リンドン・ジョンソン

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リンドン・ジョンソン
Lyndon Johnson
37 Lyndon Johnson 3x4.jpg

任期 1963年11月22日1969年1月20日
副大統領 不在(〜1965年1月20日)
ヒューバート・H・ハンフリー

任期 1961年1月20日1963年11月22日
元首 ジョン・F・ケネディ

出生 1908年8月27日
アメリカ合衆国の旗 テキサス州ストーンウォール
死去 1973年1月22日(満64歳没)
アメリカ合衆国の旗 テキサス州ジョンソンシティ
政党 民主党
配偶者 レディ・バード・ジョンソン
署名 Lyndon B. Johnson signature 2.svg

リンドン・ベインズ・ジョンソンLyndon Baines Johnson1908年8月27日 - 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国政治家下院議員、上院議員、第37代副大統領、第36代大統領を歴任した。民主党ケネディ政権の副大統領を務め、ケネディが暗殺されると大統領に昇格、政権を引き継いだ。リベラルとして知られたケネディに対して、南部テキサス州出身のジョンソンは民主党の中では保守派と評されていたが、大統領就任にあたって掲げた貧困撲滅と公民権の確立を骨子とする「偉大な社会(Great Society) 政策は、非常にリベラル色の強いものであった。

政権初期には、公民権法の早期成立に向けて議会をまとめることに主導的役割を果たし、議会との関係が円滑でなかったケネディに比べて巧みな議会工作で可決させた[1]。その他にも内政においては達成した政治課題が多く、ジョンソン政権は同じ民主党のルーズベルト政権と並んで「大きな政府」による社会福祉や教育制度改革、人権擁護を積極的に推進した政権となった。しかし外交では、ケネディ政権から引き継いだベトナム戦争への軍事介入を拡大させ、国内に激しい反戦運動と世論の分裂をもたらした。

現職として臨んだ1964年の大統領選では、ケネディへの同情票と昇格後1年間のジョンソン政権の成果を評価する票に加え、共和党候補を超保守・極右と位置づけることにより中間層の票も取りまとめ、歴史的な大勝を果たした。しかし大統領選挙当選後、ベトナム戦争の泥沼にはまって身動きが取れなくなり、次の1968年の大統領選では再選どころか民主党大統領候補の指名を受けることが難しい状況に追い込まれて、1968年3月31日、全米に向けた大統領声明でそれまでのベトナム政策の劇的な転換を発表すると同時に大統領選再出馬をしないことを表明、自らの政治生命に幕を引いた。

生い立ち[編集]

リンドン・ベインズ・ジョンソンは、1908年8月27日にテキサス州中央部のテキサス・ヒル・カントリーと呼ばれる地域にある農村、ストーンウォールで生まれた。彼の両親サミュエル・ジョンソンとリベカ・ベインズは、貧しい地域で農場を所有しており、彼らには更に4人の子供がいた。妹のリベカ、兄弟のジョセファ、サム・ヒューストン、ルシア。リンドン・ジョンソンは幼年期を通じて公立学校に通い、1924年にジョンソンシティー高校を卒業した。

1927年には、南西テキサス州教員養成大学(現:テキサス州立大学サンマルコス校)に入学した。校内活動や学校新聞の作成に参加し、苦労しながらも1931年に卒業した。なお在学中に1年休学し、テキサス州の貧しいメキシコ系移民の生徒が通う学校で教師見習いを務めている。

政治家へ[編集]

テキサス州第10下院議員選挙区の補選に出馬したジョンソン(右)の支援に訪れたフランクリン・ルーズベルト(左)

ジョンソンは大学を卒業した後、ヒューストン高校で演説および討論を教えた。しかしながらすぐ教職を辞め、父親の力を借りて政治の世界に入った。ジョンソンの父は、テキサス州議会で5期勤めており、後に連邦下院議長となるテキサス州選出下院議員サム・レイバーンとは親しい友人だった。以後サム・レイバーンはジョンソンの政治指南役として彼に影響を与え、大統領になった後まで続いた。1931年にジョンソンはウェリー・ホプキンス州議会議員の連邦下院議員選挙に協力し、ホプキンスはその労に報いてジョンソンをリチャード・ケルバーグに紹介、推薦した。これによりジョンソンはケルバーグの立法秘書官となり、ワシントン立法補佐グループの議長の座を与えられた。

秘書としてのジョンソンは数々の影響力を持つ人々と知り合い、彼らがどのようにその地位に達したか、いかにして尊敬を集めているかといったことを学んだ。またルーズベルト政権の主要人物数人ともパイプを持ち、当時副大統領だったジョン・ナンス・ガーナーとは同じテキサス州出身で、その後相談役としてジョンソンを支えていくこととなった。

秘書在任中、ジョンソンはテキサス出身のクローディア・アルタ・テーラーと出逢い、数度のデートの後、1934年11月17日に結婚した。これが後にレディ・バード・ジョンソンとして知られるようになるジョンソンの愛妻である。夫妻には、1944年に長女のリンダ・バードが、1947年には次女のルーシー・ベインズが生まれている。

1935年にはテキサス州青年局長に就任し、政府が若い人々のために教育の充実と雇用の拡大をするよう尽力した。この活動によってジョンソンは政治的後援を構築することができた。ジョンソンはとてもタフな上司として部下の間では有名だった。彼は2年間青年局長を務め、議会選挙へ出馬するために辞職した。

1937年にジョンソンはオースティン及び周辺町村を含むテキサス州第10下院議員選挙区の補選に出馬した。彼は妻の大きな支援を受けながら、ニューディール政策の推進を政治要綱に掲げ、選挙活動を繰り広げた。

ジョンソンが当選すると、フランクリン・ルーズベルトはこの若いテキサス人に関心を示し、新人議員にとって非常に重要な意味を持つ海軍事務委員会の委員にジョンソンを指定した。下院議員としてジョンソンはまた、主に自身の選挙区の田舎に電化をもたらすことをはじめとした様々な地元発展のため奔走した。

1941年にジョンソンは上院の補選に出馬し、現職のテキサス州知事でラジオパーソナリティのW・リー “パピー” オダニエルと議席を争った。この有名な州知事を前にジョンソンは全く歯が立たないと予想されたが、力強い選挙活動を展開し、開票速報はジョンソンの当確を報じた。しかし最終的に両陣営ともに大規模な選挙違反があったことが発覚、ジョンソンは落選した。

第二次世界大戦[編集]

海軍少佐の制服に身を包んだジョンソン下院議員(1942年)

上院補選の選挙運動の終盤において、ジョンソンはもし戦争が始まったら招集に応じて戦地に赴き敵と戦うという、言わば議会そっちのけの公約を掲げてその議会の上院の議席を狙っていた。程なくして1941年12月にアメリカは第二次世界大戦に参戦した。大戦中ジョンソンは海軍少佐として従軍し、銀星章、アジア太平洋従軍記章および第二次世界大戦戦勝記念章を受章した。しかし戦後になって銀星章受章の背景には極めて政治的な目論見があったことが臆測されるようになった。

1940年6月20日、初の平時の徴兵を行うための法案が議会に提出された時、予備役海軍少佐だったジョンソンは自身の招集を免除する約束を取り付けた上でこの法案に同意した。ところが翌年アメリカが大戦に参戦すると、一転して海軍省次官ジェームズ・フォレスタルに自分を非戦闘員として配置するよう求め、テキサスと西海岸の造船工廠の検査役となった。

1942年春ごろになると、地元選挙区の有権者たちはジョンソンに戦地での活躍を望むようになっていた。あの上院補選のときに時勢に迎合して唱えた選挙公約が仇となったのである。そこでジョンソンはルーズベルトに、今度はより戦闘地帯に近い戦地に自らを配置にするよう求めた。折から、情報が軍の指揮系統を経由するうちに歪曲されることに頭を悩ませていたルーズベルトは、南西太平洋地域で政治家による生の信頼できる情報を得たいと考えていた。そしてフォレスタルの提案により、ルーズベルトはジョンソンを南西太平洋の偵察隊に配置した。ジョンソンはオーストラリアメルボルンで司令長官ダグラス・マッカーサーと会合し、第22爆撃隊に配属された。偵察目標はニューギニア島にある日本海軍のラエ飛行場だった。司令官は外部の偵察員などかえって足手まといだと感じていたが、ジョンソンはその必要性を強く主張した。

1942年6月9日、ニューギニア付近のポートモレスビーおよびサラマヌアで勇気ある行動を見せた。南西太平洋地域の情報活動任務の間、ジョンソンは戦闘条件の直接情報を得るために、ニューギニアの敵空域に関する危険な空中戦使命を帯びた観察者として志願した。ジョンソンの搭乗するB-26マローダー爆撃機とともに偵察活動に出た部隊が日本軍の攻撃を受けているが、ジョンソンの搭乗機はその前にエンジントラブルで引き返しており、議員の安全を優先させたためか、爆弾も投下せず、戦闘には参加していなかった[2]。マッカーサーはジョンソンと生き残った偵察員に最高位から3番目に位置する銀星章を授与した。帰国後、ジョンソンは「我々の軍用機は日本の戦闘機にはるかに劣っていた」「士気は高くなかった」などと報告し、海軍に大きな権力を持つジョンソンを委員長とする小委員会を議会に承認させた。しかしその活動内容は非難を浴びたため、ルーズベルトは軍務に就く国会議員を議会に戻すことを命じた。

上院議員[編集]

1948年にジョンソンは再び上院選に挑戦、このときは晴れて当選した。ジョンソンはその圧勝により「地滑りリンドン」と呼ばれた。上院では軍事委員会の委員に指名され、1950年の後半には調査小委員会の結成に貢献した。ジョンソンは結局その委員長となり、防衛費と予算効率の多くの調査を行った。これらの調査の結果によりジョンソンは他の議員の尊敬と共に全国的な注目を集めた。

上院議員として数年の活動後にジョンソンはリーダーシップを得、1953年には少数党院内総務に選出された。ジョンソンの最初の活動は委員会への選出から年功制を取り除くことであった。1954年にジョンソンは上院議員に再選され、民主党は上院で多数派となりジョンソンは多数党院内総務となった。

1960年大統領選挙[編集]

ジョンソンの上院院内総務としての実績は、1960年大統領選挙で民主党における有力な大統領候補とみなされることになった。しかしこの年3月のニューハンプシャー州の予備選から勝ち上がってきたマサチューセッツ州の上院議員、ジョン・F・ケネディに獲得した代議員数で差をつけられて、またジョンソン自身の立候補宣言が遅すぎたこともあって7月の民主党大会で彼は409票を得たが、その倍近い806票を得たケネディが民主党大統領候補に選出された。そして民主党大会の最終日にケネディが副大統領候補に指名したのは対立候補であったジョンソンであった。

リベラルな北部出身のケネディがジョンソンを副大統領候補に指名したのは、南部テキサス州出身のジョンソンと組むことで、南部の保守票を獲得することにあった。これは当時も現在も正副大統領の組み合わせで南北のバランスを取ることは普通のことであった。しかし副大統領は通常大統領の補佐であって、政権内部でリーダーシップを取ることはなく、この時ジョンソンの政治指南役で同じテキサス州のサム・レイバーン下院議長は副大統領候補を受諾したジョンソンに失望したとされ、フランクリン・ルーズベルト大統領時代に副大統領を務めた同じくテキサス州出身のジョン・ナンス・ガーナーは「副大統領なんぞ、たんつぼほどの値打ちもない」とジョンソンに語っている。[3][4]

同年11月、民主党のケネディ=ジョンソンは小差で共和党のニクソンロッジに勝利して、トルーマン大統領以来8年ぶりに民主党の大統領が誕生することとなった。

副大統領[編集]

NASAで演説を行うケネディ(壇上)、その横にジョンソン

1961年1月に大統領就任後のケネディは、人種差別問題に関心の深いジョンソン副大統領を大統領雇用機会均等委員会の委員長に任命した。そのほかにも副大統領としてジョンソンはいくつかの執務を無難にこなした。内政についてはもともとニューディーラーであった彼の見識の深さはやがて大統領になってから発揮されたが、外交について見識を深めることは無かった。

ベトナム情勢の悪化が進む中でケネディ政権は、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定、ケネディはジョンソンと国防長官ロバート・マクナマラ1961年にベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」として早急な支援を訴え[5]、マクナマラも「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる数値が示している」と報告し[6]、ケネディの決定を支持した。

しかし副大統領在任中はケネディ兄弟の高い人気の陰に隠れて、典型的な「外交儀礼用の副大統領」に終始し、ワシントン政界では「ほとんど何でもない男」であった。そして1963年10月31日の大統領記者会見で「来年の大統領選挙で、副大統領候補はジョンソンとお考えですか?」という記者の質問に対してケネディは「その通り、答えはイエスです」と答えている[7]。翌日のある新聞には「ジョンソンの首がつながった」という露骨な表現まで現れて、まさに大統領の胸三寸で副大統領の首がすげ替えられる訳で、ジョンソンにとっては忍耐の日々であった。

大統領[編集]

機内で大統領宣誓するジョンソン。隣はジャクリーン・ケネディ

1963年11月にケネディとジョンソンが副大統領の地元であるテキサス州を遊説することとなったのは、翌年の大統領選挙を前に人種差別問題へのケネディの強硬な姿勢と公民権法案を議会に提出したことで政権に反感を抱く保守層が強い南部諸州の中でテキサス州だけはどうしても勝たなければならないと考えたケネディが、1年後を見据えたうえでテキサス州を最初の遊説に選んだのが発端であった。11月21日、最初の遊説地サンアントニオとフォートワースを訪ねて後、翌日11月22日12時前にダラスラブフィールド空港に到着しダラス市内をパレードして、大統領夫妻の乗った車の2台後から副大統領の車が進んで行った。ここで2発の銃弾を受けて大統領がオープンカーの後部座席で崩れるように倒れて、ケネディ大統領は死亡した[8]

ケネディが暗殺されると、同行して難を免れたジョンソンは、パークランド病院からシークレット・サービスに警護されて、すぐにダラス・ラブフィールド空港に駐機していた大統領専用機エアフォース・ワンに向かい、大統領専用通話でトルーマン、アイゼンハウアー元大統領に連絡して協力を要請し機内でただちに大統領宣誓を行い、第36代アメリカ大統領に就任した[9]。  

「エアフォースワン」とは大統領が搭乗する専用機に振られるコードネームであり、副大統領が搭乗する飛行機は「エアフォースツー」であるが、この時はケネデイ大統領が乗っていた飛行機にジョンソンが乗って大統領宣誓式を行い、生死を分けた「2人の大統領」が乗った「エアフォースワン」であった。ジョンソンは一家の友人でもあった連邦判事サラ・ヒューズを前に宣誓を行ったが、女性に宣誓した大統領はこのジョンソンが初めて、また聖書ではなくカトリックのミサ典書に手を置いて宣誓したのも初めてだった。大統領暗殺により副大統領から大統領に昇格したのは1901年にマッキンリー大統領暗殺事件セオドア・ルーズベルトが昇格して以来で、病死を含めて昇格した大統領としてはトルーマン以来史上7人目であった。

 

ジョンソンはワシントンに戻ってすぐに、各閣僚と個別に会議を行い大統領就任直後から精力的に執務を取った。ケネディが任命した閣僚の多くはケネディの友人や個人的な繋がりのある知人だったため、それまでは歴代副大統領の例にもれず蚊帳の外におかれていたジョンソンであったので、大統領暗殺直後で国内も緊迫した事態の中、早急に各閣僚との意思疎通をすぐに円滑にできるようにした[10]。一部にケネデイ時代の閣僚からより自身に忠実であることが期待できる者に漸次入れ替えていったという話があるが、政権の閣僚一覧を見れば解るように、ラスク国務長官、ユードル内務長官、フリーマン農務長官は結局ジョンソン大統領の任期期間中も執務を全うしている。ケネデイに迎えられたマクナマラ国防長官もジョンソン政権末期まで以後4年間留任しており、政権中枢はケネデイ大統領の時のメンバーを変えている訳ではない。また特にジョンソンが苦手とされた外交や国防の分野で、国家安全保障担当の大統領補佐官マクジョージ・バンディや同次席補佐官ウォルト・ロストウ、国務次官ジョージ・ボール、国務次官補ウイリアム・バンディ(後に国防次官補)などはそのままジョンソン政権下でも留任した。[11]

ただしケネデイ政権の事実上のNo.2であった司法長官で弟のロバート・ケネディについては、政権の継承と浮揚には不可欠な存在と考えていたが、本人がニューヨーク州から上院議員選に出馬する意向を固めて、翌年には司法長官を辞任した。一部には1964年の大統領選挙に出馬するのではという観測があったが、議員も州知事も経験の無い彼はまず上院議員を目指して、ジョンソンの次の大統領を視野において政治活動を進めることとなった。これはジョンソンにとってはまず一安心であった。しかし皮肉にも4年後ベトナム戦争に対する非難が渦巻く中で、ジョンソンに再出馬を断念させたのはロバート・ケネデイであった。

ケネデイ暗殺の翌年1964年大統領選でジョンソンは共和党のバリー・ゴールドウォーターを歴史的大差で破った。こうして選挙で選ばれた大統領として、以後ジョンソンはケネディ政権からの脱却を志向するようになる。すでに1964年半ばにベトナム情勢が悪化する中で、ケネデイとは違う方向へ舵を切っていた。

内閣[編集]

職名 氏名 在任
大統領 リンドン・ベインズ・ジョンソン 1963–1969
副大統領 不在 1963–1965
ヒューバート・ホレイショー・ハンフリー 1965–1969
国務長官 デイヴィッド・ディーン・ラスク 1961–1969
財務長官 クラレンス・ダグラス・ディロン 1961–1965
  ヘンリー・ハミル・ファウラー 1965–1968
  ジョーゼフ・ウォーカー・バー 1968–1969
国防長官 ロバート・ストレンジ・マクナマラ 1961–1968
  クラーク・マクアダムス・クリフォード 1968–1969
司法長官 ロバート・フランシス・ケネディ 1961–1964
  ニコラス・デベルヴィル・カッツェンバック 1964–1966
  ウィリアム・ラムゼイ・クラーク 1966–1969
郵政長官 ジョン・オースティン・グロノウスキー 1963–1965
  ローレンス・フランシス・オブライエン 1965–1968
  ウィリアム・マーヴィン・ワトソン 1968–1969
内務長官 スチュワート・リー・ユードル 1961–1969
農務長官 オーヴィル・ロスロップ・フリーマン 1961–1969
商務長官 ルーサー・ハートウェル・ホッジス 1961–1965
  ジョン・トーマス・コナー 1965–1967
  アレクザンダー・ビュエル・トロウブリッジ 1967–1968
  サイラス・ロウレット・スミス 1968–1969
労働長官 ウィリアム・ウィラード・ウィルツ 1962–1967
保健教育福祉長官 アンソニー・ジョセフ・セレブレズ 1962–1965
  ジョン・ウィリアム・ガードナー 1965–1968
  ウィルバー・ジョセフ・コーエン 1968–1969
住宅都市開発長官 ロバート・クリフトン・ウィーヴァー 1966–1968
  ロバート・コールドウェル・ウッド 1969–1969
運輸長官 アラン・スチーブンソン・ボイド 1967–1969
ハンフリー副大統領とともに
ラスク国務長官とマクナマラ国防長官とともに
SEATO首脳らとともに


最高裁判所判事[編集]

公民権法[編集]

公民権法に署名するジョンソン

アメリカは「自由で平等な国」を自称してきたが、建国以来200年近くアフリカ系アメリカ人などの少数民族に対する法の上での人種差別が認められてきた。しかし第二次世界大戦中におけるアフリカ系アメリカ人兵士の活躍や、戦後間もない1950年代に入って起きたモンゴメリー・バス・ボイコット事件などをきっかけに、この様な法の上での人種差別をなくそうとする公民権運動が全米で盛り上がりを見せてきていた。ケネディ時代の1962年にアラバマ州でアフリカ系学生の州立大学への入学をめぐって、またバーミンガムの差別撤廃闘争で白人側の反撃で流血に発展して連邦軍を派遣する事態となり、1963年8月に「ワシントン大行進」が行われていた。

この様な動きに対して、人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示したジョンソンは、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、保守(人種差別主義)議員の反対に対して粘り強く議会懐柔策を進めた[12]結果、1964年7月2日公民権法に署名し、公民権に関わる訴訟には司法長官が介入することが出来て、ここに長年南部で続いてきた人種差別制度はすべて連邦法で禁止され公共施設での人種差別は全て撤廃されることになった。また翌1965年には白人側の妨害で遅れていた選挙権登録における差別をなくすための「新公民権法」も成立し連邦政府の介入で投票権の保障を強化することなどを定めて、アフリカ系アメリカ人への差別に対して積極的な姿勢を示した。

貧困との戦い[編集]

1964年1月8日、自身初めての一般教書演説で「貧困との戦い」(en:War on Poverty)を提唱して、「アメリカの貧困に対して無条件降伏を求める戦争」を宣言した[13]。また同年5月には「偉大な社会」をスローガンに掲げて、次々と国内の改革計画を打ち出した。経済機会局を設けて社会保障や福祉保険の拡大をめざした「経済機会法」、老人医療無料化を図った「医療法」、教育援助を謳った「初等・中等教育法」、家賃補助を定めた「住宅法」、これらが1965年に相次いで法整備がされて[14]、低所得者に対する公的扶助として、主に高齢者の医療費を補助するメディケア、低所得者の食費を補助するフードスタンプ、低所得者の幼児の就学を支援するヘッドスタートなどのプログラムが制度化された。この1964年から1965年にかけてジョンソンが連邦議会を動かして行った社会改革は量においてもその内容においても1933年のルーズベルト大統領の業績に匹敵するほど目覚ましいものであった[15]。しかしベトナム戦争が激化して多大な出費がかさみ、偉大な社会を築くために必要とされた支出が1966年に12億ドルで、同年にベトナム戦争に220億ドルが投入される事態となり、貧困との戦いよりもベトナムでの戦いに予算がつぎ込まれていった[16]。当時「大砲かバターか」と揶揄して、両方の戦いを行う愚かさを主張した識者もいたが、「大砲もバターも」というのがジョンソン政権の立場であった。この過大な予算支出がやがてインフレを招き、そしてドルの信認が揺らぎ、1970年代に入ってドル不安と貿易赤字と財政赤字でアメリカを悩ますこととなった。

ベトナム戦争[編集]

左からジョンソン、アメリカのウィリアム・ウェストモーランド将軍、南ベトナムのグエン・バン・チュー国家元首とグエン・カオ・キ首相(1966年10月)

第二次大戦戦後、ベトナムは南北に分断されて、北はホー・チ・ミンが率いるベトナム労働党、南はバオ・ダイ国王を退位させて大統領になったゴ・ディン・ジェム政権が対峙していた。宗主国フランスは1954年にディエンビエンフーが陥落してからベトナムから退き、代わりにアメリカが前面に立ってゴ・ディン・ジェム体制を支えて、アイゼンハワーの時代には毎年2億ドルを支援して政権の安定を図り、軍事顧問団を675名派遣していた。


1960年12月にベトコンが結成されて、南ベトナム内で次第に勢力が増大していく状況で、ゴ・ディン・ジェム政権は有効な対策を取れず、政権内部も一族が権力を独占して腐敗して特に仏教徒への弾圧も激しく、ケネディもゴ・ディン・ジェムを見限るほどに混乱していた。ケネディはアイゼンハワー時代から比べて軍事顧問団を増派して63年には16,000名余りがベトナムに駐留していた。これはもう軍事顧問ではなくケネディがベトナムでの軍事顧問の性格を変えていまった。この当時ベトナムは国内は混乱していたが戦争状態ではなく、世界中から注目されていたわけではない。63年11月にクーデターが起こり(バックにアメリカが動いていた)、ジェム大統領は弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官とともに反乱側に殺された。ケネディ暗殺事件が起こるわずか3週間前であった。

ベトナム戦争に本格介入するきっかけを作ったケネディやマクナマラは、1963年当時のゴ・ディン・ジェム政権と対立した結果、計画していたと言われる軍事顧問団の縮小政策を実施に移すことができなかったと一部で言われているが、後にニクソン政権のキッシンジャー補佐官はケネディ時代にそもそも軍事顧問団を縮小する計画は無かったと述べている。ケネディも撤退を考えていた訳ではなく、当時のドミノ理論からベトナムからの撤退はその後に他の国での共産主義勢力の伸長を招き、アメリカの権益と自由の守護神としてのアメリカの威信が傷つくと考えていた。これは暗殺後に昇格したジョンソンも同じ考えであった。しかし南ベトナムの政治の混乱はクーデター後も再びクーデターが起きて、ズオン・バン・ミンからグエン・カーン、グエン・カオ・キ、そしてグエン・バン・チューと権力者がそのたびにころころ変っていく状況であった。


1964年に入り、南ベトナムへの魚雷攻撃を行う北ベトナム軍艦艇が誤ってアメリカ海軍駆逐艦に誤爆した[17]。その数日後アメリカ軍は北ベトナムの魚雷攻撃に対応してトンキン湾事件として本格介入への口実を作り、すぐにジョンソンは議会に「トンキン湾決議」を提出して、下院では416対0で、上院では88対2で可決した。この決議で「あらゆる手段でアメリカ軍に対する攻撃を取り除く」権限が大統領に与えられた。これは実質的には大統領に戦争大権を与えたのと同じ結果を生んだ[18]

さらに翌1965年2月7日に、アメリカ軍事顧問団基地(ブレイク基地)が解放戦線によって攻撃され7名のアメリカ軍将兵が死亡し109名が負傷した[19]。これを受けてジョンソンは怒り、報復として北ベトナムへの爆撃を開始した[注 1]。但し、ジョンソンは当時北ベトナムに軍事顧問団を多数送っていたソビエト連邦や中華人民共和国との関係を考慮して、北ベトナムの基地関連施設に限定した空爆を行うに止めている。ハノイ港にはソ連の輸送船から荷揚げされた兵器もあったが、ジョンソンはソビエトや中国との全面衝突を恐れたからであるが、この結果北ベトナムにはソ連や中国からの支援が継続されることになる。

何故北ベトナムを爆撃するのか。それは「爆撃によって北ベトナムの経済をマヒさせれば、兵力の南下が不可能になりやがて平和交渉に応じてくる。」ジョンソン政権での国家安全保障担当大統領補佐官マクジョージ・バンディの読みであった[20]。後にジョンソンの後任であったニクソンは北ベトナムと交渉をしながら爆撃を行い、硬軟合わせた手段の一つとしての北爆を躊躇しなかった。しかし北ベトナムは屈しなかった。


そして65年3月8日にダナンにアメリカ軍海兵隊2個大隊が上陸して本格的な地上戦を展開することとなった。アメリカにとってのベトナム戦争はこの時から始まった。それは結局8年間続くこととなった。ジョンソンはウエストモーランド司令官の要請を受けて65年末には184,000人に増派し、サイゴンのグエン・バン・チュー政権と南ベトナム解放民族戦線(北ベトナムが支援しその背後には中ソがいた)との内戦であったベトナム戦争がアメリカのベトナム戦争となり、ベトナム全体が戦場と化した。以後トンキン湾決議に基づき全軍の最高司令官としての大統領に付与された権限を行使して、現地の最高司令官ウエストモーランドの要請に応えて小刻みに増派を繰り返し66年末に385,000人、67年末に486,000人、68年末には536,000人がベトナムの地で戦い、多くの若者が暑いジャングルの中で心身ともに傷ついていった[21]。戦死者数が66年4,000人、67年7,000人、68年は実に12,000人に達した。また1961年から1971年まで全土で散布された枯葉剤は約70,000キロリットル、72年末までに第2次大戦で米軍が使った量の3.5倍に達する爆弾総量がインドシナ半島に投下された[22]

ジョンソンがベトナムに何故これほど大規模に軍事介入するに至ったのか。それは第2次大戦の後に、東ヨーロッパや中国・朝鮮が相次いで共産主義体制が出来たように、この当時はまだ1つの国が共産化すればすぐに隣国に派生して次々に共産化することを恐れ、また自由陣営の大国としてのアメリカが世界の自由を守る守護神たる使命感を持っていたことである。必ずしも経済的利益のためではなく、冷戦の論理とドミノ理論がジョンソン政権の「最も優秀で最も聡明な人々」[23]の思考を捉えていた[24]。これがベトナムの自由を守る戦いであった。しかしそれは逆に相手国を知らなさすぎることにもなり、ジョンソンはこの時期に殆ど北ベトナムとの対話のチャンネルを持っていなかった。「北から南への侵略をやめよ」と訴えても交渉の糸口にはなり得ないもので、議会内での根回しや駆け引きはうまいが、こと外交に関してはそうではなかった。

アメリカ兵の戦死者がベトナムで増え[25]、テレビで戦場の模様が放映されるとともにジョンソンへの支持は低下した。1965年から1968年までの間、北爆やアメリカ軍兵士の増強で戦争を連続的に拡大していき、やがて多数の戦死者・戦傷者を出して、それなのに戦局が好転しないのはなぜかという疑問は、議会から、大学から、そしてテレビで戦場になったベトナムを見た多くの一般家庭のアメリカ国民から声が上がっていった。マスコミからは連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判され、それはたんなる政策の批判でなく大統領と国民との間で信頼感を持つことが出来ないギャップとして認識された。


1967年11月にそれまで北爆を推進してベトナム戦争の最高責任者であったマクナマラ国防長官が辞意を表明した。彼はその1年前に北爆を縮小するよう大統領に進言し、67年5月に解放民族戦線を含めた連立政権を受け入れるべきと主張する[26]までになったがジョンソンは却下して軍事介入路線を継続する方向に変りはなかった。そして1968年に入ると1月末の旧正月にベトコンテト攻勢[27]で首都サイゴンの中枢部まで攻撃を受けアメリカ大使館を一時占拠され、それまで芳しくない戦果であっても南ベトナムでアメリカ軍が優勢であるとの見方[28]が急速に崩れて、もはやアメリカの軍事的勝利は不可能だという認識が広まり[29]、その時までベトナム戦争を支持していた保守層からも戦争継続への不安の声が増大していった。そして2月27日にCBSのアンカーマンであるウォルター・クロンカイトからもベトナム戦争への疑問と戦況の行き詰まりが表明されるに至った。テト攻勢後、ヴェトナム派兵は誤りであったと考える人の割合が過半数を超えるようになった。逆にジョンソン大統領の戦争遂行の仕方に対する支持は26%にまで落ち込んだ。[30]


3月にマクナマラの後任として国防長官になったクリフォードはウエストモーランド司令官からの20万人の増派要求に対して国防総省内で今後の方向の検討を行ったうえで、大統領に戦争を継続しても軍事的に圧倒することは出来ないとして増派に反対して縮小に方向転換すべき旨を伝えた[31]。ジョンソンにとってはショックであると同時にここでもう一つ大きな壁にぶち当たった。


それは1968年3月12日に大統領選挙の最初の民主党予備選挙であったニューハンプシャー州ユージーン・マッカーシー候補に辛くも勝利するが、得票率は50%を割って48%、一方マッカーシー候補は42%であった。勝つには勝ったが現職大統領としては政治的敗北であった。この意外なジョンソンへの支持の弱さを見て3月16日にロバート・ケネディが急遽立候補宣言を行い、同時に世論調査でジョンソンへの支持率が最低を記録して、もはや再選の道が閉ざされかけようとしていた。

引退[編集]

次期大統領選への不出馬を表明するジョンソン

このような厳しい状況のなかでジョンソンは1968年3月31日夜にテレビ演説を行い、これまでのベトナム政策を劇的に転換し北爆を部分的に停止(完全停止は10月)して無条件で北ベトナムとの対話を呼びかけ、そして演説の最後に草稿には無かった次期大統領選挙に於いて民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。これはベトナム戦争に対する国内世論の分裂拡大をその理由に挙げて、これから任期が終わるまで国内世論の融和をはかることに大統領の職務を全うするためと説明して演説を終えた。自己のベトナム介入政策が挫折したことをこの時初めてジョンソンは認めたのである[32]。後にマクナマラが密かにまとめた「国防総省秘密報告」では、この決断が兵力をこれ以上増強しても軍事的勝利を得られないという補佐官たちの確信と、戦争政策をめぐって分裂した国民の団結を回復しなければならないという自己の深刻な決意から生まれたものだと記述されている[33]

この後、5月からパリで北ベトナムとの交渉が始まったが、任期が終わるまで実質何ら成果が上がることはなかった。そして民主党はロバート・ケネディがカリフォルニア州予備選で勝利して党大統領候補指名に王手をかけた直後に暗殺されたため、結局副大統領のハンフリーを指名したが、大統領選では共和党候補のニクソンに敗北した。1969年1月20日大統領職をニクソンにバトンタッチして、ジョンソンは政界を引退してテキサス州ジョンソンシティーへ戻った。

ニクソンはベトナムからの「名誉ある撤退」をスローガンに段階的に縮小はしていたが、北ベトナムとの交渉がようやく進むこととなったのは4年後の1972年秋からで、1973年に入ると和平交渉の動きが加速して1月27日にようやくベトナム和平協定が調印された。これはアメリカと北ベトナムとの間で停戦が実現して3月31日までに全てのアメリカ軍が撤退すること、捕虜となって北ベトナムに拘束された全てのアメリカ軍将兵が解放されることも含まれていた。しかしジョンソンはこの朗報を聞くことなく自宅で心臓発作を起こして死去した。1973年1月22日のことで、ベトナム和平協定が調印された1月27日のわずか5日前であった。ジョンソンが送り出して捕虜となった兵士がアメリカに帰ってきた時にアメリカにとってのベトナム戦争が終わった[34]。その時ジョンソンはもうこの世の人ではなかった。

逸話[編集]

  • ケネディ大統領暗殺後に昇格したジョンソン(第36代大統領)であったがおよそ100年前に、リンカーン大統領暗殺後に昇格したのもジョンソン(第17代大統領)であった。またケネディ大統領の女性秘書の名前はリンカーンであった。ちなみに南北戦争後に南部出身の政治家はなかなか大統領になれず、南北戦争後およそ100年を経てようやく実現した南部出身大統領がジョンソンであった。
  • ジョンソンの身長は6フィート3と1/2インチ(192cm)あった。これはエイブラハム・リンカーンの6フィート3と3/4インチに継ぐ高さで、2番目に背の高い大統領だった。
  • ジョンソンはテキサス州では大物政治家だったが、ワシントンではケネディ兄弟に支持率で大きく水をあけられており、副大統領どまりの地味な政治家といわれていた。
  • 1937年10月30日にテキサス州ジョンソンシティにあるジョンソンシティ・ロッジNo.561(Johnson City Lodge No.561)にてフリーメイソンに入会[35]
  • ジョンソンは倹約家で有名だった。大統領としてさえ、ホワイトハウスの録音テープには自らが貧しく巨額の負債があるため、カメラマンに無料で家族のポートレートを撮影してくれるよう頼んでいることが記録されていた。実際には彼は裕福だったが、結局無料で写真を受け取った。ホワイトハウスの記者団は、ホワイトハウスで使われていない部屋の明かりを全て消すという彼の習慣に関する冗談をよく話した。ジョンソンの秘書は、彼が発泡スチロールのコップを洗って再使用していたことを後に明らかにした。
  • ジョンソンは他人からの評価を非常に気にした。公民権に関する演説後に彼は32人の知人に電話を行い、演説への感想を尋ねた。
  • ジョンソンの弟子のボビー・ベイカーラスベガスシカゴルイジアナなどのマフィアと巨額の取引をしていたという。それでもジョンソンはベイカーのことを「自分が最も信頼する友人の一人」と言っていた。彼はジョンソンが上院院内総務だった頃8年間にわたり秘書を務めた。
  • ジョンソン大統領図書館建設の際に、完成直前になって突然彼が「オーバルオフィスの複製が欲しい」と言い出したために、急遽屋上に大統領執務室のレプリカが作成されることになった。しかし床面積が足りず実物の8割ほどの大きさのものしか作成することが出来ないことがわかり、レディー・バード夫人が彼を説得して結局現在の形に落ち着いたといわれている。
  • サインペンが世に広まったことにジョンソンは少なからず関係がある。大日本文具が「新しいペン」としてサインペンを発売したが、日本では全く売れず、アメリカに活路を求めてサンプルを配布したところ、その1本がジョンソンの手元に渡り、ジョンソンはこのペンが気に入って大量注文した。この話が伝わってアメリカで大幅に売れ行きが伸び、その勢いが日本に逆輸入されることになったのだという。

ケネディ暗殺首謀者説[編集]

映画監督オリバー・ストーン は1992年に制作した映画『JFK』で、ジョンソンが暗殺犯マック・ウォレスを使いケネディ大統領を暗殺した首謀者であると描いた。

ジョンソンの元顧問弁護士バー・マクレランは2005年11月に著書『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』において、ジョンソン真犯人説を発表した。

ケネディ暗殺から2時間8分後、大統領専用機エアフォース・ワンの機内で大統領就任式が行われ、夫の血に染まったピンクのスーツを着たままのジャクリーン・ケネディの隣で、ジョンソンは大統領就任を宣誓した。宣誓を終えたジョンソンは、カメラマンから多くの写真を撮られているが、その中の1枚にジョンソンの旧知の友であるアルバート・トーマス下院議員がジョンソンに向かってウインクし、カメラに背を向けたジョンソンの横顔がトーマスに笑いかけているように見えるものがあった。この写真は誤解を招くことを懸念して当時は一般に公開されず、後に公開された。

ジョンソン自身もケネディ暗殺の直後、エアフォース・ワンの機内で暗殺に脅えており[注 2]、また大統領退任後にCIAによる陰謀の可能性を示唆するなど、ジョンソン黒幕説には異論も多い。

ケネディ暗殺の首謀者はジョンソンであるとの仮説は映画や著書の中で論じられてはいるが、ジョンソンが本件で刑事裁判所で有罪判決を受けたことはなく、刑事裁判所に起訴されたこともなく、司法省に告訴されたこともなく、ケネディ大統領の遺族から民事裁判所に提訴されたこともない。本件に関して、ウォーターゲート事件におけるニクソン大統領や大統領の側近、また実行犯のように、連邦議会に証人喚問され、連邦議会議員からの尋問や証拠調べにより、ジョンソンが首謀者であるとの仮説が証明されたこともない。ジョンソン首謀者説は、刑事裁判所や民事裁判所や連邦議会のような公的な場所で、事実と認定されたことはなく、真偽を検証されたこともなく、ジョンソンの死後に発表された、私人による仮説にとどまっている。

仮説[編集]

以下の仮説は、バー・マクレラン著『ケネディを殺した副大統領―その血と金と権力』、ウィリアム・レモン著『JFK暗殺―40年目の衝撃の証言』による。

ジョンソン黒幕説の根拠は、指紋の一致という物証である。暗殺現場そばのテキサス教科書倉庫ビル6階窓際のダンボールに、オズワルドとは別の指紋が、暗殺直後の現場検証で1個発見されていた。その指紋は、永らく誰のものか不明だった。しかし、1990年代後半になって情報公開されたジョンソンの長年の手下で前科者のマック ウォレスの指紋と一致することが、元ダラス市警鑑識課のA. ネイサン ダービー(A. Nathan Darby)によって確認された。
実は、ジョンソン副大統領は、地元テキサスで政治資金を得るために数々の汚職に手を染めてきたのである。その汚職を追及したのがケネディ兄弟とテキサス州の検事総長だった。副大統領職を追われ政治生命を絶たれる危機を感じたジョンソンは、ケネディ大統領暗殺事件の黒幕の一人となった。またジョンソンは、自らが関わった別の殺人事件の大陪審で起訴の必要ありと認定されている。しかし、ジョンソン本人が既に死亡しているので小陪審での審理には移されなかったのである。

補注[編集]

  1. ^ なお、歴史資料では死者を出していないトンキン湾事件は大きく扱われる一方で、多くの死者を出したアメリカ軍基地爆破事件は殆ど触れていない
  2. ^ エアフォース・ワンの運用責任者だったマクヒュー (Godfrey T. McHugh)空軍准将によると、ジョンソンは就任宣誓の前に機内のトイレで「殺される。これは陰謀だ。みんなやられる。(They're going to get us all. It's a plot. It's a plot. It's going to get us all.)」と喚いていた[36]

出典[編集]

  1. ^ 「現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~」90~91P 砂田一郎著 1981年11月発行
  2. ^ 『零戦の秘術』p344
  3. ^ 「ケネディ暗殺事件~その背景と真実~」84p 《ホワイトハウスのテキサン》 仲晃 著 弘文堂
  4. ^ このジョンソンを副大統領候補に指名した経緯については明らかになっていない。弟のロバートはジョンソン嫌いであったことは有名で、このことでケネディ暗殺後にジョンソン政権に残ることを潔しとしなかった。また指名しても受諾しないだろうとジョンが予測した上で礼儀的に対立候補に打診したら予想外に受け入れてしまったという説もあるが、父親のジョセフ・パトリック・ケネディがやはりテキサスを味方につけることでジョンソンを副大統領に強く推したというのが定説になっている。「ジョン・F・ケネディ」134P ギャレス・ジェンキンズ著 原書房
  5. ^ 『外交』ヘンリー・キッシンジャー著 1996年 日本経済新聞社』
  6. ^ 『ランド世界を支配した研究所』アレックス・アベラ著 2008年 文藝春秋
  7. ^ 「ケネディ暗殺事件~その背景と真実~」83p 《ホワイトハウスのテキサン》 仲晃 著 弘文堂
  8. ^ 「ケネディ暗殺事件~その背景と真実~」36~39P ≪血塗られた日≫ 仲晃 著 弘文堂
  9. ^ 「ケネディ暗殺事件~その背景と真実~」90~92p 《ホワイトハウスのテキサン》 仲晃 著 弘文堂
  10. ^ 「ケネディ暗殺事件~その背景と真実~」94~95p 《ホワイトハウスのテキサン》 仲晃 著 弘文堂
  11. ^ 後にラスクとマクナマラ以下のメンバーは「ベストアンドブライテスト」《最も優秀で最も聡明な人々》と呼ばれて、ベトナム戦争を遂行し失敗したメンバーであった。「ベスト&ブライテスト」デイヴィッド・ハルバースタム著 朝日文庫
  12. ^ 「クロンカイトの世界」ウォルター・クロンカイト著 浅野輔訳(TBSブリタニカ 1999年)
  13. ^ 「現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~」91P 
  14. ^ 「アメリカ合衆国の歴史」239P 野村達朗 編 島田真杉 著 ミネルヴァ書房
  15. ^ 「現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~」96P 
  16. ^ 「アメリカ 自由と変革の軌跡」282P デイビッド・ルー著 日本経済新聞出版社
  17. ^ 後にすべてアメリカ側が作ったウソであったとされたが、実際は2回あった攻撃の最初の1回目は事実で北ベトナムからの誤爆であり、2回目の攻撃はアメリカ側の作り話であった。
  18. ^ 「アメリカ20世紀史」229P 秋元英一・菅英輝 著 2003年10月発行
  19. ^ 「アメリカ20世紀史」229P 秋元英一・菅英輝 著 2003年10月発行
  20. ^ 「アメリカ 自由と変革の軌跡」285P デイビッド・ルー著 日本経済新聞出版社
  21. ^ 「アメリカ20世紀史」230P 秋元英一・菅英輝 著 2003年10月発行
  22. ^ 「アメリカ20世紀史」231P 秋元英一・菅英輝 著 2003年10月発行
  23. ^ デイビッド・ハルバースタムが後にベトナム戦争を書いた著書「ベスト&ブライテスト」の書名。ラスク国務長官、マクナマラ国防長官を始め、マクジョージ・バンディ、ウオルト・ロストウ、ジョージ・ボール、ウイリアム・バンディらを指す
  24. ^ 「アメリカ20世紀史」231P 秋元英一・菅英輝 著 2003年10月発行
  25. ^ 1968年には1週間のベトナムにおける米兵の死者が約250人に達して、勝利の展望の無い長期戦になって大きな出血を強いられている事実が次第に明らかになって早期終結を望む声が大きくなった。「現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~」113P 
  26. ^ 「現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~」113P 
  27. ^ このテト攻勢について軍事的にはアメリカが圧倒して南ベトナム解放民族戦線側の死者が4万人にのぼり解放民族戦線の方が敗れているとの見方もあるが、個々の戦闘の勝敗よりもサイゴンの中枢を襲いアメリカ大使館を一時占拠したこと自体が、それまでアメリカの一般国民が抱いていたベトナム戦争のイメージを覆し、急速に幻滅と悲観論が広がった。また政治的には大統領選挙の予備選挙が始まるタイミングで衝撃を与えて、結果アメリカの国内で地殻変動を起こしてベトナム戦争が大きなテーマになったことは政治的に極めて大きなものであった。
  28. ^ ウォルター・クロンカイト自身もそれまで「我々は戦争に勝利しつつあると思っていた」と語っている。「アメリカ20世紀史」232P 秋元英一・菅英輝 著 2003年10月発行
  29. ^ 「現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~」115P
  30. ^ 「アメリカ20世紀史」232P 秋元英一・菅英輝 著 2003年10月発行
  31. ^ 実際には20万人の増派要求に対して2万人の増派を行った。しかしこれはもういくら増派しても問題の解決にならないことを示しており、今後は南べトナム軍により大きい戦争遂行の責任を持たすことを要求したものであった。これがべトナム戦争のべトナム化の始まりであった。またその背景として増派が財政を圧迫して1967年秋頃から財政危機に見舞われて、それが為替相場でのドル危機を招き、この1968年3月第1週に金準備が3億ドル減少して、さらに第2週に再び3億ドル以上が流出することとなり(この問題は3年後のニクソンショックの原因であった)、またこのべトナム戦争の過大出費が国内の「偉大な社会」政策を直撃していて、もはや増税なしには増派できず、金融危機が発生する可能性も予想される事態にいたっていた。
  32. ^ 「現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~」116P
  33. ^ 「現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~」116P
  34. ^ ニクソン大統領は3月29日にアメリカのベトナム戦争終結宣言を行っている。
  35. ^ The Grand Lodge of Free and Accepted Masons of Pennsylvania. 2013年5月3日閲覧。
  36. ^ 共同通信 2009年11月03日、Steven Gillon The Kennedy Assassination 24 Hours After: Lyndon B. Johnson's Pivotal First Day as President

参考文献[編集]

  • 松永市郎 『次席将校 『先任将校』アメリカを行く』 光人社、1991年4月。ISBN 4-7698-0556-x
  • 「アメリカ20世紀史」 秋元英一・菅英輝 著 2003年10月発行
  • 「現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~」 砂田一郎 著 1981年11月発行
  • 「ケネディ暗殺事件~その背景と真実~」《ホワイトハウスのテキサン》 仲晃 著 弘文堂
  • 「アメリカ 自由と変革の軌跡」 デイビッド・ルー著 日本経済新聞出版社
  • 「アメリカ合衆国の歴史」 野村達朗 編 島田真杉 著 ミネルヴァ書房
  • 「ベスト&ブライテスト」デイヴィッド・ハルバースタム著 朝日文庫
  • 「クロンカイトの世界」ウォルター・クロンカイト著 浅野輔訳(TBSブリタニカ 1999年)


関連項目[編集]

外部リンク[編集]


先代:
スタイルズ・ブリッジズ
上院少数党院内総務
1953 - 1955
次代:
ウィリアム・ノーランド
先代:
ウィリアム・ノーランド
上院多数党院内総務
1955 - 1961
次代:
マイケル・マンスフィールド
先代:
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アメリカ合衆国副大統領
1961 - 1963
次代:
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先代:
ジョン・ケネディ
アメリカ合衆国大統領
1963 - 1969
次代:
リチャード・ニクソン