アフガニスタン

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アフガニスタン・イスラム共和国
جمهوری اسلامی افغانستان
Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān
アフガニスタンの国旗 アフガニスタンの国章
国旗 (国章)
国の標語:なし
国歌ソルーデ・メッリー
アフガニスタンの位置
公用語 パシュトー語ダリー語
首都 カーブル
最大の都市 カーブル
政府
大統領 ハーミド・カルザイ
首相 なし
面積
総計 652,225km240位
水面積率 極僅か
人口
総計(2013年 31,108,077人(38位
人口密度 47人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 ???億[1]アフガニ
GDP(MER
合計(2008年 128億[1]ドル(???位
GDP(PPP
合計(2008年 230億[1]ドル(104位
1人あたり 800[1]ドル
建国[要曖昧さ回避]
独立
 - 宣言
1747年
イギリス保護国より
1919年8月19日
通貨 アフガニAFN
時間帯 UTC +4:30DST:なし)
ISO 3166-1 AF / AFG
ccTLD .af
国際電話番号 93

アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタンは、中東南アジアに位置する共和制国家内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタントルクメニスタンウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル。国民の平均寿命が48歳であり、世界で二番目に短い国である(2011年現在、最下位はマラウイの47歳)。

パシュトゥーン人タジク人ハザーラ人ウズベク人トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家である。

目次

国名[編集]

自称国名はافغانستان (Afghānistān ; アフガーニスターン)。ペルシア語ダリー語で「アフガーン人(パシュトゥーン人)の国(土地)」を意味する。 正式名称は1973年の王制打倒以来政体が変化するごとに新政権によって改められてきたが、ターリバーン政権崩壊後のロヤ・ジルガ(国民大会議)で定められた2004年憲法による正式名称はダリー語で、جمهوری اسلامی افغانستان (ラテン文字転写 : Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān , 読み : ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)という。

公式の英語表記は、Islamic Republic of Afghanistan。通称Afghanistan。日本語の表記は、アフガニスタン・イスラム共和国。通称アフガニスタン。漢字表記は亜富汗斯坦

国名の変遷[編集]

ターリバーン政権期[編集]

ボン合意以降[編集]

  • 2001年 - 2002年 アフガニスタン(公式国名無し)
  • 2002年 - 2004年 アフガニスタン・イスラム移行国
  • 2004年 - アフガニスタン・イスラム共和国

国旗[編集]

現在の国旗は2002年1月に制定されたもの。中央の紋章に書かれている文字はコーランの冒頭の聖句(シャハーダ)である「アッラーフのほかに神は無し、ムハンマドはアッラーフの使徒なり」と書かれている。

歴史[編集]

先史時代[編集]

紀元前10万年旧石器の文化があった。紀元前7000年新石器の文化があった。

紀元前3000年紀元前2000年は、四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。アフガニスタンは、先史時代からイラン高原メソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった[2]

紀元前2000年紀元前1800年、青銅器時代。ムンディガク遺跡[3]、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。

紀元前12世紀リグ・ヴェーダによれば、十王戦争が勃発し、バルフからパンジャブへ侵攻した。

ペルシア・ギリシア・インド文化の時代[編集]

ペルシアとアレクサンドロス大王の支配[編集]

紀元前5世紀頃、アラコシア英語版には古代民族Pactyans英語版が住んでいた。

紀元前6世紀イラン人[要曖昧さ回避]が建てたアケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、アレイヴァ英語版(ヘラート)、アラコシア英語版(カンダハール, ラシュカルガー, クエッタ)、バクトリア(バルフ), サッタギディア英語版(ガズニー), ガンダーラ(カーブル, ジャラーラーバード, ペシャーワル)の地方名で呼ばれた。カンダハルの旧市シャル・イ・コナ英語版の発掘によって、紀元前6世紀にはこの町が、すでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。紀元前5世紀頃、アラコシア英語版には古代民族Pactyans英語版が住んでいたことがサンスクリット古代ギリシャ語文献から知られている。この民族が10世紀頃までにパシュトゥーン人を形成した。

紀元前4世紀アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した[4][5]

南方のマウリア朝と北方のグレコ・パクトリア王国[編集]

紀元前3世紀中頃、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配。 紀元前130年頃にはメナンドロス1世が死んでインド・グリーク朝が分裂すると、サカ族ガンダーラ地方でインド・スキタイ王国を興した。サカ語英語版は後のパシュトー語に強い影響を与えた。 紀元前126年頃にシルクロードを旅した張騫により、シルクロード交易が既に行われていたことが知られている。 紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入しグレコ・バクトリア王国は滅びた。 1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄える。この頃ギリシア文化は影響力を失い代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになり、4世紀頃までバクト商人シルクロード交易を掌握する。 3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。 5世紀前半、エフタルが起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配する。 6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受ける。576年頃、突厥と東ローマ帝国とが対サーサーン朝で同盟。580年頃の突厥内戦英語版で東西に分裂。第一次ペルソ・テュルク戦争英語版588年 - 589年)でサーサーン朝を挟撃した。第二次ペルソ・テュルク戦争英語版619年)、第三次ペルソ・テュルク戦争英語版627年)。イスラーム教徒のペルシア征服633年 - 644年)。

イスラーム化の進展[編集]

ゴール朝の時代に建てられたヘラートの金曜モスク英語版

8世紀初頭、イスラム帝国アッバース朝のイスラム教徒軍がハザールソグディアナトランスオクシアナに侵攻し(アラブ・ハザール戦争英語版トランスオクシアナ征服英語版)、その支配下へ入る。751年タラス河畔の戦いによりイスラム商人シルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わった後も10世紀頃まで残存した。9世紀中頃、再び土着イラン人によるターヒル朝サッファール朝サーマーン朝が興り統治する。

995年マームーン朝英語版のイスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都キャトカタロニア語版ドイツ語版ペルシア語版に栄えていた土着のゾロアスター教国家、アフリーグ朝英語版は滅亡した。 1017年ガズナ朝がマームーン朝を滅ぼした。1040年ダンダーナカーンの戦い英語版セルジューク朝ホラーサーンを支配。 1077年ホラズム・シャー朝が独立。首都がウルゲンチからサマルカンドに遷都。 10世紀以降、この頃からパシュトゥーン人の存在が確認され始める。 1117年、シャンサブ家がゴール朝を興し、シハーブッディーン・ムハンマドに仕えるクトゥブッディーン・アイバクは北インド征服事業を成功させ奴隷王朝を開いた。1215年ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドによってゴール朝は滅亡した。

モンゴル時代[編集]

モンゴル帝国[編集]

モンゴルのホラズム・シャー朝侵攻英語版によってアラーウッディーンもカスピ海アバスクン島英語版に逃れ、死の前にジャラールッディーン・メングベルディーに後事を託した。ゴール朝の臣下だったシャムス・ウッディーンは、主君のルクン・アッ・ディーンが死去すると、モンゴルに臣従してクルト朝を開いた。シャムス・ウッディーンはモンゴルのインド侵攻英語版に参加して、ジャラールッディーンを攻めた。ジャラールッディーンはインドでの戦い英語版グルジア・アルメニアでの戦い英語版で健闘したが、チョルマグン英語版に追いつめられてクルド人に殺され、ホラズム・シャー朝も滅亡した。

14世紀以降、モンゴル系のチャガタイ・ハン国系諸王朝による支配を受ける。

ティムール朝[編集]

鄭和艦隊のホルムズ来訪

1370年頃、テュルク系のティムール朝による支配を受ける。1380年頃、ティムールホラズムを征服し、サマルカンドマウラナ・マリク・イブラヒーム英語版が東南アジアへスーフィズムを伝え、その弟子達ワリ・サンガによってチャンパ王国マジャパヒト王国などイスラム化されたことは、後にムスリムの鄭和が海の交易路を開くことに大きな影響を与えた。シャー・ルフ(在位:1409年 - 1447年)の治世には、永楽帝に使節として鄭和が三度(1415年1422年1431年ホルムズに来訪した。

1470年、ティムール朝が分裂し、ヘラート政権に移行。 1507年ウズベク族シャイバーン朝ムハンマド・シャイバーニー・ハーンが征服し、ティムール朝は滅亡させられた。

サファヴィー朝、ムガル朝、オスマン帝国の抗争[編集]

ロバート・シャーリー英語版アディゲ人英語版の妻テレシア(1624年 - 1627年頃)。ロバート・シャーリーはペルシア軍を近代化し、ヨーロッパにペルシア大使館を造らせた。

1510年サファヴィー朝イランのシャー・イスマーイールの侵攻で、シャイバーニー・ハーンが敗死、征服される。 1514年チャルディラーンの戦いオスマン帝国セリム1世がサファヴィー朝を破る。 1526年第一次パーニーパットの戦いカーブルバーブルインドムガル朝を建設。

親政を開始したタフマースブ1世第一次オスマン・サファヴィー戦争英語版1532年 - 1555年)で、最盛期を迎えていたオスマン帝国のスレイマン1世による侵略をしのいだ。 1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。 1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。 1556年第ニ次パーニーパットの戦いスール朝ヘームー英語版を破る。

1576年、タフマースブ1世が死去すると、サファヴィー朝ペルシアは後継者争いで混乱し、実権はタフマースブ1世の娘パーリー・ハーン・ハーヌムペルシア語版が掌握した。翌1577年に兄ムハンマド・ホダーバンデを傀儡として擁立すると、その妻マフディ・ウリヤ英語版にパーリー・ハーン・ハーヌムが殺害され、ウリヤも蜂起したクズルバシュによって殺され、無政府状態に陥った。こうした中で第二次オスマン・サファヴィー戦争英語版1578年 - 1590年)が始まると、1579年サファヴィー朝ペルシアが放った間者が、スレイマン時代からオスマン帝国を支えていた大宰相ソコルル・メフメト・パシャ暗殺することに成功してオスマン帝国は長期衰退期へ向かわせたが(en:Stagnation of the Ottoman Empire)、アゼルバイジャンとホラーサーンを失ってしまった。

1588年アッバース1世が即位すると軍制改革を断行し、クズルバシュから常備騎兵軍へ改組して、オスマンにも対抗できる軍隊を目指した。 1598年シャイバーニー朝ブハラ・ハン国へ遠征してホラーサーンを奪還。 第三次オスマン・サファヴィー戦争英語版1603年 - 1618年)では、アゼルバイジャンを奪還。この時期にアジアでの反オスマン同盟の相手を探していたイギリスオランダフランスと同盟。 ロバート・シャーリー英語版の指導のもとで武器が近代化されると、1622年ポルトガルと戦ってホルムズ島を奪った(ホルムズ占領英語版)。 1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。この頃、サファヴィー朝は最盛期を迎えた。第四次オスマン・サファヴィー戦争英語版が始まり、1629年アッバース1世が死去すると、サファヴィー朝も衰退期へ向かった。

1630年オイラート四部英語版(ドルベン・オイラト、瓦剌)のひとつトルグート部の指導者ホー・ウルロクロシア語版ドイツ語版太師に率いられたカルムイク人は、同じオイラートのホシュート部に発した内乱を避けてヴォルガ河畔(ノガイ・オルダ)へ移住した(カルムイク・ハン国英語版の成立、1630年 - 1771年)。

1638年ムガル帝国がカンダハールを占拠。 1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。

1689年ロシア帝国清朝が、「清露国境紛争英語版」やジュンガル問題第1次オイラト・満州戦争ロシア語版英語版1687年-1697年)で利害関係が一致し、ネルチンスク条約を締結した。1690年9月、ガルダン・ハーンがロシア製の大砲を擁して清に侵攻したが(ウラン・ブトンの戦い中国語版ロシア語版英語版)、決着がつかずに帰還した。1696年康熙帝がジュンガルを破り(ジョーン・モドの戦い英語版)、翌年にガルダン・ハーンは死去した。

アフガンの王家による統治のはじまり[編集]

ホターキー朝[編集]

1709年、パシュトゥン人ギルザーイー部族ミール・ワイス・ホタ-キー英語版が反乱を起こし、カンダハールにホターキー朝英語版を樹立。 1719年ミール・マフムード英語版がサファヴィー朝のケルマーンに侵攻。 1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・イスファハーンを占拠(グルナバードの戦い英語版)。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。 1729年アシュラーフナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した(ダムガンの戦い英語版)。

ジュンガルツェワンラブタン中国語版ロシア語版ドイツ語版による1723年のカザフ・ハン国への侵攻(「大いなる災厄(アクタバン・シュブルンドゥ)」)に続いて、ガルダンツェリン中国語版ロシア語版ドイツ語版による侵攻が始まり、耐えかねた小ジュズМладший жуз)のアブル=ハイル・ハンが、1731年にロシアに臣従したのを皮切りに、中ジュズСредний жуз)と大ジュズСтарший жуз)も相次いでロシアに臣従し、アブライ・ハーンが最後までジュンガルと戦った。ジュンガルがタシュケントとトルキスタンを占領。ロシア帝国の皇帝アンナの治世(在位:1730年 - 1740年)は、1734年に南ウラル地方に東方前線基地建設計画を立案、1735年要塞都市を建設を開始した。

1736年アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅。 1743年、ロシアがオレンブルク城郭都市オレンブルク城郭ロシア語版を建設し、ジュンガルの反乱に備えた。

ドゥッラーニー朝[編集]

サドーザイ朝[編集]
アフマド・シャー時代のドゥッラーニー朝の版図

1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族の族長アフマド・シャー・ドゥッラーニーによるドゥッラーニー朝が成立。

1757年マラータ同盟のインド北西部侵攻英語版パンジャーブが占領される。 1759年大小和卓の乱中国語版乾隆帝バダフシャーン地方英語版(現バダフシャーン州ゴルノ・バダフシャン自治州)に侵攻。 1761年第3次パーニーパットの戦いドゥッラーニー朝アワド太守などのムスリム同盟軍が、ヒンドゥー教マラーター同盟に攻め込み勝利。パンジャーブの領土を拡張した。

1771年カルムイク人指導者ウバシロシア語版ドイツ語版が、父祖の地である東トルキスタンイリ地方へ帰還したことがきっかけとなり、プガチョフの乱が勃発。オレンブルク城郭ロシア語版が落とされそうになったが鎮圧に成功した。以降、オレンブルク南下政策の拠点となる。

1783年エカチェリーナ2世キュチュク・カイナルジ条約を破って「ノヴォロシア」(旧クリミア・ハン国領)を併合した(南下政策の始まり)。これをきっかけに露土戦争 (1787年-1791年)が勃発し、東方問題が顕在化する。

1796年ガージャール朝に対するペルシア遠征ロシア語版ペルシア語版英語版は、エカチェリーナ2世の死去によって中止された。ロシア皇帝に即位したパーヴェル1世は、体制刷新を図ってスヴォーロフらを解任したが、1798年12月に第二次対仏大同盟が結成されると、1799年2月にスヴォーロフを呼び戻した。

グレートゲーム[編集]

将校らに暗殺されるパーヴェル1世
ナポレオンのロシアからの撤退

フランス革命中の1800年から1801年頃にロシア帝国パーヴェル1世ナポレオンと手を結んでイギリスの植民地であるインドへの遠征を企てた。1800年1月21日にスヴォーロフは再び解任され、5月18日に死亡した。しかし1801年3月にパーヴェル1世が暗殺され(パーヴェル1世暗殺事件ロシア語版)、インドへの遠征は実施されずに終わった。

ナポレオン戦争1803年 - 1815年)期にも、ナポレオンロシア帝国アレクサンドル1世が共同してインドに侵攻する可能性が再び想定されたため、大英帝国はそれに対抗する意味合いで1809年シュジャー・シャーと同盟した。ロシアへ侵攻したフランス軍は、焦土作戦と冬将軍によって衰弱させられ撃退されたため(1812年ロシア戦役)、インドへの遠征は杞憂に終わった。

1823年ノウシェラの戦い英語版でドゥッラーニー朝がシク王国に敗北し、ペシャーワル一帯の領土を失い、カイバル峠を越えて撤退した。

バーラクザイ朝[編集]

1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。

1826年イギリス東インド会社の情報将校アーサー・コノリー英語版は、モスクワを出発してコーカサスへ向かいコーカサス戦争の戦況を観察するとアジアへ向かい、1830年9月にはヘラートへ、1831年1月にはインドへ到着。1834年、国名をアフガニスタン首長国en)とする。1834年にコノリーは旅行記を発表し、1840年に「グレートゲーム」という言葉を初めて用いた。

1838年1842年第一次アフガン戦争イギリスに勝利。 シク戦争英語版1845年 - 1849年)では、第一次シク戦争英語版1845年 - 1846年)でラホール条約英語版を締結したイギリスはシク王国からカシミール地方を譲渡された(ジャンムー・カシミール藩王国の成立)。第二次シク戦争英語版1848年 - 1849年)で敗れたシク王国がイギリスに併合され、British Indiaパンジャーブ地方英語版となり、マリー英語版Murree)が夏の首都となった。1855年にイギリスはアフガニスタンとペシャーワル条約: Treaty of Peshawar)を締結し、ガージャール朝の侵攻に対する両国の相互防衛関係を構築した。ナポレオン3世の仲裁でイギリスのストラトフォード・カニングガージャール朝イランアミーノッドウレ英語版ペルシア語: هشتپر‎、フランス語: Amīn od-Doule)の交渉が行なわれた結果、パリ条約英語版が締結され、ガージャール朝はアフガニスタンから手を引かされた。1858年イギリス領インド帝国が成立し、1864年にはシムラーイギリス領インド帝国の夏の首都となる。

その頃、ロシア帝国オレンブルクを拠点として1830年代から1850年代にかけて南下政策の準備を推進し、1853年ヴァシーリー・ペロフスキー英語版将軍率いるロシア軍[要曖昧さ回避]ヤクブ・ベクが守るアク・メチェト要塞(現クズロルダ)を占領。その後、ヤクブ・ベクイェット・シェヘル・ハン国を興すなどして、英露双方から緩衝国家とみなされるようになった。1865年コーカンド・ハン国北部の経済都市タシュケントを征服。1868年にはサマルカンドを占領し、ブハラ・ハン国を保護国化した。1869年に帝政ロシア軍がカスピ海東岸に上陸。1873年ヒヴァ戦争ロシア語版ヒヴァ・ハン国を占領。

左宗棠
ヤクブ・ベク

1873年三帝同盟が締結され、ドイツ帝国ロシア帝国オーストリア・ハンガリー帝国が同盟した。1875年清朝欽差大臣に任命された塞防派(対露強硬派)の左宗棠は、ロシアと同盟していたドイツのテルゲ商会の支援で、1876年にヤクブ・ベクの乱を鎮圧してしまい、想定外の清朝によって緩衝国家が失われた結果、均衡が破られ中央アジア情勢はにわかに動き出すことになった。1876年にコーカンド・ハン国を占領。1877年にオレンブルクとサマーラ間の鉄道が完成。1879年第一次アハル・テケ遠征英語版1880年から1881年第二次アハル・テケ遠征ロシア語版英語版アシガバートを占領。1881年アハル条約ペルシア語版フランス語版英語版Treaty of Akhal)を締結し、ガージャール朝イランロシアへの割譲に同意(イランからのヘラート分離ペルシア語版)。ロシアはザカスピ州を設置した。 一方、第二次アフガン戦争1878年 - 1880年)のカンダハールの戦い英語版でアフガニスタン首長国もイギリスに敗れ、ガンダマク条約英語版でその保護国となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。

イギリス保護国期[編集]

左からJenkyns、Cavagnariヤアクーブ・ハーン英語版、Daoud Shah、Habibullah Moustafi(ガンダマク条約英語版1879年

1885年ロシア帝国とのパンジェ紛争英語版イギリス巨文島巨文島事件英語版を起こし、ロシアを牽制した。 1886年フランシス・ヤングハズバンド満州からゴビ砂漠を横断し、カラコルム山脈マスタフ峠英語版を越えてインドに至る「中国-インド間のルート」を開拓。 1888年カスピ海横断鉄道が、カスピ海からアシガバートブハラを経てサマルカンドまでの路線が完成。 1889年フンザによる「ヤルカンド-インド間の交易路」への襲撃が激化。 1890年、ヤングハズバンドが南下するロシア帝国ブロニスラフ・グロンブチェフスキー英語版率いるロシア軍兵士にワハーン回廊ボザイ・グンバズ英語版で拘束されそうになる事件が発生。 1891年フンザ・ナガル戦争英語版が勃発。 1893年デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。 1895年チトラル遠征英語版1897年マラカンド包囲戦英語版によってパシュトゥーン人の居住地域「パシュトゥーニスタン英語版」はデュアランド・ラインで分断され、en:Malakand Agencyが設置された。 1901年インド副王カーゾン卿によって、北西辺境州英語版شمال مغربی سرحدی صوبہNorth-West Frontier Province、略称:NWFP)が創設された。同年、小説『少年キム英語版』が出版され、1907年ラドヤード・キップリングノーベル文学賞を受賞。1950年の映画化『少年キム英語版』によって「グレートゲーム」という言葉は万人の知るところとなった。

アフガンの王家による再独立[編集]

女性の地位向上を図った王妃ソラヤ・タルズィー英語版
1926年4月のインド総督就任時にアメリカの『タイム』誌の表紙を飾ったアーウィン卿

第一次世界大戦中には中央同盟国が外交ミッションのニーダーマイヤー・ヘンティグ遠征英語版1915年 - 1916年)を行いアフガニスタンに独立を促した。ロシアのインド学者フョードル・シシェルバツコイロシア語版英語版によるカルムイク・プロジェクト英語版は、英国諜報部員フレデリック・ベイリー英語版が、ボルシェビキとドイツによる中央アジアでの動きを察知し、チベットネパールシッキムブータンを守った。一方のソ連バスマチ蜂起1918年 - 1924年)によって中央アジアの統治は大混乱となった。

戦後にはイギリスが疲弊し、ソ連が混乱した好機を逃さず、1919年第三次アフガン戦争に勝利したアマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成して国王に即位した。1926年、国名をアフガニスタン王国en)とする。同年、オーレル・スタインインダス川上流及びスワート川英語版流域(デュアランド・ライン)を調査旅行した。アマーヌッラーは、トルコ共和国の新指導者ケマル・アタテュルク世俗主義民族主義共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。王妃ソラヤ・タルズィー英語版は近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。タジク人の指導者ハビーブッラー・カラカーニー英語版は、イギリスから資金と武器の支援を受けて、カーブルを占領してアマーヌッラー政権を打倒した(アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦ペルシア語版ノルウェー語(ブークモール)版英語版)。こうしてイギリスの横槍で近代化は失敗に終わり、女性の地位向上も実現されずに終わった。

1929年ナクシュバンディー教団ムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任。1931年に制定した新憲法の第一条でスンナ派ハナフィー学派を国教に定めた。この条文が国内少数派のシーア派に対する反ハザラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺された。同日、息子のザーヒル・シャーが即位した。

冷戦[編集]

パシュトゥーニスタン独立運動[編集]

1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタンは「もともとインドの一部ではないので」インドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンもカラート藩王国英語版の独立を認めた上で、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合英語版として独立させた。しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争英語版)に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。

パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとした為、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン英語版独立運動」を起こし牽制した。

ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進したが、1973年にイタリアで病気療養中にクーデターを起こされてそのまま亡命した。

王政廃止からソ連軍の撤退まで[編集]

アフガニスタンの近代化を目指しソ連に接近したムハンマド・ダーウード
首都カーブルに展開するソ連の空挺兵

1973年、旧王族のムハンマド・ダーウードクーデターを起こして国王を追放し共和制を宣言して大統領に就任。新しい国名はアフガニスタン共和国en)。アフガニスタン社会の近代化と軍事近代化を目指しソ連に接近しイスラム主義者達を弾圧する。この時パキスタンに脱出したヘクマティヤールヒズベ・イスラーミー英語版(ヘクマティヤール派)を結成し、ラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミーペルシア語版ロシア語版英語版(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。

1978年4月、アフガニスタン人民民主党主導による軍事クーデター「四月革命英語版」が発生し、ムハンマド・ダーウード大統領一族が処刑される。人民民主党による社会主義政権が樹立し国名をアフガニスタン民主共和国に変更する。初代革命評議会議長兼大統領兼首相はヌール・ムハンマド・タラキー。これに対して全土でムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まり政情が不安定化する中、1979年2月にイラン革命が勃発。9月17日、ヌール・ムハンマド・タラキーが副首相のハフィーズッラー・アミーン一派に殺害され、アミーンが革命評議会議長兼大統領兼首相に就任。11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。12月27日、ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンをKGBを使って暗殺、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立する。ソ連軍及政府軍とムジャーヒディーンの戦闘が激化する。

1982年、国連総会において外国軍の撤退を要求する国連決議 37/37 が採択される。 1987年ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。 1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。 1989年、ソ連軍撤退完了(10万人)。各国からのムジャーヒディーンの多くも国外へ引き上げる。戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。

ターリバーンとの戦い[編集]

ソ連軍の撤退からターリバーン政権の統治とそれに対する有志連合の攻撃まで[編集]

カーブルでインタビューを受けるビン・ラーディン1997年
1996年時点のアフガニスタン、赤と緑の北部同盟、黄色がターリバーンの支配地域

1989年、ソ連軍が撤退した後国内の支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。 1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミーペルシア語版ロシア語版英語版(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。 1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。 1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州英語版がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。 1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟[6]マスード派とドスタム派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。 1997年、第一次マザーリシャリーフの戦い英語版でターリバーンが敗北 1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された[7]。またケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したためにアメリカとの関係が緊張化する。 1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267英語版が採択される。 2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333英語版が採択される。 2001年3月6日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト二名の自爆テロで死亡した。9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定。9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。

テロとの戦い[編集]

有志連合のターリバーン政権に対する攻撃から暫定政権の樹立まで[編集]

アフガニスタンに向けて発射されるミサイル

2001年10月2日アメリカ同時多発テロ事件を受けてNATOアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。10月7日アメリカ軍不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-)が開始される。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。11月22日、パキスタン政府、ターリバーンとの断交を決定し、駐イスラマバード アフガニスタン大使館を閉鎖した。11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加した[8]11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した。ボン合意。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊 (ISAF) 創設、カーブルの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。

暫定政権樹立からアフガニスタン・イスラム共和国成立まで[編集]

移動する有志連合の部隊(ルーマニア軍、2003年)

2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名[9]で構成され、うち北部同盟が19ポスト[10]、元国王支持派が8ポスト[11]、ペシャワル派が2ポスト[12]占めた。

2002年1月21日、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60各国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5000万ドル、イギリスは5年で3億7200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また、周辺各国は、イランが1年で1億2000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業及び地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。2月14日アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺される。6月10日6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)開催される[13]。1500人以上の代表参加。6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し、当選した[14]6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガ閉会する。7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆、市民48人死亡、117人が負傷する。

2003年12月14日2004年1月4日、憲法制定ロヤ・ジルガが開催され、新憲法を採択。北部同盟[要曖昧さ回避]ターリバーン政権転覆に成功した後、かつての「パシュトゥーニスタン英語版独立運動」の地域が逆にターリバーンアルカーイダの潜伏場所に変わっていた。2004年3月、ワジリスタン紛争が勃発。

アフガニスタン・イスラム共和国成立以降[編集]

カルザイ大統領の就任式(2004年)
右奥に着席しているのはザーヒル・シャー元国王

2004年10月9日、初の大統領選挙。カルザイが当選、大統領に就任。アフガニスタン・イスラム共和国発足。選挙を前にターリバーンの活動が活発化、南部を実効統治。2005年、総選挙・州議会選挙実施。2006年、ISAFの指揮権がNATOに移譲される。5月、ターリバーンの攻勢強まる。7月、ISAF南部展開。10月、ISAF東部展開、計13000人がアフガニスタンに駐留。

2009年8月、大統領選挙。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。二位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定[15]

2010年1月16日、下院は、カルザイ大統領が9日に再提示した第2次政権の閣僚候補17人[16]について信任投票を行った。そのうち7人が信任され、10人が不信任となり、大統領は三度目の名簿提出を余儀なくされた。全閣僚中、外務、内務、国防、財務の四主要閣僚を含む14人は確定した[17]9月18日、下院議会選挙。97か所の投票所を含む多数のターリバーンによるテロ攻撃があったと発表[18]

2011年5月2日、CNNが、ビン=ラーディンアボッターバードで殺害した、と報道した[19]7月12日カンダハール州議会議長アフマド・ワリー・カルザイパシュトゥー語版英語版(大統領の弟)が自宅で警護官によって暗殺される。7月15日、アメリカ軍のアフガニスタンからの撤退開始。9月20日、ターリバーンとの和解交渉を担当する高等和平評議会の議長ブルハーヌッディーン・ラッバーニーが自宅への自爆攻撃により死去。カルザイ大統領はターリバーンとの和平交渉打ち切りを指示した(後にターリバーンが犯行を認めた)。12月6日、首都カーブルや北部バルフ州の州都マザーリシャリーフ、南部カンダハール州などで、イスラム教シーア派の廟やその周辺で自爆・仕掛け爆弾による爆発があり、多数の死者や負傷者が出ている。警察はテロの可能性を指摘している。[20][21]

政治[編集]

アフガニスタンは共和制大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法2004年1月16日に公布されたもの。そのほかにもクルアーンやシャリーアを法の源泉とする規定があり、アフガニスタンはイスラム国家の色彩が強い。

元首[編集]

国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は5年。3選禁止。大統領は強力な指導権を憲法により保障されている。副大統領職あり。イスラーム教徒以外大統領にはなれない。

行政[編集]

行政府たる内閣は大統領が任命するが、議会の承認が必要。首相職は設置されていない[22]

腐敗問題[編集]

BBCNHKの報道によると、カルザイ政権発足以降政府高官や公務員による汚職が急増している。アフガン政府の腐敗にアフガン国民が失望し、そのためアフガン国民は政府ではなくターリバーンを頼るようになり、ターリバーンが復活する一因となったという[23]

立法[編集]

立法府二院制国民議会で、憲法により、国家の最高立法機関と規定されている。国民議会は下院に相当する人民議会(ウォレシ・ジルガ)と、上院に相当する長老議会(メシュラノ・ジルガ)で構成される。人民議会は249議席以下と規定され、議員は国民の直接選挙で選出される。任期は5年。長老議会は定数102議席で、5年任期議員(大統領の任命)、4年任期議員(各州議会の選出)、3年任期議員(各郡議会の選出)が3分の1ずつを占める。

国民議会とは別に、国家主権安全保障憲法改正反乱の鎮圧、甚大な自然災害への対処など、国家の最重要事項に関しては、議会制度が成立する前からアフガニスタンに存在してきた伝統的な国家意思決定機関である国民大会議ロヤ・ジルガ)が最高機関として機能する。非常設であり、国民議会議員、州議会議長、郡議会議長で構成。閣僚と最高裁判所長官及び最高裁判所裁判官は、ロヤ・ジルガに参加できるが、投票権はない。

憲法により複数政党制が認められているが、アメリカやそれに従属するカルザイ政権による制限があり、また政党政治が根付いていないアフガニスタンでは、政党の活動は低調である。それでも比較的有力なものとして、かつてアフマド・シャー・マスードが率い、現在はブルハーヌッディーン・ラッバーニー元大統領の指導するイスラム協会英語版タジク人中心。北部同盟)、アブドゥルラシード・ドーストム率いるウズベク人勢力のイスラム民族運動ハザーラ人主体のイスラム統一党英語版がある。また、これらの政党は政党連合統一国民戦線(単に国民戦線とも)を結成し、無党派のカルザイ政権に対する野党として活動している。アフガニスタンの主要民族であるパシュトゥーン人による旧政権ターリバーンヘクマティヤール派(en:Hezb-e-Islami Gulbuddin)等の反政府活動も存在し、南部の一部を実効支配している。

司法[編集]

司法府の最高機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所などが存在。三審制

人権問題[編集]

純然たるイスラム国家であったターリバーン政権が崩壊した後、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされる。しかし現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、イスラム国家としての色彩が強い。

そのため、信条の自由などが聖職者の定義するところのイスラーム法に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって罪となることがある。

欧州での生活中にキリスト教に改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては西側世界からの批判が起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は亡命を余儀なくされた[24]。また、女性の権利について、「クルアーンを根拠に女性差別を擁護する人々は預言者ムハンマドの見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された[25]。 これに対しても西側世界は非難しているが、カルザイ政権も今回はムスリム保守層の国民から圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。

アフガニスタンの地方では部族の伝統が根強く、例えば、姦通を犯した女性がその家族の手で処刑される、いわゆる、「名誉殺人」も行われているという[26]。2014年2月には被告の家族一員の女性だけでなく、女性の弁護士、女医、女の子供など女性に区分される人々が裁判の証人として出廷することも禁止する法改正が行われようとしている、と報じられた。[27][28]

ターリバーン政権崩壊後に一度は廃止された勧善懲悪省(宗教警察[要曖昧さ回避])が、同政権時代と比較して幾分穏健化しているものの、巡礼・宗教問題省の名で復活している。

軍事[編集]

アフガニスタン国軍

地理[編集]

アフガニスタンの地図
アフガニスタン国土の高度分布図 灰色に写っている部分は高度3000mを越えており、白が強くなるほど高度が上がる。この部分がほぼヒンドゥークシュ山脈に相当する

元々の国土はパキスタン北部まで広がっていたが、平野部はイギリスにより引きちぎられ、現在は山岳地帯が大部分を占めている。北部や南西部には若干平野部がある[29]。最も標高の高い地点は、海抜7,485m のノシャック山である。国土の大半は乾燥しており、真水の入手できる場所は限られている[30]

気候は大陸性で、夏は暑く、冬は寒い。また地震が頻繁に発生している。年平均降水量は、国の南西部で75ミリ、マザーリシャリーフで213ミリ、東部のカズニーで213ミリ、サラング峠の上方で1150ミリである[31]。 主要都市は、首都カーブルのほか、西部のヘラート、東部のジャラーラーバード、北部のマザーリシャリーフクンドゥーズ、南部のカンダハールなどである。

地域区分[編集]

アフガニスタンは34の州 (velāyat) で構成されている。

Afghanistan provinces japanese.png
  1. バダフシャーン州(Badakhshān)
  2. バードギース州(Badghīs)
  3. バグラーン州(Baghlān)
  4. バルフ州(Balkh)
  5. バーミヤーン州(Bāmiyān)
  6. ダーイクンディー州(Dāykondī)
  7. ファラー州(Farāh)
  8. ファーリヤーブ州(Fāryāb)
  9. ガズニー州(Ghaznī)
  10. ゴール州(Ghowr)
  11. ヘルマンド州(Helmand)
  12. ヘラート州(Herāt)
  13. ジョウズジャーン州(Jowzjān)
  14. カーブル州(Kābul)
  15. カンダハール州(Kandahār)
  16. カーピーサー州(Kāpīsā)
  17. ホースト州(Khowst)
  18. クナル州(Konar)
  19. クンドゥーズ州(Kondoz)
  20. ラグマーン州(Laghmān)
  21. ローガル州(Lowgar)
  22. ナンガルハール州(Nangarhār)
  23. ニームルーズ州(Nīmrūz)
  24. ヌーリスターン州(Nūrestān)
  25. ウルーズガーン州(Orūzgān)
  26. パクティヤー州(Paktiyā)
  27. パクティーカー州(Paktīkā)
  28. パンジシール州(Panjshīr)
  29. パルヴァーン州(Parvān)
  30. サマンガーン州(Samangān)
  31. サーレポル州(Sār-e Pol)
  32. タハール州(Takhār)
  33. ヴァルダク州(Vardak)
  34. ザーブル州(Zābol)

経済[編集]

名産であるザクロを加工する労働者

IMFの統計によると、2010年のアフガニスタンのGDPは166億ドルであり[32]日本鳥取県の7割程度の経済規模である[33]後発開発途上国の一つで、農業牧畜への依存度が高い。経済は近年のターリバーンとアメリカ軍を主体とした多国籍軍との戦闘や内戦での戦闘による灌漑施設の破壊や、ソ連軍の侵攻などの社会的な混乱、旱魃により大打撃を受けている。また同じ理由から国民の多くに食料、衣料、住居、医療施設が不足している。

現在は政府歳入の大半を国際援助に依存しており、国民の3分の2は、1日2ドル以下で生活している。旱魃地域ではアヘンの原料となるケシの栽培が盛んであり、政府が対策に当たっているが功を奏していない[34]。幼児の死亡率は25.7%と高い。2004年10月のユニセフの報告によると、幼児死亡原因の多くは非衛生的な水の飲料使用による慢性的な下痢である。国の衛生状態は極めて悪い状態である。

失業率も極めて高い国であり、ネパールレソトなどと同じように、40%を超える。

2002年1月に東京で開催された「復興支援国会議」で支援計画が提出され、世界銀行の監督下に45億ドルの資金が集められた。復興の主要対象は、教育、医療、下水施設、行政機関、農業、道路、エネルギー、通信と多岐に渡っている。

原油[編集]

2012年10月22日、中国石油天然気集団アムダリヤ川流域の鉱区で、本格的な原油生産を初めて開始した[35]

鉱業[編集]

サリ・サング鉱山英語版バダフシャーン州クラン・ワ・ムンジャン県英語版)から採れるラピスラズリは世界で最も良質なことで知られる。

古くからアフガニスタンには世界最大規模の各種金属、希少金属、貴金属、宝石を含有する豊富な鉱脈が数多く存在することが知られており、インフラの整備や権益の開発が進めば資源企業に莫大な富をもたらすと考えられている。

もっとも歴史のあるのは紀元前から採掘が続いた青色の宝石ラピスラズリである。首都カーブルの東南東190km、ヒンドゥークシュ山脈山中のサリ・サング鉱山英語版 (Sar-i Sang)[36]が主力。産出量は数トン程度。その他、北東部のコクチャ川の渓谷に位置するサリ・サング近郊の鉱床、アフガニスタンとパキスタン国境沿い、クエッタの西のチャガイ山からも産出する。

有機鉱物資源では北部の天然ガス(4300兆ジュール、2003年)が主力、石炭(3万5000トン)も採掘されている。金属鉱物資源ではクロム(6364トン)がある。このほか岩塩(1万3000トン)も採取されている。

アイナック銅鉱山英語版 (Aynak Copper) は1970年代初めに発見され、1978年に旧ソ連が中央鉱区と西部鉱区の地質探査を終えている。総資源量は鉱石量7億500万トン、平均銅品位1・56%、銅含有金属量1100万トンの超大型の銅鉱床である。その他には、カーブルの南のローガル渓谷、ヘラートのやや南西のいくつかの地点、カンダハルの北のアルガンダー川沿い、パンジシール渓谷のアンダラーブ近郊に銅鉱床が存在している。

金はカンダハールの北東のムクル近郊、バタフシャーンのいくつかの川で発見されている。鉄鉱石の大規模な鉱床はカーブルの西のハージガク峠の近くで見られる[37]

交通[編集]

首都カーブルと南部のカンダハールを結ぶ幹線道路

交通インフラストラクチャーも度重なる戦乱により破壊され、またはメインテナンスが行なわれていなかった為に現在も復興が行なわれている。なお、多くの先進諸国でみられる様な高速道路網はないものの、主要都市間は舗装された幹線道路によって結ばれており、長距離バスによる移動が行なわれている。

かつては国際列車カイバル鉄道(カーブル~パキスタン国ペシャワール間)があったが、戦乱で荒廃し不通となっている。現在、アフガン公共事業庁の監督の下、ウズベキスタン国境の貨物駅Hayratanからマザーリシャリーフまでの鉄道建設が進んでおり、2011年8月20-21日に開業した。[38]

なお、諸外国との交通は上記の長距離バスによって行なわれている他、カーブル国際空港ハブとした国営航空会社アリアナ・アフガン航空や、その他の乗り入れる外国航空会社の定期便で結ばれている。

国民[編集]

民族構成(アフガニスタン)
パシュトゥーン人
  
45%
タジク人
  
32%
ハザーラ人
  
12%
ウズベク人
  
9%
その他
  
2%
2001年のアフガニスタンの民族

主要民族 (2003年推計)

  • パシュトゥーン人 45%、言語パシュトー語、宗教ハナフィー派スンニー
  • タジク人 32%、言語ダリー語、タジク語、宗教ハナフィー派スンニー、イスマイール派シーア(北部の若干)
  • ハザーラ人 12%、言語ハザラギ語(ダリー方言)、イマーム派シーア、イスマイール派シーア、スンニー(極少数)
  • ウズベク人 9%、言語ウズベギ語、トルコ語方言、宗教ハナフィー派スンニー
  • トルクメン人、言語トルコ語方言、宗教ハナフィー派スンニー

その他にアイマーク人ヌーリスターン人バローチ人英語版パシャイー人英語版など。 ※言語と宗教は前田(2002) 14ページより

言語[編集]

大体のアフガニスタン人は皆ダリー語(ペルシア語)を理解する。

宗教[編集]

その他には、シーク教徒ヒンドゥー教徒キリスト教徒が存在する[39]

イスラム教から他宗教への改宗には死刑が適用されたが、2006年、ドイツキリスト教に改宗した人の死刑判決に対し国際的非難を浴び、この法律は撤廃され、現在は布教活動も許されるようになった。2006年8月、ターリバーン韓国人のキリスト教宣教師を拉致監禁し、キリスト教の宣教活動をやめるよう要求した事件があった。

2005年12月15日、バーミヤーンで仏教徒が確認されたことが判明した[要出典]

文化[編集]

世界遺産[編集]

アフガニスタンには多くの貴重な遺跡が残っており、以下の二つがユネスコ世界遺産に登録されている。

バーミヤーン渓谷には大仏と多くの壁画が残されていたが、紛争により破壊され続け、殊に2体の大仏は破壊されつつ持ちこたえ立ち続けていたが、2001年にターリバーンによって完全に破壊された。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d CIA World Factbook 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ ここまで前田(2002) 19ページ
  3. ^ アフガニスタンの南部における金石併用時代と青銅器時代の遺跡の内で最も知られており、重要な遺跡である。遺跡はカンダハルの北西約35キロメートル、アルガンダーブ川の支流であるクシュキ・ナフド・ルード川沿いにある。1951年、フランス人考古学者によって発見された。この遺跡は北方の山岳地帯と南方のカンダハル平原を結ぶルートの重要な位置にある。カンダハル・オアシスは北方の山岳地帯と南方の砂漠地帯の境界に位置している。このオアシスでは、北東と東から、様々な川が流れ込んでいるため、豊富な水が供給される。そのためこのカンダハル・オアシスは最も重要地域の一つになっており、遺跡はこのオアシスの周辺集落の内でも最も古いものである。(フォーヘルサング(2005) 73-74ページ)
  4. ^ アレクサンドリア・アレイア(ヘラート)、アレクサンドリア・アラコシア(カンダハル)、アレクサンドリア・カズニー(カズニー)、アレクサンドリア・カビサ(カビサ・ベクラム)、アレクサンドリア・オクシアナ(アイ・ハヌム)、アレクサンドリア・バクトラ(バルフ)など、アレクサンドロスが自分の名を付けた町は多い
  5. ^ ここまで前田(2002) 19-20ページ
  6. ^ 「北部同盟」という名称は俗称であり、正式には、「アフガニスタン救国統一戦線」である。進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、80-81頁、ISBN 4-434-05210-1
  7. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、46-47頁、ISBN 9784763405302
  8. ^ キプロス・グループはイラン、ペシャーワル・グループはパキスタンの影響下にあり、この二つのグループの参加により、アフガニスタンにとって重要な隣国であるイランとパキスタンが事実上、ボン会合に参加することになったという。進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、87頁、ISBN 4-434-05210-1
  9. ^ タジク人12名・パシュトゥン人9名・ハザーラ人5名、ウズベク人4名
  10. ^ 外相・内相・国防相・法相・通信相・運輸相・都市開発相・高等教育相などの主要ポスト、外相のアブドゥッラーや内相のカヌニはラバニ派からの横滑り、国防相もマスードの後継者ファヒーム、都市開発相はジャララバードの市長カディルが就任
  11. ^ 観光相・情報文科相・復興相・財務相・教育相・女性問題担当相など
  12. ^ 保健相・灌漑相
  13. ^ ロヤ・ジルガはもともとパシュトゥ語で、「ロヤ」は「大きい」、「ジルガ」は「会合」を意味する。部族にかかわる問題が生じると、その解決のために集まるのが「ジルガ」であり、ジルガの中で最大のものが「ロヤ・ジルガ」であるという。進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、29-32頁、ISBN 4-434-05210-1
  14. ^ 進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、126頁、ISBN 4-434-05210-1
  15. ^ アフガン大統領選、カルザイ氏再選と選管宣言 決選中止 asahi.com2009年11月2日22時45分配信記事
  16. ^ 1月2日、下院は提出された名簿のうち17人を不信任とした。示された17人には政治や行政の経験のないものが多く、北部同盟等の旧軍閥司令官と関係する候補が複数含まれていた事が不信任の背景にあるといわれている。
  17. ^ 新閣僚、再び過半が不信任=外相ら14ポストは確定-アフガン 2010年1月16日 海外総合(時事通信)
  18. ^ 投票所97カ所に攻撃=民間人21人犠牲か-アフガン総選挙 時事ドットコム、2010/09/19-22:58
  19. ^ Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan www.cnn.com.「Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan」May 1, 2011 11:31 p.m. EDT
  20. ^ アフガン:シーア派行事狙いテロ 58人死亡、135人けが--カブール 毎日新聞 2011年12月7日
  21. ^ アフガンでシーア派狙う爆弾攻撃、59人死亡・180人超負傷 朝日新聞 2011年12月7日
  22. ^ 憲法制定ロヤ・ジルガにおいて少数民族は権力の集中を避け、権力バランスを図るため、大統領に加えて首相を設けることを主張したが、実現しなかった。進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、193頁、ISBN 4-434-05210-1
  23. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、106-111頁、ISBN 9784763405302
  24. ^ “Afghan on trial for Christianity”. BBC. (2006年3月20日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/4823874.stm 2007年12月8日閲覧。 
  25. ^ Sentenced to death: Afghan who dared to read about women's rights
  26. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、114-115頁、ISBN 9784763405302
  27. ^ アフガニスタン 女性の殴打許可へ ロシアの声 2014年2月5日17:10
  28. ^ アフガニスタン、「女性殴打を許可」の新法案に世界中から非難の声 オルタナS 2014年2月14日
  29. ^ 国土の四分の三がヒンドゥー・クシュ(インド人殺し)と呼ばれる高山とその支脈に覆われている。国を南西に1920キロメートルも縦貫している。この山脈は北東部が最も高く、南西に行くほど低くなっている(前田(2002) 10ページ)
  30. ^ ヒンドゥー・クシュの中心山系から国土を潤す三つの川が流れている。一つは東流してインダス川に合流するカーブル川、一つは南流してハムーン沼沢地に消えるヘルマンド・アルカンダブ川、もう一つは西流してカラ・クム砂漠に消えるハリ・ルード川である。水系は、アム・ダリア水系、ハリ・ルー水系、ヘルマンド・アルガンダ水系の四つに大別できる(前田(2002) 10-12ページ)
  31. ^ フォーヘルサング(2005) 30ページ
  32. ^ IMF
  33. ^ 国民経済計算
  34. ^ 世界最大のアヘン生産国となっており、世界の87%を同国で生産している。
  35. ^ “中国、アフガンで初の原油生産 影響力強化へ”. (2012年10月22日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/121022/asi12102220570000-n1.htm 2012年10月30日閲覧。 
  36. ^ 北緯33度55分39秒東経67度13分34秒
  37. ^ フォーヘルサング(2005) 31-32ページ
  38. ^ 海外鉄道ニュース 線路は続くよ海越えて アフガニスタンに鉄道が開業【アフガニスタン】
  39. ^ AJ-SEPレセプション資料 駐日アフガニスタン大使館 AJ-SEP公式HP2011年11月閲覧

参考文献[編集]

  • 渡辺光一『アフガニスタン/戦乱の現代史』岩波書店(新書・新赤版828)2003年(ISBN 4-00-430828-3)
  • 前田耕作・山根聡『アフガニスタン史』河出書房新社、2002年。(ISBN 4-309-22392-3
  • マーティン・ユアンズ『アフガニスタンの歴史』(柳沢圭子ほか訳)明石書店、2002年。(ISBN 4-750-31610-5
  • ヴィレム・フォーヘルサング著、前田耕作・山内和也監訳、愛甲恵子・前田龍彦・村山和之訳『アフガニスタンの歴史と文化』明石書店 2005年。(ISBN 978-4-7503-2070-0

関連項目[編集]

1978年以降[編集]

復興関連
その他
アフガニスタンに関する作品

映画[編集]

評論[編集]

小説[編集]

ボードゲーム[編集]

  • Joseph Miranda【Holy war, Afghanistan】,Strategy & Tactics No.147,Decision Games
※1978年に始まったソビエトの軍事介入に対する聖戦。
  • Joseph Miranda【Asia Crossroads】,Strategy & Tactics No.216,Decision Games
※19世紀のロシア、ペルシャ、中国、アフガニスタン周辺でのイギリスとロシアの覇権争い。
  • Joseph Miranda【Operation Aaconda】,Strategy & Tactics No.276,Decision Games
※2002年に実施された多国籍軍のアナコンダ作戦。
  • Brian Train, Volko Ruhnke【A distant plain】, ,GMT games
※同社の非正規戦マルチプレイヤーズゲームCOINシリーズ第3作、1990年代以降の現代紛争。
  • Joseph Miranda【The sun never sets II】,Strategy & Tactics No.274,Decision Games
※イギリスの植民地戦争のクワドリゲームで、その一つが1878年からの第二次アフガン戦争。
  • Joseph Miranda【Khyber rifles】, ,Decision Games
※1842年にアフガンが大英帝国に勝利した戦い(第一次アフガン戦争の末期)。
  • Joseph Miranda【First Afghan war】,Strategy & Tactics No.179,Decision Games
※タイトルの通り第一次アフガン戦争(1838-42)の全体を描いた戦役級ゲーム。

ビデオ・ゲーム[編集]

漫画[編集]

外部リンク[編集]

政府
日本政府
その他