝国(当時):兵力1,200人
- タイ王国:兵力1,100人
- フィリピン共和国:兵力1,100人
- コロンビア共和国:兵力1,100人
- ギリシャ王国(当時):兵力1,000人
- オーストラリア:兵力900人
- ニュージーランド:兵力800人
- 南アフリカ共和国:兵力800人
- ルクセンブルク大公国:兵力400人
- 朝鮮民主主義人民共和国:兵力135,000人[要出典]
- 中華人民共和国(抗美援朝義勇軍)兵力780,000人
- ソビエト連邦:兵力72,000人( 金日成に武器を援助している。また、ソ連軍パイロットが中国兵に扮し局地的な戦闘を行っていた)
朝鮮戦争を題材とした作品 [編集]
- 絵画
- 映画
Category:朝鮮戦争の映画も参照。
- 鬼軍曹ザック(米国、サミュエル・フラー監督、1950年)
- トコリの橋(米国、マーク・ロブソン監督、1955年)
- 追撃機(米国、ディック・パウエル監督、1958年)
- 勝利なき戦い(米国、ルイス・マイルストーン監督、1959年)
- M★A★S★H マッシュ(米国、ロバート・アルトマン監督、1970年)
- ソウル奪還大作戦 大反撃(韓国、イム・グォンテク監督、1976年)旧題:ホワイト・バッジ・ファイナル 史上最大の作戦
- 史上最大の戦場 洛東江大決戦(韓国、イム・グォンテク監督、1976年)旧題:新ホワイト・バッジ 地獄への戦場
- マッカーサー(米国、ジョセフ・サージェント監督 1977年)
- アベンコ特殊空挺部隊 奇襲大作戦(韓国、イム・グォンテク監督、1982年)旧題:エア・コンバット 多国籍特殊空挺部隊
- インチョン!(米国、テレンス・ヤング監督、1982年)
- 38度線(米国、ハンス・シープメーカー監督、1986年)
- 銀馬将軍は来なかった(韓国、チャン・ギルス(張吉秀)監督、1991年)
- 太白山脈(韓国、イム・グォンテク監督、1994年)
- ブラザーフッド(韓国、カン・ジェギュ監督、2004年)
- トンマッコルへようこそ(韓国、パク・クァンヒョン監督、2005年)
- 戦火の中へ(韓国、イ・ジェハン監督、2010年)
- 高地戦(韓国、チャン・フン監督、2011年)
- テレビドラマ
- ロード・ナンバーワン(韓国、2010年)
- ウォー・シミュレーションゲーム
- 朝鮮戦争 - エポック社刊。1950年の戦争初期(北朝鮮軍の侵攻から国連軍による仁川上陸、ソウル解放まで)を扱う。韓国側団体の抗議により生産中止。
注釈 [編集]
- ^ a b c ““국민방위군 수만명 한국전때 허망한 죽음””. ハンギョレ. (2010年9月7日) 2010年11月27日閲覧。
- ^ a b c d 防衛研究所戦史部石丸安蔵. “朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―”. 防衛研究所. 2010年11月25日閲覧。
- ^ 1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している。「国際内戦」と呼ぶ論者もいる(小此木政夫ほか)。
- ^ NHKの磯村尚徳が番組で「北が南に攻め込んだ」と語ると、在日朝鮮人が騒ぎ出した。彼らに同調する土井たか子らからも抗議が来ると、番組内で謝罪した(高山正之『オバマ大統領は黒人か』)。
- ^ 李景珉『増補版 朝鮮現代史の岐路』平凡社、2003年、22頁。ISBN 978-4582842203。
- ^ 金九は「解放」のニュースに接して激しく嘆き、「自ら独立を勝ち取ることができなかったことが、今後長きに渡って朝鮮半島に苦しみをもたらすだろう」と述べたと言われている
- ^ 前掲李景珉、22頁
- ^ アメリカ軍の占領域に首都ソウルが含まれるように38度線で分断されたとされている(J.ハリディ、B.カミングス共著「朝鮮戦争 -内戦と干渉-」1990 岩波書店)。この分割占領線は関東軍から解放線だったする説があるが根拠は見出されていない。
- ^ マッカーサーから任じられていた軍政長官のホッジ司令官は生粋の軍人であり、政治や外交、朝鮮をとりまく状況などについての知識は皆無だった。これはホッジの失策というよりは、マッカーサーの朝鮮への無関心によるものだった。
- ^ 今日の歴史(8月12日) 聯合ニュース 2009/08/12
- ^ “국가범죄 '문경학살사건' 항소심서도 패소 판결(国家犯罪'聞慶虐殺事件' 控訴審も敗訴の判決)” (朝鮮語). CBS. (2009年8月6日) 2012年1月9日閲覧。
- ^ 李承晩はそれまでにも何度もロビー活動などを通じてアメリカ政府に対し、対馬、竹島を日本領から除外するように執拗に要求していたが、再三にわたって李承晩韓国政権の要求はアメリカ政府から拒絶されていた。ラスク書簡参照。
- ^ マッカーサーは激怒したとされる
- ^ 『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争(上)』デイヴィッド・ハルバースタム 文藝春秋 2009年
- ^ 中国の教科書「米国が北朝鮮を侵略」 中央日報 2010.06.21
- ^ 【時事評論】韓国戦争を教えない韓国教科書(1) 中央日報 2010.11.08
- ^ “60년 만에 만나는 한국의 신들러들 [2010.06.25 제816호 [특집] 김춘옥, 김노헌, 박청자, 이섭진, 안길룡, 백남길, 박남도…한국전쟁 당시 자기 목숨을 걸고 이웃의 생명을 살린 이들의 이야기”] (朝鮮語). ハンギョレ. (2010年6月25日) 2010年7月7日閲覧。
- ^ 今日の歴史(7月4日) 聯合ニュース
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- ^ デービッド・ハルバースタム『ザ・フィフディーズ』 新潮文庫<第1部>
- ^ 「私としては(アメリカとの全面対決を)恐れるべきではないと考える。我々はアメリカ、イギリスよりも強いからだ。もし戦争が不可避ならば、今戦争になった方がよいだろう。アメリカの同盟者として日本軍国主義が復活し、アメリカと日本にとって李承晩の朝鮮が大陸における彼らの前線基地となる数年後よりも、今がいいのである。」
- ^ 『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争(上)』デイヴィッド・ハルバースタム、文藝春秋、2009年
- ^ ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』新潮文庫<第1部>
- ^ スターリンが朝鮮戦争に米国誘導、当時の文書発見 韓国新聞 2008年6月25日
- ^ これにより形成された空域を俗に「ミグ回廊」と呼んだ。
- ^ この撃墜率には諸説あり、アメリカでは以前この倍以上の撃墜率が主張されていた。一方ソ連(ロシア)では2対1の損失であったとされているが、いずれにしてもF-86の勝利に終わっている。
- ^ a b “'국민방위군' 희생자 56년만에 '순직' 인정” (朝鮮語). Newsis. (2007年10月30日) 2010年4月22日閲覧。
- ^ “강화교동도 학살・1 '우익단체가 주민 212명 총살' 공식확인 유족 주장 사실로…”. 京仁日報. (2006年2月28日) 2010年11月21日閲覧。
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- ^ 今日の歴史(3月24日) 聯合ニュース 2009/03/24 閲覧
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- ^ 北朝鮮「休戦協定白紙」を宣言 米韓が合同演習開始
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- ^ [2]
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参考文献 [編集]
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- 平松茂雄『中国と朝鮮戦争』(勁草書房)
- 朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争 中国が鴨緑江を渡るまで』(岩波書店、のち岩波現代文庫)
- 萩原遼『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文藝春秋、のち文春文庫)
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- ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』 (上・下、千早正隆訳、光人社)
- ブルース・カミングス、ジョン・ハリディ 『朝鮮戦争 内戦と干渉』(清水知久訳、岩波書店)
- ディヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 1950年代アメリカの光と影』
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- ジョン・ブルーニング『クリムゾンスカイ 朝鮮戦争航空戦』(手島尚訳、光人社NF文庫)
- 『歴史群像シリーズ 朝鮮戦争』(学研 上・下、1999年、新版1冊本 2007年) グラフティブック
- 秦郁彦『昭和史の謎を追う〈下〉「朝鮮戦争と日本」』(文藝春秋、のち文春文庫)
- 軍事史学会編『軍事史学 特集朝鮮戦争』 (第36巻1号・通巻141号 錦正社)
- 木村幹『韓国における「権威主義的」体制の成立』(ミネルヴァ書房 2003年 人文・社会科学叢書71)
- 大部な研究
- 韓国国防軍史研究所『韓国戦争 第1巻~第5巻』
(同翻訳編集委員会訳 かや書房 2000年9月 - 2007年6月)
- 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国編』(上・中・下、原書房)
- 陸戦史研究普及会『朝鮮戦争』(全10巻、原書房)
- 赤木完爾編『朝鮮戦争-休戦50周年の検証・半島の内と外から』(慶應義塾大学出版会)
- 金東椿、崔真碩ほか訳『朝鮮戦争の社会史 避難・占領・虐殺』(平凡社)
- 金学俊『朝鮮戦争 原因・過程・休戦・影響』(論創社)
- 和田春樹『朝鮮戦争全史』(岩波書店 2002年) ISBN 4000238094
- 西村秀樹『大阪で闘った朝鮮戦争』 (岩波書店 2004年) ISBN 9784000223782
- 金賛汀『在日義勇兵帰還せず』 (岩波書店 2007年) ISBN 4000230182
- 回顧録
- サー・セシル・バウチャー『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』
- レィディ・バウチャー編、加藤恭子、今井万亀子訳(社会評論社)
- マシュー・リッジウェイ 『朝鮮戦争』 熊谷正巳、秦恒彦共訳(恒文社)
- 白善燁『若き将軍の朝鮮戦争』(草思社)
- 崔極 『実録朝鮮戦争』(光人社)
- 葉雨蒙『黒雪 中国の朝鮮戦争参戦秘史』(同文舘)
- 大久保武雄『海鳴りの日々 かくされた戦後史の断層』海洋問題研究会、1978年。
- 日本の特別掃海隊について
- 「朝鮮動乱特別掃海史」掃海OB等の集い世話人会(平成21年1月5日)[3]
関連項目 [編集]
- 戦争一覧、代理戦争
- 板門店
- 軍事境界線、38度線
- 老斤里事件
- 保導連盟事件
- 朝鮮特需
- チュー・イェン・リー
- 冷戦、新冷戦
- 朝鮮戦争戦没者慰霊碑
- 第1延坪海戦、第2延坪海戦
- 大青海戦
- 吹田事件
- 延坪島砲撃事件
外部リンク [編集]
- 朝鮮戦争年表 仁川上陸まで
- 朝鮮戦争年表 仁川上陸から
- 朝鮮戦争の経過 フラッシュ前編
- 朝鮮戦争の経過 フラッシュ後編
- 参戦国別朝鮮戦争(英語)
- Collection of Korean War videos(英語)
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