マケドニア王国

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マケドニア王国
Μακεδονικό βασίλειο
暗黒時代 (古代ギリシア)
アケメネス朝
前808年 - 前168年  アッタロス朝
セレウコス朝
プトレマイオス朝
共和政ローマ
マケドニアの国章
(ヴェルギナの太陽)
公用語 ギリシア語のマケドニア方言
後に古アテナイ方言/コイネー
首都 アイガイペラ
前808年 - 前778年 カラノス(初代・アルゲアデス朝初代)
前336年 - 前323年 アレクサンドロス3世(第26代・アルゲアデス朝第26代)
前323年 - 前309年 アレクサンドロス4世(第28代・アルゲアデス朝最後)
前221年 - 前179年 ピリッポス5世(第44代・アンティゴノス朝第6代)
前179年 - 前168年 ペルセウス(最後)
変遷
成立 前808年
分裂 前323年
滅亡 前168年
古代マケドニアと現代ヨーロッパの国境の比較
マケドニア王国の領域

マケドニア王国Μακεδονικό βασίλειο)は、紀元前7世紀ギリシア人によって建国された歴史上の国家である。現在のギリシャ共和国西マケドニア地方中央マケドニア地方の全域と、マケドニア共和国南東部ドイランボグダンツィゲヴゲリヤ及び南西部レセンオフリド各基礎自治体の一部、ブルガリア共和国ブラゴエヴグラト州のギリシャとの国境地帯、アルバニアポグラデツ県コルチャ県デヴォル県の一部にまたがる地域にあった。北西ギリシア方言群のひとつであるマケドニア方言を話した。

歴史[編集]

成立からコリントス同盟まで[編集]

紀元前7世紀頃、ドリス系のギリシア人により建国された。マケドニアは都市国家を形成せず、王政で一夫多妻制を取るなど、ギリシアの他の地域とは違う制度を有していたため、ギリシア諸ポリスからは異民族と思われることもあった。しかし、言語と宗教は諸ポリスと同一であり、ペルシア戦争以前にアレクサンドロス1世古代オリンピックに参加するなど、マケドニア王家は古くからヘーラクレースの血を引くギリシア人と認められていた。

ギリシアとペルシアの中間に位置したマケドニアは、自らがギリシア人であることを自覚していたが、ペルシア戦争ではアレクサンドロス1世の指導のもと、ペルシア側についた。しかし、ペルシア戦争中も親ギリシア的な姿勢を崩さなかった。戦後、ギリシア地域へのペルシアの影響力が後退すると、親ギリシア的政策をますます推し進め、同盟を結んだり、人質を有力国へ送ったりして、友好を図った。

アレクサンドロス1世の子に当たるペルディッカス2世の時にペロポネソス戦争が起きたが、マケドニアはこれに参戦せず、領土を拡張しつつ、国内を整備して国力の向上に努めた。またそれまでアイガイ(現ヴェルギナ)にあった都を、やや北方のペラに移した。ペルディッカスの子アルケラオス1世英語版は積極的にギリシア文化の受容を図ったが、これは文学などの受容にとどまり、社会体制の変革を伴うものとはならなかった。

紀元前399年、アルケラオスは暗殺された。この後、王位継承争いが起きるとともに、イリュリアからの攻撃をたびたび受け、国内は長く安定しなかった。紀元前359年ピリッポス2世が兄ペルディッカス3世の戦死を受け、マケドニア王に即位した。当時の強国の一つだったテーバイに3年の間人質として滞在し、その政治や軍事を学んだピリッポス2世は、ギリシア先進文化を積極的に取り入れ、国政の改革や国力の増強に努めた。そして紀元前338年カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍に勝利し、翌紀元前337年にはスパルタを除く全ギリシアを統一するコリントス同盟を結成し、その盟主となった。

アレクサンドロス大王の時代[編集]

アレクサンドロス帝国

紀元前336年、ペルシア遠征を計画していたピリッポス2世が暗殺されると、その息子アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)があとを継いだ。アレクサンドロス大王は紀元前334年アケメネス朝ペルシアへの遠征を開始し、紀元前333年イッソスの戦いでペルシア王ダレイオス3世の軍を打ち破り、アルベラ・ガウガメラの戦いで再びダレイオス3世率いるペルシア軍を撃破し、ペルシア征服を実現させる。

ペルシアの征服に成功したのちもアレクサンドロスの東方への遠征は続き、インドの外辺まで支配下に治めた。この世界帝国の実現によって、ギリシアの文化や考え方が各地へと広まるだけでなく、東西文化の交流や民族の融合が盛んになった(ヘレニズム)。

内紛と分裂[編集]

紀元前323年、アレクサンドロス大王が後継者を決めないまま急逝すると、配下の将軍たち(ディアドコイ)によるディアドコイ戦争が勃発した結果、大王の直系は断絶した。ヨーロッパ側領土にはカッサンドロス朝en)マケドニア、リュシマコス朝en)トラキアが立ち、アンティゴノス朝が小アジアに拠り、三者の争いの中でアンティゴノス朝が生き残った。アンティゴノス朝マケドニアプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアの3王国が成立し、帝国は三分割された。

古代ローマの属州に[編集]

その後マケドニアは、地中海世界に勢力を拡大するローマの圧力に直面することとなった。第一次マケドニア戦争英語版紀元前214年 - 紀元前205年)では勢力を保てたものの、第二次マケドニア戦争英語版紀元前200年 - 紀元前196年)に敗れたのち、第三次マケドニア戦争紀元前171年 - 紀元前168年)の敗北によって、マケドニア王ペルセウスは捕虜となり廃位、アンティゴノス朝は廃止させられ、王国は4つの共和国に分割された。第四次マケドニア戦争紀元前149年 - 紀元前148年)での反乱がローマに鎮圧されると、紀元前148年ローマの属州の一つ(マケドニア属州)として組み込まれたことで、マケドニア王国は滅亡した。

国家改革[編集]

当時ギリシア世界で最も先進国であったテーバイで学んだ知識を活かし、フィリッポス2世は積極的に国家改革を推し進めていった。

フィリッポス2世が改革を実施する以前は、マケドニアは貧しく、山野に放牧して暮らしていた。地域も豪族による世襲支配が根付いており、同じく豪族社会であったホメロス時代の遺産が未だに健在であった。フィリッポス2世はギリシア先進地帯を手本とし、ポリスを作ることによって牧羊民が安心して暮らせるようにし、市民共同体も創始した。また、同時に地域を支配する豪族を宮廷貴族とすることによって、中央集権的な体制も整えていった。パンガイオン金山やトラキア交易地点などの資金源も確保し、財政も豊かになった。

軍隊にも改革を施し、「王の仲間」の意である精鋭騎兵隊ヘタイロイに続き、ペゼロイタイという精鋭重装歩兵部隊も創始した。ペゼロイタイも「王の仲間」という意味があり、これによって王と民衆の距離が縮まり、連帯精神や仲間意識が育まれた。マケドニアでは、王があらゆる決定権を持つが、民衆も王に対して決定権を持つことがあった。マケドニア民会は、王位継承の際には、次王の後継者を多数決で選ぶことができた。こうして、王と民の距離は更に近いものとなり、彼らの絆は忠誠心だけではなく、仲間意識でも構成されていた。この仲間意識はファランクスにおいて極めて重要な概念であり、重装歩兵部隊は更に強固なものとなった。

ファランクスの武器はサリッサという5m以上にも及ぶ長大な槍を採用し、これは通常のポリス軍が持つ2.5m前後の槍を遥かに凌ぐ大きさであった。攻撃力は凄まじいが、その代償として両手で槍を持たねばならず、盾は肩から掛ける軽いものになり、防御力は低下した。確かに攻撃力はギリシア随一であったが、従来の槍を装備したファランクスに敗れることもあり、無敵ではなかった。

このように国家改革を推進したフィリッポス2世は、ギリシアで新興国だったマケドニアを強国に変貌させ、覇を唱えるまでになった。彼はアテーナイのイソクラテスの指導に従い、ペルシア帝国を打倒すべく東方遠征の準備に取りかかることになる。

オリュンピア祭[編集]

マケドニアは古くから全ギリシア祭典であるオリュンピア祭に参加していた。初めて古代オリンピック(前496年)に参加したマケドニア王は、アレクサンドロス1世である。彼はヘラクレスを祖先とするマケドニアの建国伝説を語り、ヘラノディコスからギリシア人であると認められた。アレクサンドロス1世はスタディオン走で同着一位となり、その結果決勝の再レースが行われたが、そこで敗れてしまい、結局スタディオン走優勝者のリストに彼の名前が入ることはなかった。[1]

アレクサンドロス1世のオリュンピア祭参加は、マケドニアの親ギリシア政策による捏造であるとする説もあるが、現在のところオリュンピア祭参加を事実とする説の方が極めて主流である。オリュンピア祭はギリシア人にとって公の祭典であり、それに関する出来事はギリシア世界において周知の事実であって、捏造することは極めて困難であるからだ。捏造説はボルザを代表とする少数の研究者グループしか主張しておらず、彼ら以外の殆ど全ての研究者は事実説を取っている。このことからも、アレクサンドロス1世のオリュンピア祭参加は事実と見てまず間違い無い。[2]

その後、アルケラオス1世もオリンピア祭に参加したと伝えられている。彼はデルポイの全ギリシア的大祭であるピュティア祭にも参加したとの記述がある。優勝者リストに彼の名前が無いことから、これも捏造とする説もあるが、真偽の程は歴史の闇に葬られたままである。また、アルケラオス1世はマケドニアにあるディオンというゼウスの神域に「ディオンのオリンピア祭」という全ギリシア的祭典を創始した。この祭典には、マケドニア人を始めとする多くのギリシア人が参加しに来たという。

アルケラオス1世から40年間は、マケドニアは停滞と混乱の暗黒期に入り、オリュンピア祭に関心を寄せていても出場できる状況ではなかった。これを打ち破ったのがフィリッポス2世であり、彼は即位後初のオリュンピア競技に出場し、見事優勝を勝ち得た。これを記念し、オリュンピアにちなみ、未だ幼名であった彼の妻を「オリュンピアス」という名前を付けた。また、オリュンピアスの生んだ息子の名前を、マケドニア史上初のオリュンピア競技参加者であるアレクサンドロス1世から取り、アレクサンドロス3世と名付けた。これが後のアレクサンドロス大王となる。

アレクサンドロス大王は、オリュンピア祭には並々ならぬ敬意を払っていたが、参加することはなかったようである。アレクサンドロス大王の足の速さに驚嘆した侍従はオリュンピア祭参加を勧めたが、彼は「参加者が皆、王であるならば参加しよう」と言い、結局参加しなかったという。アレクサンドロス大王の野心は、更なる高みを目指していたのである。

建国神話[編集]

マケドニアの建国神話は、異説もあるが、最も有名なのはヘロドトスの伝える建国神話である。

ヘーラクレースの曾孫であったテメノスアルゴスの王位を継承し、その子供たちがテメノスの王位継承を巡って争いを起こした。この時、敗れたペルディッカス1世は兄たちと共にレバイアという上マケドニアの町に亡命したが、ここで凶兆が現れたとして更に追放された。ペルディッカス1世は兄たちを引き連れて更に放浪とし、最終的にはミダスの園と呼ばれる場所の近くに定住した。そこを拠点として彼らは周囲の土地を征服し、マケドニア王家を創始した。

したがって、マケドニア王家はアルゴスを故郷とし、更にヘーラクレースの血を引く由緒正しき英雄の血筋であるとした。

脚注[編集]

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  1. ^ 澤田典子「古代マケドニア王国の建国神話をめぐって」『古代文化 / 古代学協会(58巻・3号)』、2006
  2. ^ 澤田典子「マケドニア王家とオリュンピア祭」

関連項目[編集]