リンドン・ジョンソン
| リンドン・B・ジョンソン Lyndon Baines Johnson |
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| 任期: | 1963年11月22日 – 1969年1月20日 |
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| 副大統領: | 不在(〜1965年1月20日) ヒューバート・H・ハンフリー |
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| 任期: | 1961年1月20日 – 1963年11月22日 |
| 元首: | ジョン・F・ケネディ |
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| 出生: | 1908年8月27日 |
| 死去: | 1973年1月22日(満64歳没) |
| 政党: | 民主党 |
| 配偶者: | レディ・バード・ジョンソン |
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リンドン・ベインズ・ジョンソン(英:Lyndon Baines Johnson, LBJ、1908年8月27日 - 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国の政治家で、第37代副大統領および第36代大統領。民主党ケネディ政権の副大統領を務め、ケネディが暗殺されると大統領に昇格、政権を引き継いだ。リベラルとして知られたケネディに対して、南部テキサス州出身のジョンソンは民主党の中では保守派と評されていたが、大統領就任にあたって掲げた貧困撲滅と公民権の確立を骨子とする「偉大なる社会」 (Great Society) 政策は、非常にリベラル色の強いものとなった。
政権初期には、公民権法の早急な施行に向けて議会をまとめることに主導的役割を果たした。その他にも内政においては達成した政治課題が多く、結果的にジョンソン政権は同じ民主党のルーズベルト政権と並んで「大きな政府」による社会福祉や人権擁護を積極的に推進した政権となった。しかし外交ではケネディ政権から引き継いだベトナム戦争への軍事介入を拡大させ、国内に激しい反戦運動と世論の分裂をもたらした。
現職として臨んだ1964年の大統領選では、ケネディへの同情票とジョンソンを評価する票に加え、共和党候補を超保守・極右と位置づけることにより中間層の票も取りまとめ、歴史的な大勝を果たした。しかしその後ベトナム戦争の泥沼にはまって身動きが取れなくなり、1968年の大統領選では再選どころか民主党指名候補を受けることすらが怪しくなった。それを悟ったジョンソンは、全米に向けたテレビ中継で再選出馬をしないことを表明、自らの政治生命に事実上の幕を引いた。
目次 |
生い立ち [編集]
リンドン・ベインズ・ジョンソンは1908年8月27日にテキサス州中央部のテキサス・ヒル・カントリーと呼ばれる地域にある農村、ストーンウォールで生まれた。彼の両親サミュエル・ジョンソンとリベカ・ベインズは、貧しい地域で農場を所有しており、彼らには更に4人の子供がいた。妹のリベカ、兄弟のジョセファ、サム・ヒューストン、ルシア。リンドン・ジョンソンは幼年期を通じて公立学校に通い、1924年にジョンソンシティー高校を卒業した。
1927年には、南西テキサス州教員養成大学(現:テキサス州立大学サンマルコス校)に入学した。校内活動や学校新聞の作成に参加し、苦労しながらも1931年に卒業した。なお在学中に1年休学し、テキサス州の貧しいメキシコ系移民の生徒が通う学校で教師見習いを務めている。
政治家へ [編集]
ジョンソンは大学を卒業した後、ヒューストン高校で演説および討論を教えた。しかしながらすぐ教職を辞め、父親の力を借りて政治の世界に入った。ジョンソンの父は、テキサス州議会で5期勤めており、後に連邦下院議長となるテキサス州選出下院議員のサム・レイバーンとは親しい友人だった。1931年にジョンソンはウェリー・ホプキンス州議会議員の連邦下院議員選挙に協力し、ホプキンスはその労に報いてジョンソンをリチャード・ケルバーグに紹介、推薦した。これによりジョンソンはケルバーグの立法秘書官となり、ワシントン立法補佐グループの議長の座を与えられた。
秘書としてのジョンソンは数々の影響力を持つ人々と知り合い、彼らがどのようにその地位に達したか、いかにして尊敬を集めているかといったことを学んだ。またルーズベルト政権の主要人物数人ともパイプを持ち、当時副大統領だったジョン・ナンス・ガーナー)とは同じテキサス仲間ということですぐに親しくなっている。
秘書在任中、ジョンソンはテキサス出身のクローディア・アルタ・テーラーと出逢い、数度のデートの後、1934年11月17日に結婚した。これが後にレディ・バード・ジョンソンとして知られるようになるジョンソンの愛妻である。夫妻には、1944年に長女のリンダ・バードが、1947年には次女のルーシー・ベインズが生まれている。
1935年にはテキサス州青年局長に就任し、政府が若い人々のために教育の充実と雇用の拡大をするよう尽力した。この活動によってジョンソンは政治的後援を構築することができた。ジョンソンはとてもタフな上司として部下の間では有名だった。彼は2年間青年局長を務め、議会選挙へ出馬するために辞職した。
1937年にジョンソンはオースティン及び周辺町村を含むテキサス州第10下院議員選挙区の補選に出馬した。彼は妻の大きな支援を受けながら、ニューディール政策の推進を政治要綱に掲げ、選挙活動を繰り広げた。
ジョンソンが当選すると、ルーズベルトはこの若いテキサス人に関心を示し、新人議員にとって非常に重要な意味を持つ海軍事務委員会の委員にジョンソンを指定した。下院議員としてジョンソンはまた、主に自身の選挙区の田舎に電化をもたらすことをはじめとした様々な地元発展のため奔走した。
1941年にジョンソンは上院の補選に出馬し、現職のテキサス州州知事でラジオパーソナリティのW・リー “パピー” オダニエルと議席を争った。この有名な州知事を前にジョンソンは全く歯が立たないと予想されたが、力強い選挙活動を展開し、開票速報はジョンソンの当確を報じた。しかし最終的に両陣営ともに大規模な選挙違反があったことが発覚、ジョンソンは落選した。
第二次世界大戦 [編集]
上院補選の選挙運動の終盤において、ジョンソンはもし戦争が始まったら招集に応じて戦地に赴き敵と戦うという、言わば議会そっちのけの公約を掲げてその議会の上院の議席を狙っていた。程なくして1941年12月にアメリカは第二次世界大戦に参戦。大戦中ジョンソンは海軍少佐として従軍し、銀星章、アジア太平洋従軍記章および第二次世界大戦戦勝記念章を受章した。しかし戦後になって銀星章受章の背景には極めて政治的な目論見があったことが臆測されるようになった。
1940年6月20日、初の平時の徴兵を行うための法案が議会に提出された時、予備役海軍少佐だったジョンソンは自身の招集を免除する約束を取り付けた上でこの法案に同意した。ところが翌年アメリカが大戦に参戦すると、一転してジェームズ・フォレスタル海軍省次官に自分を非戦闘員として配置するよう求め、テキサスと西海岸の造船工廠の検査役となった。
1942年春ごろになると、地元選挙区の有権者たちはジョンソンに戦地での活躍を望むようになっていた。あの上院補選のときに時勢に迎合して唱えた選挙公約が仇となったのである。そこでジョンソンはルーズベルトに、今度はより戦闘地帯に近い戦地に自らを配置にするよう求めた。折から、情報が軍の指揮系統を経由するうちに歪曲されることに頭を悩ませていたルーズベルトは、南西太平洋地域で政治家による生の信頼できる情報を得たいと考えていた。そしてフォレスタルの提案により、ルーズベルトはジョンソンを南西太平洋の偵察隊に配置した。ジョンソンはオーストラリアのメルボルンでマッカーサー司令長官と会合し、第22爆撃隊に配属された。偵察目標はニューギニア島にある日本海軍のラエ飛行場だった。司令官は外部の偵察員などかえって足手まといだと感じていたが、ジョンソンはその必要性を強く主張した。
ある日偵察活動に出ていたジョンソンの搭乗するB-26マローダー爆撃機が日本軍機から攻撃を受けた。同機はこれをかわしてメルボルンまで逃げ切り、ジョンソンは無事でかすり傷ひとつなかったが、この一件をジョンソンがマッカーサーに報告するや否や、マッカーサーはジョンソンと生き残った偵察員に最高位から3番目に位置する銀星章を授与した[1]。
1942年6月9日、ニューギニア付近のポートモレスビーおよびサラマヌアで勇気ある行動を見せた。南西太平洋地域の情報活動任務の間、ジョンソンは戦闘条件の直接情報を得るために、ニューギニアの敵空域に関する危険な空中戦使命を帯びた観察者として志願した。目標空域に近づくと8機の敵機に遭遇したが、この時ジョンソンの乗機に機械的問題が生じたために単独での帰還を強いられた。そのため敵機の格好の目標となったが、ジョンソンは身に迫る危険をものともせず、終始冷静さを保って無事帰還した。これにより米軍は有益な情報を得ることが出来たのである。
帰還後、ジョンソンは「我々の軍用機は日本の戦闘機にはるかに劣っていた」「士気は高くなかった」などと報告し、海軍に大きな権力を持つジョンソンを委員長とする小委員会を議会に承認させた。しかしその活動内容は非難を浴びたため、ルーズベルトは軍務に就く国会議員を議会に戻すことを命じた。
上院議員 [編集]
1948年にジョンソンは再び上院選に挑戦、このときは晴れて当選した。ジョンソンはその圧勝により「地滑りリンドン」と呼ばれた。上院では軍事委員会の委員に指名され、1950年の後半には調査小委員会の結成に貢献した。ジョンソンは結局その委員長となり、防衛費と予算効率の多くの調査を行った。これらの調査の結果によりジョンソンは他の議員の尊敬と共に全国的な注目を集めた。
上院議員として数年の活動後にジョンソンはリーダーシップを得、1953年には少数党院内総務に選出された。ジョンソンの最初の活動は委員会への選出から年功制を取り除くことであった。1954年にジョンソンは上院議員に再選され、民主党は上院で多数派となりジョンソンは多数党院内総務となった。
副大統領 [編集]
ジョンソンの上院における成功は、民主党における有力な大統領候補とみなされることにつながった。1960年に民主党大会で彼は409票を得たが、その倍近い806票を得て大統領候補指名を獲得したのはマサチューセッツ州の上院議員、ジョン・ケネディだった。1960年の終わりにケネディは副大統領候補にジョンソンを指名した。
同年11月、ケネディ=ジョンソン組は小差で共和党のニクソン=ロッジ組に勝利した。
大統領就任後ケネディは、人種差別問題に関心の深いジョンソンを大統領雇用機会均等委員会の委員長に任命した。同委員会でジョンソンは黒人や他の少数人種と共に働いた。そのほかにも副大統領としてジョンソンはいくつかの国際的な任務をこなし、それらはジョンソンに外交問題への見識を与えた。
ベトナム情勢の悪化が進む中でケネディ政権は、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定、ケネディはジョンソンとマクナマラ国防長官を1961年にベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」として早急な支援を訴え[2]、マクナマラも「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる数値が示している」と報告し[3]、ケネディの決定を支持した。
しかし副大統領在任中はのケネディ兄弟の高い人気の陰に隠れて目立たず、典型的な「外交儀礼用の副大統領」に終始。酒量と鬱憤だけが募っていった。
大統領職 [編集]
1963年11月22日にダラスでケネディが暗殺されると、ジョンソンはダラス・ラブフィールド空港に駐機していた大統領専用機エアフォース・ワン機内でただちに大統領宣誓を行った。ジョンソンは一家の友人でもあった連邦判事サラ・ヒューズを前に宣誓を行ったが、女性に宣誓した大統領はこのジョンソンが初めてだった。また聖書ではなくカトリックのミサ典書に手を置いて宣誓したのも初めてだった。大統領暗殺により副大統領から大統領に昇格したのは1901年にマッキンリー大統領暗殺事件でセオドア・ルーズベルトが昇格して以来のことだった。
ジョンソンは大統領就任直後から厄介な問題に直面した。ケネディが存命中、政権の事実上のNo.2は司法長官で弟のロバート・ケネディだった。このロバートとジョンソンは、1960年の民主党全国党大会以来ぎくしゃくした関係にあった。またケネディが任命した閣僚の多くはケネディの友人や個人的な繋がりのある知人だったため、それまでは歴代副大統領の例にもれず蚊帳の外におかれていたジョンソンが大統領となると、やはり意思の疎通などに支障をきたした。そこで、これらの閣僚はより自身に忠実であることが期待できる者に漸次入れ替えていったが、ロバートだけは政権の継承と浮揚には不可欠な看板と判断し、腫れ物に触るような思いで彼を留任させた。
ジョンソンは依然として高い人気をもつロバートが1964年の大統領選に出馬して自身を脅かすのではないかと危惧したが、結局ロバートは大統領選には出ずにニューヨーク州選出の上院議員選挙に出馬することとなり、その謝礼としてジョンソンはロバートの選挙戦を全面的に支援することで妥協を見た。大統領選でジョンソンは共和党のバリー・ゴールドウォーターを歴史的大差で破った。選挙で選ばれた大統領として、以後ジョンソンはケネディ政権からの脱却を志向するようになる。
内閣 [編集]
| 職名 | 氏名 | 在任 |
| 大統領 | リンドン・ベインズ・ジョンソン | 1963–1969 |
| 副大統領 | 不在 | 1963–1965 |
| ヒューバート・ホレイショー・ハンフリー | 1965–1969 | |
| 国務長官 | デイヴィッド・ディーン・ラスク | 1961–1969 |
| 財務長官 | クラレンス・ダグラス・ディロン | 1961–1965 |
| ヘンリー・ハミル・ファウラー | 1965–1968 | |
| ジョーゼフ・ウォーカー・バー | 1968–1969 | |
| 国防長官 | ロバート・ストレンジ・マクナマラ | 1961–1968 |
| クラーク・マクアダムス・クリフォード | 1968–1969 | |
| 司法長官 | ロバート・フランシス・ケネディ | 1961–1964 |
| ニコラス・デベルヴィル・カッツェンバック | 1964–1966 | |
| ウィリアム・ラムゼイ・クラーク | 1966–1969 | |
| 郵政長官 | ジョン・オースティン・グロノウスキー | 1963–1965 |
| ローレンス・フランシス・オブライエン | 1965–1968 | |
| ウィリアム・マーヴィン・ワトソン | 1968–1969 | |
| 内務長官 | スチュワート・リー・ユードル | 1961–1969 |
| 農務長官 | オーヴィル・ロスロップ・フリーマン | 1961–1969 |
| 商務長官 | ルーサー・ハートウェル・ホッジス | 1961–1965 |
| ジョン・トーマス・コナー | 1965–1967 | |
| アレクザンダー・ビュエル・トロウブリッジ | 1967–1968 | |
| サイラス・ロウレット・スミス | 1968–1969 | |
| 労働長官 | ウィリアム・ウィラード・ウィルツ | 1962–1967 |
| 保健教育福祉長官 | アンソニー・ジョセフ・セレブレズ | 1962–1965 |
| ジョン・ウィリアム・ガードナー | 1965–1968 | |
| ウィルバー・ジョセフ・コーエン | 1968–1969 | |
| 住宅都市開発長官 | ロバート・クリフトン・ウィーヴァー | 1966–1968 |
| ロバート・コールドウェル・ウッド | 1969–1969 | |
| 運輸長官 | アラン・スチーブンソン・ボイド | 1967–1969 |
最高裁判所判事 [編集]
- エイブ・フォルタ - 1965
- サーグッド・マーシャル - 1967
公民権法 [編集]
アメリカは「自由で平等な国」を自称してきたが、建国以来200年近くの長きに亘りアフリカ系アメリカ人などの少数民族に対する法の上での人種差別が認められてきた。しかし第二次世界大戦中におけるアフリカ系アメリカ人兵士の活躍や、戦後間もない1950年代に入って起きたモンゴメリー・バス・ボイコット事件などをきっかけに、この様な法の上での人種差別をなくそうとする公民権運動が全人種の間で盛り上がりを見せてきていた。
この様な動きに対して、人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示したジョンソンは、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、保守(人種差別主義)議員の反対に対して粘り強く議会懐柔策を進めた[4]結果、1964年7月2日に公民権法に署名し、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった。
貧困対策 [編集]
1964年には「貧困との戦い」(War on Poverty) を提唱。低所得者に対する公的扶助として、主に高齢者の医療費を補助するメディケア、低所得者の食費を補助するフードスタンプ、低所得者の幼児の就学を支援するヘッドスタートなどのプログラムが制度化された。
ベトナム戦争 [編集]
ジョンソン政権は、ベトナム戦争に本格介入するきっかけを作ったケネディ前大統領やマクナマラ国防長官が、1963年当時のゴ・ディン・ジェム政権と対立した結果、計画していたと言われる軍事顧問団の縮小政策を実施に移すことができなかった。
1961年副大統領時代にベトコンに手を焼いていたため枯葉剤を散布する決断をし、ゴ・ディン・ジェムもこれに賛成した。ゴ・ディン・ジェムはベトコンの潜む森を知っており、見事に枯葉剤作戦は成功したが、これが後に深刻な問題となる。
1964年に入り、南ベトナムへの魚雷攻撃を行う北ベトナム軍船艇がアメリカ海軍の艦艇に誤爆した。その数日後アメリカ軍は北ベトナムの魚雷攻撃に見せかけたトンキン湾事件をでっち上げて本格介入への口実を作り、さらにその後アメリカ軍基地が爆破され、多くのアメリカ軍将校が爆殺されたことにジョンソンは怒り、報復として北爆を開始した[5]。但し、ジョンソンは当時北ベトナムに軍事顧問団を多数送っていたソビエト連邦や中華人民共和国との関係を考慮して、北ベトナムの基地関連施設に限定した空爆を行うに止めている。ハノイ港にはソ連の輸送船から荷揚げされた兵器もあったが、ジョンソンはそれすら攻撃を行うことはなかった。これはソビエトや中国との全面衝突をおそれたからであるが、この結果、北ベトナムにはソ連や中国からの支援が継続されることになる。
1965年から1968年までの間、北爆やアメリカ軍兵士の増強などを行い戦争を連続的に拡大していった。それは何万ものアメリカ軍兵士の死と、およそその60倍のベトナム人の死、そして最終的にはアメリカの撤退と南ベトナムの崩壊を招いた。
アメリカ兵の戦死者がベトナムで増え、テレビで戦場の模様が放映されるとともにジョンソンの人気は低下した。特に「おい、おい、LBJ、今日は何人の子供を殺した?」などと書いたプラカードを掲げる学生達の抗議に直面し、マスコミからは連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになった。その後、CBSの人気キャスターであるウォルター・クロンカイトからも戦争への疑問を表明されるにいたり、1968年には北爆の中止を表明するとともに、次の大統領選挙への不出馬を表明することとなった。
引退 [編集]
ジョンソンはニューハンプシャー州の予備選でユージーン・マッカーシーに対して辛勝したが、ロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明し、同時に世論調査では最低の支持率を記録した。テト攻勢の後の1968年3月31日、ジョンソンは夜のテレビ演説で、次期大統領選に於いて民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由としてベトナム戦争に関する国内世論分裂の拡大を挙げた。
民主党はロバート・ケネディがカリフォルニア州予備選で勝利しては党大統領候補指名に王手をかけた直後に暗殺されたため、結局副大統領のハンフリーを指名したが、大統領選では共和党候補のニクソンに敗北した。
大統領職を去った後、ジョンソンはテキサス州ジョンソンシティーの農場へ帰宅した。その後1973年1月22日に心臓発作を起こし死去した。
逸話 [編集]
- ジョンソンの身長は6フィート3と1/2インチ(192cm)あった。これはエイブラハム・リンカーンの6フィート3と3/4インチに継ぐ高さで、2番目に背の高い大統領だった。
- ジョンソンはテキサス州では大物政治家だったが、ワシントンではケネディ兄弟に支持率で大きく水をあけられており、副大統領どまりの地味な政治家といわれていた。
- ジョンソンは倹約家で有名だった。大統領としてさえ、ホワイトハウスの録音テープには自らが貧しく巨額の負債があるため、カメラマンに無料で家族のポートレートを撮影してくれるよう頼んでいることが記録されていた。実際には彼は裕福だったが、結局無料で写真を受け取った。ホワイトハウスの記者団は、ホワイトハウスで使われていない部屋の明かりを全て消すという彼の習慣に関する冗談をよく話した。ジョンソンの秘書は、彼が発泡スチロールのコップを洗って再使用していたことを後に明らかにした。
- ジョンソンは他人からの評価を非常に気にした。公民権に関する演説後に彼は32人の知人に電話を行い、演説への感想を尋ねた。
- ジョンソンの弟子のボビー・ベイカーはラスベガス、シカゴ、ルイジアナなどのマフィアと巨額の取引をしていたという。それでもジョンソンはベイカーのことを「自分が最も信頼する友人の一人」と言っていた。彼はジョンソンが上院院内総務だった頃8年間にわたり秘書を務めた。
- ジョンソン大統領図書館建設の際に、完成直前になって突然彼が「オーバルオフィスの複製が欲しい」と言い出したために、急遽屋上に大統領執務室のレプリカが作成されることになった。しかし床面積が足りず実物の8割ほどの大きさのものしか作成することが出来ないことがわかり、レディー・バード夫人が彼を説得して結局現在の形に落ち着いたといわれている。
- サインペンが世に広まったことにジョンソンは少なからず関係がある。大日本文具が「新しいペン」としてサインペンを発売したが、日本では全く売れず、アメリカに活路を求めてサンプルを配布したところ、その1本がジョンソンの手元に渡り、ジョンソンはこのペンが気に入って大量注文した。この話が伝わってアメリカで大幅に売れ行きが伸び、その勢いが日本に逆輸入されることになったのだという。
ケネディ暗殺首謀者説 [編集]
映画監督オリバー・ストーン は1992に年制作した映画『JFK』で、ジョンソンが暗殺犯マック・ウォレスを使いケネディ大統領を暗殺した首謀者であると描いた。
ジョンソンの元顧問弁護士バー・マクレランは2005年11月に『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』という著書において、ジョンソン真犯人説を発表した。
ケネディ暗殺から2時間8分後、大統領専用機エアフォース・ワンの機内で大統領就任式が行われ、夫の血に染まったピンクのスーツを着たままのジャクリーン・ケネディの隣でジョンソンは大統領就任を宣誓した。宣誓を終えたジョンソンは、カメラマンから多くの写真を撮られているが、その中の一枚にジョンソンの旧知の友であるアルバート・トーマス下院議員がジョンソンに向かってウインクし、カメラに背を向けたジョンソンの横顔がトーマスに笑いかけているように見えるものがあった。この写真は誤解を招くことを懸念して当時は一般に公開されず、後に公開された。
ジョンソン自身もケネディ暗殺の直後、エアフォース・ワンの機内で暗殺に脅えており[6]、また大統領退任後にCIAによる陰謀の可能性を示唆する等、ジョンソン黒幕説には異論も多い。
ケネディ暗殺の首謀者はジョンソンであるとの仮説は映画や著書の中で論じられてはいるが、ジョンソンが本件で刑事裁判所で有罪判決を受けたことはなく、刑事裁判所に起訴されたこともなく、司法省に告訴されたこともなく、ケネディ大統領の遺族から民事裁判所に提訴されたこともない。ジョンソンが本件に関して、ウォーターゲート事件における、ニクソン大統領や、ニクソン大統領の側近や、実行犯のように、連邦議会に証人喚問され、連邦議会議員からの尋問や、連邦議会議員の証拠調べにより、ジョンソンが首謀者であるとの仮説が証明されたこともない。ジョンソン首謀者説は、刑事裁判所や民事裁判所や連邦議会のような公的な場所で、事実と認定されたことはなく、真偽を検証されたこともなく、ジョンソンの死後に発表された、私人による仮説にとどまっている。
ジョンソン黒幕説の根拠は、指紋の一致という物証である。暗殺現場そばのテキサス教科書倉庫ビル6階窓際のダンボールに、オズワルドとは別の指紋が、暗殺直後の現場検証で1個発見されていた。その指紋と、1990年代後半に情報公開されたジョンソンの長年の手下で前科者のマック ウォレスの指紋との一致が、元ダラス市警鑑識課のA. Nathan Darbyによって確認された。 ジョンソン副大統領は、地元テキサスで政治資金を得るために数々の汚職に手を染めてきた。その汚職を追及したのがケネディ兄弟とテキサス州の検事総長だった。副大統領職を追われ政治生命を絶たれる危機を感じたジョンソンは、ケネディ大統領暗殺事件の黒幕の一人となった。 また、ジョンソンは、自らが関わった別の殺人事件の大陪審で起訴の必要有りと認定されている。しかし、本人が既に死亡しているので小陪審での審理には移されなかったのである。『ケネディを殺した副大統領―その血と金と権力』(バー マクレラン著)、『JFK暗殺―40年目の衝撃の証言』(ウィリアム レモン著)
補注 [編集]
- ^ このときジョンソンの乗機を攻撃したのは大空のサムライの異名を取った撃墜王・坂井三郎海軍少佐らの所属する台南航空隊零式艦上戦闘機隊だった。後年、アメリカで講演する坂井三郎に「あの時ジョンソンを撃墜していれば、戦後の米国人は苦労しなかった」と冗談を言う聴衆もいたという(『次席将校』 p.16)。
- ^ 『外交』ヘンリー・キッシンジャー著 1996年 日本経済新聞社』
- ^ 『ランド世界を支配した研究所』アレックス・アベラ著 2008年 文藝春秋
- ^ 「クロンカイトの世界」ウォルター・クロンカイト著 浅野輔訳(TBSブリタニカ 1999年)
- ^ なお、歴史資料では死者を出していないトンキン湾事件は大きく扱われる一方で、多くの死者を出したアメリカ軍基地爆破事件は殆ど触れていない
- ^ エアフォース・ワンの運用責任者だったマクヒュー空軍准将(Godfrey T. McHugh)によると、リンドン・B・ジョンソンは就任宣誓の前に機内のトイレで「殺される。これは陰謀だ。みんなやられる。(They're going to get us all. It's a plot. It's a plot. It's going to get us all.)」と喚いていた(共同通信 2009年11月03日、Steven Gillon The Kennedy Assassination 24 Hours After: Lyndon B. Johnson's Pivotal First Day as President)。
参考文献 [編集]
- 松永市郎 『次席将校 『先任将校』アメリカを行く』 光人社、1991年4月。ISBN 4-7698-0556-x。
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
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