アフガニスタン
- アフガニスタン・イスラム共和国
- جمهوری اسلامی افغانستان
Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān -


(国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:ソルーデ・メッリー

-
公用語 パシュトー語、ダリー語 首都 カーブル 最大の都市 カーブル 建国
独立
- 宣言1747年
イギリスの保護国より
1919年8月19日通貨 アフガニ(AFN) 時間帯 UTC +4:30(DST:なし) ISO 3166-1 AF / AFG ccTLD .af 国際電話番号 93
アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタンは、中東・南アジアに位置する共和制国家。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル。国民の平均寿命が48歳であり、世界で二番目に短い国である(2011年現在、最下位はマラウイの47歳)。
パシュトゥーン人、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家である。
国名 [編集]
自称国名はافغانستان (Afghānistān ; アフガーニスターン)。ペルシア語・ダリー語で「アフガーン人(パシュトゥーン人)の国(土地)」を意味する。 正式名称は1973年の王制打倒以来政体が変化するごとに新政権によって改められてきたが、ターリバーン政権崩壊後のロヤ・ジルガ(国民大会議)で定められた2004年憲法による正式名称はダリー語で、جمهوری اسلامی افغانستان (ラテン文字転写 : Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān , 読み : ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)という。
公式の英語表記は、Islamic Republic of Afghanistan。通称Afghanistan。日本語の表記は、アフガニスタン・イスラム共和国。通称アフガニスタン。漢字表記は亜富汗斯坦。
国名の変遷 [編集]
- 1834年 - 1926年 アフガニスタン首長国
- 1926年 - 1973年 アフガニスタン王国
- 1973年 - 1978年 アフガニスタン共和国
- 1978年 - 1987年 アフガニスタン民主共和国
- 1987年 - 1992年 アフガニスタン共和国
- 1992年 - 1996年 アフガニスタン・イスラム国
ターリバーン政権期 [編集]
ボン合意以降 [編集]
国旗 [編集]
現在の国旗は2002年1月に制定されたもの。中央の紋章に書かれている文字はコーランの冒頭の聖句(シャハーダ)である「アラーのほかに神は無し、ムハンマドはアラーの使徒なり」と書かれている。
歴史 [編集]
詳細は「アフガニスタンの歴史」を参照
先史時代 [編集]
- 紀元前10万年、旧石器の文化があった。
- 紀元前7000年、新石器の文化があった。
- 紀元前3000年~紀元前2000年は、四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。
- 紀元前2000年~紀元前1800年、青銅器時代。ムンディガク遺跡[2]、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。
- アフガニスタンは、先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった[3]。
ペルシャとアレクサンドロス大王の支配 [編集]
- 紀元前6世紀、イラン人が建てたアケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、アレイヴァ(ヘラート)、アラコシア(カンダハール, ラシュカルガー, クエッタ)、バクトリア(バルフ), サッタギディア(ガズニー), ガンダーラ(カーブル, ジャラーラーバード, ペシャーワル)の地方名で呼ばれた。カンダハルの旧市シャル・イ・コナの発掘によって、紀元前6世紀にはこの町が、すでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。
- 紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した[4][5]。
南方のマウリア朝と北方のグレコ・パクトリア王国 [編集]
- 紀元前3世紀中頃、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配。
- 紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入しグレコ・バクトリア王国は滅びた。
- 1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄える。この頃ギリシア文化は影響力を失い代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになり、4世紀頃までバクト商人がシルクロード交易を掌握する。
- 3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。
- 5世紀前半、エフタルが起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配する。
- 6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受ける。
イスラーム化の進展 [編集]
- 8世紀初頭、イスラム教徒軍が侵攻、土着のアフリーグ朝は滅亡しイスラム帝国・アッバース朝の支配下へ入る。751年のタラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わった後も10世紀頃まで残存した。
- 9世紀中頃、再び土着イラン人によるターヒル朝・サッファール朝・サーマーン朝が興り統治する。
- 10世紀以降、テュルク系のガズナ王国、ホラズム王国による支配が続いた。この頃からパシュトゥーン人の存在が確認され始める。
モンゴル時代 [編集]
ティムール朝 [編集]
ムガル朝とサファヴィー朝の抗争 [編集]
- 1510年、イラン人によるサファヴィー朝に征服される。
- 1526年、パーニーパットの戦い。カーブルのバーブルがインドにムガル朝を建設。
- 1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。
- 1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを奪還。
- 1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。
- 1638年、ムガル帝国がカンダハールを奪還。
- 1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。
- 1709年、パシュトゥン人ギルザーイー部族のミールワイス・ホタキが反乱を起こし、カンダハールにホタキ朝を樹立。
- 1719年、ミール・マフムードがサファヴィー朝のケルマーンに侵攻。
- 1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・イスファハーンを占拠(グルナバードの戦い)。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。
- 1729年、アシュラーフがナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した(ダムガンの戦い)。
- 1736年、アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅。
アフガンの王家による統治のはじまり [編集]
- 1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族によるドゥッラーニー朝が成立。
- 1761年、第3次パーニーパットの戦いでドゥッラーニー朝とムガル帝国のムスリム同盟軍が、ヒンドゥー教のマラータ帝国に攻め込み勝利。パンジャーブの領土を拡張した。
- 1823年、ノウシェラの戦いでドゥッラーニー朝がシク教国に敗北し、ペシャーワル一帯の領土を失い、カイバル峠を越えて撤退した。
- 1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。
- 1834年、国名をアフガニスタン首長国とする。
- 1838年~1842年、第一次アフガン戦争でイギリスに勝利。
イギリスの保護国化 [編集]
- 1880年に起こった第二次アフガン戦争に敗れイギリスの保護国となる。
- 1885年、ロシア帝国とのパンジェ紛争。イギリスは巨文島で巨文島事件(en:Port Hamilton incident)を起こし、ロシアを牽制した。
アフガンの王家による再独立 [編集]
- 1919年、第三次アフガン戦争に勝利しアマーヌッラー・ハーン国王がイギリスからの独立を達成。
- 1926年、国名をアフガニスタン王国とする。
王政廃止からソ連軍の撤退まで [編集]
- 1973年、旧王族のムハンマド・ダーウードがクーデターを起こして国王を追放し共和制を宣言して大統領に就任。新しい国名はアフガニスタン共和国。アフガニスタン社会の近代化と軍事近代化を目指しソ連に接近しイスラム主義者達を弾圧する。
- 1978年、アフガニスタン人民民主党主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ムハンマド・ダーウード大統領一族が処刑される。人民民主党による社会主義政権が樹立し国名をアフガニスタン民主共和国に変更する。初代革命評議会議長兼大統領兼首相はヌール・ムハンマド・タラキー。これに対して全土でムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まり政情が不安定化する。
- 1979年、ヌール・ムハンマド・タラキーが副首相のハフィーズッラー・アミーン一派に殺害され、アミーンが革命評議会議長兼大統領兼首相に。ソ連軍による軍事介入が開始される。ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンをKGBを使って暗殺、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立する。ソ連軍及政府軍とムジャーヒディーンの戦闘が激化する。
- 1982年、国連総会において外国軍の撤退を要求する国連決議 37/37 が採択される。
- 1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。
- 1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。
- 1989年、ソ連軍撤退完了(10万人)。各国からのムジャーヒディーンの多くも国外へ引き上げる。
ソ連軍の撤退からターリバーン政権の統治とそれに対する有志連合の攻撃まで [編集]
- 1989年、ソ連軍が撤退した後国内の支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。
- 1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのイスラム協会主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。
- 1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。
- 1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州から勢力を拡大。
- 1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟[6]となる。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。
- 1997年、第一次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが敗北
- 1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された[7]。またケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したためにアメリカとの関係が緊張化する。
- 1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267が採択される。
- 2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333が採択される。
- 2001年3月6日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。
- 9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト二名の自爆テロで死亡した。
- 9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。
- 9月25日、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定。
- 9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。
有志連合のターリバーン政権に対する攻撃から暫定政権の樹立まで [編集]
- 2001年10月2日、アメリカ同時多発テロ事件を受けてNATOがアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。
- 10月7日、アメリカ軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-)が開始される。
- 11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。
- 11月22日、パキスタン政府、ターリバーンとの断交を決定し、イスラマバード大使館を閉鎖した。
- 11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加した[8]
- 11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。
- 12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥン人のハミード・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した。ボン合意。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊 (ISAF) 創設、カーブルの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。
暫定政権樹立からアフガニスタン・イスラム共和国成立まで [編集]
- 2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名[9]で構成され、うち北部同盟が19ポスト[10]、元国王支持派が8ポスト[11]、ペシャワル派が2ポスト[12]占めた。
- 2002年1月21日、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60各国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5000万ドル、イギリスは5年で3億7200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また、周辺各国は、イランが1年で1億2000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業及び地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。
- 2002年2月14日、アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル空港で自国民に撲殺される。
- 2002年6月10日~19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)開催される[13]。1500人以上の代表参加。6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し、当選した[14]。6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でローヤ・ジルガ閉会する。
- 7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆、市民48人死亡、117人が負傷する。
- 2003年12月14日~2004年1月4日、憲法制定ロヤ・ジルガが開催され、新憲法を採択。
アフガニスタン・イスラム共和国成立以降 [編集]
- 2004年10月9日、初の大統領選挙。カルザイが当選、大統領に就任。アフガニスタン・イスラム共和国発足。選挙を前にターリバーンの活動が活発化、南部を実効統治。
- 2005年、総選挙・州議会選挙実施。
- 2006年、ISAFの指揮権がNATOに移譲される。5月、ターリバーンの攻勢強まる。7月、ISAF南部展開。10月、ISAF東部展開、計13000人がアフガニスタンに駐留。
- 2009年8月、大統領選挙。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。二位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定[15]。
- 2010年1月16日、下院は、カルザイ大統領が9日に再提示した第2次政権の閣僚候補17人[16]について信任投票を行った。そのうち7人が信任され、10人が不信任となり、大統領は三度目の名簿提出を余儀なくされた。全閣僚中、外務、内務、国防、財務の四主要閣僚を含む14人は確定した[17]。
- 2011年7月12日、カンダハール州議会議長アフマド・ワリー・カルザイ(大統領の弟)が暗殺される。
- 2011年7月15日、アメリカ軍のアフガニスタンからの撤退開始。
- 2011年9月20日、ターリバーンとの和解交渉を担当する高等和平評議会の議長ブルハーヌッディーン・ラッバーニーが自宅への自爆攻撃により死去。カルザイ大統領はターリバーンとの和平交渉打ち切りを指示した。
- 2011年12月6日、首都カーブルや北部バルフ州の州都マザーリシャリーフ、南部カンダハール州などで、イスラム教シーア派の廟やその周辺で自爆・仕掛け爆弾による爆発があり、多数の死者や負傷者が出ている。警察はテロの可能性を指摘している。[19][20]
政治 [編集]
詳細は「アフガニスタンの政治」および「アフガニスタンの憲法」を参照
アフガニスタンは共和制・大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は2004年1月16日に公布されたもの。そのほかにもクルアーンやシャリーアを法の源泉とする規定があり、アフガニスタンはイスラム国家の色彩が強い。
元首 [編集]
詳細は「アフガニスタンの国家元首の一覧」を参照
国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は5年。3選禁止。大統領は強力な指導権を憲法により保障されている。副大統領職あり。イスラーム教徒以外大統領にはなれない。
行政 [編集]
行政府たる内閣は大統領が任命するが、議会の承認が必要。首相職は設置されていない[21]。
腐敗問題 [編集]
BBCやNHKの報道によると、カルザイ政権発足以降政府高官や公務員による汚職が急増している。アフガン政府の腐敗にアフガン国民が失望し、そのためアフガン国民は政府ではなくターリバーンを頼るようになり、ターリバーンが復活する一因となったという[22]。
立法 [編集]
立法府は二院制の国民議会で、憲法により、国家の最高立法機関と規定されている。国民議会は下院に相当する人民議会(ウォレシ・ジルガ)と、上院に相当する長老議会(メシュラノ・ジルガ)で構成される。人民議会は249議席以下と規定され、議員は国民の直接選挙で選出される。任期は5年。長老議会は定数102議席で、5年任期議員(大統領の任命)、4年任期議員(各州議会の選出)、3年任期議員(各郡議会の選出)が3分の1ずつを占める。
国民議会とは別に、国家主権、安全保障、憲法改正、反乱の鎮圧、甚大な自然災害への対処など、国家の最重要事項に関しては、議会制度が成立する前からアフガニスタンに存在してきた伝統的な国家意思決定機関である国民大会議(ロヤ・ジルガ)が最高機関として機能する。非常設であり、国民議会議員、州議会議長、郡議会議長で構成。閣僚と最高裁判所長官及び最高裁判所裁判官は、ロヤ・ジルガに参加できるが、投票権はない。
憲法により複数政党制が認められているが、アメリカやそれに従属するカルザイ政権による制限があり、また政党政治が根付いていないアフガニスタンでは、政党の活動は低調である。それでも比較的有力なものとして、かつてアフマド・シャー・マスードが率い、現在はブルハーヌッディーン・ラッバーニー元大統領の指導するイスラム協会(タジク人中心。北部同盟)、アブドゥルラシード・ドーストム率いるウズベク人勢力のイスラム民族運動、ハザーラ人主体のイスラム統一党がある。また、これらの政党は政党連合統一国民戦線(単に国民戦線とも)を結成し、無党派のカルザイ政権に対する野党として活動している。アフガニスタンの主要民族であるパシュトゥーン人による旧政権ターリバーンやヘクマティヤール派(en:Hezb-e-Islami Gulbuddin)等の反政府活動も存在し、南部の一部を実効支配している。
- アフガニスタン人民民主党 - 社会主義政権時代の執権党
- 北部同盟 - 旧ムジャーヒディーンによる反ターリバーン同盟。現在は統一国民戦線に移行。
司法 [編集]
司法府の最高機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所などが存在。三審制。
人権問題 [編集]
純然たるイスラム国家であったターリバーン政権が崩壊した後、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされる。しかし現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、イスラム国家としての色彩が強い。
そのため、信条の自由などが聖職者の定義するところのイスラーム法に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって罪となることがある。
欧州での生活中にキリスト教に改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては西側世界からの批判が起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は亡命を余儀なくされた[23]。また、女性の権利について、「クルアーンを根拠に女性差別を擁護する人々は預言者ムハンマドの見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された[24]。 これに対しても西側世界は非難しているが、カルザイ政権も今回はムスリム保守層の国民から圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。
アフガニスタンの地方では部族の伝統が根強く、例えば、姦通を犯した女性がその家族の手で処刑される、いわゆる、「名誉殺人」も行われているという[25]。
タリバン政権崩壊後に一度は廃止された宗教警察である勧善懲悪省が復活している。
軍事 [編集]
詳細は「アフガニスタンの軍事」を参照
地域区分 [編集]
詳細は「アフガニスタンの州」を参照
アフガニスタンは34の州 (velāyat) で構成されている。
- バダフシャーン州(Badakhshān)
- バードギース州(Badghīs)
- バグラーン州(Baghlān)
- バルフ州(Balkh)
- バーミヤーン州(Bāmiyān)
- ダーイクンディー州(Dāykondī)
- ファラー州(Farāh)
- ファーリヤーブ州(Fāryāb)
- ガズニー州(Ghaznī)
- ゴール州(Ghowr)
- ヘルマンド州(Helmand)
- ヘラート州(Herāt)
- ジューズジャーン州(Jowzjān)
- カーブル州(Kābul)
- カンダハール州(Kandahār)
- カーピーサー州(Kāpīsā)
- ホースト州(Khowst)
- クナル州(Konar)
- クンドゥーズ州(Kondoz)
- ラグマーン州(Laghmān)
- ローガル州(Lowgar)
- ナンガルハール州(Nangarhār)
- ニームルーズ州(Nīmrūz)
- ヌーリスターン州(Nūrestān)
- ウルーズガーン州(Orūzgān)
- パクティヤー州(Paktiyā)
- パクティーカー州(Paktīkā)
- パンジシール州(Panjshīr)
- パルヴァーン州(Parvān)
- サマンガーン州(Samangān)
- サーレポル州(Sār-e Pol)
- タハール州(Takhār)
- ヴァルダク州(Vardak)
- ザーブル州(Zābol)
地理 [編集]
詳細は「アフガニスタンの地理」を参照
元々の国土はパキスタン北部まで広がっていたが、平野部はイギリスにより引きちぎられ、現在は山岳地帯が大部分を占めている。北部や南西部には若干平野部がある[26]。最も標高の高い地点は、海抜7,485m のノシャック山である。国土の大半は乾燥しており、真水の入手できる場所は限られている[27]。
気候は大陸性で、夏は暑く、冬は寒い。また地震が頻繁に発生している。年平均降水量は、国の南西部で75ミリ、マザーリ・シャリフで213ミリ、東部のカズニーで213ミリ、サーラング峠の上方で1150ミリである[28]。 主要都市は、首都カーブルのほか、西部のヘラート、東部のジャラーラーバード、北部のマザーリシャリーフ、クンドゥズ、南部のカンダハールなどである。
経済 [編集]
詳細は「アフガニスタンの経済」を参照
IMFの統計によると、2010年のアフガニスタンのGDPは166億ドルであり[29]、日本の鳥取県の7割程度の経済規模である[30]。 後発開発途上国の一つで、農業と牧畜への依存度が高い。経済は近年のターリバーンとアメリカ軍を主体とした多国籍軍との戦闘や内戦での戦闘による灌漑施設の破壊や、ソ連軍の侵攻などの社会的な混乱、旱魃により大打撃を受けている。また同じ理由から国民の多くに食料、衣料、住居、医療施設が不足している。
現在は政府歳入の大半を国際援助に依存しており、国民の3分の2は、1日2ドル以下で生活している。旱魃地域ではアヘンの原料となるケシの栽培が盛んであり、政府が対策に当たっているが功を奏していない[31]。幼児の死亡率は25.7%と高い。2004年10月のユニセフの報告によると、幼児死亡原因の多くは非衛生的な水の飲料使用による慢性的な下痢である。国の衛生状態は極めて悪い状態である。
失業率も極めて高い国であり、ネパール、レソトなどと同じように、40%を超える。
2002年1月に東京で開催された「復興支援国会議」で支援計画が提出され、世界銀行の監督下に45億ドルの資金が集められた。復興の主要対象は、教育、医療、下水施設、行政機関、農業、道路、エネルギー、通信と多岐に渡っている。
原油 [編集]
2012年10月22日、中国石油天然気集団がアムダリヤ川流域の鉱区で、本格的な原油生産は初めて開始した[32]。
鉱業 [編集]
古くからアフガニスタンには世界最大規模の各種金属、希少金属、貴金属、宝石を含有する豊富な鉱脈が数多く存在することが知られており、インフラの整備や権益の開発が進めば資源企業に莫大な富をもたらすと考えられている。
もっとも歴史のあるのは紀元前から採掘が続いた青色の宝石ラピスラズリである。首都カーブルの東南東190km、ヒンドゥークシュ山脈山中のサーレサン鉱山 (Sare Sang)[33]が主力。産出量は数トン程度。その他、北東部のコクチャ川の渓谷に位置するサリ・サング近郊の鉱床、アフガニスタンとパキスタン国境沿い、クエッタの西のチャガイ山からも産出する。
有機鉱物資源では北部の天然ガス(4300兆ジュール、2003年)が主力、石炭(3万5000トン)も採掘されている。金属鉱物資源ではクロム(6364トン)がある。このほか岩塩(1万3000トン)も採取されている。
アイナック銅鉱山 (Aynak Copper) は1970年代初めに発見され、1978年に旧ソ連が中央鉱区と西部鉱区の地質探査を終えている。総資源量は鉱石量7億500万トン、平均銅品位1・56%、銅含有金属量1100万トンの超大型の銅鉱床である。その他には、カーブルの南のローガル渓谷、ヘラートのやや南西のいくつかの地点、カンダハルの北のアルガンダー川沿い、パンジシール渓谷のアンダラーブ近郊に銅鉱床が存在している。
金はカンダハールの北東のムクル近郊、バタフシャーンのいくつかの川で発見されている。鉄鉱石の大規模な鉱床はカーブルの西のハージガク峠の近くで見られる[34]。
交通 [編集]
詳細は「アフガニスタンの交通」を参照
交通インフラストラクチャーも度重なる戦乱により破壊され、またはメインテナンスが行なわれていなかった為に現在も復興が行なわれている。なお、多くの先進諸国でみられる様な高速道路網はないものの、主要都市間は舗装された幹線道路によって結ばれており、長距離バスによる移動が行なわれている。
かつては国際列車カイバル鉄道(カーブル~パキスタン国ペシャワール間)があったが、戦乱で荒廃し不通となっている。現在、アフガン公共事業庁の監督の下、ウズベキスタン国境の貨物駅Hayratanからマザーリシャリーフまでの鉄道建設が進んでおり、2011年8月20-21日に開業した。[35]。
なお、諸外国との交通は上記の長距離バスによって行なわれている他、カーブル国際空港をハブとした国営航空会社のアリアナ・アフガン航空や、その他の乗り入れる外国航空会社の定期便で結ばれている。
国民 [編集]
詳細は「アフガニスタンの民族」を参照
主要民族 (2003年推計)
- パシュトゥーン人 45%、言語パシュトー語、宗教ハナフィー派スンニー
- タジク人 32%、言語ダリー語、タジク語、宗教ハナフィー派スンニー、イスマイール派シーア(北部の若干)
- ハザーラ人 12%、言語ハザラギ語(ダリー方言)、イマーム派シーア、イスマイール派シーア、スンニー(極少数)
- ウズベク人 9%、言語ウズベギ語、トルコ語方言、宗教ハナフィー派スンニー
- トルクメン人、言語トルコ語方言、宗教ハナフィー派スンニー
※言語と宗教は前田(2002) 14ページより
言語 [編集]
大体のアフガニスタン人は皆ダリー語(ペルシア語)を理解する。
- テュルク諸語 11%
宗教 [編集]
その他には、シーク教徒、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒が存在する[36]。
イスラム教から他宗教への改宗には死刑が適用されたが、2006年、ドイツでキリスト教に改宗した人の死刑判決に対し国際的非難を浴び、この法律は撤廃され、現在は布教活動も許されるようになった。2006年8月、ターリバーンは韓国人のキリスト教宣教師を拉致監禁し、キリスト教の宣教活動をやめるよう要求した事件があった。
2005年12月15日、バーミヤーンで仏教徒が確認されたことが判明した[要出典]。
文化 [編集]
世界遺産 [編集]
アフガニスタンには多くの貴重な遺跡が残っており、以下の二つがユネスコの世界遺産に登録されている。
-
ジャームのミナレットと考古遺跡群(2002年)
-
バーミヤーン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(2003年)
バーミヤーン渓谷には大仏と多くの壁画が残されていたが、紛争により破壊され続け、殊に2体の大仏は破壊されつつ持ちこたえ立ち続けていたが、2001年にターリバーンによって完全に破壊された。
脚注 [編集]
- ^ a b c d CIA World Factbook 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ アフガニスタンの南部における金石併用時代と青銅器時代の遺跡の内で最も知られており、重要な遺跡である。遺跡はカンダハルの北西約35キロメートル、アルガンダーブ川の支流であるクシュキ・ナフド・ルード川沿いにある。1951年、フランス人考古学者によって発見された。この遺跡は北方の山岳地帯と南方のカンダハル平原を結ぶルートの重要な位置にある。カンダハル・オアシスは北方の山岳地帯と南方の砂漠地帯の境界に位置している。このオアシスでは、北東と東から、様々な川が流れ込んでいるため、豊富な水が供給される。そのためこのカンダハル・オアシスは最も重要地域の一つになっており、遺跡はこのオアシスの周辺集落の内でも最も古いものである。(フォーヘルサング(2005) 73-74ページ)
- ^ ここまで前田(2002) 19ページ
- ^ アレクサンドリア・アレイア(ヘラート)、アレクサンドリア・アラコシア(カンダハル)、アレクサンドリア・カズニー(カズニー)、アレクサンドリア・カビサ(カビサ・ベクラム)、アレクサンドリア・オクシアナ(アイ・ハヌム)、アレクサンドリア・バクトラ(バルフ)など、アレクサンドロスが自分の名を付けた町は多い
- ^ ここまで前田(2002) 19-20ページ
- ^ 「北部同盟」という名称は俗称であり、正式には、「アフガニスタン救国統一戦線」である。進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、80-81頁、ISBN 4-434-05210-1
- ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、46-47頁、ISBN 9784763405302
- ^ キプロス・グループはイラン、ペシャワール・グループはパキスタンの影響下にあり、この二つのグループの参加により、アフガニスタンにとって重要な隣国であるイランとパキスタンが事実上、ボン会合に参加することになったという。進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、87頁、ISBN 4-434-05210-1
- ^ タジク人12名・パシュトゥン人9名・ハザーラ人5名、ウズベク人4名
- ^ 外相・内相・国防相・法相・通信相・運輸相・都市開発相・高等教育相などの主要ポスト、外相のアブドゥッラーや内相のカヌニはラバニ派からの横滑り、国防相もマスードの後継者ファヒーム、都市開発相はジャララバードの市長カディルが就任
- ^ 観光相・情報文科相・復興相・財務相・教育相・女性問題担当相など
- ^ 保健相・灌漑相
- ^ ロヤ・ジルガはもともとパシュトゥ語で、「ロヤ」は「大きい」、「ジルガ」は「会合」を意味する。部族にかかわる問題が生じると、その解決のために集まるのが「ジルガ」であり、ジルガの中で最大のものが「ロヤ・ジルガ」であるという。進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、29-32頁、ISBN 4-434-05210-1
- ^ 進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、126頁、ISBN 4-434-05210-1
- ^ アフガン大統領選、カルザイ氏再選と選管宣言 決選中止 asahi.com2009年11月2日22時45分配信記事
- ^ 1月2日、下院は提出された名簿のうち17人を不信任とした。示された17人には政治や行政の経験のないものが多く、北部同盟等の旧軍閥司令官と関係する候補が複数含まれていた事が不信任の背景にあるといわれている。
- ^ 新閣僚、再び過半が不信任=外相ら14ポストは確定-アフガン 2010年1月16日 海外総合(時事通信)
- ^ 投票所97カ所に攻撃=民間人21人犠牲か-アフガン総選挙 時事ドットコム、2010/09/19-22:58
- ^ アフガン:シーア派行事狙いテロ 58人死亡、135人けが--カブール 毎日新聞 2011年12月7日
- ^ アフガンでシーア派狙う爆弾攻撃、59人死亡・180人超負傷 朝日新聞 2011年12月7日
- ^ 憲法制定ロヤ・ジルガにおいて少数民族は権力の集中を避け、権力バランスを図るため、大統領に加えて首相を設けることを主張したが、実現しなかった。進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、193頁、ISBN 4-434-05210-1
- ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、106-111頁、ISBN 9784763405302
- ^ “Afghan on trial for Christianity”. BBC. (2006年3月20日) 2007年12月8日閲覧。
- ^ Sentenced to death: Afghan who dared to read about women's rights
- ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、114-115頁、ISBN 9784763405302
- ^ 国土の四分の三がヒンドゥー・クシュ(インド人殺し)と呼ばれる高山とその支脈に覆われている。国を南西に1920キロメートルも縦貫している。この山脈は北東部が最も高く、南西に行くほど低くなっている(前田(2002) 10ページ)
- ^ ヒンドゥー・クシュの中心山系から国土を潤す三つの川が流れている。一つは東流してインダス川に合流するカーブル川、一つは南流してハムーン沼沢地に消えるヘルマンド・アルカンダブ川、もう一つは西流してカラ・クム砂漠に消えるハリ・ルード川である。水系は、アム・ダリア水系、ハリ・ルー水系、ヘルマンド・アルガンダ水系の四つに大別できる(前田(2002) 10-12ページ)
- ^ フォーヘルサング(2005) 30ページ
- ^ IMF
- ^ 国民経済計算
- ^ 世界最大のアヘン生産国となっており、世界の87%を同国で生産している。
- ^ “中国、アフガンで初の原油生産 影響力強化へ”. (2012年10月22日) 2012年10月30日閲覧。
- ^ 北緯33度55分39秒東経67度13分34秒
- ^ フォーヘルサング(2005) 31-32ページ
- ^ 海外鉄道ニュース 線路は続くよ海越えて アフガニスタンに鉄道が開業【アフガニスタン】
- ^ AJ-SEPレセプション資料 駐日アフガニスタン大使館 AJ-SEP公式HP2011年11月閲覧
参考文献 [編集]
- 渡辺光一『アフガニスタン/戦乱の現代史』岩波書店(新書・新赤版828)2003年(ISBN 4-00-430828-3)
- 前田耕作・山根聡『アフガニスタン史』河出書房新社、2002年。(ISBN 4-309-22392-3)
- マーティン・ユアンズ『アフガニスタンの歴史』(柳沢圭子ほか訳)明石書店、2002年。(ISBN 4-750-31610-5)
- ヴィレム・フォーヘルサング著、前田耕作・山内和也監訳、愛甲恵子・前田龍彦・村山和之訳『アフガニスタンの歴史と文化』明石書店 2005年。(ISBN 978-4-7503-2070-0)
関連項目 [編集]
1978年以降 [編集]
- 復興関連
- アフガニスタン日本人拉致事件
- ボン合意
- 国連アフガニスタン支援ミッション
- 国際治安支援部隊
- アフガニスタン復興支援国際会議(02年に東京で開催)
- アフガニスタンに関する国際会議(04年3月31日にベルリンで開催)
- その他
- アフガニスタンに関する作品
映画 [編集]
- モフセン・マフマルバフ 『サイクリスト』『カンダハール』『アフガン・アルファベット』
- サミラ・マフマルバフ 『午後の五時』
- ハナ・マフマルバフ 『ハナのアフガンノート』『子供の情景』
- セディク・バルマク 『アフガン零年』
- マーク・フォースター 『君のためなら千回でも』
- ティモー・ベクマムベトフ 『エスケープ・フロム・アフガン』
- マイク・ニコルズ 『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』
- ピーター・マクドナルド『ランボー3/怒りのアフガン』
- ジョン・フランケンハイマー『ホースメン』
評論 [編集]
小説 [編集]
- 『きみのためなら千回でも』 カーレド・ホッセイニ
- 『カブールの燕たち』ヤスミナ・カドラ
- 『フルメタル・パニック!』 賀東招二
ボードゲーム [編集]
- Joseph Miranda【Holy war, Afghanistan】,Strategy & Tactics No.147,Decision Games
- ※1978年に始まったソビエトの軍事介入に対する聖戦。
- Joseph Miranda【Asia Crossroads】,Strategy & Tactics No.216,Decision Games
- ※19世紀のロシア、ペルシャ、中国、アフガニスタン周辺でのイギリスとロシアの覇権争い。
- Joseph Miranda【Operation Aaconda】,Strategy & Tactics No.276,Decision Games
- ※2002年に実施された多国籍軍のアナコンダ作戦。
ビデオ・ゲーム [編集]
- メダル・オブ・オナー (2010年のゲーム) - 2010年10月12日発売予定のFPS。舞台が911後のアフガニスタン。
漫画 [編集]
外部リンク [編集]
- 政府
- アフガニスタン大統領府 (英語)
- 在日アフガニスタン大使館 (英語)(日本語)
- 日本政府
- 日本外務省 - アフガニスタン (日本語)
- その他
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