アレクセイ・コスイギン
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アレクセイ・コスイギン
Алексей Косыгин |
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アレクセイ・コスイギン(1967年) |
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| 書記長 | レオニード・ブレジネフ |
| 前任者 | ニキータ・フルシチョフ |
| 後任者 | ニコライ・チーホノフ |
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| 任期 1948年2月17日 – 1948年12月28日 |
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| 書記長 | ヨシフ・スターリン |
| 前任者 | アルゼニー・ズヴェレフ |
| 後任者 | アルゼニー・ズヴェレフ |
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ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
人民委員会議議長 |
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| 任期 1943年6月23日 – 1946年3月23日 |
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| 書記長 | ヨシフ・スターリン |
| 前任者 | イヴァン・ホフロフ |
| 後任者 | ミハイル・ロジオノフ |
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| 出生 | 1904年2月20日 ロシア帝国・サンクト・ペテルブルク |
| 死亡 | 1980年12月18日(76歳) ソビエト連邦・モスクワ |
| 国籍 | ソ連 |
| 民族 | ロシア人 |
| 政党 | ソビエト連邦共産党 |
| 配偶者 | クラウディア・アンドレエーヴナ(1966年死去) |
| 専業 | 教師 公務員[1] |
| 兵役経験 | |
| 所属組織 | ロシア・ソビエト社会主義共和国 |
| 部門 | 赤軍 |
| 軍歴 | 1919年~1921年[2] |
| 最終階級 | 徴兵 |
| 指揮 | 赤軍 |
| 戦闘 | ロシア内戦 |
| 賞罰 | 赤旗勲章(en:Order of the Red Banner) |
アレクセイ・ニコラエヴィチ・コスイギン(ロシア語: Алексей Николаевич Косыгин[3], 1904年3月5日(ユリウス暦2月20日) - 1980年12月18日)は、ソビエト連邦の政治家。1964年から1980年までソ連の首相を務めた。
目次 |
来歴・人物 [編集]
1904年2月20日(ユリウス暦)、サンクト・ペテルブルクの労働者階級の家庭にて、父ニコライ・イリイチ・コスイギンと、母マトロン・アレクサンドロヴナとのあいだに生まれる[4]。生まれた翌3月7日、アレクセイは洗礼を受ける[5]。ロシア革命に遭遇し、1919年に赤軍に志願する。1921年の召集解除後、アレクセイはレニングラード生活協同組合技術学校に入り[6]、シベリア・ノヴォシビルスクの生活協同組合[7]に就職[8]。組合の経済部門にいたころのことを聞かれたコスギンは、ウラジーミル・レーニンのスローガンである「協調 - 社会主義への道」に言及して答えた[9]。コスイギンは同地に6日間滞在し、ソビエト連邦共産党への入党を志願し、1927年に同党に入党する[7]。1930年にレニングラードに戻り、レニングラード専門学校にて勉強し、5年後の1935年に卒業する[9]。その後は織物工場職長、工場長として勤務中に大粛清に遭遇する。1938年から1939年までレニングラード市長を務める。
1939年から1940年織物工業人民委員(人民委員は大臣に相当)を務め、以後、軽工業を中心に主に経済関係のポストを歩む。1939年にソ連共産党中央委員に選出される[7]。1943年から1946年まで、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民委員会議議長(首相)を務める[7]。大祖国戦争(独ソ戦)においてはソ連国家防衛委員会の委員にもなった[7]。ロシア共和国の首相としては、ナチス・ドイツの侵攻に対して、ヨーロッパ・ロシアの企業・工場をウラル山脈以東に疎開させることに尽力した[10]。
第二次世界大戦終結後は1946年から1953年までソ連副首相、1948年から党政治局員、軽工業相に任命される。ヨシフ・スターリンの死後、1956年ゴスプラン(国家計画委員会)第一副議長、1957年副首相、1957年ゴスプラン議長を歴任。1960年には、第一副首相に就任した。
1964年宮廷クーデターともいえる手段でニキータ・フルシチョフが失脚。これに伴い、同年10月後任のソ連首相に就任した。コスイギンは陰謀とは無縁な潔癖な政治家で、フルシチョフ追放の計画について直前まで知らされていなかった。計画を知らされたコスイギンは、KGBがバックにいることを確認したあとに、計画に賛同した。
コスイギンは、ソ連共産党中央委員会第一書記(のちに書記長)に就任したレオニード・ブレジネフ、最高会議幹部会議長のニコライ・ポドゴルヌイと「トロイカ」と言われる集団指導体制を組む。西側からは、当初、「ブレジネフ・コスイギン政権」と表現されていた。
1965年9月には、「コスイギン改革」とよばれる、計画・管理面における企業分権化を図る経済改革を推進するが、1960年代末までに改革は頓挫し、ソ連経済は停滞する。コスイギンは主に経済を中心とする内政を担当したが、1960年代後半から、外交面でもデタントの波に乗ってアメリカ大統領のリンドン・ジョンソン、イギリス首相のハロルド・ウィルソンら西側首脳とも積極的に会談を行い、西側陣営との平和的共存を模索した。また1966年には、インドとパキスタンの両国を調停し、第二次印パ戦争の解決に尽力した。中ソ対立のさなかの1969年、ベトナムのホー・チ・ミンの葬儀の帰りに立ち寄った北京空港で中国首相の周恩来と会談するが、この会談からは前向きな結論は得られず、中ソ両国は1969年から70年にかけて軍事衝突した。
1980年10月、病気により首相を辞任。後任にはニコライ・チーホノフが就任した。同年12月18日死去。遺体は慣例に従い、他のソビエト指導者と同様にモスクワの「赤の広場」に埋葬された。
その他 [編集]
デタント期においてはアメリカの消費物資導入を積極的に推し進めた。その代表例として挙げられるのがペプシコーラであろう。1974年には南ロシアのノヴォロシースキィでペプシの工場が操業を開始した。それによってソ連時代からロシアでは「コーラ=ペプシ」であり、ペプシ社のコーラ市場シェアはロシアでは75%を超えている。
脚注 [編集]
- ^ Law 1975, p. 214.
- ^ Вергасов, Фатех. “Организация здорового накала” (Russian). pseudology.org. 2010年9月4日閲覧。
- ^ ラテン文字表記の例:Aleksei Nikolaevich Kosygin
- ^ Law 1975, p. 221.
- ^ Андриянов, Виктор (2003年8月23日). “Неизвестный Косыгин” (Russian). Rossiyskaya Gazeta. 2010年9月4日閲覧。
- ^ Society for Contemporary Studies (1979). The Contemporary. 23. R.N. Guha Thakurta for Contemporary Journals Ltd. p. 15. ISBN 0141037970.
- ^ a b c d e Law 1975, p. 222.
- ^ Safire, William (1988). Before the fall: an inside view of the pre-Watergate White House. Pennsylvania State University: Da Capo Press. p. 610. ISBN 0141037970.
- ^ a b “Алексей Николаевич Косыгин” (Russian). Moscow State Textile University (2010年11月27日). 2010年9月5日閲覧。
- ^ “Алексей Гвишиани: «Не надо жалеть Косыгина!»” (Russian). Pravda Online (2004年4月9日). 2010年9月4日閲覧。
関連項目 [編集]
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