ラオス内戦

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ラオス内戦
戦争:左派共産勢力組織パテート・ラーオラオス王国政府による内戦である
年月日:1953年 - 1975年
場所ラオス王国の旗 ラオス王国
結果パテート・ラーオとベトナム民主共和国側の勝利、共産主義政権(ラオス人民民主共和国)の成立
交戦勢力

ベトナム共和国の旗 ベトナム共和国
フランスの旗 フランス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カンボジアの旗 カンボジア
クメール共和国の旗 クメール共和国
タイの旗 タイ
モン族

支援国:
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
大韓民国の旗 大韓民国
フィリピンの旗 フィリピン
中華民国の旗 中華民国


ベトナム民主共和国の旗 ベトナム民主共和国
南ベトナム解放民族戦線の旗 南ベトナム解放民族戦線

支援国:
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
アルバニアの旗 アルバニア
ブルガリアの旗 ブルガリア
中華人民共和国の旗 中華人民共和国
 キューバ
チェコの旗 チェコスロバキア
東ドイツの旗 東ドイツ
ハンガリーの旗 ハンガリー
クメール・ルージュ
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
ポーランドの旗 ポーランド
ルーマニアの旗 ルーマニア
タイ国共産党

指導者・指揮官
ラオス王国の旗 サワーンワッタナー
ラオス王国の旗 スワンナ・プーマ
ラオス王国の旗 プーミ・ノサバン英語版
ラオス王国の旗 バン・パオ英語版
ラオス王国の旗 コン・レー
ラオス王国の旗 ブン・ウム
ラオス王国の旗 スリヤウォンサワーン
アメリカ合衆国の旗 リンドン・ジョンソン
アメリカ合衆国の旗 リチャード・ニクソン
アメリカ合衆国の旗 ロバート・マクナマラ
アメリカ合衆国の旗 クラーク・クリフォード
アメリカ合衆国の旗 メルヴィン・レアード
タイの旗 タノーム・キッティカチョーン
ラオスの旗 スパーヌウォン
ラオスの旗 カイソーン・ポムウィハーン
ラオスの旗 プーミ・ウォンウィチット
ラオスの旗 ドゥアン・スンナラート
ラオスの旗 ヌーハック・プームサワン
ベトナム民主共和国の旗 ホー・チ・ミン
ベトナム民主共和国の旗 レ・ズアン
ベトナム民主共和国の旗 ヴォー・グエン・ザップ
戦力
ラオス王国の旗 ラオス軍 50.000人
タイの旗 タイ軍20.000人
モン族 30.000人
ラオスの旗 スパーヌウォン 側8.000人、後期48.000人
ベトナム民主共和国の旗 ベトナム民主共和国軍 3.000人
損害
ラオス王国の旗15.000人が戦死 ベトナム民主共和国の旗 40.000人が戦死 

ラオス内戦(ラオスないせん、: Laotian Civil Warラーオ語: ສົງຄາມກາງເມືອງລາວ1953年 - 1975年)は、第二次インドシナ戦争の中の戦いの一つで、左派パテート・ラーオラオス王国政府による内戦である。左翼右翼による政治闘争を越え、冷戦中の大国からの支援を受けた代理戦争に発展した。

概要[編集]

ラオスベトナム戦争の交戦国にとって隠れた戦場となっていた。1953年のフランス・ラオス条約により、ラオスには完全な独立が与えられたが[1]、それから数十年の歴史は、ルアンパバーン王家スワンナ・プーマおよびコン・レー大尉らの中立派、チャンパーサック王家ブン・ウムおよび軍事クーデターを起こしたプーミ・ノサワン将軍らの右派・革命委員会、ルアンパバーン王家のスパーヌウォンおよび後の首相カイソーンらの左派ネーオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)の三派間の争いによって記録された。連合政府を立てようという幾度にもわたる試みの後、最終的にヴィエンチャンにおいて「三派連合政府」が成立した。

ラオスにおける戦闘には、ラオス区域の支配権を巡って争う北ベトナムアメリカタイおよび南ベトナムフランスの軍隊が直接的に、あるいは非正規の代理人を通して関与していた。北ベトナム軍は、南ベトナム侵攻の通り道かつ最大の戦場となるホーチミン・ルートを占領した。二番目に大きな戦闘が起こった場所は、ラオス北部のジャール平原およびその周辺であった。

1975年には北ベトナムとパテート・ラーオの勝利が明らかとなるが、それは同年のインドシナ半島における共産勢力の勝利が背景にあった。

全体像[編集]

ジュネーヴ協定はラオスの中立をうたっている。しかし、北ベトナム軍は南北ラオスへの介入を続けていた。1954年から北ベトナム軍をラオスから退かせようという試みは繰り返されてきたが、合意や譲歩がみられはしても、ハノイ政府はラオスやそこの共産主義勢力から手を引こうという意志は持ってはいなかった。

北ベトナム軍はベトナム国境と平行するホーチミンルートをラオス領内に設定した。このルートは部隊や兵站にとってベトナム共和国への侵攻を容易にし、南ベトナム解放民族戦線を支援しやすいものにした。

北ベトナムはラオス北方で積極的な軍事行動をとっており、現地の共産主義勢力であるパテート・ラーオを援助、維持する一方で、王国政府へ圧力をかけていた。

CIAは直接的に軍事介入することを避けつつ北ラオスでの北ベトナム軍の作戦を妨害するため、3000人ほどのラオスの山岳部族からなるゲリラに訓練を施すことで対応していた。ゲリラの多くはモン族であり、部族の軍事的指導者であった王立ラオス軍のバン・パオ将軍に従っていた。彼らはCIAの管轄下にあるエア・アメリカ、タイ、王立ラオス空軍の支援を受けて、ベトナム人民軍(PAVN)、南ベトナム解放民族戦線、パテート・ラーオ派と戦っていた。ベトナムにおける戦争へのアメリカのさらなる興味を誘うような膠着状態を打破するためである。

年間を通して 北部での戦況はほとんど天候次第であった。11月、12月から乾季になれば北ベトナム軍は軍事行動を起こした。通行可能となったルートを通じて気分を新たにした部隊と兵站が北ベトナムから殺到した。半年後の雨季には北ベトナムの兵站線は機能不全になり、ベトナムの共産主義者たちはベトナム側へ退くことになる。

ホーチミンルートの南にあたる領域での戦争はアメリカ空軍と海軍による大規模な空爆作戦が主であった。南ベトナムから地上攻撃を行わないという政治的制約がルートを平和なものにしていたからである。南東部ではCIAの空爆作戦が密かに行われていた。

ラオス国内での衝突はしばしばアメリカ国内でも話題となり、マスコミなどにCIAの「ラオス秘密戦争」などと表現された。政府は表向きには戦争の存在を否定していたために詳細のほとんどが伝わっていなかった。ラオスの中立を北ベトナムとアメリカの双方が確認していた以上、アメリカは戦争を否認しなければならなかった。アメリカの関与についても、北ベトナムが国内の大部分を実質的に支配していたことや、ラオスにおけるその役割が混乱していたことを踏まえれば、必要なことだったと考えられている。しかし戦争が起こっていることを否定したところで、ラオス内戦は、その後のアフガン-ソビエト戦争におけるアメリカの暗躍と変わるところがなかった。ラオス国内で北ベトナムが支配する地域はアメリカ空軍の激しい爆撃を一年中受けており、歴史上にも類を見ない空爆作戦とも言われることがある[2][3][4]。それに影を落としているのは、冷戦期にもがいていた大国たちである。共産主義を封じ込めようというアメリカの政策があり、暴動や破壊を通じて共産主義を拡散しようとしたソ連や中国の政策があった。

脚注[編集]

  1. ^ Uppsala Conflict Data Program (2011年11月2日). “Laos”. Uppsala University Department of Peace and Conflict Research. 2012年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2002年11月11日閲覧。 “In October 1953, the Franco-Lao Treaty of Amity and Association transferred power....”
  2. ^ Bombing LaosWorld History Archives
  3. ^ Branfman, Fred Wanted May 18, 2001
  4. ^ Wiseman, Paul (2003年12月11日). “30-year-old bombs still very deadly in Laos”. USA Today. http://www.usatoday.com/news/world/2003-12-11-laos-bombs_x.htm 2010年5月7日閲覧。 

関連項目[編集]