インド

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インド共和国
भारत गणराज्य (ヒンディー語)
Republic of India (英語)
インドの国旗 インドの国章
国旗 国章
国の標語:सत्यमेव जयते
ラテン文字転写: "satyam eva jayate"
(サンスクリット語: まさに真理は自ずと勝利する)
国歌ジャナ・ガナ・マナ
インドの位置
公用語 ヒンディー語(連邦公用語)
英語(連邦準公用語)
その他複数の各州公用語
首都 ニューデリー[1]
最大の都市 ムンバイ
政府
大統領 プラナブ・ムカルジー
首相 ナレンドラ・モディ
面積
総計 3,287,590km27位
水面積率 9.6%
人口
総計(2011年 12億1000万人(2位
人口密度 368人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 110兆4,768億[2]インド・ルピー
GDP (MER)
合計(2013年 1兆9,728億[2]ドル(10位
GDP (PPP)
合計(2013年 5兆3,020億[2]ドル(3位
1人あたり 4,060[2]ドル
独立
 - 日付
イギリスより
1947年8月15日
通貨 インド・ルピー (INR)
時間帯 UTC (+5:30)(DST:なし)
ISO 3166-1 IN / IND
ccTLD .in
国際電話番号 91

インド共和国(インドきょうわこく、ヒンディー語: भारत गणराज्य英語: Republic of India、ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)、通称インド(India)は、南アジアに位置し、インド亜大陸を占める連邦共和制国家である。インドの歴史は古く、紀元前2500年頃のインダス文明に遡り、仏教ジャイナ教ヒンドゥー教などの発祥地でもある。1858年から始まる大英帝国植民地支配から、長い独立運動の末、1947年に独立を果たした。インドは、有権者数約8億人を持つ世界最大の民主主義国[3]である。2014年の総選挙で10年ぶりに政権が交代し、ナレンドラ・モディ政権が誕生した。

国花、国樹は印度菩提樹国獣ベンガルトラ国鳥インドクジャク 、国の遺産動物はインドゾウである。

概要[編集]

インドは南アジア随一の面積と世界第2位の人口を持つ大国である。

12億人を超える国民は、多様な民族言語宗教によって構成されている。連邦公用語はヒンディー語、他にインド憲法で公認されている州の言語が21である。また、識字率は74.04%である。中央政府とは別に各州に政府があり大臣がいる。主な言語だけで15を超えるためインド政府が発行する紙幣には17の言語が印刷されている。ヒンドゥー教徒が最も多く、カースト制度による差別は憲法で禁止しており、都市部での影響は薄まっているが、農村部では今でも影響は残っている。

インドの経済は、農業工業鉱業IT産業と多種多様のサービスに富んでいる。労働力人口の3分の2が直接或いは間接的に農業で生計を立てている一方、サービス業は急速に成長している部門であり、インドの経済に重要な役割を担うようになってきている。

IT時代の到来と英語を流暢に話し教育された多くの若者たちによりインドは、アフターサービスや技術サポートの世界的なアウトソーシングの重要なバックオフィスとなりつつある。インドはソフトウェアや金融サービスにおいて高度な熟練労働者の主要な輩出国となっている。他の部門では製造業製薬バイオテクノロジーナノテクノロジー通信造船航空観光小売が高成長の兆しを見せている。 アジア開発銀行(ADB)が2011年に発表した予想によれば、インドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとの見方もある[4]。 インド・ルピー通貨の発行はインド準備銀行が実施している。補助単位として「パイサ(単数:Paise、複数:Paisa)」があり、1ルピー=100パイサである。2010年7月15日「Rs」に代わる通貨記号として「Indian Rupee symbol.svg」の採用を決めている。

名称[編集]

インド憲法によれば正式名称はヒンディー語भारत(ラテン文字転写: Bhārat, バーラト)であり、英語による国名は India (インディア)である。政体名を付け加えたヒンディー語の भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、憲法その他の法的根拠に基づくものではない。漢字表記は印度。印度の語は7世紀以降中国で使用が始まったもので、その以前は天竺、また身毒という表記もある。サンスクリット語の"Sindhu"を音写した「印度」の表記を提唱したのは三蔵玄奘という[5]。歴史的に哲学が盛んな国であり、多くの優れた哲学者を生んだ。そのため聖賢の国とも呼ばれている。

現在の国名のインド(英文名 India)は、教科書には、インダス川から由来し、現在の国を流れる大河となっているが、これは、パキスタンとの分離する前のインド帝国についたものである。ちなみに、インダス川の本流の大半は、パキスタン側に流れていて、インド側には、上流の地域にしか流れていない。

歴史[編集]

ヴェーダ時代からラージプート時代まで[編集]

紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年頃にインド・アーリア人トリツ族バラタ族プール族等。ここでのアーリア人とは、現ヘラートを中心とするアレイヴァ英語版人のラテン語表記でアフガニスタン人の古称であり、アーリアン学説とは無関係である)がパンジャーブ地方に移住。後にガンジス川流域の先住民を支配して定住生活に入った。インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。

前6世紀には十六大国が栄えたが、紀元前521年頃に始まったアケメネス朝ダレイオス1世によるインド遠征で敗れ、パンジャブシンドガンダーラを失った。紀元前330年頃、アレクサンドロス3世東方遠征英語版では、インド北西部のパンジャーブで行なわれたヒュダスペス河畔の戦いパウラヴァ族英語版が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国は撤退していった。紀元前317年チャンドラグプタによってパータリプトラサンスクリット語: पाटलिपुत्रः、現在のパトナ)を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、紀元前305年頃にディアドコイ戦争中のセレウコス朝セレウコス1世からインダス川流域やバクトリア南部の領土を取り戻した。紀元前265年頃、カリンガ戦争カリンガ国(現オリッサ州)を併合。この頃、初期仏教の根本分裂が起った。紀元前232年頃、アショーカ王が死去すると、マウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に入った。

ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原サータヴァーハナ朝ローマ帝国との季節風交易で繁栄(海のシルクロード)。3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原カダンバ朝英語版が興り、インドネシアのクタイ王国タルマヌガラ王国に影響を及ぼした。

これらの古代王朝の後、5世紀に、グプタ朝北インドを統一した。サンスクリット文学がさかんになる一方、アジャンター石窟エローラ石窟群などの優れた仏教美術が生み出された。5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入は、ミヒラクラ英語版の治世に最高潮に達し、仏教弾圧が行なわれたことによってグプタ朝は衰退し、550年頃に滅亡した。7世紀前半頃、玄奘三蔵ヴァルダナ朝及び前期チャールキヤ朝を訪れ、ナーランダ大学で学び、657部の経典を中国()へ持ち帰った。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンのラージプート王朝のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラティーハーラ朝ベンガルビハール地方のパーラ朝が分立した。パーラ朝が仏教を保護してパハルプールの仏教寺院(現バングラデシュ)が建設され、近隣諸国のパガン仏教寺院アンコール仏教寺院ボロブドゥール仏教寺院の建設に影響を与えた。日本でも同時期に東大寺が建立された。10世紀からラージプート王朝のチャンデーラ朝カジュラーホーを建設した。

北インドのイスラム化と南インドのヒンドゥー王朝[編集]

11世紀初めより、ガズナ朝ゴール朝などのイスラムの諸王朝が北インドを支配するようになった。

一方、南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄し、11世紀には北宋との海洋貿易の制海権を確保する目的で東南アジアシュリーヴィジャヤ王国に2度の遠征を敢行し、衰退させた。

13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクデリー・スルターン朝奴隷王朝)を興してデリーに都を置き北インドを支配した。バルバンの治世からモンゴル帝国の圧力が始まった。14世紀初頭にデリー・スルターン朝ハルジー朝)がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。アラー・ウッディーン・ハルジーの治世にはチャガタイ・ハン国が度々侵攻してきた。デリー・スルターン朝トゥグルク朝)は、内紛と1398年ティムールによるインド北部侵攻で衰退し、独立したヴィジャヤナガル王国バフマニー朝(その後ムスリム5王国英語版に分裂した)へと覇権が移った。

ヴィジャヤナガル王国[編集]

14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルターン朝から独立したヴィジャヤナガル王国が南インドで栄え、16世紀前半クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王の統治のもと、王国は最盛期を迎えた。

しかし、1565年ターリコータの戦いデカン・スルターン朝英語版に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君ヴェンカタ2世(位1586~1614)の奮闘もむなしく、その没後王国は滅亡した。デカン・スルターン朝も、その後はお互いに争うようになり、ムガル帝国がムスリム5王国全域を支配した。

ムガル帝国[編集]

ムガル帝国の版図の変遷

16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブル北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝ローディー朝)を倒して ムガル帝国を立てた。ムガルはモンゴルを意味する。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。3代皇帝のアクバルは、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。

だが、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派のイスラム法シャーリアに基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こしたシーク教徒や、ヒンドゥー教ラージプート族(マールワール王国メーワール王国)や、シヴァージー率いる新興のマラーター王国(後にマラーター同盟の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国ビジャープル王国1686年滅亡)・ゴールコンダ王国1687年滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。

しかし、アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策の反動で帝国は急激に衰退した。

インドの植民地化[編集]

1837年のインド

1498年ヴァスコ・ダ・ガマカリカットへ来訪し、1509年ディーウ沖海戦英語版オスマン帝国からディーウを占領し、1511年マラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカ英語版を要塞化することによって、ポルトガルはインド洋制海権を得た。このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド1510年-1961年)を築いた。1620年デンマーク東インド会社トランケバル英語版デンマーク領インド英語版1620年 - 1869年)を獲得。1623年インドネシアで起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。

そのような状況で、ムガル帝国が没落しイギリス東インド会社フランス東インド会社が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発した。1757年6月のプラッシーの戦いでムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた。同年8月にはマラーター同盟デリーを占領し、インド北西部侵攻英語版1757年 - 1758年)でインド全域を占領する勢いを見せた。1760年ヴァンデヴァッシュの戦い英語版でフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れた。

一方、翌1761年第三次パーニーパットの戦いマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北していた。1764年ブクサールの戦いでムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年アラーハーバード条約を締結し、ベンガル地方ディーワーニー(行政徴税権, Diwani Rights)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化を推進した。イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争(マイソール戦争マラーター戦争シク戦争英語版)を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。

19世紀前半にはイギリスの対インド貿易は自由化されると同時に、産業革命の影響でイギリスから機械製綿織物がインドへ流入し、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、1824年英蘭協約でイギリスがマラッカ海峡の制海権を確立。

1833年ベンガル総督ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクのもとでインド総督に改称。1835年からウィリアム・ヘンリー・スリーマン英語版カーリーを崇拝する殺人教団「サギー教」の掃討戦(1835年 - 1853年)を開始。 インドで栽培されたアヘン中国へ輸出するためのアヘン戦争1840年)が行われて三角貿易体制が形成された。近代的な地税制度を導入してインドの民衆を困窮させた一方で、タタ財閥等が誕生するなどした。

インド大反乱(1857 - 1858)をきっかけにして、イギリス政府1858年インド統治法英語版を成立させてインドの藩王国による間接統治体制に入り、バハードゥル・シャー2世ビルマに追放してムガル帝国を滅亡(1858年)させた。

その後、旱魃によるオリッサ飢饉ラージプーターナー飢饉ビハール飢饉英語版大飢饉英語版が続けて発生し、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動したため支援に多額の費用を出費する事態になった。藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府はインドの直接統治体制に切り替えることになり、1877年イギリス領インド帝国が成立した。

イギリス統治時代[編集]

イギリスはインド人知識人層を懐柔するため、1885年12月には諮問機関としてインド国民会議を設けた。1896年にボンベイ(現ムンバイ)でペスト感染爆発英語版が発生した際に強硬な住民疎開を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に暗殺された。この時、関与を疑われたロークマンニャ・ティラク逮捕され、出所後に「スワラージ英語版」(ヒンディー語: स्वराज)を唱えた。

イギリスはインド統治に際して民族の分割統治を狙って1905年ベンガル分割令を発令したが、かえって分割への憤りなどから反英機運が一層強まった。イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図って1906年に親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させたものの、1911年にはロークマンニャ・ティラクなどのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。

日露戦争における日本の勝利(非白人国家による白人国家に対する勝利)などの影響を受けたこと、民族自決の理念が高まったことに影響され、ビルラ財閥などの民族資本家の形成に伴いインドの財閥が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。第一次世界大戦ではインド帝国はイギリス帝国内の自治領の一つとして参戦した。挙国一致内閣のインド相は戦後のインド人による自治権を約束し、多くのインド人が戦った。1916年にはムハンマド・アリー・ジンナーら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間にラクナウ協定英語版を締結し、「全インド自治同盟英語版」(Indian Home Rule Movement)が設立された。第一次世界大戦に連合国は勝利したものの、インド統治法によってインドにあたえられた自治権はほとんど名ばかりのものであった。このためインド独立運動はより活発化した。

1919年4月6日からマハトマ・ガンディーが主導していた非暴力独立運動(サティヤーグラハ英語版)は、1919年4月13日のアムリットサル事件を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させ、1930年には塩の行進が行なわれた。ガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。第二次世界大戦においてはインド帝国は再び連合国として参戦したが、国民会議派はこれに対して非協力的であった。また国民会議派から決裂したチャンドラ・ボースが日本の援助でインド国民軍を結成するなど、枢軸国に協力して独立をめざす動きも存在した。

独立[編集]

インド初代首相ジャワハルラール・ネルー(左)と、インド独立の父マハトマ・ガンディー(右)

1945年7月5日にイギリスで総選挙が行なわれアトリー内閣が誕生。戦後、インド国民軍の将兵を国王に対する反逆罪で裁判にかけたが、これが大きな反発を呼び各地で暴動が勃発した。1946年8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナー直接行動の日英語版を定めると、カルカッタの虐殺が起こった。この暴動を受けて、イギリス本国が第二次世界大戦により国力が低下していた為、アトリー内閣はインドをこれ以上植民地下に置くことはできないと判断し独立を容認することとなった。

初代首相(外相兼任)にはジャワハルラール・ネルーが、副首相兼内相にはサルダール・V.J.パーテルが就任し、この新内閣が行政権を行使した。また、1946年12月から1950年まで憲法制定議会立法権を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置のインド最高裁判所に移行した。さらに憲法制定議会議長のR.プラサードが大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長のB.R.アンベードカルが法務大臣に就任した。こうして憲法施行とともに政治の大権は国民の側に移された。

独立当初はイギリス国王君主に戴く英連邦王国インド連邦)であったが、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、イスラム国家パキスタンとの分離独立となった。前日には、インドを東西から挟むパキスタンが誕生していた。

1948年1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教のマラータ同盟のあったマハーラーシュトラ州出身のヒンドゥー至上主義民族義勇団』(RSS) の活動家のナートゥーラーム・ゴードセー英語版によって、同じヒンドゥー教のマールワール英語版商人ビルラの邸で射殺された。

1948年9月13日、ポロ作戦英語版でインドがニザーム王国を併合。

政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図ることになり、1949年11月26日にインド憲法が成立し、1950年1月26日に共和制に移行した。憲法施行後、1951年10月から翌年2月にかけて連邦と州の両議会議員の第一回総選挙が行われた。結果は会議派が勝利し、首相にネルーが就任した。独立後は他の社会主義国ほど義務教育の完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかず、近年においても小学校さえ行けない子も多く貧富の差も激しい。

1954年フランス領インド英語版が返還されポンディシェリ連邦直轄領となった。 1961年12月、インドのゴア軍事侵攻英語版が起き、1961年12月19日にポルトガル領インドがインド共和国に併合された。1962年中印国境紛争が勃発、アクサイチンを失う。

インド国民会議政権[編集]

1966年から長期にわたってジャワハルラール・ネルーの娘、インディラ・ガンディー国民会議派政権を担った。東西冷戦時代は、非同盟運動に重要な役割を果した国であったが、カシミール問題と、3度の印パ戦争が勃発し、長く対立が続いた。特に第三次印パ戦争1971年12月3日 - 12月16日)にはソ連とインドが共に東パキスタン英語版を支援して軍事介入し、パキスタンを支援する中華人民共和国と対立した。インドとソ連の関係が親密化したことは、中ソ対立ニクソン大統領の中国訪問1972年2月)へも大きな影響を与えた。1972年7月、シムラー協定英語版バングラデシュ独立をパキスタンが承認。

1974年5月18日、コードネーム『微笑むブッダ』が成功し、世界で6番目の核保有国となった。

1976年11月2日、憲法前文に「われわれインド国民は、インドを社会主義・非宗教的民主主義[6]共和制の独立国家とし、すべての市民に保証することを厳かに決意する。」と議会制民主主義国家であると同時に社会主義の理念が入った。

インディラ・ガンディーは、1977年から80年にかけて一時的に政権を奪われつつも、長期に渡り首相の座を維持したが、1984年6月に実施したシク教過激派に対するブルースター作戦への報復として、同年10月シク教徒のボディガードにより暗殺された。息子のラジーヴ・ガンディーが後任となるも、ラジーヴも1983年に勃発した隣国スリランカ内戦における平和維持軍英語版派遣に対する報復として、1991年5月にタミル系武装組織タミル・イーラム解放のトラ自爆テロで同じく暗殺された。

後を継いだナラシンハ・ラーオ政権では、1991年7月から始まった経済自由化英語版によってIT分野で急成長を遂げた。 1992年12月、アヨーディヤーのイスラム建築バーブリー・マスジドヒンドゥー原理主義者らに破壊される事件が発生、宗派対立となった。

インド人民党政権[編集]

1996年の総選挙でインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。ルック・イースト政策を掲げてアジア諸国との関係も重視。1997年6月25日、初の不可触賎民出身の大統領、コチェリル・ラーマン・ナラヤナンが就任。

1998年5月11日と13日、ヴァージペーイー政権がコードネーム『シャクティ』を突如実施。「核保有国」であることを世界に宣言した。5月28日と5月30日にはパキスタンによる初の核実験が成功し、日米がインド・パキスタン両国に経済制裁を課した。1999年5月、パキスタンとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争英語版に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生し、アフガニスタンに潜伏するターリバーンへの対テロ戦争が優先される形で、インド・パキスタン両国への経済制裁が解除される。以後はITサービス業を中心に経済成長を続け、ロシアブラジル、中国とともにBRICsの一角として注目を集める存在となり、IT分野においてはその技術力が欠かせない存在となっている。中立非同盟とはいえ、アメリカイギリスとも友好な関係をとっている。一方で、中国パキスタンとは、緊張関係にある。

インド国民会議政権[編集]

2004年12月26日、スマトラ島沖地震では震源地に近いアンダマン・ニコバル諸島を中心とした地域で、死者12,407人・行方不明1万人以上という激甚災害が発生した。

2008年11月26日、デカン・ムジャーヒディーンによるムンバイ同時多発テロでは、死者172人、負傷者239人を出した。

インド下院(定数545)の議員を選ぶ総選挙が2009年4月16日にはじまり、5月13日まで5回に分けて実施された。有権者は約7億1400万人。選挙結果は5月16日に一斉開票され、国民会議派は206議席を獲得して政権を維持した。一方最大野党インド人民党 (BJP) は116議席に止まった。

2010年8月、インド北部ジャンムー・カシミール州で洪水が起きた。州東部のレー町の当局者は、死者が165人に達したと発表した。一方、軍当局者は9日洪水の行方不明者は外国人も含めて500人に達したと発表した。

インド人民党政権[編集]

2014年5月開票の総選挙でインド人民党が大勝して、10年ぶりに政権交代が実現。5月26日、ナレンドラ・モディが第18代首相に就任し、人民党政権が発足した。 [7]

地理[編集]

インドの地形図

パキスタン中華人民共和国ネパールブータンバングラデシュミャンマーとは陸上で、スリランカモルディブインドネシアとは海上で国境を接する。 インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジア半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7000kmの海岸線をもつ。多くの地域では雨期が存在し、三つの季節、夏、雨期、冬に分けられ、雨期を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。北インド・中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドスタン平野がひろがり、南インドのほぼ全域はデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタン係争中カシミール地方にあるK2峰(標高8,611m)である。確定した領土の最高点はカンチェンジュンガ峰(同8,598m)である。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤ高山地帯まで多様性に富む。

政治[編集]

大統領府
首相府(サウス・ブロック政府合同庁舎)
首相府(サウス・ブロック政府合同庁舎)
円形国会議事堂
共和国記念日パレード
航空母艦ヴィクラント(建造中)
火星探査計画マーズ・オービター・ミッション

インドの政治の大要は憲法に規定されている。インド憲法1949年に制定、1976年に改正され、以後修正を加えながら現在に至っている。

国家元首大統領。実権は無く、内閣の助言に従い国務を行う。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。

副大統領は議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は上院の議長を兼任する。

行政府の長は首相であり、下院議員の総選挙後に大統領が任命する。内閣は下院議員の過半数を獲得した政党が組閣を行う。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う(議院内閣制)。また、連邦議会の議事運営、重要問題の審議・立法化と国家予算の審議・決定を行う。

議会は、両院制で、州代表の上院(ラージヤ・サバー)と、国民代表の下院(ローク・サバー)の二院により構成される。

上院250議席のうち12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。大統領任命枠以外は、各州の議会によって選出される。 下院は、545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン(イギリス系インド人:植民地時代にイギリス人とインド人との間に生まれた混血のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は、5回にわけて行われる。選挙は小選挙区制で、投票は用紙に印刷された政党マークに印を付ける方式であり、今日まで行われている。

軍事[編集]

インド軍は、インド陸軍インド海軍インド空軍および、その他の準軍事組織を含むインド共和国軍隊である。インド軍の法律上の最高司令官は大統領だが、事実上の指揮権はインド政府のトップである首相が有している。インド軍の管理・運営は国防省 (Ministry of Defence) が担当する。

インド軍の正規兵力は陸海空軍と戦略核戦力部隊、インド沿岸警備隊の約132万5000人と、予備役は合わせて約110万人である。世界で6番目の核保有国・原子力潜水艦保有国でもある。インドの準軍事部隊は、アッサムライフル(5万人)、特別フロンティアフォース (1万人)で、以前は、準軍事部隊とされた政府武装警察部隊と、国境警備部隊中央予備警察等を含む中央武装警察部隊(約77万人)や、民兵組織のホームガード(約135万人)は 2011年から準軍事部隊に含めないとのインド政府の公式見解である。

グローバル・ファイヤーパワー社発表の世界の軍事力ランキング2014年版によると、インドは世界第4位の軍事力となっている。 志願制を採用しており、徴兵制が行われたことは一度も無い。

近年は近代化を加速させており、軍事目的での宇宙開発、核の3本柱(Nuclear triad、ICBMSLBM戦略爆撃機(後述のように狭義のそれはインドは保有しない))の整備、ミサイル防衛システムの開発等々多岐にわたり、国防費は2012年度で461億2500万ドルで、年々増加傾向にある。

宇宙開発[編集]

チャンドラヤーン1号(サンスクリット語: चंद्रयान-१)はインド初の月探査機である。無人の月探査の任務には軌道周回機とムーン・インパクト・プローブと呼ばれる装置が含まれる。PSLVの改良型のC11で2008年10月22日に打ち上げられた。打ち上げは成功して2008年11月8日に月周回軌道に投入された。可視光、近赤外線、蛍光X線による高分解能の遠隔探査機器が搭載されていた。2年以上に渡る運用が終了して月面の化学組成の分布地図の作成と3次元の断面図の完成が目的だった。極域において氷の存在を示唆する結果が出た。月探査においてISROによる5台の観測機器とNASAやESAやブルガリア宇宙機関等、他国の宇宙機関による6台の観測機器が無料で搭載された。チャンドラヤーン1号はNASAのLROと共に月に氷が存在する有力な手がかりを発見した。[8]

2013年11月5日、最初の火星探査機の打ち上げに成功した[9]。正式名称は「マーズ・オービター・ミッション」であるが、通称として「マンガルヤーン」と呼ばれている[10]。2014年9月24日に火星の周回軌道に投入され、アジアで初めて成功した火星探査機となった[11]

行政区分[編集]

インドは29の州と6つの連邦直轄領と、デリー首都圏 (National capital territory of Delhi) から構成される。ただし、ジャンムー・カシミール州はその全域をパキスタンとの間で、またジャンムー・カシミール州の一部とアルナーチャル・プラデーシュ州のほとんどを中国との間で、それぞれ領有権をめぐって外交国際政治の場で激しく争われている。

主要都市
都市 行政区分 人口 都市 行政区分 人口
1 ムンバイ マハーラーシュトラ州 13,662,885 11 ジャイプル ラージャスターン州 2,997,114
2 デリー デリー 11,954,217 11 ラクナウ ウッタル・プラデーシュ州 2,621,063
3 バンガロール カルナータカ州 5,180,533 12 ナーグプル マハーラーシュトラ州 2,359,331
4 コルカタ 西ベンガル州 5,021,458 14 インドール マディヤ・プラデーシュ州 1,768,303
5 チェンナイ タミル・ナードゥ州 4,562,843 15 パトナ ビハール州 1,753,543
6 ハイデラバード テランガーナ州 3,980,938 16 ボーパール マディヤ・プラデーシュ州 1,742,375
7 アフマダーバード グジャラート州 3,867,336 17 ターネー マハーラーシュトラ州 1,673,465
8 プネー マハーラーシュトラ州 3,230,322 18 ルディヤーナー パンジャーブ州 1,662,325
9 スーラト グジャラート州 3,124,249 19 アーグラ ウッタル・プラデーシュ州 1,590,073
10 カーンプル ウッタル・プラデーシュ州 3,067,663 20 ヴァドーダラー グジャラート州 1,487,956
1991年・2001年実施の国勢調査データを元にした2008年時点の推定予測値[12]


経済[編集]

ボンベイ証券取引所、アジア最古の証券取引所
IT企業の集まるバンガロール

インドの経済は、1991年以降、経済改革に取り組み、特に2003年以降は概ね年間7%から9%ぐらいの経済成長を達成し、2010年度も8.5%の高い経済成長率を達成するなどとして注目を浴びている。

近年の高成長は主にIT部門の成長がもたらしている。インドは先進国企業の情報技術導入が進むなかで、コンピューターソフト開発及び販売・欧米企業の情報技術関連業務のアウトソーシングの受注を拡大させている。ITソフトウェア産業は1990年代を通じて年率50%近い成長を遂げ、IT不況を迎えた21世紀に入っても 20%台の順調な成長を続けており、2003年時点では国内GDPの2.6%を占めるまでに至っている。工科系の大学を中心として毎年30万人を超える情報技術者を輩出していることや、労働コストが低廉であること。さらに、インド工科大学インド科学大学大学院といった優れた教育機関を卒業後、待遇面の良さなどを背景にアメリカのシリコンバレーなどに移住するインド人技術者は増加傾向にあり、その結果ソフトウェアの輸出と在外居住者からの本国向け送金は、インドの国際収支を支える重要な外貨獲得源となっている。 IT産業以外の分野でも、自動車部品・電機・輸送機器といった分野が伸びており、加えて産業規模は小さいもののバイオ医薬品といった産業の発展にインド政府は力を注いでいる。

また、インド経済の成長を支える原動力として、労働力も挙げられる。一国の経済成長を左右する大きな要素の一つである労働力人口に関して言えば、インドの労働力人口は2050年にかけて毎年約1%ずつ増加していくと見込まれており、その豊富な労働力が成長の礎となることが予想されている。また、それらの人口は将来的に実質的な購買力を備えた消費者層(=中間層)となり、有望な消費市場をもたらすものと考えられている。

貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易がGDPに与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、GDPに与える影響力が大きくなっている。主な貿易品目は、輸出石油製品農水産品輸送機器宝飾製品医薬品精製化学品繊維等である。輸入は 原油・石油製品、、機械製品等である。 IMFによると、2013年のインドのGDPは1兆8706億ドル(約190兆円)であり、世界第10位である[13]。1人当たりのGDPは1,504ドル。2012年にはGDP購買力平価PPPベースで、日本を抜いて世界3位なった。

経済の長期展望をする目安となるひとつが人口である。インドは2060年年ごろまで人口が増加しつつげる。インドが中国を抜いて世界一の人口大国になるのは2028年年と予測され、この時点で、インドの人口は14億5000万人に到達する。中国経済は2030年ごろにはピークアウトし、インド経済は中国失速後も成長を続けるということになる。 Citi Private Bank社らの調査では、2050年までにインドが世界最大の経済大国になると予測する。[14]

インド都市圏第2位のムンバイ。インド国内経済の中心地である

主な産業[編集]

第一次産業[編集]

主な農産物の生産地域

農業をはじめとする第一次産業は、世界第2位の規模を誇り、植物育種や灌漑設備の整備、農薬の普及といった「緑の革命」を実施し、独立後60年あまりで人口が12億人にまで増えたにもかかわらず、自給自足達成国となった[15]。世界で最も成功した米生産国の一つである。2006年には450万トンを輸出する主要な米輸出国である。インドの農地面積は1億7990万ヘクタールあり、農業は労働人口の52%が従事し、GDPの16%を占めるインド経済の中心である。また農業部門がGDP成長率に及ぼす影響では、一部の例外を除き農業部門が不振であった年は成長率が4%台に押し下げられている。こうした背景には、インド国内の灌漑施設まだ不十分であり、農作物の生産高がモンスーンによる降水量に大きく依存していることなどが挙げられる。 主な農産物は小麦綿花カシューナッツマンゴーサトウキビココナッツ生姜ウコン胡椒ジュート砂糖落花生等々が世界最大級の生産量を誇る。

第二次産業[編集]

マヒンドラマヒンドラXUV500

インドは世界第14位の工業生産国であり、2007年において工業でGDPの27.6%、労働力の17%を占める。経済改革は外国との競争をもたらし、公的部門を民営化しこれまでの公的部門に代わる産業を拡大させ、消費財の生産の急速な拡大を引きおこした[16]。 経済改革後、これまで寡占状態で家族経営が常態化し、政府との結びつきが続いていたインドの民間部門は外国との競争、とりわけ、中国製の安価な輸入品との競争に曝されることとなった。コストの削減・経営体制の刷新・新製品の開発・低コストの労働力と技術に依拠することにより、民間部門は変化を乗りきろうとしている[17]

輸送機械産業はオートバイスクーターオート三輪の生産が盛んであり、ヒーロー・モトコープバジャージ・オートホンダ等が生産販売をしている。 インドの二輪車市場は、年々伸び続け、2012年には中国を抜いて世界第1位であり1300万台以上であり今後も拡大が続くと見られ、2020年までには2,000万台を大きく超えると推測されてる。 自動車は、タタ・モーターズマヒンドラ&マヒンドラヒンドゥスタン・モーターズなどの地場資本の自動車メーカーの他、スズキルノーなどが、1991年まであったライセンス・ラージのためインドの地場資本と提携する形で進出している。自動車生産は1994年が24.5万台であったが、2011年には、自動車生産台数は393万台で世界第6位で輸出もしていある。

石油・エネルギー産業は、インドの財閥系企業リライアンス・インダストリー社が1999年に世界最大級の製油所を建設して以降、2002年に東海岸沖合の深海で大規模ガス田を、2006年には同区内の深海鉱区で大規模な原油・ガス田を発見。2004年にはラージャスターン州で複数の油田が発見されるなど、全体の需要を上回る石油製品の生産能力を保有するようになり、今日では石油製品の輸出国となっている。 製薬 産業や 繊維産業の世界トップクラスの生産国である。その他は鉄鋼業も盛んであり、エレクトロニクス産業もある。

第三次産業[編集]

情報サービス業
インドの大手IT企業インフォシス
テランガーナ州のショッピングモール

1990年代から2000年代にかけてインド経済を牽引していると言われていたITなど情報サービス業は、2000年代後半には優位性が揺らいできている。また、インド国外だけでなくインド国内にも情報サービス業の大きな市場があるにもかかわらず、インド企業は国外ばかりに目を向けているため、国内市場への欧米企業進出を許している[18]

当初、インド企業の強みであった低コストは、為替変動と国内の人材不足により優位性を失いつつある。加えて、インド企業に仕事を奪われた欧米企業は、インド国内に拠点を設け、技術者を雇うことによって劣勢であったコストの問題を挽回した。同時に、単なる業務のアウトソーシングに留まらず、ビジネスコンサルティング等の高度なサービス提供によって差別化を図っている[18]。特にIBMの動きは活発で、企業買収を繰り返しわずか2年でインド国内でも最大規模の拠点を築いた。インド国内市場にも積極的に営業を行っており、市場シェアトップとなっている[18]

こうした状況に、インド国内からは情報サービス業企業の革新を求める声があがり始めたが、上述の通りインド企業の経営陣は海外にばかり目を向け国内市場には長い間目を向けておらず、エリート意識からインド企業の優位を信じて革新に対する意識は低い状況にあるという[18]。また、ギルフォード証券のアナリスト、アシシュ・サダニはインド企業は25%という高い利益率となっていることを述べた上で、「それほど高い利益率を維持できるのは、未来のための投資を怠っているということの表れなのだ」と評し、今後の成長のためには目先の利益だけでなく、将来へ向けた投資をしなければならないと指摘している[18]。大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルのパラボラアンテナが地上や屋上に設えてあり、人工衛星を用いてインターネット接続ができる。 現在のインドIT産業の規模は2012年に800億ドル(8兆円)から、14年には1,180億ドル(12兆円)に達する見通しで、これはGDPの8%に相当しており、インド経済を支える柱の一つに、なっている[19]

小売業は、伝統的な小規模な零細小売業である店舗が9割を占める中、地場財閥系資本の食品スーパーやハイパーマーケットなどモダン流通店舗も急拡大している。 小売業大手のリライアンスリテールはインド国内に1400店の舗展開しており、都市部にはショッピングモールは珍しくない。

医療ビジネスは、インドの医療レベルは飛躍的に進歩し、欧米で研修をした医師が帰国している。英語が第二公用語であるために、医療関係でも英語圏との結び付きが強い。インドでは海外からの医療ツアーのPRが行われており、「アポロホスピタルグループ」はインド内外で38の病院を経営し、4000人の医師を抱えるインド最大の病院チェーンで、特に心臓手術では施術例55000人・成功率99.6%という実績があり、心臓手術では世界五指に入るという。先進国より破格に治療費が安い事が魅力であり、医療費が高いアメリカとインドの手術費用を比較するとアメリカではおよそ350万円かかる心臓手術がインドでは80万円程度という4分の1以下の安さである。 計画委員会のレポートによると、インドには約60万人の医師と100万人の看護師、200万人の歯科医がおり、そのうち5%が先進国での医療経験を持つ。現在、6万人のインド人医師がアメリカイギリスカナダ、オーストラリアの医療機関で働いているという。世界的に見て医師と弁護士の水準が高く各国で活躍するインド人医師の数は6万人に上り、イギリスでは外科医の40%がインド人医師で占められ、アメリカに於いても10%を超える外科医がインド人医師である。

今後の課題[編集]

砂漠地帯の風力発電パーク

インドは、「五ヵ年計画」により経済、財政、金融雇用、教育、社会保障、環境、産業、農業、交通、都市開発、エネルギーなど多岐にわたって国の戦略的な目標及びプロジェクトが進んでるが、電力の供給能力が経済成長に追いついておらず日常的に停電が発生することや、インドの経済成長の主軸とされるIT産業にとって不可欠な通信設備の普及が立ち遅れている。2004年から高度成長期に入り2010年には中間層が2億4千万人と増加した反面、1日65ルピー未満で暮らす貧困人口は3億人を超えており、貧困に苦しむ人が多い国であるもの、アジア開発銀行が2011年に発表した予想によれば、インドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとの見方もある。09〜10年の国立研究所調査では都市部で中間層世帯が初めて貧困層を上回った。インド政府は年成長率9%を目標に2012年からの第12次5ヵ年計画で約1兆ドルのインフラ整備計画を打ち出しており、発電所、鉄道、飛行場、港湾、都市交通道路の設備投資も急速に進めると同時に、貧困層を10%削減する予定 [20]

インドの環境に対する意識は高く、森林保護活動や植林活動は40年以上の歴史がある。インド政府の政策や投資によって、再生可能エネルギーの利用に力をいれている。 風力発電の累計導入量は2010年末時点で13.1GW。世界全体の7%を占め世界第5位である。インドのスズロンエナジー社は世界5位の風力発電機メーカーである。2009年策定の「太陽エネルギー国家計画」では、太陽光発電を2022年までに2,000万kWに拡大する目標を設定しており、今後の導入拡大が見込まれる。 インドの公的調査機関「科学環境センター」は大気汚染の最大要因を車の排気ガスと分析する。特に 12月中旬~2月中旬に北インドで発生する濃霧期間は、風が吹かず大気汚染が酷くなる傾向にある。対策として欧州連合 (EU) の排ガス規制「ユーロ 4」に相当する排ガス規制「バーラト・ステージ (BS4)」が導入されている。

国際関係[編集]

インドが外交使節を派遣している諸国の一覧図(青)。
国連総会の演説で改革を求めるナレンドラ・モディ首相(2014年当時)

独立後、重要な国際会議がインドで開かれ、国際的な条約や協約が締結されている。

  • 1947年3月、デリーでアジア問題会議が開催され、新生のアジア諸国が直面視する諸問題が討議された。
  • 1949年2月、デリーでアジア19カ国会議が開催され、オランダインドネシア再植民地化が、批判すべき緊急の政治課題として討議された。
  • 1949年11月、コルカタでインド平和擁護大会が開催された。
  • 1949年12月、ビルマ(ミャンマー)に続いて中華人民共和国を承認した。
  • 1950年10月、北インドラクナウで太平洋問題調査会の第11回国際大会が開催された。ネルーが「アジアの理解のために」と題して基調演説を行った。
  • 1954年4月、北京で中印双方は「中印両国の中国チベット地方とインドとの間の通商と交通に関する協定」に調印し、そこで平和五原則(パンチャ・シーラ)を確定した。それは領土・主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和的共存からなっていた。
  • 1955年4月、バンドン(インドネシア)でアジア・アフリカ会議が開催された。14億の諸民族を代表する29カ国の指導者が参加した。平和五原則に基づく諸原則を承認した。スカルノ周恩来ネルーナセルなどが参加していた。
  • 1961年9月、ベオグラードユーゴスラビア)で第1回非同盟諸国首脳会議が開催された。チトー、ナセル、ネルーなどがアジアとアフリカの25カ国代表が参加した。戦争の危機回避を求めるアピールが採択された。

領土紛争[編集]

カシミール地方のインドとパキスタン中国との間で領土紛争があり、特にパキスタンとは激しい戦闘が繰り返され(印パ戦争)現在は停戦状態にある。インドの主張するカシミール地方は、ジャンムー・カシミール州となっている。

これとは別に、インド東部アッサム州北部のヒマラヤ山脈南壁は中国との間で領土紛争があったが中国側が自主的に撤退し、現在はインドのアルナーチャル・プラデーシュ州となっている。

パキスタンとの関係[編集]

宗教の違いや国境紛争で伝統的に隣国パキスタンとはかなり関係が悪い。 ムンバイ同時多発テロ以降、関係は悪化していたが、2011年には二国間貿易規制緩和やインドからパキスタンへの石油製品輸出解禁が打ち出され、11年7月には両国の外相が1年ぶりに会談した。 2012年9月8日、イスラマバードで会談をして、ビザ発給条件の緩和について合意した他、農業保険教育環境科学技術などの分野での相互協力などが話し合われた[21]

日本との関係[編集]

ラダ・ビノード・パール肖像画(靖国神社内顕彰碑)

近代以前の日本では、中国経由で伝わった仏教に関わる形で、インドが知られた(当時はインドのことを天竺と呼んでいた)。東大寺の大仏の開眼供養を行った菩提僊那が中国を経由して渡来したり、高岳親王のように、日本からインドへ渡航することを試みた者もいたが、数は少なく、情報は非常に限られていた。日本・震旦中国)・天竺(インド)をあわせて三国と呼ぶこともあった。

第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家のチャンドラ・ボース日本軍の援助の下でインド国民軍を結成し、日本軍とともにインパール作戦を行ったが、失敗に終わった。チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物にラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)やA.M.ナイルらがいる。ラース・ビハーリー・ボースとA.M.ナイルの名前は、現在ではむしろ、日本に本格的なインド式カレーを伝えたことでよく知られている。

1948年極東国際軍事裁判(東京裁判)において、インド代表判事パール判事(ラダ・ビノード・パール1885年1月27日 - 1957年1月10日)は、「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張した。またインドは1951年サンフランシスコで開かれた講和会議に欠席。1952年4月に2国間の国交が回復し、同年6月9日平和条約が締結された。インドは比較的親日国であり、日本人の親印感情も高いと考えられているのは、こうした歴史によるものである。[22]

広島原爆記念日である毎年8月6日に国会が会期中の際は黙祷を捧げているほか、昭和天皇崩御の際には3日間に服したほどで、インドは極めて親日的な国家である。しかし、インド人の日本への留学者は毎年1000人以下と、他のアジアの国の留学生の数に比べて極端に少ない。

2001年のインド西部地震では日本は自衛隊インド派遣を行い支援活動を行った。 日本政府は「価値観外交」を進め2008年10月22日には、麻生太郎シン両首相により日印安全保障宣言が締結された[23]。日本の閣僚としては、2000年森喜朗総理大臣8月18日26日東南アジア訪問の一貫)、2005年小泉純一郎総理大臣(デリー)、2006年1月に麻生太郎外務大臣(デリー)、2006年アジア開発銀行年次総会の際に谷垣禎一財務大臣ハイデラバード)、2007年1月に菅義偉総務大臣(デリーとチェンナイ)、2007年8月に安倍晋三総理大臣(ニューデリーコルカタ)、2009年12月に鳩山由紀夫総理大臣(ムンバイとデリー)がそれぞれ訪問している。 2011年8月1日日本・インド経済連携協定が発効した。 2012年4月に日印国交樹立60周年を迎え、日本とインドで様々な記念行事が実施された[24]2014年8月30日、モディが首相として初来日し、安倍首相主催による非公式の夕食会が京都市の京都迎賓館で開かれた。 日印首脳会談は9月1日に東京で行われ、共同声明の「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」では特別な関係が明記され、安全保障面では、外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の設置検討で合意、シーレーンの安全確保に向けた海上自衛隊インド海軍の共同訓練の定期化と、経済分野では日印投資促進パートナーシップを立ち上げ、対印の直接投資額と日本企業数を5年間で倍増させる目標を決定した[25]

イギリスとの関係[編集]

17世紀、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進し、インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が起こり、フランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、マイソール戦争・マラータ戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した。イギリス東インド会社は茶、アヘンインディゴなどのプランテーションを拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。

イギリス支配に対する不満は各地で高まり、インド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。イギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社がもっていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。第一次世界大戦で、イギリスは植民地インドから100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。しかし、イギリスはインドに対して戦後に自治をあたえるという公約を守らず、ウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて民族運動はさらに高揚したが、アムリットサル事件が起きた。

しかし非暴力を唱えるマハトマ・ガンディージャワハルラール・ネルーにより反英・独立運動が展開された。ガンディーは「塩の行進」を開始したが成功しなかった。

第二次世界大戦では日本に亡命したチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、インド人兵士は多くが志願した。

インドは念願の独立後の1950年代以降も、多くのインド人が就職や結婚など様々な理由で、景気の見通しが上向きであった英国に移住した。当時、英国政府は移民の管理に懸命に務めたものの、61年にはすでに10万人以上のインド人や隣国のパキスタン人が定住していた、と記録に残っている。彼らの多くは英国にすでに移住している同郷人が親族を呼び寄せるという「連鎖移住」の制度を利用した。現在、英国に住むインド出身の人々は西ロンドンのサウソール、ウェンブリー、ハウンズロー、バーネット、クロイドン、郊外では東西ミッドランズ、マンチェスターそしてレスターにコミュニティーを作っている。またイギリスでは医師の3割がインド人である。

インドは歴史的に反英感情が強いものの、旧宗主国が普及させた世界共通語である英語を使い、英語圏中心に商売をしている。

アメリカ合衆国との関係[編集]

冷戦期は中立非同盟路線のインドとパキスタンを軍事パートナーとしていたアメリカとの関係はよくなかった。冷戦終結を契機に印米関係は改善を見せ始め、現在では経済軍事交流を初めとして良好な関係を築いてる。インドではソフトウェア産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人材が多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、インターネットを通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。NHKスペシャルの「インドの衝撃」では、NASAのエンジニアの1割はインド人(在外インド人)だと伝えている。

また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった(→オフショアリング)。

一時期、シリコンバレーは“IC”でもつと言われたことがあるが[誰によって?]、この場合のICは集積回路Integrated Circuitsを指すのではなくインド人と中国人を意味する。

英語の運用能力が高く人件費も低廉な為、近年アメリカ国内の顧客を対象にしたコールセンター業務はインドの会社に委託(アウトソーシング)されている場合が多い。多くのアメリカ人の顧客にとってインド人の名前は区別し難いため、電話応対の際インド人オペレーターはそれぞれ付与された(アングロサクソン系)アメリカ人風の名前を名乗っている。

アメリカとの時差は12時間で、アメリカで夜にITの発注をかけてもインドでは朝。そのためにアメリカで発注かけた側が就寝して朝目覚めれば、インドから完成品がオンラインで届けられている場合もあるとのこと。この言語と時差の特性を利用しインドにコールセンターを置く企業も増えつつあるといわれている。

アメリカの科学者の12%、医師の38%、NASAの科学者の36%、マイクロソフトの従業員の34%、IBMの従業員の28%、インテルの従業員の17%、ゼロックスの従業員の13%がインド系アメリカ人であり、インド系アメリカ人は100万~200万人台いると言われている。印僑の9人に1人が年収1億円以上、人口は0.5%ながら、全米の億万長者の10%を占める。彼らはアメリカのITの中枢を担っているためシリコンバレーに多く住んでおり、シリコンバレーにはインド料理店が多い。

また、アイビー・リーグ等のアメリカの大学側はインドに代表団を派遣して学生を集めるための事務所を構えたり、優秀なインド人学生をスカウトするなどの活動もあり、アメリカに留学するインド人学生は多く、移民税関捜査局(ICE)調査によれば、中国人学生に次に、インド人学生が多い。インド人学生の4分の3以上が科学、技術、 工学、数学(STEM)分野を学んでる模様。

また後述するようにアメリカ国内ではインド人に対する嫌がらせは基本的に見られず、強いて言うならばアメリカ同時多発テロの時にアラブ系と勘違いされインド系が襲われる事件があった程度である。

オーストラリアとの関係[編集]

インドはオーストラリアにとっての重要な輸出市場であり、オーストラリアは市場競争力と付加価値がある専門技術と技術的ソリューションを、さまざまな分野にわたって提供しているという。インド工業連盟 (CII) は、「オーストラリアとのビジネス」と題したセミナーを主催、その開会の場でラーマンは、オーストラリアの専門技術と技術的ソリューションは、インドのあらゆる分野のビジネスで重要視されているとし、資源開発、鉱業エネルギー、インフラ、建築飲食、農業関連産業、情報通信技術、映画メディアエンターテインメント小売り金融、と活用されている分野を挙げた。

オーストラリアは移民政策としてアジア人を受け入れており、特にインド人は英語が話せるために多くが留学また移民として来ている。アメリカと同様にオーストラリアには多数のインド人が移民して、距離が近い分、アメリカに行くよりオーストラリアに行く事を選んだインド人も多い。オーストラリアにおけるインド系企業は浸透し、オーストラリアの金融機関のシステム開発は当時から、インド系ソフトウェア会社の存在なしには成り立たなくなっている。

2005年頃からオーストラリアの若者たちがレバノン人を暴行する事件が相次ぎ、2007年頃からインド人留学生を狙う暴力事件が相次いで発生した。 インド人学生に対する暴行は、主にメルボルンシドニーなどオーストラリアの都市部であり、地元の若者がグループで襲い物を奪ったり、ドライバーで刺したりする事件が相次いだ。オーストラリアの地元警察によると、大半が「愉快犯」といい、合言葉は「レッツゴー・カレー・バッシング」だった。 相次ぐインド人襲撃を受けて、オーストラリアのインド人学生ら数千人は抗議の座り込みをし、インド国内でも抗議する大規模デモが行われ、外交問題にまで発展した。 ボリウッドの大物俳優アミターブ・バッチャンは、クイーンズランド大学から授与されるはずだった名誉博士号を辞退したほか、ブリスベンで行われる映画祭への出席も見合わせた。インドのシン首相は「分別のない暴力犯罪には身の毛がよだつ。 その一部は人種的動機から、オーストラリアにいるわが国の学生に向けられている」と抗議した。 ケビン・ラッド首相はシン首相との会談の際に、事件の背景に人種差別があるわけではないと強調、オーストラリアは今でも世界有数の安全な国だとして平静を呼びかけた。

中国との関係[編集]

ともにアジアの地域新興大国、そしてBRICsの一角として、インドと中華人民共和国は様々な面で比較されることが多い。しかし国境問題等もあって両国とも相手国への好感が低く、関係は悪い。

産業構造では、中華人民共和国は単純製造業の比率が高く、これが成長を牽引したといわれており、インドは製造業の比率が低いことがマイナス要因となっていた。両国ともに製造業は労働集約型である。しかし中華人民共和国は設計、開発が国外で行われた組み立て型が中心であるのに対し、インドは自国で設計、開発を行う知識集約型が主力商品に含まれている。また、中国よりもインドのIT関連技術者の英語能力の方が高く、同一のIT知識を有している技術者でも、アメリカをはじめとする先進諸国のIT産業の下請けとしては、インド人の英語能力に優位性が認められ、高く評価されている。またインド人自らもこれを自負している。

ともに移民(印僑華僑)が多く、移民先で経済的成功を収め大きな影響力を発揮することが多い。印僑は、全世界110カ国以上に約2000万人以上いるとされ、アメリカの科学者の12%、医師の38%、NASAの科学者の36%がインド人、また英国では医師の40%以上がインド出身とも言われ、東南アジアを中心とした華僑に比べワールドワイドである。

現在は経済自由化が早かった中国がインドよりも海外からの投資外国人観光客数、経済成長率、都市整備でリードしてるが、英ナイトフランクと米シティプライベートバンクがまとめた、世界の富の配分に関する報告書(2012年版)によれば、インドが2050年までに中国を抜いて、世界一の経済大国になると予想した。

インドと中国は両者共々古い文明を持つが、訪問外国人数ではインドは近年、政府も観光に力を入れ650万人に伸びてるが、70年代から観光に力を入れてる中国は5000万人で差がある。

冷戦期は共産主義国家の中国は東側陣営につき、中ソは蜜月時代を築いた。社会主義計画経済政策を推進。これは上推進記の移民の原因の一つとなった。現在は市場経済を導入しているにもかかわらず、「社会主義の国」と今も憲法で謳っている。インドは、冷戦のさなかの1961年にインドのネルー首相等の呼びかけで始まった東側の共産主義陣営、西側資本主義陣営に属さない非同盟国または非同盟運動のメンバー国である。 1947年の独立以降、混合経済体制下で国家主導の輸入代替工業化による経済開発を進めてきたが、91年7月にラオ政権が発表した経済改革政策で、市場原理と競争重の、インド経済自由化に転換した。

建国以来、一貫して共産党一党独裁体制の続く中華人民共和国に対して、インドは国民一人ひとりが選挙を通じて国の指導者を選ぶ「民主主義」の国であり、また、立法司法行政三権分立も確立しており、多党制普通選挙が行われている。

両国間のかつての貿易は並々ならぬものであった。例えば、タタ財閥ジャムシェトジー・タタ)は清国との交易から始まった。

中華人民共和国が近い将来少子高齢化社会となるのに比べ、インドは少子化問題の懸念がずっと少ない。2011年版「世界人口白書」によれば、インドは2021年までに、中国を抜いて世界一の人口大国になる可能性とも。 中印両国とも経済成長が著しく、G20のメンバーであり、G14に加盟する可能性がある。 現在常任理事国である中国は日本の常任理事国入りは不支持であるのに対し、犬猿の仲とも言われるインドの常任理事国入りは支持している。 インドにとって中国は米国と並ぶ主要な貿易国の一つである。

交通[編集]

道路[編集]

イギリス領だった影響から、左側通行である。

高速道路などは計画・建設中の段階である。デリーコルカタチェンナイムンバイを結ぶ延長約5800kmの道路(通称「黄金の四角形」)が2006年中に完成した。また、国内を東西方向・南北方向に結ぶ+型の延長約7300kmの道路(通称「東西南北回廊」)も2007年末に完成する予定である。これらの高速道路は通行料金(Toll)が必要な有料道路(Toll way)であり、所々に料金所があるが、一般道と完全に分離しているわけではない。大都市では片道3車線以上で立体交差であるが、数十km郊外に行けば片道2車線で一般道と平面交差し、近所の馬車や自転車も走る。これ以外の道路も舗装はされているが、メンテナンスが十分でなく路面は凸凹が多い。

鉄道[編集]

インドの鉄道国有インド鉄道)であり、総延長は62000kmを超えて世界第5位である。現在では鉄道が移動の主体となっている。経済格差が激しいのにあわせて、使う乗物によってかかる費用が大きく違う。例)ムンバイ、デリー間。飛行機の外国人料金: 6000ルピー。二等の寝台: 400ルピー。また日本新幹線を基にした高速鉄道貨物鉄道も計画されている。

インド全土に広がる鉄道網は、以下のように分割管理されている。

以下の鉄道は、公社化されている。

航空[編集]

かつて旅客機は一部の富裕層でしか使われていなかったが、2000年代に入り国内大手資本により格安航空会社が多数設立され、それに併せて航空運賃が下がったこともあり中流階級層を中心に利用者が増加している。

航空会社としては以下のものがある。

首都・ニューデリーにはインディラ・ガンディー国際空港がある。

人口[編集]

インドの鉄道網と人口密度を示した地図。北部に特に人口が集まっている。

2007年の人口は1,131,043,000人。2011年の人口は12億1,000万人以上で人口増加率17.64%。 2013年、現在は12億3900万人。[26]インドの人口は1950年以降、毎年1,000万1,500万人の勢いで増加し続け、2005年には11億人を突破した。国連の予測では今後もこのペースで増加し、2030年代に中華人民共和国を追い抜く可能性が高い。中華人民共和国が一人っ子政策を見直さない限り2030年代で人口が頭打ちになるのと比べ驚異的な伸びといえる。ただし2030年代以降は毎年500~700万人増と人口増加はやや鈍化する。とはいえ2050年には16億人に達し、その後も増加し続け、2100年には18.2億人近くになるというのが大方の専門家の見方だ。またインドは人口構成が若いのが特徴で、2000年の中位年齢は23歳、2050年でも38歳と言われている[誰によって?]

インドの人口の推移と予測
人口(万人) 増加率 (%)
1950 3億5756 ×
1960 4億4234 2.2
1970 5億5491 2.3
1980 6億8885 2.2
1990 8億4641 2.1
2000 10億0169 1.9
2005 11億0337 ×
2007 11億3104 ×
2010 11億7380 1.4
2020 13億1221 1.1
2030 14億1657 0.8
2040 14億8571 0.5
2050 15億9000 0.3
2100 17億9000 0.3

インド全体の人口増加率は、1971年から2001年まで、2%台から1%台の1.97%に落ちた[27]

人種・民族[編集]

インド亜大陸の民族については、インド・アーリア語族、ドラヴィダ語族、オーストロアジア語族、モンゴロイド系のシナ・チベット語族の4つに大別されるが、人種的には約4000年前から混血している。 大半がインド・アーリア語系の分布で、南はドラヴィダ族が分布し、オーストロアジア語族、シナ・チベット語系は少数な分布となっている。 Y染色体MtDNAの研究結果によると、インド人の大半は南アジア固有ハプログループを有している。[28][29]ミャンマーと国境が接している北東部は、チベット・ビルマ語族の民族がいる。

言語[編集]

インドの言語の地理的分布

インドはヒンディー語を連邦公用語とする。ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の約40%を占める。方言を含むと800種類以上の言語が話されているインドでは、地域が異なればインド人同士でも意思疎通ができない場合がある。植民地時代に家では英語だけで子供を育てたことなどから、英語しか話せない人もいる。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。1991年の国勢調査によると、178,598人(調査対象者の0.021%)が英語を母語にしており、9000万人以上(同11%)が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。インド社会は国内コミュニケーションの必要上から第二公用語の英語を非常に重視しており、結果として国民の英語能力は総じて高い。インドの大学では全て英語で講義を受けるため、インド人学生の留学先にアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどの英語圏が圧倒的に人気が高い。

インド憲法には1950年の憲法施行後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。ただし地名に関しては英語離れとでも言うべき動きが進んでおり、ボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市は、それぞれムンバイコルカタチェンナイという現地語の名称へと公式に改められた。こうした傾向はインド国内でのナショナリズムの拡大・浸透が続く限り進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語は未だ全国に浸透していない。特にインド南部タミル・ナードゥ州などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。

インドの言語は北部のインド・ヨーロッパ語族インド語派と南部のドラヴィダ語族に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語は主に南部のアーンドラ・プラデーシュ州カルナータカ州ケーララ州タミル・ナードゥ州で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。この様に北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。

1980年代以降のヒンドゥー・ナショナリズムの高まりと共に、サンスクリットを公用語にしようという動きも一部で高まっている。もともと中世以前においてはインド圏の共通語であったと考えられているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなった後も、上位カーストであるブラフミンの間では基礎教養として身に付けられてきたという経緯がある。しかし古い言語であるだけに、現在(学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティー等を除けば)日常語として話している人はほとんど居らず、またその複雑さ故に同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。

連邦公用語[編集]

連邦公用語ヒンディー語。多言語社会であるインドにおいて、国家が国民統合を推し進める上で、また実際に行政運営を行う上で言語は常に重要な位置を占めており、現在は当初独立運動の過程では、植民地の行政言語(公用語)であった英語に代わって、北インドを中心に広く通用するヒンドゥスターニー語を新たに独立インドの象徴として積極的に採用していこうというガンディーらの意見があった。その流れを受けて、独立後制定されたインド憲法[6]の第343条では、ヒンドゥスターニー語の流れを汲むヒンディー語が連邦公用語として規定されている。これに対しては憲法起草段階から現在に至るまで南部のタミル・ナードゥ州を中心に反対意見が根強いが、連邦政府はおりにつけ各地でヒンディー語の普及を推し進めている。

それ以外にもインド憲法条文(第8付則[7]、および憲法修正第92法[8]を参照)には以下列挙する「22の言語」が明記されている。しかし、これら22言語(通称「第8付則言語」)は、憲法によって「公用語」として規定されているわけではなく、あくまで「公的に認定された言語」という曖昧な位置づけに留まっている。例えば、サンスクリット語シンディー語などはいずれの州でも公用語として採用されておらず、また逆にミゾラム州の公用語の一つであるミゾ語などは、この22言語の中に含まれていない。

公的に認定された言語

州・連邦首都圏・連邦直轄領の公用語[編集]

 (第二公用語は除く。憲法第8附則に明記されている言語、および連邦公用語は太字で示す。)

英語は全ての地方の公用語となっている。
連邦首都圏と連邦直轄領

宗教[編集]

アクシャルダム寺院(ヒンドゥー教)
アクシャルダム寺院(ヒンドゥー教)
シャトルンジャヤのジャイナ教寺院都市
ブッダガヤの大菩提寺
ブッダガヤの大菩提寺
ハリマンディル(シク教寺院)
ハリマンディル(シク教寺院)
メッカマジスト(イスラム教モスク)
メッカマジスト(イスラム教モスク)
コルカタのセントポール大聖堂
コルカタのセントポール大聖堂
ムンバイのゾロアスター教寺院

インドの人口に占める各宗教の割合: ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%(2001年国勢調査)[30][31]。また、ブリタニカ国際年鑑2007年版によれば、ヒンドゥー教徒73.72%、イスラム教徒11.96%、キリスト教徒6.08%、シク教徒2.16%、仏教徒0.71%、ジャイナ教徒0.40%、アイヤーヴァリ教徒0.12%、ゾロアスター教徒0.02%、その他1.44%である。

ヒンドゥー教徒[編集]

ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目。 ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛がありバラモン教は変貌を迫られた。その結果 バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになったその後インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。神々への信仰と同時に輪廻解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んカースト制等を特徴とする宗教である。

ジャイナ教[編集]

ジャイナ教とは、マハーヴィーラヴァルダマーナ前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行禁欲主義をもって知られるインド宗教。「ジナ教」とも呼ばれる。 仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。

仏教[編集]

仏教発祥の地である。1203年のイスラム教徒ムハンマド・バフティヤール・ハルジー将軍によるヴィクラマシーラ大僧院の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃を受け、インド仏教は、ベンガル地方でベンガル仏教徒とよばれる小グループが細々と命脈を保つのみとなった。一説では東南アジア東アジアに仏教が広まったのは、インドで弾圧された多くの仏教関係者が避難したことが理由としてあげられる。 1956年、インド憲法の起草者の一人で初代法務大臣を務めたアンベードカルが死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民と共に仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動が起こった。

チベット仏教

カシミール州ラダック地方、ヒマーチャルプラデーシュ州の北部、シッキム州など、チベット系住民が居住する地方では、チベット仏教が伝統的に信仰されている。

シク教[編集]

シク教は、16世紀グル・ナーナクインドで始めた宗教。あるいはシーク教とも呼ぶ。シクとはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。 総本山はインドのパンジャーブ州アムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。教典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1430ページの書物であり、英語に翻訳されインターネットでも公開されている。

イスラム教[編集]

イスラム教徒もインド国内に多数おり、インド国内ではヒンドゥー教に次ぐ第二位の勢力である。信徒人口はインドは世界第3位のイスラム教国である(1位インドネシア、2位パキスタン)。ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで、暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教のモスクを破壊したりといった事件も後を絶たない。近年はイスラム主義過激派によるテロも頻発している。

キリスト教[編集]

インドのキリスト教徒の多くはローマ・カトリック教会に属しており、インド南部のゴア州やケーララ州などに集中している。これはイギリス統治時代以前のポルトガルのインド侵略による影響が大きい。インドでは東方教会の一派であるトマス派が存在しており、マイノリティであるものの、一定の影響力を維持してきた。これとは断絶する形で、イギリスの植民地化以降はカトリックやプロテスタント諸派の布教が進み、トマス派を含めて他宗派の住民が改宗した。

ゾロアスター教[編集]

サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインド西海岸のグジャラート地方に退避する集団があった。Qissa-i Sanjan伝承では、ホラーサーンサンジャーン英語版から、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部のサンジャーン英語版にたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原ホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたといわれている。 インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「ペルシア人」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。かれらはイランでは多く農業を営んでいたといわれるが、移住を契機に商工業に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった。

文化[編集]

教育[編集]

2002年の憲法改正及び2009年の無償義務教育権法により、6~14歳の子どもに対する初等教育の義務化、無償化が図られてる。 後期中等教育(日本の高校に相当)は2年制と4年制に分かれており、高等教育を受けるために大学へ進学するには、4年制の高校で学ばねばならない。インドの学校は日本と同じ4月入学を採用している。

インドの教育は公立の場合には、現地の言語とヒンディー語で行われている。インドでは最近にかけて英語の授業が早く行われるようになった。ニューデリーの公立学校では初等教育から教授言語が英語である。インドの私立高校は既に初等教育から英語で教育が行われている。

印僑[編集]

印僑華僑ユダヤ人アルメニア人に並ぶ世界四大移民集団で、海外で成功を収めている。大英帝国の植民地時代から世界各国の国へ移民し、特にイギリスの支配下であった英語圏に圧倒的に多いのが特徴である。在外インド人(NRI印僑)は、インド外務省によれば、2500万人以上と世界各地に存在しており、その一部は上祖の出身地たるインドへの投資にも積極的である。特にインド系移民の存在感が大きな諸国として東アフリカタンザニアや、ケニアモーリシャス南アメリカガイアナ西インド諸島トリニダード・トバゴオセアニアフィジーなどが挙げられる。

食文化[編集]

インド料理は、フランス料理イタリア料理中国料理日本料理などと並ぶ世界的な料理スタイルの1つである。特徴の1つは、様々な香辛料(スパイス)を多用する事であるが、インド亜大陸は広大であり、地域・民族・宗教・階層などによって多くのバリエーションがある。

インド系移民と在外インド人の活動の結果として、インド料理は世界各地に定着している。特にイギリスや旧イギリス領のマレーシアシンガポールフィジーペルシア湾岸、ケニア南アフリカトリニダード・トバゴガイアナなどでは、インド料理が地元の食文化に溶け込んでいる。チキンティッカマサラはイギリス生まれのインド料理で、イギリスの国民食の1つと呼ばれている。ゴア料理はポルトガルとその植民地に伝播し、マカオ料理などに影響を与えた。また、カレー粉の普及により世界各地にカレー料理が生まれている。インドを発祥とするムルタバは、貿易を通して東南アジアに伝わり、現在では同地域やアラビア半島で食べられている。 日本では、チャンドラボースやイギリス海軍の影響になどにより、学校給食でカレーが取り入れられるなど、ラーメンと並びカレーライスが国民食となっている。全国各地では、その土地ならではの味付けや食材、コンセプトを用いた「ご当地カレー」も登場しており、日本独自の食文化となりつつある、

哲学[編集]

インドにおいて発達した哲学思想は、法(धर्म ダルマ)・利(अर्थ アルタ)・愛(काम カーマ)の三つ、あるいはこれらに解脱(मोक्ष モークシャ)を加えた四つを主題として展開してきた。法は主に『ヴェーダ』に述べられる祭式とそれにまつわるバラモン等の四つのヴァルナの正しい生き方に関わり、利は主にクシャトリヤの国王を中心とした国家の正しい運営方法あるいはあり方に関わり、愛は格好よさ・夫婦の生活・性交・遊女など広く男女の間柄についてのあり方に関わっている。また解脱とその前提となる輪廻(संसार サンサーラ)は、人間の死後のあり方に関わっており、インドにおけるほとんどすべての宗教思想や哲学と密接な関係にある。

文学[編集]

ヒンドゥー神話を題材にした叙事詩ラーマーヤナ』の一局面を描いたグプタ朝時代の石刻。

インド文学は、現在のインド共和国を中心とする地域の文芸、及びそれらの作品や作家を研究する学問を指す。古典期のサンスクリット語や、現在もっとも話者が多いヒンディー語ドラヴィダ文化に属しサンスクリットと異なる独自の古典文芸を持つタミル語など多数の言語により作品が生み出されている。広義には、ヴェーダや、ヒンドゥー教の聖典であるプラーナ文献、古代の法典であるダルマ・シャーストラ仏教パーリ語経典などの文献も含まれる。

20世紀 にはいると、小説は、ムンシー・プレームチャンドによってリアリズムが広まった。プレームチャンドはウルドゥー語とヒンディー語で創作し、社会への問題意識を表現した。ベンガル語の詩人ラビンドラナート・タゴールは、詩集『ギーターンジャリ』を自ら英訳して好評を博し、1913年にアジア人として初のノーベル賞となるノーベル文学賞を受賞した。1930年にはプレームチャンドによって文芸誌「ハンス」( Hans )が創刊され、1936年には進歩主義作家協会が設立されてプレームチャンドが第一回大会の議長となる。1930年代以降は民衆を取りあげる作品が増え、貧困伝統との関係なども題材となった。 1947年にインドは独立を果たすが、インド・パキスタン分離独立による動乱は作家にも大きな影響を与え、これを描いた作品は動乱文学とも呼ばれている。クリシャン・チャンダルの『ペシャワール急行』や、ビーシュム・サーヘニーの『タマス』、クリシュナ・バルデーオ・ヴァイドの『過ぎ去りし日々』など多数ある。 その他の作家として、サタジット・レイによる映画化が有名なビブティブション・ボンドパッダエ、ベンガル語の短編小説の名手タラションコル・ボンドパッダエ、社会の過酷さと複雑さをユーモアを混じえて描くヒンディー語作家のウダイ・プラカーシらがいる。イギリス領時代からの影響により英語で著述活動を行う作家も多く、架空の街マルグディを舞台とした小説を書き続けたR・K・ナーラーヤン (R. K. Narayan、『首都デリー』で重層的な歴史小説を書いたクシュワント・シンサーヒトヤ・アカデミー賞 (Sahitya Akademi Awardを受賞したアミタヴ・ゴーシュ、女性最年少でブッカー賞を受賞したキラン・デサイなどがいる。

音楽[編集]

映画[編集]

インド国内では各地方の言語でそれぞれ独自に映画が制作されていることもあり、インドは世界で最も多くの年間映画制作本数を誇る国である。また同様に音楽も各言語ごとにアーティストがおり、独自のアルバムが制作される。各州、各言語ごとに音楽や映画の制作者が存在する。

特に北部を中心にインド全土で上映されるヒンディー語による娯楽映画は、その制作の中心地であるムンバイの旧名ボンベイとアメリカハリウッドをもじって「ボリウッドフィルム」と呼ばれている。様々なタイプの映画があるが、多くはミュージカル要素を含んだ映画で、これらは日本で「マサラムービー」と呼ばれ親しまれている。インドだけではなく西アジア・アフリカ・東南アジア諸国で大変な人気があり、重要な輸出産業のひとつとなっている。欧米でもインド系住民が住む大都市部を中心に人気が広がっている。

おしん』、『七人の侍』などの日本映画も知られている。日本テレビ系番組『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』にてインド映画が紹介されたり、番組出演者が自ら主演する企画があった。以後、日本でインド映画が上映される機会が多くなった[要出典]

スポーツ[編集]

インドはデリーで、1951年アジア大会1982年アジア大会を開催し、また2010年コモンウェルスゲームズを開催している。

フィールドホッケー[編集]

インドの国民的スポーツはイギリス統治時代から盛んだったフィールドホッケーで、インドホッケー連盟がナショナルチームを初めとした国内組織を統轄している。ホッケー・ワールドカップでも1975年大会の優勝実績があり、オリンピックでは金が8個、銀1個、銅2個のメダルを獲得している。プロリーグとしては2005年よりプレミア・ホッケーリーグがあり、テレビ中継が開始されている。

クリケット[編集]

国民の人気と言うことではクリケットの人気が高い。ナショナルチームが1983年クリケット・ワールドカップでの優勝などの実績を持つ。インド・クリケット協会 (Board of Control for Cricket in India, BCCI) が国内組織を統轄しており、国内大会はドゥリープ杯、デオダール杯などがあり、またトゥエンティ20ルールで運営するインディアン・プレミアリーグ (IPL) 、インド・クリケットリーグ (ICL) のプロリーグがある。クリケット・ワールドカップも1987年と1996年、2011年大会をインドで開催した。

テニス[編集]

近年テニスデビスカップインド代表の活躍もあり、急速に人気を博している。

サッカー[編集]

北東インド、ベンガルゴアケララではサッカーも大変人気で、ナショナルチーム南アジアサッカー選手権で何度も優勝している。2007年には、プロサッカーリーグのIリーグが発足した。

モータースポーツ[編集]

2011年からは、インド国内としては初めてのF1開催であるインドGPを開催している。ただ、これまでサーキット用地買収や運営する国内モータースポーツ連盟の分裂・混乱などの問題が発生、開催時期は当初の2009年から2010年、そして2011年と延期が続いた。インドにとってのF1は2005年より関係が深まってゆき、その年にジョーダン・グランプリから参戦し2006年2007年ウィリアムズのテストドライバーを担当していたナレイン・カーティケヤンが初のインド人ドライバーとなった。その後、2008年よりキングフィッシャー航空の創業者でユナイテッド・ブリュワリーズ・グループの会長を務めるインド人実業家のビジェイ・マリヤがインド初のF1チームであるフォース・インディアを設立。2010年にはインド人2人目のF1ドライバーであるカルン・チャンドックヒスパニア・レーシング・F1チームよりデビューした為、インド国内でのF1への関心は高まりつつあり、インドGPのF1初開催が2011年に現実のものとなった。

その他[編集]

インドの伝統的なスポーツであるカバディコーコー (kho kho) 、ギリ・ダンダ (Gilli-danda) なども全国で広く競技されている。またインド南部ケララ地方古来の武術[要曖昧さ回避]であるカラリパヤットや、ヴァルマ・カライも行われている。

2008年に開かれた北京オリンピック・男子エアライフルアビナブ・ビンドラーが優勝、個人競技で初めての金メダルを獲得した。

世界遺産[編集]

ラージャスターン州のジャイサルメール•フォート

インドは5000年の歴史があり、今に残る数々の歴史的遺跡の文化遺産や多様に富む自然と野生動物とさまざまで数は多い。 2013年インド国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が25件、自然遺産が7件。なお、インドの世界遺産には候補リストが46件数ある。

祝祭日[編集]

法律で決められ、全国一律に実施される祝日は下記3日。

祝日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月26日 共和国記念日 Republic Day गणतंत्र दिवस 1950年の憲法発布を祝う日
8月15日 独立記念日 Independence Day स्वतंत्रता दिवस 1947年にイギリスから独立した日
10月2日 ガンディー生誕記念日 Gandhi Jayanti गांधी जयंती  

他に各州によって祝祭日が設けられている場合があり、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の祭礼日がある。各企業では法律上の3日を含めて年間10日程度の休日を設けているが、どの日を休日にするかは一律でない。またヒンドゥー教に由来する祭日は太陽暦ではなく、インド特有の太陰太陽暦に基づいており、太陽暦上では2週間程度前後する。各地域で休日とされる日程のうち太陽暦に準拠する日は3回。

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 New Year's Day 日本と違って休みは1日のみ
9月17日 ヴィッシュヴァカルマ祭 Vishvakarman Pooja विश्वकर्मा पूजा 各地の工場で物造りの神ヴィシュヴァカルマンを讃える祭り。ヒンドゥー教で唯一太陽暦に準拠(アーンドラ・プラデーシュ州など一部地域のみ)。
12月25日 クリスマス Christmas 全国的に休みとなる

太陰太陽暦に基づく祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月 ポンガル(タミル・ナードゥ州など南部)/マカラ・サンクラーンティ(主に北インド全般) Pongal பொங்கல்/Makara Sankranti मकर संक्रांति 冬至の時期に行われる収穫祭。
3月 ホーリー Holi होली インド3大祭りに上げられる春祭り
4月 ラーマ降誕祭 Ramnavmi रामनवमी ラーマ神の誕生日を祝う
7~8月 ラクシャー・バンダン Raksha Bandhan रक्षाबंधन 女性が兄弟の手首に飾り紐を巻きつけて加護を願う祭り
8月 クリシュナ・ジャナマーシュタミー Krishna Janamashtami कृष्ण जन्माष्टमी クリシュナ神誕生日、北インドで盛大な祭り
8~9月 ガネーシャ Ganesh Chaturthi गणेश चतुर्थी 西部のマハーラーシュトラ州で盛んな祭り。
10月 ダシャーラー Dassera दशहरा インド3大祭りの一つ、ラーマ王子が悪魔に打ち勝った日を祝う
10~11月 ディーワーリー Diwali दीवाली インド3大祭りの一つ、富と幸福の女神ラクシュミーを祭る
11月 グル・ナーナク生誕祭 Guru Nanak Jayanti गुरु नानक जयंती シク教の開祖グル・ナーナクの誕生日

またキリスト教の Good Friday(3~4月)も休日として扱われる。この結果一つの会社内でも本社・支店・工場で休日が異なることが多い。8月のクリシュナ祭がデリー本社は休日だがムンバイ支店は営業日で、ガネーシャ祭は逆になるという事が起こる。

脚注[編集]

  1. ^ 各国地域情勢 インド 外務省(Ministry of Foreign Affairs of Japan)
  2. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2014年5月19日閲覧([1]
  3. ^ [2]2014.4.7産経新聞2014年9月28日閲覧
  4. ^ [3]中間層、15年で人口の7割:ア開銀予想、30年に12億人[経済]2014年9月28日閲覧
  5. ^ 世界大百科事典
  6. ^ http://indiacode.nic.in/coiweb/amend/amend42.htmー1947年にイギリスから独立して以来、インドはクーデターなどの非合法な政権交代を経験したことのない、南アジアでは珍しい議会制民主主義国家である。
  7. ^ [4]インドでモディ政権発足、集権的な内閣目指すと表明]ロイター 2014年5月27日
  8. ^ ‘Mission definitely over’”. 90-95% of the job done. The Hindu (2009年8月30日). 2009年8月29日閲覧。
  9. ^ インドの火星探査機、周回軌道の高度上昇に成功 - AFPBBNews(2013年11月12日)
  10. ^ マンガルヤーン - コトバンク
  11. ^ インドの探査機、火星周回軌道に到達 アジア初の成功”. 日本経済新聞 (2014年9月24日). 2014年9月24日閲覧。
  12. ^ "World Gazetteer: India - Metropolitan areas 2008 calculation", 2008年9月28日
  13. ^ IMF: World Economic Outlook Database
  14. ^ http://media.yucasee.jp/posts/index/11857?la=bn01
  15. ^ http://www.osaka-c.ed.jp/ed/h14/kankyou/security/food/jikyuu2.htm
  16. ^ “Economic structure”. The Economist. (2003年10月6日). http://www.economist.com/countries/India/profile.cfm?folder=Profile%2DEconomic%20Structure 
  17. ^ “Indian manufacturers learn to compete”. The Economist. (2004年2月12日). http://www.economist.com/displaystory.cfm?story_id=S%27%298%3C%2FPQ%3B%21%21P%214%0A 
  18. ^ a b c d e 『アウトソーシング大国、インドの岐路』2007年8月24日付配信 日経ビジネスオンライン
  19. ^ http://www.mugendai-web.jp/archives/1534
  20. ^ [planningcommission.gov.in/plans/planrel/12thplan/welcome.html]
  21. ^ “インド・パキスタン外相会談、二国間ビザ緩和などで合意”. (2012年9月11日). http://www.emeye.jp/disp%2FOWA%2F2012%2F0911%2Fstockname_0911_007%2F0%2F1/ 2012年9月17日閲覧。 
  22. ^ Dr. Manmohan Singh's banquet speech in honour of Japanese Prime Minister National Informatics Centre Contents Provided By Prime Minister's Office
  23. ^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/visit/0810_ahks.html
  24. ^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/ji60/index.html 外務省:日インド国交樹立60周年
  25. ^ [5]産経新聞 2014年9月2日閲覧
  26. ^ http://ecodb.net/country/IN/imf_persons.html
  27. ^ 井上恭子「人口増加率・識字率・男女比の地域差が示すもの」/ 広瀬崇子・近藤正規・井上恭子・南埜猛編著『現代インドを知るための60章』明石書店 2007年 213ページ
  28. ^ http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=1380230
  29. ^ http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=516768
  30. ^ 外務省:インド
  31. ^ CIA – The World Factbook – India

関連項目[編集]

外部リンク[編集]