ジョー・バイデン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ジョー・バイデン
Joe Biden
Biden 2013.jpg

任期 2009年1月20日
元首 バラク・オバマ大統領

任期 1973年1月3日2009年1月15日

出生 1942年11月20日(72歳)
アメリカ合衆国の旗 ペンシルベニア州スクラントン
政党 民主党
配偶者 ネイリア・ハンター(1966-1972、死別)
ジル・トレーシー・ジェイコブズ(1977-)

ジョセフ・ロビネット “ジョー” バイデン・ジュニアJoseph Robinette "Joe" Biden, Jr., 1942年11月20日 - 、発音/'dʒoʊsəf rɒbɪ'nɛt 'baɪdən/)は、アメリカの政治家。アメリカ合衆国第47代副大統領(2009年 -)。デラウェア大学シラキューズ大学ロースクール卒業。連邦上院議員デラウェア州選出、1973年 - 2009年1月15日)。所属政党は民主党アイルランド系移民の子孫であり、ローマ・カトリック信徒。妻はジル・バイデン、長男は現職のデラウェア州司法長官ボー・バイデン英語版

民主党中道派を代表する[1]大物政治家として知られ、上院議員としては当選回数7回・議員生活36年を誇ったベテランである。上院議員時代には、司法委員長(1987年 - 1995年)や外交委員長2001年 - 2003年2007年 - 2009年1月3日2009年1月3日 - 1月20日)を歴任するなど、まさしく上院民主党の“重鎮”として重きをなした。

2008年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党バラク・オバマ候補の副大統領候補に指名され、同年11月4日(現地時間)の投開票においてオバマ候補が当選したことに伴って第47代副大統領に決定、2009年1月20日(現地時間)に正式に就任した。この就任に伴い、アメリカ建国以来初のローマ・カトリック教徒の副大統領になると共に、初のデラウェア州出身の副大統領ともなった。

経歴[編集]

少年・学生時代[編集]

1942年11月20日、ペンシルベニア州スクラントンで、父ジョセフ・バイデン・シニアと母キャスリーンの間に、4人兄弟の長男として生まれた[2][3]。父親のジョセフ・バイデン・シニアは、20代の頃はヨット狩猟自動車などの趣味に熱中するなど、非常に裕福な生活を送っていた。しかし、長男であるジョーが生まれた頃には、彼は数件の事業に失敗し、そのためにジョーの母方の祖父母にあたるフィネガン夫妻と数年にわたって同居しなければならなくなるなど、バイデン一家は苦しい生活を送っていた[4]

その後、1950年代の経済低迷の中で、父ジョセフ・シニアも生計を立てていくだけの十分な仕事が得られなくなってしまったことから[5]、10歳の頃にデラウェア州クレイモントに引っ越し、その後さらに父親が勤めていた冷暖房ボイラー清掃会社のあるデラウェア州ニューキャッスル郡ウィルミントンへ引っ越し[4]、以後高校卒業までこの地で過ごす。ウィルミントンは、後にバイデンが弁護士として初めて開業した地であり、現在に至るまで自宅を構えている地でもある。ちなみにこの前後、フルートを愛好していたことから、"fleet flutin joe"というあだ名が付いていたという。その後ジョセフ・シニアは中古車セールスマンの職を得て、バイデン一家は中産階級家庭として安定した生活を送ることになる[4][5][6]

バイデンはクレイモントにあるカトリック系の私立学校、アーキメア・アカデミーへ入学し、1961年の卒業までこの学校で過ごした。在学中はフットボールと野球に熱中し、特にフットボールにおいては、高校のフットボールチームに所属し、ハーフバックランニングバックの一種。)やワイドレシーバーのポジションで活躍、長年にわたって敗北続きだったチームを最終学年時にはシーズン無敗を達成するまでの強豪チームに成長させた一翼を担った[4][7]。また、政治活動についても、ウィルミントンの劇場で行われた人種差別に反対する座り込み活動に参加するなど、積極的に取り組んだ。学業に関しては平凡で目立たない生徒であったものの[3]、バイデンはリーダーシップを発揮する生徒であったという[8]

1961年にアーキメア・アカデミーを卒業した後、ニューアークにあるデラウェア大学に進学し、歴史学政治学を専攻した。当初はアーキメア・アカデミー時代と同様にフットボールに熱中、デラウェア大のチームであるデラウェア・ファイティンブルー・ヘンズに所属し、最初は新入生チームにおいてハーフバックとしてプレーしていた[7]。しかし大学3年の時に、デラウェア州外に住む恋人と過ごす時間を確保するために、大学代表チームでディフェンシブバックとしてプレーする計画を諦めざるを得なくなった[7][9]。このように、スポーツや友人・恋人との交際に熱中していたためか[4]、学業の成績はあまり優れず、専攻していた歴史学と政治学において学士号を取得し[3]1965年に卒業したものの、688人中506番目というあまり良くない成績で卒業することになった。しかし友人たちは、むしろバイデンの詰め込み勉強の才能に驚かされたという[10]

その後、シラキューズ大学ロースクールに進学。在学中は、1年目に法律評論誌の記事(全15ページ)から5ページにわたって論文を盗用したとして、学校から処分を受けたことがある。この事件についてバイデンは、「引用についての正確なルールを知らなかったことによる不注意で起こしてしまったものだ」として、悪意があったことを否定している。1968年法務博士号を取得[11]、卒業した後、翌1969年にはデラウェア州弁護士会へ加入し[11]、ウィルミントンで弁護士として開業した。

ロースクール在学中の1966年、彼は最初の妻であるネイリア・ハンターと出会い、結婚する。ネイリアとの間には2男1女(ジョセフ3世(愛称:ボー)、ロバート、ナオミ)をもうけた。

ベトナム戦争の最中、バイデンは大学在学中の1963年からロースクール在学中の1968年までの間、少年時代の喘息の病歴を理由に5回の徴兵猶予を受けていた。このためベトナム戦争には従軍していなかった。

幼少期から吃音に苦しみ、その克服に20代前半まで要した。鏡の前で詩の朗読を続けていた。また、近親者がアルコール中毒で苦しんでいたことから禁酒家となった。

政治活動初期[編集]

1969年の弁護士活動開始後まもなく、バイデンはニューキャッスル郡郡議会議員に選ばれ、1970年から1972年まで同職を務めた。

その後、1972年の上院議員選挙に民主党から出馬する。この時現職だった共和党のJ. カレブ・ボッグス議員は、著名な議員の1人であったが、ボッグス議員は政界引退を考えていた。しかしながら、共和党内でボッグスの後継をめぐって、デラウェア州選出の下院議員だったピエール・S・デュポン4世(のちデラウェア州知事)と、ウィルミントン市長であったハリー・G・ハスケル・ジュニアが対立し、共和党陣営内での分裂が生じた。この打開策として、リチャード・ニクソン大統領は、ボッグスにもう1期出馬するよう要請、共和党が全面的に支援することを約束したため、ボッグスもこれを受諾した。しかしながら、最終的にはバイデンがボッグスを破って勝利を収めた。連邦上院議員では建国以来5番目の若さでの当選となった。

しかし上院議員に当選直後、1972年12月18日、妻のネイリアはクリスマスの買い物をするために、3人の子供たちを連れてデラウェア州ホケッシンに車で出かけていたのだが、ネイリアの運転するステーションワゴンが、交差点でトレーラーに追突され、ネイリアとまだ幼かったナオミが死亡、ボーとロバートは生き残ったものの、瀕死の重傷を負う。この事故に関しては、追突した側のトレーラーの運転手には過失がないことが解っている。

バイデンは、一度は息子たちの看病・世話を理由に議員職を辞退しようとしたが、当時民主党の上院院内総務であったマイケル・マンスフィールドから辞退を思い留まるよう説得を受け、議員に就任することを決意、1973年1月から他の議員と同様に通常どおり登院し、議員活動を開始した。この時、バイデンは30歳で、30歳での上院議員は、アメリカ史上5番目の若さだった。通常、議員になるとワシントンD.C.に居住する議員が多い中で、彼は息子たちのために、毎日片道1時間半かけてウィルミントン郊外の自宅とワシントンD.C.を電車通勤した。

ベテラン議員への道・2度目の試練[編集]

1979年、エジプト・イスラエル平和条約調印後に談笑するバイデン(左)とフランク・チャーチ上院議員(中)、当時のエジプト大統領アンワル・アッ=サーダート(右)。

1974年、バイデンはタイム誌の「200 Faces for the Future」の1人に選ばれるなど、議会の内外で活躍の場を広げ、知名度を高めていった。また、私生活においても、1977年に2人目の妻ジル・トレーシー・ジェイコブズと結婚し、1女(アシュリー)を儲けた。

以後バイデンは、順調に政治活動を展開していく。1978年の選挙では、ジェームズ・H・バクスター・ジュニアを破り再選を、1984年の選挙ではジョン・M・バリスを破り3選を果たすなど、ベテラン議員への仲間入りを果たしていく。その後も1987年には初めて常任委員会の委員長に就任(司法委員長、1995年まで務めた)をしたり、大統領候補に名乗りをあげるなど、精力的に活動を行っていく。

しかし、1988年2月、45歳の時、バイデンは首の痛みに悩まされた末にウォルター・リード陸軍病院に入院し、手術を受けた。脳動脈瘤が破裂したのが原因であり、この時バイデンは一時危篤状態に陥るなど、生死の境をさまよった。さらに、同年5月には2度目の脳動脈瘤の手術を受けるなど、バイデンはもはや議員活動の継続も危ぶまれた。しかし、バイデンは懸命のリハビリを続け、入院からわずか7ヶ月で復帰した。

民主党の重鎮として[編集]

病気から復帰後、バイデンは再び上院議員として活躍、2008年時点では6回連続当選・在職36年目を誇る、押しも押されもせぬ上院民主党の重鎮となっている。ちなみに彼は、故郷デラウェア州の歴史上、最も長く在職した上院議員となっている。しかし、これほど多くの連続当選と長い在職期間を誇りながら、彼がデラウェア州の先任上院議員(アメリカではSenior Senatorと呼ばれている。各州2名の上院議員のうち、それまで連続して当選しており、より任期の長い議員が先任上院議員となる。)となったのは2000年のことであり、かなり遅いと言える。これは、バイデンの2年先輩にあたる共和党のウィリアム・ヴィクター・ロス・ジュニア上院議員 (William Victor Roth Jr.) が、1971年の初登院以来、2000年の選挙で民主党のトーマス・リチャード・カーパー州知事(Thomas Richard Carper)に敗れて引退するまで、約30年にわたって議席を維持したためである。

2001年から外交委員会の委員長を務めた際には、2002年10月のイラクに対する武力行使容認決議案など、後にアメリカ外交を左右することになる重要な局面に立ち会った。その後、2002年の中間選挙で民主党が少数党に転落したため、新しい連邦議会が招集された2003年1月3日付で外交委員長職を離れ、今度は民主党の幹事として党運営・議会運営に携わった。また、2004年の大統領選挙への出馬にも意欲を見せたが、最終的に断念した。

その後、2006年11月の中間選挙で民主党が多数党に返り咲いてからは、2007年1月4日より2度目の外交委員長職を務めている。また同時に、司法委員会に連なる犯罪および麻薬に関する小委員会の委員長を務めている。特に外交委員会では、同委員会のリーダーとして、また外交通として、積極的な発言を行った。また、上院本会議においても、行き詰まりを見せていたイラク政策に関連して、2007年9月26日共和党サム・ブラウンバック上院議員と共に、法的拘束力のない「イラク分割決議」を75対23で成立させた。

2度目の大統領選挑戦・副大統領へ[編集]

2008年には、自身2度目の大統領選挙となる2008年アメリカ合衆国大統領選挙に挑戦するが、予備選で敗北を喫し、早々の撤退を余儀なくされた。しかし、8月に大統領候補の指名を確実にしたオバマから副大統領候補に指名され、これを受諾、その後8月27日にコロラド州デンバーで開催された民主党全国大会で、オバマと共に正式に、民主党の正副大統領候補に指名された。

その後はオバマと共に選挙戦を展開し、2008年11月4日(現地時間)に行われた大統領選挙の投開票において、オバマが第44代合衆国大統領に当選したことに伴い、自身も第47代合衆国副大統領に当選が確定した。

ちなみにバイデンは、大統領選挙での敗北も想定した上で、大統領選挙と同日投票となった上院議員選挙にも出馬していた。この選挙では選挙区全体の65%の票(25万7,484票)を獲得し、対立候補であった共和党のクリスティン・オドネルに大差を付ける形で、自身7回目となる上院議員当選を果たした。その上で2009年1月3日に開会した第111期連邦議会では、1月15日まで上院議員職に留まり、同日辞職した。なお、自身が務めていた上院外交委員長職については、新しい議会の招集を契機に1月3日付で辞職した。外交委員長としての最後の仕事となったのは、1月の第2週目に行ったイラクアフガニスタンパキスタンの3カ国歴訪・首脳会談であった。バイデンの議席は、長年にわたって彼のアドバイザーを務めていたテッド・カウフマンに、外交委員長のポストは、2004年大統領選挙において民主党の大統領候補だったジョン・ケリー上院議員に引き継がれた。

副大統領[編集]

2009年1月20日、バラク・オバマの第44代合衆国大統領就任に伴い、自身も第47代副大統領に正式に就任した。連邦議会議事堂(キャピトル・ヒル)で開催されたオバマの就任式には、セカンドレディとなった妻のジルと共に出席し、オバマに先だって、ジョン・ポール・スティーブンズ連邦最高裁判事の立ち会いの下、就任宣誓を行った。

また、自身のスタッフ選任も進めている。首席補佐官には民主党のベテラン弁護士であるロン・クラインを、広報部長にはタイムのワシントンD.C.支局長であるジェイ・カーニーを任命した。

バイデンは、前任者であるディック・チェイニーが従来の副大統領とは異なり、政策決定や実務などブッシュ大統領の政権運営において、かなり深い部分まで関わっていたのに対して、「自らは(チェイニー 前・副大統領のように)大統領の政策決定などに深く関わることはしない」という旨を言及している。その一方で、「オバマ大統領が重大な決断を下す際には、その全てにおいてアドバイスや助言を行う」としている。

サンディフック小学校銃乱射事件を受けて設立した銃規制の強化を検討するための特別チームのトップになった[12]

人物[編集]

  • 宗教はローマ・カトリック。家族も全員ローマ・カトリックの信者である。また、現在でもデラウェア州グレンヴィルのブランディワイン地区にある聖ジョセフ教会ミサに定期的に出席している。
  • は全く飲まないと公言している。これは、彼の近親者にアルコール依存症が広まっているからだと言う。
  • 幼少期は吃音症で悩み、20代になるまで治らなかった。姉によれば、バイデンは吃音症を治すために、毎日鏡に向かって詩を朗読し、懸命に発音を矯正していたという。
  • 毎年12月18日には、前述の自動車事故で他界した1人目の妻ネイリアと長女ナオミを偲ぶため、一切の仕事をしない。
  • 前述のような波瀾万丈の経歴から、「サバイバー」と呼ばれることもある。
  • 副大統領に就任するにあたって、シークレットサービスからコード名(警護官等が警護任務中の無線通信の際に用いる通称)を割り当てられており、そのコード名は“セルティック”である。これは、“ケルト系の”という意味を持つ言葉であり、バイデンのアイルランド系移民の子孫、という出自に基づいたものである。
  • フィラデルフィア・フィリーズのファンであり、民主党党員集会ではジミー・ロリンズから特製ユニフォームを手渡された[13]
  • 2010年3月23日国民皆保険への道を開く医療保険改革法にオバマ大統領が署名した際、オバマと抱き合い、嬉しさのあまり「This is a big fucking deal!」(これは大したものだ!)と思わず発言した。「Fuck」は英語圏内では極めて下品な言葉であり、関係者は火消しに追われた[14]

家族・出自[編集]

バイデンは前述のようにアイルランド系移民の子孫であり、バイデン家自体はロンドンデリーに起源を持つ家系である。前述のように4人兄弟の長男として生まれ、弟が2人と妹が1人がいる。また、最初の妻ネイリアとの間に2男1女、2番目の妻ジルとの間に1女を儲けている。彼の主な家族・祖先は以下の通り。

  • エドワード・F・ブレウィット:曾祖父。ペンシルベニア州議会上院議員を務めていた。
  • ジョセフ・ロビネット・バイデン・シニア:父(1915年–2002年)。
  • キャスリーン・ユージニア “ジーン” フィネガン:母(1918年-)。
  • ジェームズ・ブライアン・バイデン:弟。
  • フランシス・W・バイデン:弟。
  • ヴァレリー・バイデン・オーウェンズ:妹。
  • ネイリア・ハンター:最初の妻。1972年に死別。
  • ジョセフ・ロビネット “ボー” バイデン3世:長男(1969年-)。現在はデラウェア州の司法長官を務める。民主党員。
  • ロバート・ハンター・バイデン:次男(1970年-)。現在はロビイングを手がける事務所オルデイカー・バイデン&ブレアLLPの共同設立者ならびにアムトラックの経営委員会の副議長を務める。
  • ナオミ・クリスティーナ・バイデン:長女(1971年-1972年)。前述のように、ネイリアと共に事故で死別。
  • ジル・トレーシー・ジェイコブズ・バイデン:2番目の妻。現在のセカンドレディ
  • アシュリー・ブレイザー・バイデン:次女(1981年-)。現在はソーシャルワーカーとして勤務。

政策スタンス・主な活動[編集]

外交[編集]

自身が最も得意とする外交分野においては、様々な発言や政策提言を行っている他、各国を訪問するなど行動派の一面も見せている。

基本スタンス[編集]

彼は国際自由主義(リベラル・インターナショナリズム)の信奉者であり、彼の外交政策スタンスにも反映されている。上院においては、同じくリベラル・インターナショナリズムを掲げる共和党の重鎮、リチャード・ルーガージェシー・ヘルムズ両上院議員(ヘルムズは故人)と投票行動を共にすることが多く、そのため時とて、彼の出身政党である民主党の方針に反することもしばしばあった。

最初の大舞台[編集]

バイデンを一躍有名にしたのは1979年第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)をめぐる一連の活動である。SALT IIは1979年オーストリアウィーンにおいて、ジミー・カーター米大統領とソ連の最高指導者、レオニード・ブレジネフ書記長の間で調印され、後は連邦議会の承認・批准を待つのみとなっていた。しかし、原案では批准に必要な議員数の2/3以上の賛成を得ることは厳しい情勢であり、上院執行部は対応に苦慮、修正案を加えることで賛成を得られる見込みがたったものの、修正案追加には相手国であるソ連の承認が必要であった。そこで執行部は、当時2期目の若手上院議員の1人であり、ちょうど所用でモスクワに向かうことになっていたバイデンに、当時のソ連外相であるアンドレイ・グロムイコと交渉し、修正案追加の承諾を得てくるという重大な任務を託したのである。この当時、グロムイコはその強硬な交渉姿勢から「ミスター・ニエット」(“ニエット”はロシア語で“NO”を意味する)の異名を取るなど、百戦錬磨の外交官として恐れられており、若手議員のバイデンにとってこの任務は大変な重責であった。しかし最終的に、彼は“ミスター・ニエット”グロムイコに修正案追加を認めさせることに成功したのである。結局SALT IIは、同年末から開始されたソ連のアフガニスタン侵攻が原因で連邦議会の批准拒否を受け、1985年に期限切れを迎えてしまったものの、アフガニスタン侵攻がなければ、最大の難関であった上院外交委員会での承認は確実だった。言い換えれば、それほどの“大金星”だったのである。この成功はその後、交渉術などさまざまな分野の書籍[15]でも取り上げられている。

コソヴォ問題[編集]

バイデンは、バルカン半島、特にコソヴォにおける紛争問題にも積極的に取り組み、1990年代に同紛争が国際的な注目を集め、ビル・クリントン大統領の政策にも影響を与えるよう尽力したことで知られている。彼は紛争地域を繰り返し訪問する一方で、コソヴォ紛争当時のユーゴスラビア大統領であり、セルビア人勢力の代表でもあったスロボダン・ミロシェヴィッチと深夜に極秘会談を行い事態打開を図ろうとするなど、同紛争解決に向けて奔走した。

コソヴォ紛争におけるNATO軍の直接介入の決定には、過去のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での経験が関わっている。コソヴォ紛争のおよそ5年前に発生したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなかにあった1993年頃、交渉による事態打開が難しい情勢になると、ムスリム人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ政府への武器禁輸解除や戦争犯罪の調査、NATO軍による空爆の実施などを主とする積極的な介入を政府に訴えるようになる。この時の提言は、クリントン大統領が1999年のコソヴォ危機に際してに実行されたアライド・フォース作戦など、主にセルビア人勢力によるアルバニア系住民への組織的人権侵害に対する武力制裁・介入を容認する上で、重要なきっかけとなった。また、コソヴォ危機時には、セルビアに対するアメリカの直接攻撃を擁護する姿勢を表明し、これに賛同する共和党議員と協力して、セルビアに対して「必要なあらゆる武力」を行使する権限をクリントン大統領に与えるとする、「マケイン=バイデン・コソヴォ決議」を成立させた。バイデン自身は、大統領選挙運動用に刊行された自伝の中において、この時の活動を「海外政策において最も誇りに思う実績」だと書いている。

中東政策[編集]

2007年9月11日、上院外交委員会のイラク問題公聴会において、冒頭陳述と参考人であるデービッド・ペトレイアス将軍(イラク駐留米軍司令官。現・中央軍総司令官。)とライアン・クロッカー駐イラク大使に対する質問を行うバイデン。

バイデンとイラクとの関わりは、1991年湾岸戦争における対イラク武力行使に反対したことが最初である。

2003年から始まったイラク戦争においては、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権が武力行使を表明した際には、これを容認する姿勢を示し、前述の「イラクに対する武力行使容認決議」にも賛成票を投じている。しかしながら、ブッシュ政権が目指したサッダーム・フセイン独裁体制の排除には反対を表明していた。また、ブッシュ政権の一国主義的な行動や、「自衛のための先制攻撃」を許容するブッシュ・ドクトリンについても批判している。このように、ブッシュ政権を批判しつつも、当初はイラク戦争開戦に肯定的だったバイデンだが、その後イラク国内の情勢が泥沼化の様相を呈してくると、一転して反対に転じ、2007年初めに政府が提案したイラクへの米軍増派法案についても反対した。

バイデンが、イラク戦争とそれに伴う混乱・内戦を収拾する手段としてかねてより提唱しているのが、いわゆる「イラク3分割案」である。この案は、イラクをそれぞれシーア派スンニ派クルド人の区域に分割し、これら3つの区域から成る連邦国家にするという物である。この案を、上記の米軍増派法案への対案として正式に提案した物が、前述の「イラク分割決議案」である。この決議の提案にあたっては、バイデンと同じイラク分割論者である共和党サム・ブラウンバック上院議員も賛成を表明し、共同提案者として名を連ねた。なお、この決議案は2007年9月26日、上院において75対23の賛成多数で成立した。

司法[編集]

バイデンは、外交通としてのイメージが強いが、司法政策にも精通していることで知られている。特に上院司法委員会での活動は、1977年に初めて委員に就任してから現在に至るまで、約30年にも及んでいる。そのため、同委員会での役職経験も豊富であり、前述のように、1987年から1995年までの8年間にわたって委員長を務めたほか、1981年から1987年と1995年から1997年の2度にわたって、委員会における少数党代表者(ranking minority member)を務めた。(「委員会における少数党代表者」は、各委員会における少数党出身委員の代表者であり、委員会においては副委員長と同格の扱いを受ける(実際に副委員長に就任している委員会もある)要職である。多くの委員会において、同職は委員長と共に、各委員会の下に連なる全ての小委員会のメンバーとなる。また、議会において与野党が逆転した際は、多くの場合、少数党代表者が次の委員長に就任する。)

また、司法委員会に連なる5つの小委員会にも在籍しており、前述のように犯罪および麻薬に関する小委員会では委員長を務めている。5つの小委員会は下記の通りである。

  • 犯罪および麻薬に関する小委員会
  • 反トラスト競争政策および消費者権利に関する小委員会
  • 人権および法に関する小委員会
  • 入国管理・国境警備ならびに難民に関する小委員会
  • テロ・技術ならびに国土安全保障に関する小委員会

また、上記の委員会活動と並行して、麻薬政策に関して連邦政府への監視・諮問を行う上院国際麻薬取締委員会(The United States Senate Caucus on International Narcotics Control)の議長を務めるほか、上院のNATOオブザーバーグループの共同議長も務めている。

主な政策[編集]

バイデンは、司法委員として様々な問題に取り組んでいるが、その中でも麻薬政策に熱心に取り組んでいる。また、麻薬政策のみならず、犯罪防止政策や人権政策などにも積極的に取り組んでいる。

連邦最高裁判事の承認問題[編集]

上院司法委員会の重要な任務の1つに、連邦最高裁判事の承認がある。司法委員会は、上院本会議での投票に先立ち公聴会を開催し、大統領が指名した判事候補者に対して質疑応答・投票による審査を行うが、バイデンは委員長として、大きな議論を呼んだ2度の公聴会を主催している。

  • ロバート・ボーク候補への公聴会(1987年
    バイデンが初めて主催した判事候補者に対する公聴会は、保守派の大物であったロバート・ボーク候補に対するものであった。
    ボークはロナルド・レーガン大統領によって判事候補者に指名されたのだが、バイデンは指名直後から反対を明言した。しかし、彼は前年、ボークの指名が確実視されていた際に受けたインタビューで賛成する意向を表明していたため、この早々の反対表明は「公正な公聴会運営ができない」として保守派の怒りを買った。しかし彼は、この公聴会の期間中に彼の大統領選挙キャンペーンが挫折・撤退を余儀なくされたにも関わらず、公平に、かつ素晴らしいユーモアと度胸を持って公聴会を仕切ったことで、最終的に高く評価されることになったのである。
    そもそもボーク指名に対する反対は根強く、共和党内でも、穏健派で上院司法委員会のメンバーでもあるアーレン・スペクター議員が反対を表明するような状況であった。公聴会では、スペクターやエドワード・ケネディらが激しい質問をボークに浴びせた。バイデンは自らの質問の中で、アメリカ合衆国憲法で規定されている自由とプライバシーの権利は、憲法上で明文化されている以上に拡大されており、この点とボークが主張する強力な始原主義はイデオロギー的に両立しないのではないかという論点を中心に質疑を行った。
    最終的に、ボークの承認案は上院司法委員会・上院本会議の双方で否決されることとなった。ちなみに司法委員会においては賛成5票・反対9票で、上院本会議においては賛成42票・反対58票という投票結果であった。ちなみにバイデン自身も先立っての反対表明通り、反対票を投じた。
  • クラレンス・トーマス英語版候補への公聴会(1991年
    バイデンが2度目に主催した判事候補者に対する公聴会は、ボークと同じく保守派のクラレンス・トーマス候補に対するものであった。
    トーマスは、黒人初の連邦最高裁判事として知られたサーグッド・マーシャルの後任として、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ大統領によって判事候補者に指名され、公聴会が行われた。バイデンは、トーマスに対する公聴会において財産権に関する憲法上の問題に関して質問したのだが、この質問はしばしば長く複雑なものとなり、答える側のトーマスが、質問を忘れてしまうほどであった。トーマスは後に、この時のことを「バイデン氏の質問は危険球のようなものであった。」と後に述べている。[16]
    しかし、公聴会が終盤に差し掛かった時期に大きな問題が明らかになる。かつてトーマスが雇用機会均等委員会委員長を務めていた時の部下であったアニタ・ヒル英語版(現・ブランダイス大学教授)が、「トーマス氏からセクハラを受けていた」と告発したことを記載した司法委員会とFBIの報告書が、ナショナル・パブリック・ラジオの最高裁担当記者であったニーナ・トーテンバーグの元にリークされ、これを契機にトーマスのセクハラ問題が連日メディアで取り上げられ、急浮上することになったのである。この時の公聴会は全米にテレビ中継され、アメリカ国民の大きな関心を呼んだ。
    この時バイデンは、1987年の大統領選挙における自身の苦い経験(後述)もあって個人的な問題に踏み込むことを躊躇しており、ヒル本人が宣誓証言する意思のないことを理由に、告発の事実を委員会内で公表するに留め、完全に公にはしていなかった。さらに、一転してヒルが公聴会で証言した後は、同様の告発を行っていたアンジェラ・ライトやハラスメント問題の専門家など、彼女を支持する他の証人による更なる証言を一切認めなかった。これについてバイデンは、「トーマス氏のプライバシーの権利と、委員会の品位を守るために取った措置である」と発言している。
    結局トーマスの承認案は、アーレン・スペクター上院議員がヒルの証言に信憑性がないこととして、攻撃的な質問を行うなど激論が交わされた後、上院本会議にて賛成52票・反対48票の僅差で可決された。バイデンはこの時も反対票を投じたが、その後彼はリベラル派の弁護士グループや女性団体などから「(委員長でありながら、)証人であるヒルを十分にサポートせず、公聴会の進行を誤った」と強い批判を浴びることになった。この後彼は、司法委員会で働く女性を捜し、「女性に関する問題は、委員会における立法議題の1つである」と強調するなど、弁明を行った。

犯罪関連法案の制定[編集]

バイデンは、これまで数々の犯罪に関連する連邦法制定に関与してきている。1984年、民主党の議事進行係議員を務めていた際に携わった犯罪管理法(Comprehensive Crime Control Act)の制定では、いくつかの条項に対して修正を加えたが、その修正が同法の通過・成立に大きな影響を与えたとして、市民的自由至上主義者(シヴィル・リバタリアン)から高評価を受けた。

また、1994年に携わった「暴力犯罪防止・法執行法」(Violent Crime Control and Law Enforcement Act (VCCLEA))においては、同法とそれに連なる法律の起草作業の先頭に立ち、成立に尽力した。この法律は、一般に“バイデン犯罪法”として知られており、彼の最大の業績として広く認識されている。 この法律によって定められた主な点は以下の通りである。

  • 「女性に対する暴力法」(Violence Against Women Act (VAWA) )の制定
    VCCLEAの第4章という形で、「女性に対する暴力法」(VAWA)が定められた。VAWAは、ドメスティック・バイオレンスを犯罪と規定し、加害者責任を追及することに言及している点で当時としては画期的であり、VCCLEAに関する一連の法案の中でも特に高い評価を得ている。さらに同法では、女性に対する暴力の捜査・訴追の強化に16億ドルの連邦予算が投じること、被告人の審理前拘留を拡大すること、有罪となった場合に強制的かつ自動的に賠償義務を課すこと、不起訴となった場合でも民事による救済を認めることなどが規定された。
    VAWAは5年間の時限立法であり、延長するためには議会の再承認が必要である。VAWAは2000年2005年の2回にわたって再承認されている。しかし、2000年に連邦最高裁が、民事による救済に関する条項に関して「連邦主義の観点から見て、違憲である」という判断を下したため、この条項に則って進められていた事業は事実上ストップしている。
    バイデンはVAWAについて、「VAWAこそが35年間にわたる上院議員生活で関わった立法の中でも、唯一最も重要な法案だと考えている」と発言している。
    これに関連して、2004年3月にはテキサス州オースティンに本拠を置く関連団体「ナショナル・ドメスティックバイオレンス・ホットライン」が問題を抱えた際には、大手技術系企業の協力を得て問題の調査を行い、設備の寄付などを行った。
  • 受刑者に対する教育の廃止
    VCCLEAの中では、受刑者に対する教育に関して重要な条項が定められた。1965年に定められた高等教育法に対する修正条項である。高等教育法では、受刑者が出所後に高等教育を受けることができるように、収監中でもペル奨学金(Pell Grant,教育省が資金を提供している奨学金制度で、前述の高等教育法に基づいて設立された。ペルという名前は、関連条項の制定に尽力したクレイボーン・ペル上院議員の名前にちなんだものである。)を受けることを許容していたのだが、この修正条項ではその方針が180度転換され、「連邦ないしは州の刑務所に収監中のいかなる人物に対しても、基礎奨学金を与えてはならない」と定められた。この修正条項は、低収入の受刑者が刑期中に大学教育を受ける機会を事実上奪うものであり、刑期中の受刑者の教育レベルが改善されないままになってしまうことから、議論を呼んでいる。
  • 連邦死刑法の制定
    この法律の第6章という形で、連邦死刑法が定められた。元来、アメリカでは死刑制度を導入しているが、この法律においてはテロ行為や薬物の違法取引、走行中の車からの銃撃による殺人など、60の犯罪が新たに死刑適用対象として定められた。この法律については、現在も大きな変更が加えられることなく運用されている。
    ちなみに、この法律が施行された数ヵ月後にオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件が発生した。同事件の主犯であったティモシー・マクベイは、この法律によって死刑を執行された。
  • 対人殺傷用武器と見なされた半自動式火器の規制
    この法律の第11章によって、対人殺傷用武器と見なされた半自動(セミオートマチック)式火器19種類に対して規制が加えられた。着脱可能な弾倉を有するアサルトライフルが規制されたほか、以下の6種類の器具のうち、2種類以上を装備した銃が規制対象となった。
  • 警察・刑務システムの強化
    この法律によって、警察・刑務システムの強化が図られた。警察組織の強化策として、10万人を超える警官を雇用することが決定された。また、刑務・更生システムの強化策として、非行少年に対する矯正ブートキャンプが開始されたほか、刑務所の建設に十分な額の予算を割り当てることが定められた。この条項の施行によって、アメリカの犯罪率は1世代で最低水準まで下がったと評価されている。
  • 新たな連邦犯罪の指定
    この法律において、新たに50の犯罪が連邦犯罪(FBIが捜査権限を持つ犯罪)に指定された。特に有名なのは、ギャングに加入することを罪としている条項であり、この点については、一部では権利章典で保障されている結社の自由を侵害しているのではないか、という議論がある。

クリントン大統領のスキャンダル問題に対して[編集]

1990年代、ビル・クリントン大統領の任期中には、ホワイトウォーター疑惑(クリントンがアーカンソー州知事時代、知人と共同経営していた不動産開発会社「ホワイトウォーター」に関連して、不正な土地取引や融資を行っていたのではないかという疑惑。)やモニカ・ルインスキーとの不倫疑惑、さらには当時大統領次席法律顧問を務めていたヴィンセント・フォスターが不可解な自殺を遂げるなど、同大統領に関する数々のスキャンダルが浮上し、ジョージ・H・W・ブッシュ政権で訴務長官を務めたケネス・スター独立検察官に任命され、厳しい捜査・追及が行われた。 バイデンは、特にホワイトウォーター疑惑とルインスキー疑惑の2件に関するスターの捜査活動に批判的であり、クリントン大統領に対する弾劾法案にも反対票を投じた。

麻薬政策[編集]

バイデンは前述のように、上院議員有志で作る「上院国際麻薬取締会議」の議長を務めており、麻薬取締政策に熱心に取り組んでいる。同会議の議長としてバイデンは、連邦政府の麻薬取締政策を統括する「麻薬問題担当長官」(Drug Czar)を創設する法案を起草した。
2002年にはレイヴ法(RAVE Act)を議会に提案した。同法は、薬物を故意に保持するなど、薬物を使用可能な状態に置く行為から、製造・販売などで利益を得る行為、実際に使用する行為に至るまで、個人の規制薬物に関連するあらゆる行為を禁止するものである。
この法案は第107回連邦議会の会期中に提案・審議されていたものの、審議中に議会が閉会したことから、2003年1月3日に開会した第108回連邦議会の冒頭に再び提案された(正式な提案日は2003年1月7日)。再提案時には、トム・ダシュル上院議員(当時)が主提案者となり、バイデンは10人の賛同者のうちの1人として名を連ねた。しかしこの時は、2人の議員が賛同を取り下げたことで可決に失敗してしまった。
この可決失敗の後、レイヴ法自体は再提案されることはなかった。しかし、ほぼ同じ内容を持つ「不法薬物反拡散法」(en:Illicit Drug Anti-Proliferation Act)が2003年4月30日に成立したことで、レイヴ法の目的は達成されたと言える。
多くのスポーツ選手や一般人が使用していることで社会問題となった、アンドロステンジオン(アンドロ)に代表されるステロイドを非合法化する法律を2004年に成立させた。この時期には議会で『薬を使って強くなるのは反則だ。アメリカ的ではない。』とのスピーチを行うも、クリス・ベル[17]はこれに対して『いやそれは逆で、ものすごくアメリカ的なことだと思いますよ。』と反論している。
彼が現在取り組んでいる麻薬関連の政策は、デートレイプ・ドラッグと呼ばれる種類の薬物と、エクスタシー(MDMA)ケタミンの2種類の薬物の規制である。このうち前者は、フルニトラゼパムに代表される薬物で、健忘などの症状を引き起こす事からデートレイプにしばしば悪用される。また後者は、主に若者の間で急速に広まっている薬物であり、深刻な社会問題となっている。

その他の業績[編集]

バイデンの司法関連の業績の中で、あまり知られていないのが教育関連の立法である。彼は、“キッズ2000”(Kids 2000)法の成立に関わっている。
この法案では、以下のような項目について支援が決定された。
  • 高等教育に対する家庭支出の支援・促進
    高等教育に対する家庭の支出を支援・促進する目的で、所得税の控除を行う制度である。高等教育を受ける家族に学資援助を行ったり、あるいは学資ローンを利用している家庭は、1年間に家庭が支払う所得税について、年間1万ドルを上限に控除が受けられるようになっている。
  • デジタル・ディバイドの是正支援
    若者に対してデジタル教育を施すことを目的とした、公的機関と民間のパートナーシップを設立することを目指したものである。このパートナーシップは、若者にコンピュータセンターや専門の教師、インターネットアクセスやその他の専門的な訓練を提供することで、コンピュータ教育やインターネット教育のレベルを向上させ、デジタル・ディバイドを是正することが目標であり、家庭の収入が低く、非行に走る可能性のある少年を主要なターゲットに据えている。

大統領選[編集]

バイデンは過去に2度(1988年・2008年)、民主党の大統領候補指名選挙に出馬している。

1回目の選挙(1987年)[編集]

バイデンが初めて大統領候補として名乗りをあげたのが、1988年の大統領選挙である。しかし、この時は英労働党党首の演説内容を盗用した疑いが持ち上がり撤退に追い込まれた。

2度目の選挙(2008年)[編集]

2008年大統領民主党予備選挙にも出馬するが、バラク・オバマ候補とヒラリー・クリントン候補の二強が他を突き放す形勢となり、1月3日に撤退。しかし、8月23日に大統領候補の指名を確実にしたオバマから副大統領候補指名の意向が発表され、これを受諾、その後8月27日にコロラド州デンバーで開催された民主党全国大会で、オバマと共に正式に、民主党の正副大統領候補に指名された。

8月23日、副大統領候補指名内定後の初集会にて

オバマの副大統領候補としてメディアから有力視されていたのは、オバマの最大の対抗馬であったヒラリー・クリントンであった。激しい予備選の過程でオバマとクリントンの支持者同士の感情が険悪化しており、党内融和のためにもオバマ-クリントンの「ドリームチケット」が期待されていた。そのため、バイデンが選ばれた事に関しては、少なからず驚きの声があった。この選択理由としては、次のような点が評価されたためと言われている。

  • オバマが弱いとされている有権者層である白人(特に白人労働者)、カトリックに強いこと。
  • 民主党中道派の重鎮であり、政治的・思想的に偏りが少ないという点。当時クリントンはオバマ同様に民主党でもリベラル寄りとみなされており、リベラル同士のチケットでは本選挙の鍵を握る中道層の取りこぼしが懸念された。
  • オバマに関して指摘されていた経験、特に外交経験の不足を補う上で、外交経験豊富であり、国民にも“外交通”として認知されているバイデンは、オバマの弱点をうまく補完できるという点。
  • 議会対策の上でも、上院民主党の重鎮であったバイデンの影響力が期待できること。
  • 一般庶民層の出身という経歴であること。

しかし、共和党のジョン・マケイン候補がサラ・ペイリンを副大統領候補に抜擢したことと比較され、地味な選択とみられた。また、バイデンは予備選でオバマ候補の経験不足を指摘していたため、指名受諾後にはその点を共和党側より批判された。

本選挙の選挙戦では、オバマが攻撃的な発言を抑制するかたわらバイデンはマケインへの激しい批判を展開した。ペイリンとの副大統領候補討論会後の世論調査では「討論はバイデンの勝利」と答えた者が多数を占めたものの、好感度の面ではペイリンに軍配を上げる者が多かった。

脚注[編集]

  1. ^ 毎日.jpの記事(原版は毎日新聞 2008年8月24日の東京版朝刊)より
  2. ^ 系図・系譜専門サイトWARGS.comのデータより(英語・2008年8月26日の検索データ)
  3. ^ a b c サンフランシスコ・クロニクル紙の電子版記事より(英語・原版はAP通信の配信記事)
  4. ^ a b c d e NYタイムズ電子版・2008年10月23日(現地時間)の記事より(英語)
  5. ^ a b FOXNews.com 2008年8月27日(現地時間)の記事より(英語・原版はAP通信の配信記事)
  6. ^ アルマナック・オブ・アメリカン・ポリティクス(Almanac of American Politics, 2008年出版)の364ページ(英語版Wikipediaの脚注をそのまま引用)
  7. ^ a b c ザ・ニュースジャーナル紙(ウィルミントンの地元紙)に掲載されたマーティン・フランク記者の記事 "Biden was the stuttering kid who wanted the ball"(2008年9月28日掲載)より(Wikipedia英語版の脚注をそのまま引用)
  8. ^ ポール・テイラー著:“See How They Run: Electing the President in an Age of Mediaocracy”(英語・1990年アルフレッド A. クノップ社より刊行)、99ページより(Wikipedia英語版の脚注をそのまま引用)
  9. ^ バイデンの自伝“Promises to Keep ”のペーパーバック版、27ページより(Wikipedia英語版の脚注をそのまま引用)
  10. ^ Current Biography Yearbook(1987年版)の43ページより(英語・Wikipedia英語版の脚注をそのまま引用)
  11. ^ a b アメリカ連邦議会の経歴紹介ページより
  12. ^ “銃規制強化へ特別チーム結成 ホワイトハウスに”. (2012年12月20日). http://www.asahi.com/international/update/1220/TKY201212200319.html 2012年12月22日閲覧。 
  13. ^ http://www.youtube.com/watch?v=23nt2xYws0o(youtube動画)
  14. ^ “副大統領が歴史的瞬間に漏らした一言、マイクに拾われ騒ぎに”. CNN.co.jp. (2010年3月24日). http://www.cnn.co.jp/usa/CNN201003240008.html 2010年3月24日閲覧。 
  15. ^ 『決定版 ハーバード流“NO”と言わせない交渉術』 ウィリアム・L・ユーリー著,斎藤精一郎訳(三笠書房ISBN 978-4-8379-5583-2
  16. ^ ABCニュース (この記事は英語版ウィキペディアにおいても、当該個所において参考記事として掲示されている。)(英語)
  17. ^ ステロイドに焦点を当てた2008年のドキュメンタリー『ビッガー、ストロンガー、ファスター』の製作者。

関連項目[編集]


公職
先代:
ディック・チェイニー
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国副大統領
第47代:2009年1月20日 -
次代:
現職
議会
先代:
キャレブ・ボッグス
デラウェア州選出上院議員(第2部)
1973年1月3日 - 2009年1月15日
同職:ウィリアム・ロス, トム・カーパー
次代:
テッド・カウフマン
先代:
ストロング・サーモンド
R-サウスカロライナ州
上院司法委員会委員長
1987–1995
次代:
オリン・ハッチ
R-ユタ州
先代:
ジェシー・ヘルムズ
R-ノースカロライナ州
上院外交委員会委員長
2001
次代:
ジェシー・ヘルムズ
R-ノースカロライナ州
先代:
ジェシー・ヘルムズ
R-ノースカロライナ州
上院外交委員会委員長
2001-2003
次代:
ディック・ルーガー
R-インディアナ州
先代:
ディック・ルーガー
R-インディアナ州
上院外交委員会委員長
2007-2009
次代:
ジョン・ケリー
D-マサチューセッツ州
先代:
チャック・グラスリー
R-アイオワ州
上院国際麻薬取締委員会
2003–2005
次代:
ダイアン・ファインスタイン
D-カリフォルニア州
党職
先代:
ジェームス・トゥーネル
デラウェア州選出上院議員(第2部)
民主党候補

1972, 1978, 1984, 1990, 1996, 2002, 2008
次代:
クリス・クーンズ
先代:
ジョン・エドワーズ
民主党副大統領候補
2008
次代:
当該人物
儀礼席次
先代:
アメリカ合衆国を訪問する各国の国家元首
アメリカ合衆国の儀礼席
2番
次代:
当該式典開催地の州知事
先代:
上記の人物でない場合は バラク・オバマ
次代:
上記の人物でない場合は ジョン・ベイナー
大統領職継承順位
先代:
当該人物が1順位
1st in line
副大統領
次代:
ジョン・ベイナー