ウィリアム・デイ

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ウィリアム・デイ

ウィリアム・ルーファス・デイ(William Rufus Day, 1849年4月17日 - 1923年7月9日)は、アメリカ合衆国政治家外交官裁判官1898年4月から9月までウィリアム・マッキンリー大統領の下で第36代アメリカ合衆国国務長官を務めた。

生涯[編集]

1849年4月17日、デイはオハイオ州ラヴェンナにおいて誕生した。デイは1866年にラヴェンナ高校を卒業し、1870年ミシガン大学を卒業した。デイは1871年までミシガン大学法学部で過ごし、法律を学んだ。デイは1872年に弁護士として認可を受け、オハイオ州カントンで弁護士業を開業した。

デイは共和党政治に参加し、ウィリアム・マッキンリーの親しい友人となった。デイは25年間にわたって、新興工業都市での刑事法や会社法を専門に扱った。デイはマッキンリーの法律および政治顧問として、マッキンリーの合衆国下院議員、オハイオ州知事、そして合衆国大統領への選出に貢献した。

デイは1886年から1890年まで民事訴訟裁判所裁判官を務めた。デイは1889年にオハイオ州北地区の合衆国地方裁判所裁判官に任命されたが、健康的理由により着任前に退いた。

1897年、マッキンリーが合衆国大統領に選出されると、デイは国務次官補に任命された。同時にジョン・シャーマン国務長官に任ぜられたが、間もなくマッキンリーはシャーマンが自らの政権に適合しないと判断して1898年4月に更迭し、直ちにデイを後任の国務長官に据えた。

米西戦争が開戦すると、デイはスペインの植民地のうちキューバ以外はすべて、スペインによって管理されるべきであると主張した。だが最終的にデイは和平のため、マッキンリーの強硬な条件を受け入れた。デイは国務長官として、米西戦争においてスペイン以外の西ヨーロッパ諸国が中立であることを担保した。1898年8月、デイはスペインとの一時停戦協定に調印した。

デイは1898年9月に国務長官を退き、合衆国の和平委員会で議長となった。デイはスペインとの講和を協議した。そして1898年12月、デイはフランスパリに赴き、スペインとパリ条約を調印した。

デイは1899年2月から1903年2月まで合衆国第6巡回区控訴裁判所裁判官を務めた。1903年3月から1922年11月まで合衆国最高裁判所陪席裁判官を務めた。

1923年7月9日、デイはミシガン州マッキノー島で死去した。デイの遺体はオハイオ州カントンのウェスト・ローン墓地に埋葬された。

外部リンク[編集]

公職
先代:
ウィリアム・ウッドヴィル・ロックヒル
アメリカ合衆国国務次官補
1897年5月3日 - 1898年4月27日
次代:
ジョン・バセット・ムーア
先代:
ジョン・シャーマン
アメリカ合衆国国務長官
1898年4月28日 - 1898年9月16日
次代:
ジョン・ヘイ
先代:
-
アメリカ合衆国第6巡回区控訴裁判所裁判官
1899年2月28日 - 1903年2月23日
次代:
ジョン・ケルヴィー・リチャーズ
先代:
ジョージ・シラス
アメリカ合衆国最高裁判所陪席裁判官
1903年3月2日 - 1922年11月13日
次代:
ピアス・バトラー