サーグッド・マーシャル

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サーグッド・マーシャル

サーグッド・マーシャル(Thurgood Marshall, 1908年7月2日 - 1993年1月24日)は、アメリカ合衆国アフリカ系アメリカ人初の最高裁判所判事

経歴[編集]

1908年7月2日にメリーランド州ボルチモアで生まれた。彼の祖父は奴隷だった。

1930年、マーシャルはリンカーン大学を卒業した。卒業後、彼はメリーランド大学法科大学院に入学を志望した。しかし、白人と有色人種の分離政策のため学校側から受入れ拒否をされた。そこで、代わりにワシントンD.C.にあるハワード大学に入学する。在学中の彼は、チャールズ・ハミルトン・ヒューストン学部長に大きな影響を受けたとされている。マーシャルは、憲法のもとにおける平等という信条を全てのアメリカ人に実現したいという願望をもつようになる。また彼は、アフリカ系アメリカ人学生により1906年に創設されたフラタニティAlpha Phi Alpha」のメンバーにもなった。

1933年、マーシャルはハワード大学から法律学位を受領し、ボルチモアで個人法律事務所を開業した。そして翌1934年、彼はボルチモアの「全米黒人地位向上協会(NAACP:National Association for the Advancement of Colored People)」で働き始めた。彼が手がけた最初の大きな市民権事例には「マレイ対ピアソン訴訟」がある。この訴訟は、ドナルドゲインズ・マレイという黒人学校卒業生が、分離平等政策のためメリーランド大学法学校大学への入学を許されなかったというもの。州と争い、彼は全面的勝訴した。とともにこの判決が道徳的判決の先例にもなった。

マーシャルは32歳でNAACPの首席弁護人に任命された。その後の彼は32の裁判のうち29の裁判で勝訴するというほど活躍する。その中には、かの有名な「ブラウン対教育委員会裁判」がある。

ブラウン対教育委員会裁判こそが人種統合公民権運動への道を開いたとされる裁判であり、この裁判によって、法律上の全ての人種差別アメリカ合衆国憲法修正第14条(法の下における平等保護条項)に違反する、ことが判例として確立することとなった。そしてこの判決(ブラウン判決)によって、1896年の「プレッシー対ファーガソン裁判」における「分離すれど平等英語版」という先例を覆した。

1967年6月13日リンドン・B・ジョンソン大統領は、マーシャルを最高裁判所判事に任命。同年8月30日上院が承認。10月2日、宣誓して就任。これは、96番目にして初めての、アフリカ系黒人最高裁判所判事の誕生だった。

1991年、引退を発表。1993年1月24日、午後2時にメリーランド州にあるベセズダ海軍病院で心臓麻痺により死去した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]