ベトナム戦争
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ナパーム弾を投下するアメリカ軍
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ベトナム戦争(ベトナムせんそう 1959年 - 1975年)は、インドシナ戦争後に、ベトナムの南北統一をめぐって戦われた戦争。宣戦布告なき戦争であるためベトナム紛争とも呼ばれる。第二次インドシナ戦争ともいう。
共産主義勢力の拡大を防ぐため、北ベトナムと対峙する南ベトナムを支援するアメリカ合衆国が中心となり大規模な軍事介入を行ったが、目的を達せずに撤退した。
形式的には北ベトナムと南ベトナムの戦争であったが、実質的に共産主義勢力(ソビエト連邦、中華人民共和国)と資本主義勢力(アメリカ)が背後にあっての戦いであった。その為、「代理戦争」と呼ばれた。また冷戦の文脈とは別に、ベトナムの南北統一運動に対する抑圧的戦争であった面も指摘されている。とはいえこの時期の統一運動はマルクス主義の被民族抑圧解放路線と密接な関連を持っていたため、二つの要素を明確に区分することは難しいという意見もある。
ベトナム戦争当時、日本などのマスコミは、ベトナム戦争では、南ベトナム在地勢力である南ベトナム解放民族戦線が中心となって、南ベトナム政府やアメリカ合衆国などと戦っているかのように報じたが、以下に記述するように、南ベトナム政府やアメリカ合衆国と戦った共産主義勢力の主体はソビエト連邦、中華人民共和国、北ベトナムであり、南ベトナム解放民族戦線はその下部組織ともいえる存在であった。
アメリカの他に大韓民国、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイが南ベトナムを支援して派兵している。また、朝鮮民主主義人民共和国が北ベトナム側で飛行大隊を派遣し、ハノイの防空を支援した。
[編集] ベトナム戦争年表(1960年-1975年)
| ベトナム |
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主な出来事 「国家」 人物 |
- 1960年:南ベトナム解放民族戦線結成(12月)
- 1961年:ジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任(1月)、アメリカが南ベトナムにヘリコプター部隊と軍事顧問団を派遣(11月)
- 1962年:アメリカ軍が「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置(2月)、南ベトナムとラオスが国交断絶(11月)
- 1963年:アプバクの戦い(1月)、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領暗殺(11月)
- 1964年:南ベトナムでグエン・カーン将軍によるクーデター(1月)、トンキン湾事件発生(8月)
- 1965年:アメリカ軍による北爆開始(2月)、アメリカ海兵隊がダナンに上陸(3月)、韓国軍派遣(10月)
- 1966年:北ベトナムに対するB-52による初空襲(4月)、初のクリスマス休戦(12月)
- 1967年:南ベトナム解放民族戦線がダナン基地を攻撃(7月)、グエン・バン・チューが南ベトナム大統領に就任(9月)
- 1968年:テト攻勢開始(1月)、ソンミ村虐殺事件(3月)、パリ和平交渉開始(5月)
- 1969年:北ベトナムが南ベトナム臨時革命政府の樹立を発表(6月)、ホー・チ・ミン死去(9月)
- 1970年:南ベトナム軍とアメリカ軍がカンボジアに侵攻(4月)、カンボジア内戦勃発
- 1971年:南ベトナム軍とアメリカ軍がラオスに侵攻(2月)、ニューヨーク・タイムズ紙に「ペンタゴン・ペーパーズ」連載開始、南ベトナム大統領選挙(10月)
- 1972年:北ベトナムの戦闘機がアメリカ艦艇を初攻撃(4月)、アメリカ軍無制限北爆再開・停止(12月)
- 1973年:パリ協定締結(1月)、アメリカ軍がベトナムから撤兵完了(3月)
- 1974年:北ベトナム軍がプノンペンを包囲(2月)、リチャード・ニクソン大統領辞任(8月)
- 1975年:北ベトナム軍全面攻撃開始(3月)、サイゴンが陥落し(4月)、ホーチミン市へ改名(5月)
[編集] 開戦の背景
[編集] 冷戦構造と独立運動
1945年8月に第二次世界大戦が終結すると、 アジアや中南米、 アフリカにある多くの植民地で、宗主国の弱体化を背景にした軍事行動を伴う激しい独立運動が発生し、独立運動家と既得権を守ろうとする欧米列強の宗主国との間での紛争が繰り返し起きた。独立運動は共産主義勢力によって指導、支援されている場合が多く、アメリカに対抗する共産主義体制のボス的存在であるヨシフ・スターリンに率いられるソビエト連邦は、当然、各地の共産主義勢力を支援したが、米ソともに核兵器を保有していることから直接戦うことは避け “冷たい戦争” と呼ばれる冷戦構造が成立した。
その対立は朝鮮戦争やキューバ危機、ベルリン封鎖に見られるように代理戦争の形をとって表面化した。自由主義の盟主を自認するアメリカは、中華人民共和国や東ヨーロッパでの共産主義政権の成立が“ドミノ倒し”のように発生したこともあって、一国の共産化が周辺国へのさらなる共産化を招くというドミノ理論に怯え、アジアや中南米諸国の反共産主義勢力を支援して各地の紛争に深く介入するようになった。
[編集] 国家分裂
1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴い、1940年8月より宗主国であるフランス(ヴィシー政権)の主権擁護を条件に仏領インドシナに進駐(仏印進駐)していた日本軍が撤退すると、コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンはハノイに首都を置いてベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させ(ベトナム八月革命)共産主義を基礎にした国造りを目指した。
しかし、日本軍が去った後のインドシナ一帯の再支配を目論む旧宗主国のフランスは独立を認めず、インドシナ一帯に再進駐すると、ベトナム民主共和国からコーチシナを分離する目的で、1946年3月にインドシナ南部に傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させ、グエン・バン・ティンを首班に置いた。
[編集] 第一次インドシナ戦争
詳細は第一次インドシナ戦争を参照。
その後フランス軍は同年12月19日にベトナム民主共和国へ武力攻撃を開始し、第一次インドシナ戦争が勃発した。またフランスは、1948年にベトナム臨時中央政府を発足させたり、さらに1949年6月、ベトナム国をサイゴン市(現ホーチミン市)に成立させて首班に旧阮朝皇帝バオ・ダイを据え、その威光を利用したりするなどして、傀儡政府に対してベトナム人民の支持を得ようとしたが失敗した。なお、バオ・ダイはベトナム国の成立以前、ホー・チ・ミンによりベトナム民主共和国政府の「最高顧問」に任命されたが、その後意見の対立から亡命していた。
その後フランスは、同じインドシナのラオスを同年7月に、カンボジアを11月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつ、ベトナム国の正当性を強調しようとした。しかしその様な中、同年10月にベトナム民主共和国の隣に共産主義の中華人民共和国が成立すると、翌1950年1月にソ連と中華人民共和国がベトナム民主共和国を正統政権と認証し、武器援助を行うようになった。この承認に対抗し、アメリカはフランスとインドシナ三国に軍事援助を開始した。
[編集] ディエンビエンフーの戦い
詳細はディエンビエンフーの戦いを参照。
その後もフランス軍は、ソ連や中華人民共和国からの軍事支援を受けたホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国軍と各地で鋭く対立を続け、アンリ・ナヴァール将軍指揮下の精鋭外人部隊など、クリスティアン・ド・ラ・クロワ・ド・カストリ大佐を司令官とする1万6000人にも及ぶ兵力を投入し、ベトナム民主共和国軍との戦闘を続けた。
その様な状況下で少しづつ劣勢におかれつつあったフランス軍は、劣勢の打開と、同じくフランスが統治していたラオスの防衛を目的に、1953年11月から険しい山々に囲まれたディエンビエンフーの盆地に滑走路および大要塞の構築を開始、しかし1954年5月に、ヴォー・グエン・ザップ将軍が率いるベトナム民主共和国軍にディエンビエンフーの戦いで惨敗し事実上壊滅状態に陥り、ベトナムをはじめとするインドシナ一帯からの撤退を余儀なくされた。
[編集] 独立分割独立
その後フランスはベトナム民主共和国とスイスにおいて和平交渉を開始し、同年7月には関係国の間で和平協定である「ジュネーヴ協定」が成立した。これによりベトナム民主共和国の独立が承認されることになったが、ジョージ・ケナンらが提唱する、冷戦下における共産主義の東南アジア台頭(ドミノ理論)を恐れ、第一次インドシナ戦争中を通じて同盟関係にあるフランスを積極的に支援し続けたアメリカは、それに対抗して北緯17度でベトナムを南北に分割させ、南に元々はフランスの傀儡政権である「ベトナム国」を存続させた。
[編集] ベトナム戦争の推移
[編集] アメリカによる支援
上記のように、第一次インドシナ戦争が行われた間、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領率いるアメリカは一貫して同じ西側で友好国のフランスを支持し、物資面から情報面に至るまで広範囲に渡り軍事的な援助を行っていた。その後フランスが第一次インドシナ戦争に敗北しベトナムを撤退して以降は、反共産主義的な姿勢を堅持した南ベトナムの歴代政権を「ドミノ理論」を根拠に、フランスに代わり軍事、経済両面で支え続けた。
第一次インドシナ戦争終戦後の1955年に南ベトナムで実施された大統領選挙で、元CIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワード・ランズデールが支援した反共産主義的な文民政治家であるゴ・ディン・ジエム首相が大統領に当選し、その後アメリカの全面的な支援を受けたベトナム共和国(通称南ベトナム)が成立した。しかしその後、ゴ大統領一族による独裁化と圧制が南ベトナム国民を苦しめることとなり、その張本人であるゴ大統領は国民の信頼を次第に失いつつあった。
[編集] 南ベトナム解放民族戦線
その機に、1960年に北のベトナム民主共和国に指導された南ベトナム解放民族戦線(ベトコン=越共、正しい略称は「NLF」でNational Liberation Frontの略である)が結成され、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ活動を本格化させた。南ベトナム解放戦線は実質的にベトナム労働党が主導していたが、その後南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や自由主義者などの、共産主義者とは縁遠い一般国民も多数参加していくことになる。
[編集] ケネディによる完全撤退計画
ケネディは大統領に就任直後、東南アジアにおける「ドミノ理論」の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置するとともに、統合参謀本部に対してベトナムについての提言を求めた。また、副大統領のジョンソンをベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。特別委員会、統合参謀本部はともに、ソ連の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていた南ベトナムへのアメリカ正規軍による援助を提言し、ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領を「東洋のウィンストン・チャーチル」ともちあげ全面的な支援を訴えた。これを受けてケネディは、「軍事顧問団」の派遣を増強することを決定した。その数は1960年には685人であったものを15,000人に増加させた。
しかしその後ケネディは「軍事顧問団」の早期撤退の可能性を検討した。1963年9月3日に、ケネディはテレビのインタビューに対し、「サイゴン政府が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的にはこれは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争―ベトナム人対共産主義者の戦い―で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ。我々は彼らを支援し続ける用意はある。しかしベトナム国民がこの努力を支持しなければこの戦争には勝てない。私の見るところ過去二ヶ月の間にサイゴン政府は民衆から遊離してしまっている」と答えた。
そして10月31日には、「1963年の末までに軍事顧問団を1000人引き上げる予定」であることを発表した。そして11月の反ディエムクーデターの後には、マクナマラ国防長官が年内の1000人の顧問団の引き上げを再確認するとともに、1965年までの軍事顧問団の完全撤退を発表したが、ケネディ暗殺のため撤退計画は頓挫した。
2003年発表のドキュメンタリー映画「The Fog of War」では、マクナマラ国防長官とジョンソン大統領の電話の録音記録が紹介され、ジョンソンがケネディのベトナム撤退に強く反対であったことの直接的な証拠を提示している(なおマクナマラ元国防長官の自己弁護の要素が強いことに注意が必要である)。アメリカによるベトナムへの軍事介入はジョンソン大統領によってより増強され、泥沼化した。
[編集] 仏教徒弾圧
1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対して抑圧的な政策を推し進めたゴ・ディン・ジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。
1963年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上でサイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師の姿が全世界にテレビを通じて流され、大きな衝撃を生むとともに、国内の仏教徒に大きな影響を与えた。
また、これに対してゴ・ディン・ジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ」とテレビで語り、この様な非見識かつ無慈悲な発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。なお、南ベトナムにおいてはその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、それに合わせるようにゴ・ディン・ジェム政権に対する抗議行動がますます盛んになった。
[編集] 南ベトナム政権とクーデター
同年11月にはこのような事態を憂慮したケネディ政権の事実上の黙認の下で軍事クーデターが発生し、当時アメリカのコントロールに反発して、仏教徒弾圧政策を推し進めて国内からの反発を買っていただけでなく、国際的な非難も浴びていたゴ・ディン・ジェム大統領と実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官が軍部の反乱部隊により暗殺され、ヌーの妻であるマダム・ヌーらの政府首脳陣が国外へ逃亡した。その後アメリカ軍と関係が深い軍事顧問で将軍でもあったズオン・バン・ミンを首班とした軍事政権が成立する。
その後、親米的なズオン・バン・ミンの軍事政権はアメリカ政府に歓迎されたものの、南ベトナム解放民族戦線との戦闘には注力しなかったことから軍内部の離反を招くこととなり、1964年1月30日にはグエン・カーン将軍を中心とした勢力が再びクーデターを起こし、ズオン・バン・ミンが隣国のタイ王国へと追放された。しかし南ベトナムは、その後も1965年にグエン・カオ・キが首相に、グエン・バン・チューが国家元首に就任(1967年9月の選挙で正式に大統領に就任)し実権を握るまでの約2年間の間に13回ものクーデターが発生するという異常事態になる。
なお、追放されたズオン・バン・ミンは1968年に帰国するが、グエン・バン・チュー政権を支持せず、北ベトナム政府及び南ベトナム解放民族戦線に対しては強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。なお、ズオン・バン・ミンはその穏健派としての姿勢を買われ、最後の停戦交渉を行うことを目的に、ベトナム戦争終結前日の1975年4月29日に、1965年から10年間に渡り国家元首を経て大統領を務めたグエン・バン・チューにかわり再び大統領に就任するものの、4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった。
この様に、南ベトナムの政府高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる地位獲得競争とその阻止に力を注ぎ、また自軍の精鋭部隊の多くをクーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その多くが次のクーデターの際に実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また士気も上がらないという状態になっており、この様な体たらくは、ベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続くことになる。
[編集] トンキン湾事件
詳細はトンキン湾事件を参照。
1963年11月のケネディの暗殺に伴い、ケネディ政権の副大統領であったリンドン・B・ジョンソンが大統領に就任する。その後ジョンソン政権は、ケネディが推し進めた軍事介入政策をそのまま転換することなく戦争介入の体制が整って行く。その後アメリカ軍は、1964年8月2日と8月4日にトンキン湾で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦「USS マドックス」への魚雷攻撃事件(トンキン湾事件)への報復を口実に、翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。
8月7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決され、ジョンソン大統領への戦時大権を承認、本格的介入への道が開かれた。なお、1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、この事件は、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカが仕組んだ自作自演であったことを暴露した。また、1995年にはマクナマラも同様の内容を告白している。
[編集] 南ベトナム解放民族戦線によるテロの増加
1964年1月のクーデター以来、南ベトナム政府によるサイゴン周辺に対する支配力はきわめて不安定であった。アプバクの戦いで政府軍を下し、勢いに乗った南ベトナム民族解放戦線は、この権力の隙を狙ってサイゴン市内を中心に後方撹乱を目的にした無差別テロ攻撃を繰り返し加え、サイゴンはじめ都市部の治安は一挙に悪化した。
そのターゲットもアメリカ軍や南ベトナム軍・政府の関連施設だけでなく、南ベトナム政府軍兵士やアメリカ人が出入りする(当然南ベトナム人の民間人も出入りする)映画館やレストランやホテル、ディスコにまで広がり、その結果、各種テロによる南ベトナム市民の死者が1965年の前半だけで1000人以上にも及ぶなど、南ベトナムの市民生活にも悪影響を及ぼすようになっていった。
これらの南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵の多くは通常時は南ベトナムの一般市民として生活しているものも多く、中には、戦争終結まで妻や夫、親にまで自分が南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵であることを隠し通しているものも多数いた。また、南ベトナム解放民族戦線の指導部の中には、南ベトナム電力公社の副総裁や南ベトナム航空の上級幹部、南ベトナム軍の情報部将校などの南ベトナム政府軍や政府関連組織の重要人物も多く含まれていた。
[編集] 北爆開始
そして標的は南ベトナム軍の顧問をしているアメリカ軍へも向き、1965年2月7日にブレイクのアメリカ軍基地を爆破し、多数のアメリカ軍将校殺害に成功した。ジョンソン大統領は即日、報復として解放戦線勢力圏と同時に、トンキン湾事件報復を口実として首都・ハノイ市などの北ベトナム中枢への爆撃(北爆)を命令した。いわゆるフレイミング・ダート作戦で、3月からは本格的な北爆である「ローリング・サンダー作戦」が開始された。
当初は北ベトナムの発電所やダム、市街地に近い軍需工場や兵器・物資集積所、港湾施設、飛行場、空軍基地に対する攻撃が禁止されていたなど極めて限定的なものであった。これは当時の北ベトナムを支援するソ連軍事顧問団の存在がこれらの各施設内および周辺に確認されており、万一誤爆した場合は米ソ直接対決や世論の猛反発を受けるのが必至とされていた。これは北ベトナムにとって極めて有利な状況に働いた。北ベトナムはハイフォン、ホンゲイ等の重要港湾施設に必ず外国船を入港させておき、アメリカ軍によるあらゆる攻撃を防ぐ事に成功した。更には飛行場への攻撃禁止は北ベトナム空軍に聖域を与えた。ソ連から貸与されたミコヤンMiG-17やMiG-19、ミコヤンMiG-21といったソ連製迎撃戦闘機は発着陸で全く妨害を受けなかったので、アメリカ軍機を相手に存分に暴れても損害は最小限に抑えられた。
これに対して、アメリカ海軍航空隊の最新鋭機であるマクドネルF-4やF-105戦闘爆撃機の被撃墜が続出したことから(さらに4月29日には、中華人民共和国の領空を侵犯したアメリカ海軍第96戦闘飛行隊のF-4Bが、中国人民解放軍空軍の戦闘機に撃墜されている)、精密誘導兵器を殆ど運用していなかった当時の海軍航空隊や空軍の現場部隊からは「貴重なパイロットを大勢殺しておきながら何ら効果をあげられていないではないか」と苦情が相次ぎ、アメリカ国防総省も乏しい戦果の割に被害続出というコストパフォーマンスの悪さを認め、1967年4月末に殆どの制限が撤廃された。
これは直ちに効果をあげた。北ベトナムは空軍基地や飛行場が爆撃を受けて迎撃戦闘機が不足するほどであった。アメリカ空軍は新鋭のジェネラルダイナミックスF-111アードバーク戦闘爆撃機の他、当時、死の鳥と言われたボーイングB-52戦略爆撃機(“ビッグベリー”改造を受けたD型が主力)を投入、ベトナム全土が爆撃と空襲にさらされることとなる。これに対してベトナム民主共和国は、ソビエト連邦や東欧諸国、中華人民共和国の軍事支援を受けて、直接アメリカ軍と戦火を交えるようになった。
なお、グアム島や当時アメリカの統治下であった沖縄本島のアメリカ軍基地から北爆に向かうB-52爆撃機の進路や機数は、グアムや沖縄沖で操業していたソ連や中華人民共和国のレーダーを満載した偽装漁船から逐次北ベトナム軍の司令部に報告されていた。その影響もあり、北ベトナム軍のミコヤンMiG-19やミコヤンMiG-21などの戦闘機や対空砲火、地対空ミサイルによるB-52爆撃機の撃墜数はかなりの数にのぼったが、強力な電波妨害装置と100発を超える大量の爆弾搭載量に物を言わせたアメリカ軍のB-52爆撃機による度重なる爆撃で、ハノイをはじめとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、電気や水道などのインフラは大きな被害を受け、終戦後も長きにわたり市民生活に大きな影響を残した。
また、ホー・チ・ミンをはじめとする北ベトナム首脳陣は、これらの爆撃に対して、影響下にあった西側諸国のマスコミや市民団体を通じ、「アメリカ軍による虐殺行為」だと訴え続け、後の西側諸国における大規模な反戦活動への土台を整えた。
[編集] ジョンソン大統領による地上軍の投入と戦線拡大
ジョンソン大統領は大権を行使し、1965年3月8日に海兵隊をダナンに上陸させた。そしてダナンに大規模な空軍基地を建設した。ケネディ時代に南ベトナム軍を強化する目的で、アメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させており、その数は1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、その後1964年末には計23,300名となったが、ジョンソンはさらに1965年7月28日に陸軍の派遣も発表し、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍・海兵隊)は1965年末までに「第3海兵師団」「第175空挺師団」「第1騎兵師団」「第1歩兵師団」計184,300名に膨れ上がった。地上部隊を派遣したのは南ベトナムだけで北ベトナムには中華人民共和国の全面介入をおそれて派遣しなかった。
一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、ホーチミン・ルートを使ってカンボジア国境から侵入、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。彼らは10月19日にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く(だからこそ陣地としたのだが)、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのがベルエアクラフト製UH-1ヘリコプターだった。これは上空からの部隊展開(ヘリボーン)を可能にしたことで、この戦争の主力兵器として大量生産されることになる。
11月14日、アメリカ軍はカンボジア国境から東11Kmの地点にあるイア・ドランを中心とした数カ所に、初めてUH-1を使って陸戦部隊を展開させた(イア・ドラン渓谷の戦い)。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが始めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3,561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。この最初の戦闘は、この戦争の帰結を物語っていた。
アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入することとなる。村や森に紛れた北ベトナム兵を探し出し、殲滅する「サーチ・アンド・デストロイ」作戦は農村部の無差別攻撃や、アメリカ軍による村民への暴力行動を引き起こすこととなった。その後アメリカは、北から南への補給路(ホーチミン・ルート)を断つため隣国ラオスやカンボジアにも攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュといった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。アメリカ空軍はこれらの地域を数千回空爆した他、ジャングルに隠れる北ベトナム兵士をあぶり出す為に枯れ葉剤をまき散らした。ラオスではこのとき投下されたクラスター爆弾が現在も大量に埋まっており、住民に被害を与えている。
[編集] 韓国軍の参戦
大韓民国の朴正熙政権はアメリカの要請により、1964年に最初の海軍部隊を派遣した。米国はその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西独などの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった技術者・軍人・建設者・用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(60年代後半の五年間で17億ドル)などによって韓国は高度成長を果たした[1]。
1965年10月には陸戦部隊である猛虎師団1万数千を派兵して本格的に参戦、国内の最精鋭部隊を投入して、1973年3月23日に完全撤収するまでに最大約5万人、のべ35万人以上の兵力をベトナムに投入した。
韓国軍は北ベトナム兵などを約4万人(公式記録)殺害、ベトコンとの戦闘での損害比は36:1(アメリカ軍は12:1)であり、北ベトナム軍司令官が、韓国軍との戦闘は避けるように通達した程であった。また、アメリカの新聞にも「Demon-Hunter」と紹介されるなどした。韓国軍の犠牲者も戦死約5千、負傷約2万に上った。オーストラリア、ニュージーランド、タイ王国を含むSEATO(東南アジア条約機構)もアメリカの要請によりベトナム派兵したが、韓国軍はSEATO派兵総数の約四倍の規模で、アメリカ以外の国としては、最大の兵力を投入した。米韓の協定により、派兵規模に応じた補助金と対米移民枠を得られたこと、北朝鮮や中華人民共和国などの軍事的脅威を身近に感じていたため、共産主義勢力の伸張に対して強い危機感を持っていたことが理由である。
この派兵の際、各地で韓国軍による戦争犯罪があったとされ、アメリカ軍、南北ベトナム軍と同様に、韓国軍兵士によるベトナム人住民虐殺や婦女レイプが起こった。[2]、また韓国人とベトナム人女性との間に多数の韓越混血児が生まれたことが確認されている。詳細はライタイハンを参照。
[編集] チュー大統領就任
戦争の拡大により混沌とする状況下にあった中、1967年9月3日に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年6月19日に発生した軍事クーデター後に南ベトナムの「国家元首」に就任し、実質的な大統領の座にあったグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て正式に南ベトナムの大統領に就任した。
なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して「不正選挙である」と反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思を示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。以後、強烈な反共産主義者であるチュー大統領の下、南北の対立は激しさを増してゆく。なお、この後チューは1971年の選挙で再選された後、1975年4月のサイゴン陥落直前まで南ベトナム大統領を務めた。
[編集] 反戦運動
戦争の現場である南ベトナムでは、南ベトナム解放民族戦線の後援(つまり北ベトナム政府の後援)を受けた市民を中心に反戦運動が行われていた。反対に戦争支援を訴える運動も、南ベトナム政府とアメリカの大掛かりな支援のもと数多く行われていたといわれている。一方、戦地から遠く離れているものの、テレビ中継により多くの国民が戦闘を目の当たりにしていた「戦争当事国」のアメリカでは反戦運動が高揚していた。
また、1963年に奴隷解放100周年を迎え、マーティン・ルーサー・キングを中心にした黒人(アフリカ系アメリカ人)による人種差別撤廃闘争、いわゆる公民権運動が活発化していたこともあり、これらの公民権運動が転じて反戦運動に同化するケースも多くみられた。そのような中で、大学自治を求める白人の学生運動が公民権運動と結びつき、アメリカの若者を既存体制・文化から反発させる風潮が次々に作られた。ベトナム反戦運動はこれら若者の心を捉え、ヒッピーやフラワーピープルなどと共にブームとして一層盛り上がることとなる。
1967年には最大で50万人を超えるアメリカ兵がベトナムに投入されたが(そのほか、大韓民国、オーストラリア、フィリピンなどの同盟国軍将兵約5万人)、ソ連や中華人民共和国による軍事支援をバックに、地の利を生かしたゲリラ戦を展開する北ベトナム軍(および南ベトナム解放民族戦線)と対峙するアメリカ軍(および南ベトナム軍)にとって戦況の好転は全く見られなかった。その上にアメリカ政府は、莫大な戦費調達と戦場における士気の低下、国内外の組織的・非組織的な反戦運動と、テレビや新聞、雑誌などの各種メディアによる反戦的な報道に苦しむことになった。1967年4月にはニューヨークで大規模な反戦デモ行進があり、10月21日に首都ワシントンで最大規模の反戦大会が催された。さらに翌年1月にはテト攻勢(後述)によって反戦運動は大きく盛り上がった。
また、アメリカでは作家や芸能人などによる反戦運動も盛んに行われた。その様な中で、1972年に「アメリカ兵のための反戦運動」として北ベトナムを訪れたアメリカ人女優のジェーン・フォンダは、飛来したアメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットをかぶり高射砲を打つポーズをとった。この時の写真は世界中に配信され、後にフォンダは「祖国への裏切り行為で判断の誤りだった」と釈明したものの、この後長年に渡りベトナムに派兵されたアメリカ軍兵士や帰還兵、その家族を中心に「裏切り者」、「ハノイ・ジェーン」などと呼ばれ大きな批判を浴びた。
また、ビートルズ解散後のジョン・レノンも解散後活動拠点を置いていた(後に永住権を獲得)アメリカにおいて反戦活動を行った。その主張は強硬かつ一方的なものであり、かつ若者への影響力が強かったため、アメリカ政府から国外退去を命じられるほどであった。
同時期には日本やフランス、イタリアなどの当事国ではない西側諸国でも、勢いづいた左翼学生を中心とした運動と絡めた形で大規模な反戦運動が行われていた。なお、当時これらの西側諸国で行われた、「ベ平連」などの共産党や共産主義シンパの左翼政党(日本の社会党など)や団体をはじめとする北ベトナムに同情的な左翼勢力による多くの組織的な反戦運動に対して、ソ連が資金的・物理的援助を行っていたことが戦後当事者の話によって明らかとなり、多くの批判を受けた。
[編集] テト攻勢
詳細はテト攻勢を参照。
旧正月(テト)休戦を打診したものの拒否された北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。しかしすぐに体勢を立て直した南ベトナム政府軍とアメリカ軍の反撃を受け、南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、2月1日にジョンソン大統領はテト攻勢の失敗を宣言し間もなく戦闘は終結した。テト攻勢で南ベトナム解放民族戦線が事実上壊滅したことにより、その後のベトナム戦争は、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。
テト攻勢は軍事的にみては大きな失敗であったが、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵により南ベトナムの首都・サイゴンにあるアメリカ軍の放送局が占拠され爆破された他、わずか20人の南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵が、「要塞」とも称されたサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土で生中継されるなど、北側勢力の政治的効果は高かった。
また、テト攻勢の最中に、南ベトナムのグエン・カオ・キ副大統領の側近であるグエン・ゴク・ロアン警察庁長官が、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校、グエン・バン・レムを路上で射殺する瞬間がテレビで全世界に流された。以前レムはロアンの関係者家族を皆殺しにしていたとはいえ、まだ裁判すら受けていないレム容疑者を、南ベトナムの政府高官自らが報道陣のカメラを前にして路上で射殺するという衝撃的な映像は、世界中に大きな衝撃を与え、ベトナム戦争に対する各国の世論に大きな影響を与えた。また、この瞬間を撮影したアメリカ人報道カメラマンのエディー・アダムスは、その後ピュリッツァー賞の報道写真部門賞を受賞した。
[編集] フエ事件
テト攻勢時に一時的に南ベトナム解放民族戦線の支配下に置かれた南ベトナム安南の古都フエでは、1月30日から翌月中旬にかけて、南ベトナム解放民族戦線兵士による大規模な市民への虐殺事件「フエ事件」が発生した。この事件はテト攻勢の実施に合わせて半ば計画的に行われたものであり、事前に虐殺相手の優先リストまで用意されていたと言われている。犠牲者は南ベトナム政府の役人や警察官だけでなく、学生やキリスト教の神父、外国人医師などの一般市民にまで及び、その数は2000人以上であると言われている。
テト攻勢の失敗が報じられる中、フエでは述べ25日間にわたってアメリカ軍と解放戦線の攻防戦が続けられていた(なお当時の新聞表記は「ユエ」である)。なおこの事件は、南ベトナム解放民族戦線の組織的な犯行ではないとの説もある(詳細はノート「3.7ベトコンによるテロの増加 3.13フエ事件 について」の項を参照のこと)。
[編集] ソンミ村虐殺事件
ソンミの虐殺も参照。
この他にも、アメリカ軍は解放戦線の非公然戦闘員(ゲリラ)を無力化するため、サイゴン周辺などの南ベトナム国内を主として度々村落の焼き討ちと、南ベトナム解放民族戦線兵士「容疑者」への虐殺を繰り返した。
[編集] ジョンソン退陣
結果的に戦闘の拡大を招いてしまったアメリカのジョンソン大統領は、アメリカ国内外のマスコミから連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになった。この頃ジョンソンはニューハンプシャー州の予備選でユージーン・マッカーシーに対して辛勝したが、ジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明し、同時に世論調査では最低の支持率を記録した。
これらの影響を受けて、1968年3月31日にジョンソン大統領は、テレビ放送によって北爆の部分的中止と、この年に行われる民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由としてベトナム戦争に対する反戦運動などによるアメリカ国内の世論分裂の拡大を挙げた。
反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていたが、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師は4月4日に暗殺される。さらに、ジョン・F・ケネディ前大統領の弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディ元司法長官は公民権運動団体などを中心とした支持を受けて大統領選に出馬、民主党は分裂するが、カリフォルニア州で遊説中の6月5日に暗殺された。8月には民主党候補を決定するための党大会が行