インド

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インド共和国
भारत (ヒンディー語)
Republic of India (英語)
インドの国旗 インドの国章
国旗 (国章)
国の標語 : सत्यमेव जयते
ラテン文字転写: satyam eva jayate
(サンスクリット語: まさに真理は自ずと勝利する)
国歌 : ジャナ・ガナ・マナ
インドの位置
公用語 ヒンディー語(連邦公用語)
英語(連邦準公用語)及び
複数の各州公用語
首都 ニューデリー(デリー)[1]
最大の都市 ムンバイ
元首
大統領 プラティバー・パーティル
首相 マンモハン・シン
面積
総計 3,287,590km²7位
水面積率 9.6%
人口
総計(2005年 1,131,043,000人(2007年)人(2位
人口密度 324人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2005年 32兆9,532億ルピー
GDPMER
合計(2005年 7,719億ドル(11位
GDPPPP
合計(2005年 xxx,xxxドル(???位
1人当り xxxドル
独立
 - 日付
イギリスより
1947年8月15日
通貨 ルピーINR
時間帯 UTC (+5:30)(DST: なし)
ccTLD IN
国際電話番号 91

インド共和国略称インド英語Republic of India)は南アジアに位置し、インド亜大陸の大部分を占める連邦共和国である。パキスタン中華人民共和国ネパールブータンバングラデシュミャンマーとは陸上で、スリランカモルディブインドネシアとは海上で国境を接する。

目次

[編集] 概要

南アジア随一の面積・人口を持つ地域大国である。10億人を超える国民は、多様な人種民族言語宗教によって構成されている。州境を越えるとまったく違う言語が話され、それぞれの文化芸術があるため欧米ではよく「インドは国と言うより大陸である」と表現される。中央政府とは別に各州に政府があり大臣がいる。主な言語だけで15を超えるためインド政府が発行する紙幣には17の言語が印刷されている。ヒンドゥー教徒が最も多く、ヒンドゥー教にまつわる身分制度であるカースト制度の影響や差別は今でも残っており、クラス(階層)や貧富の差が非常に大きい。このように多様な人々が存在するためインド人をひとまとめにして理解するのは難しく、貧富の差については「インドは貧しい国ではなく、貧しい人が多く住む国である」などともいわれる。

1947年イギリス植民地から独立の際、それまでのインドは、インドとパキスタンに分裂した。その後、パキスタンの飛び地となっていた「東パキスタン」がバングラデシュとして独立している。

[編集] 名称

正式名称は、 भारतヘルプファイル(ヒンディー語。ラテン文字転写は、Bhārat。読みは、バーラト)。英語による国名は、India(インディア)。

政体名を付け加えた、ヒンディー語の भारत गणराज्य(ラテン文字転写:Bhārat Gaṇarājya)、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、憲法その他の法的根拠に基づくものではない。

日本語による表記は、インド。これもまた政体名を付加して、インド共和国、もしくはインド社会主義共和国とされることもある。また、連邦制をとっていることから、インド連邦としたり、稀にインド連邦共和国とされることもある。1947年の独立から1950年に大統領制に移行するまでをインド連邦、それ以降をインド共和国、と使い分ける人もいる。なお、日本の外務省ではインドとしている。また、漢字では印度と表記される。

歴史的に哲学が盛んな国であり、多くの優れた哲学者を生んだ。そのため聖賢の国とも呼ばれている。

[編集] 地理

詳細はインドの地理を参照。

多くの地域では雨期が存在し、三つの季節、夏、雨期、冬に分けられる。雨期を除いてほとんど雨の降らない地域が多い。

インドでは早い時期に農耕牧畜が発達したため、無制限な開発が行われ、それが土地の乾燥をもたらした。現在も放牧が行われており、植生が元に戻るのは難しい。ただし、全土が乾燥しているわけではなく、緑があふれている地域もある。ちなみに、木材の価格は高く、多くの場合豊富な大理石のほうが安く使える。

[編集] 地方行政区分

詳細はインドの地方行政区画を参照。

インドは 28 のと, 6 つの連邦直轄地域と、首都圏 (National capital territory) である デリーから構成される。 ただし、ジャンムー・カシミール州はその全域をパキスタンが、ジャンムー・カシミール州の一部とアルナーチャル・プラデーシュ州のほとんどを中国が、それぞれ領有権を主張している。

[編集] 代表的な都市

[編集] 歴史

詳細はインドの歴史南アジア史をそれぞれ参照。

[編集] ヴェーダ時代からラージプート時代まで

紀元前3500年頃に地中海方面から移住してきたドラヴィダ人が紀元前2600年頃からインダス川流域に定住・農耕生活を築きインダス文明が栄えたが、紀元前1800年頃に滅亡した。その後、前1500年頃にイラン・イラク高原から遊牧民であるアーリア人カイバル峠を越えてパンジャーブ地方に移住した。彼らは前1000年頃にガンジス川流域へ移動、ドラヴィダ人をはじめとする先住民を支配して定住生活に入った。そのため、インド北部にはアーリア人の比率が非常に高い。アーリア人は神々への賛歌であるヴェーダを重視し、司祭階級はバラモンとして特権的な地位を得た。バラモンを頂点とした身分制度はヴァルナ(いわゆるカースト制度)と称され、今日に至るまでのインド社会を規定している。

前4世紀、最初の統一国家であるマウリヤ朝が成立し、2世紀頃には、デカン高原サータヴァーハナ朝ローマ帝国との海上交易で繁栄、5世紀は、グプタ朝が北インドを統一し、サンスクリット文学がさかんになる一方、アジャンター石窟などの優れた仏教美術が生み出された。これらの古代王朝の後、7世紀からはラージプートの諸王朝が分立。エローラ石窟群カジュラーホーなどが建設された。

[編集] インドのイスラム化と南インドのヒンドゥー王朝

11世紀初めよりイスラム教勢力(ガズナ朝)の侵入があって、ガズナ朝から独立したゴール朝が北インドを支配した(1206年)。13世紀よりデリーに都を置くデリー・スルタン朝が北インドをあいついで支配し、14世紀初頭には、デカン遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。一方、南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄し、11世紀には東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国まで遠征を敢行した。その後、14世紀後半から16世紀初頭にかけてヴィジャヤナガル王国が栄えた。1498年にヴァスコ・ダ・ガマカリカットへ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。

[編集] ムガル帝国

16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族であるバーブルが北インドへ南下し、デリー・スルタン朝を倒してムガル帝国を建てた。3代皇帝のアクバルは、ヒンドゥー教徒との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発、帝国は衰退にむかった。

17世紀、スペインポルトガルの没落に伴い、アジア海域世界への進出をイギリスオランダが推進した。両国は東南アジアでアンボイナ事件で衝突し、イギリスは東南アジアから駆逐されたためインドへ進出した。しかし、インド産の手織り綿布をイギリス東インド会社がヨーロッパに持ち込むと大流行となり、イギリスは対インド貿易を重視した。一方、フランスも徐々にインド進出を図っており、利害が対立した両国は、新大陸と同様にインドでも抗争を続けた。

18世紀後半、七年戦争によってフランスをインドから駆逐すると、1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、19世紀前半にイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、イギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。こうした要因から1857年、第一次インド独立戦争セポイの反乱、シパーヒーの反乱、インド大反乱)が起こった。徹底的な鎮圧を図ったイギリスは、翌年にムガル帝国を完全に滅ぼし、インドを直接統治下においた。20年後の1877年には、イギリス女王がインド皇帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。

ただし、小規模な貿易拠点などのいくつかが、フランスやポルトガルの植民地のまま残った。

[編集] イギリス統治時代

イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、日露戦争における日本の勝利、ベンガル分割令への憤りなどから反英機運が一層強まった。こうした中、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。

第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切られたことや、民族自決の理念が高まったことに影響され、インドではさらに民族運動が高揚した。マハトマ・ガンディーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させた。ガンディーが主導した非暴力独立運動は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。第二次世界大戦では国民会議派から決裂した左派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、独立をめざす動きも存在した。

[編集] 独立

戦後、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、イスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。初代首相にはジャワハルラール・ネルーが就任した。政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図った。インド憲法に書かれた正式国名は「Indian Sovereign Socialist Secular Democratic Republic」であり社会主義共和国を標榜している。他の社会主義国ほど義務教育の完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかず、小学校さえいけない子も多く貧富の差も激しいが、不可触賎民出身の大統領(コチェリル・ラーマン・ナラヤナン)や大臣も出るなど特例も出てきている。

東西冷戦時代には、(どちらかというとソ連と親しかったが)中立非同盟国家の中心となった。長期にわたって国民会議派が政権を担った。 パキスタンとの対立はその後も続き、カシミール問題東パキスタンを原因として、三度の印パ戦争が勃発した。両国の対立は現在も続いている。

また、隣国の中華人民共和国とは領土問題で緊張状態が現在も続いている。

[編集] 現代

1990年代よりインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。ルック・イースト政策に基づいてアジア諸国との関係も重視。中立非同盟とはいえ、アメリカ、イギリスとも友好な関係をとっている。近年はIT産業や製造業を中心に経済成長を続け、ロシアブラジルなどとともにBRICsの一角として注目を集める存在となった。また、2006年7月9日には、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイルアグニ3」(射程3500km)の初の発射実験を行った。当局は当初、発射は成功したとしたが、その後上空でミサイル下部の切り離しが出来ず、目標落下地点には到達しなかったと発表した。

広大な国土に対するインフラ整備が進んでいないこともあり天災による被害を受けやすく、2006年8月10日モンスーンによる洪水の被害者は、東部のグジャラート、南東部のアーンドラ・プラデーシュの2州だけで、約1300万人に上った。全土での死者は、10日までの9日間で240人に達した。

[編集] 政治

国家元首は、大統領である。実権はなく、内閣の助言に従い国務を行う。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。

副大統領は、議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで、地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は、上院の議長を兼任する。

行政府の長は、首相で、下院議員の総選挙後に、大統領が任命する。閣僚は、首相の指名に基づき、大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う(議院内閣制)。

議会は、両院制で、州代表の上院(ラジャ・サバ)と、国民代表の下院(ロク・サバ)とで構成される。上院は、245議席で、233議席を州議会議員による間接選挙で選び、12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン(イギリス系インド人:植民地時代にイギリス人とインド人との間に生まれた混血のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は、5回にわけて行われる。2004年の下院選挙は、4月20日に第1回の投票が行われ、5月13日に開票された。

インドの政治を軍事の面から見てみると、インドの軍事制度は非常に安定している。特に、シビリアン・コントロールがアジアでも有数と言えるほどに徹底されている。

[編集] 領土紛争

詳細はカシミールアクサイチン印パ戦争中印国境紛争をそれぞれ参照。

カシミール地方のインドとパキスタン中国との間で領土紛争があり、特にパキスタンとは激しい戦闘が繰り返され(印パ戦争)現在は停戦状態にある。インドの主張するカシミール地方は、ジャンムー・カシミール州となっている。

これとは別に、インド東部アッサム州北部のヒマラヤ山脈南壁は中国との間で領土紛争があったが中国側が自主的に撤退し、現在はインドのアルナーチャル・プラデーシュ州となっている。

[編集] 日本とのつながり

1951年、インド初代首相ネール「彼ら(日本)は謝罪が必要なことなど我々には何一つしていない。それ故に、インドは(サンフランシスコ)講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない。」1952年、日印平和条約締結。

[編集] 経済

独立以降、重工業の育成を図り、国内産業保護を政策としていた。冷戦が終わり、1991年に通貨危機をきっかけとしてインド型社会主義の実験を終え、経済自由化に政策を転換した。外資導入型近代化を行い、国の経済は急速に巨大化国際化したが貧富の差は今でも激しい。また国有・国営企業、中央官僚制の力が根強く残っている。2007年現在、インドは他の経済成長を遂げている国と併せてBRICsと呼ばれるなど、将来を有望視されている。

産業構造は、農業サービス業の比率が高い。傾向としては、農業が減りサービス業が伸びている。

貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易がGDPに与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、GDPに与える影響力が大きくなっている。主な貿易品目は、輸出宝石医薬品輸入宝飾製品原油など。主な取引相手は、米国、中国や中東などとなっている。

[編集] 見通し

今後の見通しについて、インフレ圧力や、経済が過熱して、実際の成長率が潜在成長率を上回っているという報道もあるが、見通しとしては基本的には明るい。

BRICsを最初に提唱したゴールドマン・サックスは、「インド経済が今世紀半ばに米国を追い抜き、中国に次ぐ世界2位の経済大国に成長する」とのレポートを出している[2]

[編集] 通貨

ルピー (Rs, Rupee) とパイサ (Paisa、複数形はPaise)。1ルピーは100パイサ。25パイサ未満の通貨はほとんど出回っていない。 1万円は約3900~4000ルピー(2004年8月現在。一般が銀行で両替する場合のレート)。[1]

[編集] 農業

生産量は多いものの、インフラの未整備や中間搾取などがネックとなっている。食料自給率は100%を超えている。また、生産物のうち約30%は廃棄されてしまうという[3]

こうした中、政府は農業政策として法律の改正や商品取引所の整備、大規模な予算措置をとるなど、農業改革に乗り出している[3]

[編集] 主な農産物

1960年代から穀物の増産に成功し、緑の革命と呼ばれる。

[編集] 製造業

製造業は、他の産業に比べ立ち後れていたが、政府の後押しもあり成長を始めた[4]

また、同業種の工場が集まってクラスターを作る動きもある。津田義和教授(立教大学)の提案を元に生まれたクラスターは、品質管理、生産性の向上に一役買っているという[5]

ただし、成長を続けるインドの製造業だが、課題も多い(#課題を参照)。また、品質についてもまだ高いとは言い難いところがあり、「インド品質」とも呼ばれている。機能は問題が無くても、見た目や細かい部分でまだ品質に劣る。これは原材料の質に加えて、労働者の意識が品質について十分ではないことが要因としてあげられる[6]

[編集] バイオテクノロジー

インドというとITが有名だが、バイオテクノロジーの分野にも力を入れている。1986年にはバイオテクノロジー庁が設立された。詳細は21世紀はバイオの時代#インドを参照。

[編集] 主な産業

[編集] サービス業

[編集] 情報サービス業

1990年代から2000年代にかけてインド経済を牽引していると言われていたITなど情報サービス業は、2000年代後半には優位性が揺らいできている。また、インド国外だけでなくインド国内にも情報サービス業の大きな市場があるにもかかわらず、インド企業は国外ばかりに目を向けているため、国内市場への欧米企業進出を許している[7]

当初、インド企業の強みであった低コストは、為替変動と国内の人材不足により優位性を失いつつある。加えて、インド企業に仕事を奪われた欧米企業は、インド国内に拠点を設け、技術者を雇うことによって劣勢であったコストの問題を挽回した。同時に、単なる業務のアウトソーシングに留まらず、ビジネスコンサルティング等の高度なサービス提供によって差別化を図っている[7]。特にIBMの動きは活発で、企業買収を繰り返しわずか2年でインド国内でも最大規模の拠点を築いた。インド国内市場にも積極的に営業を行っており、シェアトップとなっている[7]

こうした状況に、インド国内からは情報サービス業企業の革新を求める声があがり始めたが、インド企業の経営陣は海外にばかり目を向け国内市場には長い間目を向けておらず、またカースト制度に由来したエリート意識からインド企業の優位を信じて革新に対する意識は低い状況にあるという[7]

こうしたインド情報サービス業の現状について、ギルフォード証券アナリスト、アシシュ・サダニはインド企業は25%という高い利益率となっていることを述べた上で、「それほど高い利益率を維持できるのは、未来のための投資を怠っているということの表れなのだ」[7]より引用と評し、今後の成長のためには目先の利益だけでなく、将来へ向けた投資をしなければならないと指摘している[7]

[編集] 小売業

規模は2000年代半ばで3000億ドル超となっており、2017年には1兆ドルに迫ることが予想される[8]

外国企業も進出を行っているが、出店に対しては政府による法規制が行われている。背景には、多数の零細個人商店、行商人が職を失うのではないかという問題がある。これら既存の小売業者は、大規模スーパーをインドへ進出させようとしている外国企業(カルフールウォルマートなど)に対し抗議運動を活発化させている[8]

[編集] ハイテク関連施設

大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルのパラボラアンテナが地上や屋上に設えてあり、人工衛星を用いてインターネット接続ができる。

インド国内にはこのようなパラボラアンテナを備えた施設が国全体を取り囲むように州ごとに存在し、周辺地域へは光ケーブルを用いてサービスされている。しかし、建設工事の近代化は遅れており、STPI (Software Technology Parks of India) から周辺に敷設中の光ファイバーの工事現場では、建設重機は見当たらず、殆どが手掘りであった。(2002年2月現在)

光ファイバーの敷設工事風景
光ファイバーの敷設工事風景

[編集] アメリカとのつながり

冷戦期の反米親ソ路線とは裏腹に現在では友好関係を保っている。 インドではソフトウェア産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人も多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、インターネットを通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。NHKスペシャルの「インドの衝撃」では、NASAのエンジニアの1割はインド人(在外インド人)だと伝えている。

また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった(→オフショア)。

一時期、シリコンバレーは“IC”でもつと言われたことがあるが、この場合のICは集積回路Integrated Circuitsを指すのではなくインド人と中国人を意味する。

英語の運用能力が高く人件費も低廉な為、近年アメリカ国内の顧客を対象にしたコールセンター業務はインドの会社に委託(アウトソーシング)されている場合が多い。多くのアメリカ人の顧客にとってインド人の名前は区別し難いため、電話応対の際インド人オペレーターはそれぞれ付与された(アングロサクソン系)アメリカ人風の名前を名乗っている。

[編集] 中華人民共和国との比較

ともにアジアの地域新興大国として、インドと中華人民共和国(以下中国)は様々な面で比較されることが多い。

  • 産業構造では、中国は製造業の比率が高く、これが成長を牽引したといわれており、インドは製造業の比率が低いことがマイナス要因となっている。
    • 両国ともに製造業は労働集約型である。中国は組み立て型が中心であるのに対し、インドは知識集約型が主力商品に含まれている。
    • インドのIT関連技術者の英語能力の方が高く、同一のIT知識を有している技術者でも、アメリカIT産業のレインとしては、インド人の英語能力に優位性が認められ、高く評価されている。またインド人自らもこれを自負している。
    • ともに移民(印僑華僑)が多く、移民先で経済的成功を収め大きな影響力を発揮することが多い。
    • ともに冷戦期は東側に近く、社会主義計画経済政策をとっていた点は共通している(※上記の移民の原因の一つとなった)。現在は市場経済を導入しているにも関わらず、「社会主義の国」と今も憲法で唄っている点も同じである。これは社会主義が独立の理念の一つになっているからであり、それ故にソ連とは極めて親密だった。このため、かつてのアメリカは同じ社会主義国でもソ連と対立していた中華人民共和国に接近した(米中接近)。
    • 建国以来、一貫して共産党の一党独裁体制の続く中国に対して、インドは多党制民主主義を基本とし、政治体制においては両国は対照を成している。
    • 両国のかつての貿易は並々ならぬものであった。例えば、タタ財閥ジャムシェードジー・タタ)は中国との交易から始まった。
    • 中国が近い将来、少子高齢化社会となるのに比べ、インドは少子化問題の懸念がずっと少ない。

[編集] 課題

インドの経済については、以下の課題が指摘されている。

[編集] インフラ

インフラ整備等(電力不足、湾港施設のお粗末さなど)の事業環境に、各都市間で格差がある。世界銀行のレポートによれば、首都であってもインフラ整備は十分ではないという。「不動産登記にかかる日数を例に取ると、ハイデラバードが35日なのに対し、ニューデリーでは約4倍の138日、コルカタでは5倍近い155日と大きな開きがある」[9][4]

他には、各州による独自の規制(申請の煩雑さなど)も、経済成長を阻害する要因としてして喫されている[4]

[編集] 対策

行政府は外国企業の誘致をさらに進める意向であるとともに、事業環境が十分ではない状況を改善する意向を持っている。

  • マンモハン・シン首相は「外国企業の誘致に向け、インフラ整備や税制の簡素化、関税の削減、申請手続きの迅速化を進めてきたが、「まだ十分ではない」と述べ、改善を急ぐ考えを明らかにしている」[9]
  • P・チダンバラム財務大臣は「民間企業による投資が、年率9%成長の維持に不可欠とみており、「国内外を問わず民間企業が投資できる環境を整備する必要がある」と述べた」[9]
  • 2007年度予算案では、インフラ整備への予算配分を増加。投資額は前年度40%増の1兆3400億ルピーとなっている。また、経済成長持続に向けてさらなる投資が必要としている。「インドは今後5年間で道路や空港、港、鉄道などのインフラ整備に向けて14兆5000億ルピー規模の投資が必要としている」[10]

また、経済特区を設置し、障害が最小限のレベルですむようにすることによって、海外企業の工場進出を促した。2007年現在、約300の経済特区がある[4]

[編集] その他

他には、人材不足による賃金上昇が指摘されている。

[編集] 交通

[編集] 自動車道路

  • イギリス領だった影響から、左側通行である。
  • 高速道路などは計画・建設中の段階である。デリーコルカタチェンナイムンバイを結ぶ延長約5800kmの道路(通称「黄金の四角形」)が2005年末に完成予定であり、また、国内を東西方向・南北方向に結ぶ+型の延長約7300kmの道路(通称「東西南北回廊」)も2007年末に完成する予定である。

[編集] 鉄道

詳細はインドの鉄道を参照。

現在では鉄道が移動の主体となっている。貧富の差が激しいのにあわせて、使う乗物によってかかる費用が大きく違う。例)ムンバイ、デリー間。飛行機の外国人料金: 6000ルピー。二等の寝台: 400ルピー。また日本新幹線を基にした高速鉄道貨物鉄道も計画されている。

[編集] 航空

かつては旅客機は一部の富裕層でしか使われていなかったが、2000年代に入り国内大手資本により格安航空会社が多数設立され、それに併せて航空運賃が下がったこともあり中流階級層を中心に利用者が増加している。

主な航空会社

[編集] 人口

2007年の人口は1,131,043,000人。インドの人口は1950年以降、毎年1,000万1,500万人の勢いで増加し続け、2005年には11億人を突破した。国連の予測では今後もこのペースで増加し、2030年代に中華人民共和国を追い抜くと言われる。中華人民共和国が一人っ子政策を見直さない限り2030年代で人口が頭打ちになるのと比べ驚異的な伸びといえる。ただし2030年代以降は毎年500~700万人増と人口増加はやや鈍化する。とはいえ2050年には16億人近くに達し、その後も増加し続け、2100年には18億人近くになるというのが大方の専門家の見方だ。またインドは人口構成が若いのが特徴で、2000年の中位年齢は23歳、2050年でも38歳と言われている。因みにアメリカ合衆国の2050年の中位年齢は40歳、中華人民共和国は43歳、EUは48歳、日本は53歳と推定される。

インドの人口の推移と予測
人口(万人) 増加率 (%)
1950 3億5756 ×
1960 4億4234 2.2
1970 5億5491 2.3
1980 6億8885 2.2
1990 8億4641 2.1
2000 10億0169 1.9  
2005 11億0337 ×
2007 11億3104 ×
2010 11億7380 1.4
2020 13億1221 1.1
2030 14億1657 0.8
2040 14億8571 0.5
2050 15億9000 0.3
2100 17億9000 0.3

[編集] 国民

パンジャーブ地方に暮らす一部の民族は、起源をヨーロッパのロマ(ジプシー)と同じにする。そのほか、民族によって服装や生活様式の違いがはっきりと分かれていることが多い。

[編集] 人種

有史以前からユーラシア大陸の東西から何派にもわたって様々な民族集団が流入してきているが、人種的にはコーカソイドを中心としている。 また、地方の有力豪族(マハラジャ)やカースト制度の影響から、地域ごとの交流が少なくまた同じ地域に暮らしていても、混血していることがすくない。 なお、インドをアジアとして捉えモンゴロイドの国と誤解している場合が多いが、ムガール帝国の成立までモンゴロイドの影響はほとんど無い。

インド、特に北インドには、イラン・イラク高原から移住してきた遊牧民を祖とするアーリア人が多く居住している。彼らは分布上はコーカソイドに属する。コーカソイドと言っても飽くまで人種としての区分であり、アラブ人、南アジア人、などもコーカソイドである。北インドに居住する人々はドラヴィダ人程ではないにしろ日焼けをしたように濃色の皮膚で、同じコーカソイド人種でありながらヨーロッパ人と対照的である。(詳細はアーリア人コーカソイド参照)

しかし、南部には、オーストラロイドに属するドラヴィダ人が多数を占めている。ドラヴィダ人はアーリア人とは大きく異なり、典型的な農耕民族で、人種形質から遺伝系統までが違う。アーリア人と比べ、皮膚の色彩は黒褐色が非常に濃く、背が低い傾向にある。また、ドラヴィダ人はアーリア人に比べ学問に優れていると言われており、インド人の優秀性としてよく引き合いに出されるシュリニヴァーサ・ラマヌジャンや他の天才的な学者の殆んどがドラヴィダ人である。現代においてはIT産業の7割が南インドに集中していることからも窺える。彼らの祖先は地中海周辺の農耕地帯に起源を持ち、紀元前3500年頃、アーリア人より2千年ほど前にインドに移住して、農耕を築いた集団とされ、それによりインダス文明の繁栄をもたらした。(詳細はドラヴィダ人オーストラロイド参照。)

ちなみにヴェッダ人などの非アーリア、非ドラヴィダの先史時代以来のインド亜大陸先住人種も非常に濃い色の皮膚を持つが、これらの人種群から区別する作業が行われている。彼等はドラヴィダ人が到達するよりも更に古い時代からインドに居住していた人々の形質を色濃く残す子孫であると思われる。

[編集] 言語

詳細はインドの言語インドの公用語の一覧インドの言語の話者数一覧をそれぞれ参照。

インドはヒンディー語を連邦公用語とする。ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の約40%を占める。100種類以上の言語が話されているインドでは、地域が異なればインド人同士でも意思疎通が難しい場合もある。植民地時代に家で英語しか使わず子供を育てたなどで、英語しか話せない人もいる。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。1991年の国勢調査によると、178,598人(調査対象者の0.021%)が英語を母語にしており、9000万人以上(同11%)が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。

憲法には憲法施行(1950年)後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、現実には15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。ただし英語離れとでも言うべき動きは進んでおり、すでにボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市さえも、それぞれムンバイコルカタチェンナイという現地語の名へと公式に改められた。こうした傾向はインド国内でのナショナリズムの拡大・浸透が続く限り進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語は今だ全国に浸透していない。特にインド南部タミル・ナードゥ州などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。

インドの言語は北部のインド・ヨーロッパ語族インド語派と南部のドラヴィダ語族に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語は主に南部のアーンドラ・プラデーシュ州カルナータカ州ケーララ州タミル・ナードゥ州で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。この様に北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。国語の他に、各州で公用語として定めている言語が17ある。

近年(1980年代以降)のヒンドゥー・ナショナリズムの高まりと共に、サンスクリットを公用語にしようという動きも一部で高まっている。もともと中世以前においてはインド圏の共通語であったと考えられているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなった後も、上位カーストであるブラフミンの間では基礎教養として身に付けられてきたという経緯がある。しかし古い言語であるだけに、現在(学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティー等を除けば)日常語として話している人はほとんど居らず、またその複雑さ故に同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。

[編集] インドの公用語

インドの言語の地理的分布
インドの言語の地理的分布

多言語社会であるインドにおいて、国家が国民統合を推し進める上で、また実際に行政運営を行う上で言語は常に重要な位置を占めている。当初独立運動の過程では、植民地の行政言語(公用語)であった英語に代わって、北インドを中心に広く通用するヒンドゥスターニー語を新たに独立インドの象徴として積極的に採用していこうというガンディーらの意見があった。その流れを受けて、独立後制定されたインド憲法[2]の第343条では、ヒンドゥスターニー語の流れを組むヒンディー語が連邦公用語として規定されている。これに対しては憲法起草段階から現在に至るまで南部のタミル・ナードゥ州を中心に反対意見が根強いが、連邦政府はおりにつけ各地でヒンディー語の普及を推し進めている。

それ以外にもインド憲法条文(第8付則[3]、および憲法修正第92法[4]を参照)には以下列挙する「22の言語」が明記されている。しかし、これら22言語(通称「第8付則言語」)は、憲法によって「公用語」として規定されているわけではなく、あくまで「公的に認定された言語」という曖昧な位置づけに留まっている。例えば、サンスクリット語シンディー語などはいずれの州でも公用語として採用さ