オーレル・スタイン

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オーレル・スタイン(1929年2月)

母語のハンガリー語ではシュテイン・マールク・アウレール [ˈʃtɛin ˈmɑ̈ːrk ˈɒure̝ːl]、英語風にはオーレル・スタイン(Sir Marc Aurel Stein, Stein Márk Aurél, 1862年11月26日 - 1943年10月26日)は中央アジア探検調査で知られるイギリスに帰化したハンガリー出身の探検家である。

生涯[編集]

ハンガリーブダペストユダヤ系ハンガリー人として生まれた。ドレスデン大学、ブダペスト大学ウィーン大学ライプツィヒ大学テュービンゲン大学大学オックスフォード大学ロンドン大学等で学んだ後、1888年に母校の一つロンドン大学のローリンソンの紹介により北インドパキスタンも含む)に渡った。ラホールにある東洋学校(Oriental College)の校長が彼の当初の肩書きである。1899年には、カルカッタのカルカッタ・イスラム寺院付属学校(Madrasa)の校長となった。

東トルキスタンを中心とした探検[編集]

1900年東トルキスタン地域へ第1回の探検旅行に出発する。新疆省を探検し、ホータン近郊のニヤ遺跡を発掘調査した。1904年1月には、インド古跡調査局(Archaeological Survey of India)入りをしている。1906年には第2回の探検を行い、敦煌の仏画・仏典・古文書類、いわゆる敦煌文献を持ち帰った。1910年、業績によりC.I.E.(Companion of the Indian Empire)に、1912年にはK.C.I.E.(Kinght Commander of the Indian Empire)に叙せられ、Sirを称することを許可された。1913年 - 1916年には、第3回のハラホトモンゴル語: ᠬᠠᠷᠠ ᠬᠣᠲᠠ、転写: Khara-Khoto: 黑城)よりイラン東南部を経てインダス川上流に至る地域の調査旅行をおこなった。

調査報告書[編集]

山口静一・五代徹訳注(全訳) 『砂に埋もれたホータンの廃墟』 白水社, 1999
松田壽男抄訳 『コータンの廃墟』 新版が中公文庫, 2002年
  • Ruins of Desert Cathay (1912年
  • Serindia (1921年
  • Innermost Asia (1928年) 邦訳は、数度改装され刊行。
沢崎順之助訳 『中央アジア踏査記』 白水社,初版1966年/復刊2004年ほか

西アジアを中心とした探検[編集]

1926年インダス川上流及びスワート川英語版流域を調査旅行し、アレクサンドロス大王のインダス渡河地点、ウディヤーナ英語版遺跡(カイバル・パクトゥンクワ州デュアランド・ライン)などを調査した。1930年には、第4回の中央アジア探検を申請したが、国民政府の許可がおりなかった。同年、日本を訪問している。その後は、西アジアの調査を行い、1927年1938年にイランを調査し、モヘンジョ・ダロおよびハラッパーインダス文明メソポタミア文明との関係性を実証した。1938年1939年シリアヨルダンから北西イラクにかけてのローマ長城の調査をおこなった。

調査報告書[編集]

  • Archaeological Reconnaissances in North-western India and South-western Iran (1937年
  • An Archaeological Tour in the Ancient Persia (1936年
  • Old Routes of Western Iran (1940年
  • アレクサンドロス古道』、同朋舎出版, 1985年
アッリアノスも訳されている)、前田龍彦訳
谷口陸男・沢田和夫訳、長沢和俊注・解説

1943年10月には、カシミールよりペシャーワルを経由してアフガニスタンカーブルに到着、バーミヤン遺跡を始めアフガニスタンを組織的に発掘することを計画したが、そこで病没した。カーブル郊外にはスタインの墓がある。

関連文献[編集]

  • ジャネット・ミルスキー(Jeannette・Mirsky) 『考古学探検家スタイン伝(上下)』、杉山二郎ほか訳、六興出版 1984年
  • ピーター・ホップカーク 『シルクロード発掘秘話』 小江慶雄・小林茂訳、時事通信社 1981年
  • 深田久弥 『中央アジア探検史』 白水社 新版2003年、「スタイン」の章

関連項目[編集]

外部リンク[編集]