ネルソン・マンデラ
| ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ Nelson Rolihlahla Mandela |
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| 任期: | 1994年4月27日 – 1999年6月14日 |
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| 副大統領: | フレデリック・デクラーク ターボ・ムベキ |
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| 任期: | 1994年 – 1999年 |
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| 任期: | 1991年 – 1997年 |
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| 出生: | 1918年7月18日(93歳) |
| 政党: | アフリカ民族会議 |
| 配偶者: | グラサ・マシェル |
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ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(コサ語: Nelson Rolihlahla Mandela、1918年7月18日 - )は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士である。
大統領(第8代)、下院議員(1期)、アフリカ民族会議議長(第11代)を歴任。
賞歴としてネルー賞、ユネスコ平和賞、アフリカ賞、サハロフ賞、ノーベル平和賞、国際検察官協会名誉章受章など。称号には名誉法学博士(早稲田大学)など。南アフリカ共和国での愛称はマディバ。
目次 |
[編集] 概要
反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され27年間に渡り刑務所に収容された。釈放後、アフリカ民族会議(ANC)の副議長に就任。その後、議長。デクラークと共にアパルトヘイトを撤廃する方向へと南アフリカを導き1994年に大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施した。1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退した。
[編集] 略歴
[編集] 反アパルトヘイトの闘士
1918年7月18日にトランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれる。ウィトワーテルスランド大学法学部を卒業。在学中の1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組む。その後1950年、ANC青年同盟議長に就任する。
1952年8月にヨハネスブルグにてオリバー・タンボと共に弁護士事務所を開業する。その年の12月にANC副議長就任。1961年11月、ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)という軍事組織を作り最初の司令官になる。それらの活動などで1962年8月に逮捕される。1964年に国家反逆罪終身刑となりロベン島に収監される[2]。1982年、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監。この時、イギリス人傭兵の有志が集まってネルソンを救出する作戦が立てられたことがあったが、南アフリカ側への情報漏れで中止されたと言う[3]。
[編集] 全民族融和の象徴
1989年12月に当時の大統領フレデリック・デクラークと会談。1990年2月11日に釈放される。釈放後、ANC副議長に就任する。デクラークとの予備会談にANC代表として出席。1990年10月27日、ANC代表団を率いて来日(11月1日まで)。
1991年、ANC議長に就任。デクラークと協力して全人種代表が参加した民主南アフリカ会議を2度開き、さらに多党交渉フォーラムを開いた。暫定政府、暫定憲法を作成。同10月5日、北京大学より名誉博士号を授与された。1993年12月10日にデクラークとともにノーベル平和賞受賞。
1994年4月に南ア史上初の全人種参加選挙が実施された。ANCは勝利し、ネルソンは大統領に就任した。暫定憲法の権力分与条項に基づき国民党、インカタ自由党と連立政権をたて、国民統合政府を樹立した。ネルソンは民族和解・協調を呼びかけアパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済不況からの回復として復興開発計画(RDP)を公表した。
1997年12月のANC党大会でネルソンは、議長の座を副大統領のターボ・ムベキに譲る。1999年2月5日、国会で最後の演説をした。同年行われた総選挙を機に政治の世界から引退した。
[編集] 引退後
2000年1月19日に国際連合安全保障理事会で初めて演説を行った。2001年7月に前立腺癌が発見され、7週間の放射線治療を受けた。2005年1月7日に前妻・ウィニーとの子供マカト・マンデラがエイズによる合併症で死亡した事を公表した。現在、ユネスコ親善大使に就任している。
2010年6月11日に行われたFIFAワールドカップ南アフリカ大会の開会式に出席する可能性が高いと親族が明らかにしていたが、前日にひ孫が交通事故で亡くなったことを受け、出席を断念。代わりにビデオメッセージを送った。なお閉会式には出席している。
[編集] 人物
結婚は3度している。1944年に最初の結婚。1957年、ウィニーと2度目の結婚。しかし1992年4月13日、ウィニー夫人との離婚を表明し、4年後の1996年3月19日にウィニーとの離婚が成立。1998年7月18日にモザンビークの初代大統領で飛行機事故で亡くなったサモラ・マシェルの未亡人、グラサ・マシェル夫人と3度目の結婚。
[編集] エピソード
大統領時代、日本のバラエティー番組「進め!電波少年」で松村邦洋のアポなしロケを受けたことがある(「イヨ!大統領!憎いねコノー!」と声をかけるというもの)。周りにはSPもいたが、突然のことに驚いた様子だったものの、遥々日本から来た松村を温かく歓迎した。
[編集] 映画
- 『マンデラの名もなき看守』(2007年)
- 監獄に入れられたマンデラと看守の交流を描く。
- 『インビクタス/負けざる者たち』(2009年)
[編集] 脚注
- ^ "The Nobel Peace Prize 1993" NobelPrize.org
- ^ このときの、彼の監獄番号が「46664」であり、現在、彼の財団の活動を象徴する番号となっている。厳密には上位「466」が彼の囚人番号、下位「64」が彼の投獄された年、19「64」年の下2桁である。そのため、「46664」は一般に、four-double six-six-fourと発音する
- ^ 『ネルソン・マンデラ』 メアリー・ベンソン著
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Gallery of Mandela pictures, including some rare ones from his early days
- ANC profile of Mandela
- Time 100 profile
- Nelson Mandela Defiant At Rivonia Trial
- Nelson Mandela Foundation - 46664
- Big Picture TV Free video clip of Nelson Mandela
- Nelson Mandela's Order of Canada Citation
- Mandela appeals on behalf of Lockerbie bomber
- International diplomacy by Nelson Mandela
- 早稲田大学名誉博士学位贈呈者一覧
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: フレデリック・デクラーク |
第8代:1994 - 1999 |
次代: タボ・ムベキ |
| 外交職 | ||
| 先代: Andrés Pastrana Arango (en) |
非同盟諸国首脳会議事務総長 1998 - 1999 |
次代: タボ・ムベキ |
| 党職 | ||
| 先代: オリバー・タンボ |
第11代 : 1991-1997 |
次代: タボ・ムベキ |
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