ピューリッツァー賞
| ピューリッツァー賞 | |
|---|---|
| 受賞対象 | 卓越した新聞報道・文学活動・楽曲作曲 |
| 主催 | コロンビア大学 |
| 国 | アメリカ合衆国 |
| 初回 | 1917 |
| 公式サイト | http://www.pulitzer.org/ |
ピューリッツァー賞(ピューリッツァーしょう、Pulitzer Prize)は、新聞等の印刷報道、文学、作曲に与えられる米国で最も権威ある賞である。コロンビア大学ジャーナリズム大学院が、同賞の運営を行っている。
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概要 [編集]
賞は毎年21の分野を対象とし、このうち20の分野での受賞者に1万米ドルの賞金と賞状が、公益分野での受賞新聞社に対しては金メダルが与えられる。
同賞は、ハンガリー系アメリカ人ジャーナリストおよび新聞経営者ジョセフ・ピュリッツァーの遺志に基づき、1917年に創設された。ピュリッツァーの遺志により、遺産の一部がコロンビア大学に寄付され、1912年にジャーナリズム科大学院 (Graduate School of Journalism) が創設された。同校は、現在に至るまで、アイビーリーグ唯一のジャーナリズム専門の大学院である。初回は、1917年6月4日に発表されたが、翌年から毎年4月に受賞者が発表されている。受賞者は、独立した理事会により選考される。2006年現在の理事会は、コロンビア大学学長を理事長とする19名で構成されている。うち4名はコロンビア大学関係者(学長、ジャーナリズム大学院校長、他2名)、残り15名は、学外の実務経験者、学者等で、最長任期は9年である。
ジャーナリズムの中でも新聞等の印刷報道が対象であり、テレビやラジオ等の放送ジャーナリズムは対象外である。放送ジャーナリズムを対象とした賞としては、1941年に始まったジョージア総合大学のHenry W. Gradyマス・メディア/ジャーナリズム大学が運営するピーボディ賞と、その1年後に始まったコロンビア大学ジャーナリズム大学院が運営するデュポンコロンビア賞 (DuPont Columbia Award) がある。
沿革 [編集]
ニューヨークワールド紙の発行者だったジョゼフ・ピュリッツァーは、1903年4月10日に死後の財産のうちコロンビア大学にジャーナリズム学部を創設するために200万ドルを寄付する協定にサインしたが、そのうち50万ドルをピュリッツァー賞にあてるという条項があった。
ピュリッツァーは記者の資質の向上を願い、やがてコロンビア大学のジャーナリズム学部はミズーリ、ノースウェスタン両大学と並ぶ三大ジャーナリズム学部の一角となる[1]が、ピュリッツァー賞は彼の思惑以上に権威を持つことになる。ピュリッツァーが自らニューヨーク・ワールドで語った内容によると、「社会的不正義と当局の汚職の摘発こそ、審査を貫く基準である」[2]と語り、その基準によって「公益」部門を最上の賞として金メダルを設定した。そのため、権力側が隠蔽していた不正の報道による受賞は、1992年の時点では全体の40%を占めている。
ピューリッツァーの対象となる部門は、遺言を元に当初9部門の賞が設定された。すなわち、ジャーナリズム部門が公益、報道、社説、新聞史の4つ、文学が小説、伝記、アメリカ史の3つ、「戯曲」が1つ、そして「ジャーナリズム学部の発展と改善」をテーマにした論文の1つを賞の対象とした。しかし、新聞史は1918年度のみ受賞者が出ただけで以後取りやめとなり、論文に至っては応募がまったくなかったため、これも中止された。1922年には「時事漫画」が追加され、1942年には「写真」分野も追加される。また取材対象の広がりにあわせてジャーナリズム部門は細分化していった。
また、文学も加重されていき、1922年には詩が追加され、1962年にはノンフィクションを追加、さらに小説分野はフィクションに改められ、対象の分野を広げた。1943年には新たに音楽のジャンルも追加されている。
賞金は開始当初のもので、公益が金メダル、アメリカ史が2,000ドル、その他1,000ドルとなっており、その後一律で1,000ドルとなった。その額は物価の変動に関わらず長い間据え置きとなり、1989年にようやく3,000ドルに引き上げられた。
選考 [編集]
審査基準 [編集]
必要とされるのは、「卓越したdistinguished」ものであること。ピューリッツァーの残した言葉は「ザ・ベスト」であった[3]が、絶対的な基準を設定するのは不可能だという議論が起こり、妥協して卓越したという表現に落ち着いた。ピューリッツァー賞は「アメリカ」に関わるものが対象となり、文学と戯曲もアメリカの生活を描写したもののみを対象とする。もちろん、その作者もアメリカ人でなければならない。ただし、ジャーナリズム部門はあくまでも「アメリカの新聞」にのることだけが条件であり、そのため日本人も写真部門では海外の新聞社に取り上げられ、実際に受賞している。
ジャーナリズム部門 [編集]
アメリカで発行された新聞に掲載されることが第一の条件となる。受賞対象年度の翌年2月1日をその締め切りとし、4月半ばに受賞者が公表される。応募の際には、審査手数料20ドルが必要。審査はまず、ピュリッツァー賞委員会事務局によって任命された審査委員が行う。各部門につき3人が任命され、その審査員の地位は、権威ある記者、デスク、編集局長らがほとんどとなり、事前に公表される[4]。任期は2年を超えることが許されず、毎年半数が代わっていく。毎年のジャーナリズム部門の応募総数は平均で約1,800件であるが、以前は1日の審査ですませていたが、1981年に「ジミーの世界」虚報事件が起こったため、二日に渡ってコロンビア大学ジャーナリズム学部にこもって入念に審議することになった。各部門3件まで絞った後は、その結果を順位をつけずに本審査となるピュリッツァー賞委員会へ送り、ピュリッツァー賞委員が受賞者を決定する。このピュリッツァー賞委員会はコロンビア大学学長、ジャーナリズム学部長、新聞の経営者、編集長、大学教授ら18名によって構成され、任期は3年を3期まで、つまり最大で9年まで委員をつめることができた。また、ピューリッツァー賞委員が新聞の経営者で、選ぶ対象に自らの新聞の応募する記事があった場合は、自らその審査から外れるのが慣例となっている。1975年まではコロンビア大学の理事会が最終的な決定をする権利を有していたが、理事会には財界人がしばしば名を連ね、関連する記事の受賞に反対することが度々あった。これはピュリッツァーの精神とは完全に外れた行為であったため、現在では理事会は審査にはまったく関わることはできなくなっている[5]。
文学部門 [編集]
2日での審査は不可能な文学が対象のため、応募期間はジャーナリズム部門とやや異なる。応募は二期に分かれ、1月1日から6月30日までに出版されたものは7月1日までに、7月1日から12月31日までに出版されたものは11月1日まで審査事務局に4部提出しなければならない。この場合、11月2日以降に出版するものは応募が不可能に見えるが、11月2日以降のものに関してはゲラ刷りでの提出が可となっている。他は20ドルの審査料も含めてジャーナリズムとあまり大差はない。各部門3人の審査員は、大学教授、作家、編集者、評論家によって構成されている。こちらは、ジャーナリズム部門とは異なり、審査員は受賞まで明らかにすることはできない。出版物ではない「戯曲」に関しては脚本6部の提出と、鑑賞のために必要となるチケットの提供が必要となる。これは人気作であっても、予定通り鑑賞するための処置だった。これらの審査が終わると、3作品を選定してピュリッツァー賞委員会に送り、以後はジャーナリズムと同じ手続きで審査される。
音楽部門 [編集]
アメリカで初演されたアメリカ人の作品というのが不可欠な条件で、選定の段取りとしては戯曲に準ずる。審査員は音楽大学の教授、作曲家、音楽評論家らが任命され、3作品をピュリッツァー賞委員会に送ると、以後はジャーナリズム及び文学部門と同じ手続きで審査される。
部門一覧 [編集]
以下は、2006年現在のもの。
- 報道部門
- 公益 (Public Service):社説・写真・時事漫画・報道など、ジャーナリズムによって社会の公益に貢献した新聞を対象とする。この賞は新聞社に対して与えられるが、個人名も併せて挙げられる。
- ニュース速報報道 (Breaking News Reporting)
- 調査報道 (Investigative Reporting)
- 解説報道(Explanatory Reporting)
- ローカル報道 (Local Reporting)
- 国内報道 (National Reporting)
- 国際報道 (International Reporting)
- 特集記事 (Feature Writing)
- 論説 (Commentary): 際立った論説に対して。
- 批評 (Criticism):際立った批評に対して。
- 社説 (Editorial Writing)
- 時事漫画 (Editorial Cartooning)
- 特集写真 (Feature Photography): カラーもしくはモノクロの特集写真に対して。
- ニュース速報写真 (Breaking News Photography): カラーもしくはモノクロのニュース速報写真に対して。
- 文学芸能部門
- 音楽部門
- 音楽 (Music): その年にアメリカで初めて演奏された、もしくはレコーディングされた、アメリカ人による楽曲に対して。
以前あった部門 [編集]
受賞者 [編集]
日本人受賞者 [編集]
- 1961年写真部門:『浅沼社会党委員長の暗殺』長尾靖(ながお・やすし。1930年-2009年)(毎日新聞)
- 1966年写真部門:『安全への逃避』沢田教一(さわだ・きょういち。1936年-1970年)(UPI通信社)
- ベトナム戦争で銃弾を避けながら河を渡ろうとする母子の姿を撮影した作品。
- 1968年写真部門:『より良きころの夢』酒井淑夫(さかい・としお。1942年-1999年)(UPI通信社)
脚注 [編集]
参考文献 [編集]
- 佐々木謙一編著、1992年、『92年版、ピュリツァー賞受賞者総覧』教育社、ISBN 4-315-51268-0
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
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