モザンビーク
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- モザンビーク共和国
- República de Moçambique
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(国旗) (国章) - 国の標語 : なし
- 国歌 : 最愛の祖国

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公用語 ポルトガル語 首都 マプト 最大の都市 マプト 通貨 メティカル(MZM) 時間帯 UTC (+2)(DST: なし) ISO 3166-1 MZ / MOZ ccTLD .mz 国際電話番号 258
モザンビーク共和国(モザンビークきょうわこく)通称モザンビークは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家である。南に南アフリカ共和国、南西にスワジランド、西にジンバブエ、北西にザンビア、マラウイ、北にタンザニアと国境を接し、モザンビーク海峡を隔てて東にマダガスカルとコモロが存在する。首都はマプト。
旧ポルトガル植民地であり、1964年から独立戦争を戦い、1975年に独立を達成した。独立後も1977年から1992年まで内戦が続いた。内戦終結後は好調な経済成長を続ける半面、HIVとAIDSの蔓延が問題となっている。ポルトガル語諸国共同体の加盟国である。イギリス連邦加盟国。
目次 |
[編集] 国名
正式名称は、ポルトガル語でRepública de Moçambique(IPA: /rɨˈpublikɐ dɨ musɐ̃ˈbikɨ/ レプブリカ・デ・ムサンビーク)。通称、Moçambique(モサンビーク)。
公式の英語表記は、Republic of Mozambique。通称、Mozambique(モザンビーク)。
日本語の表記は、モザンビーク共和国。通称、モザンビーク。国名はかつてポルトガル領東アフリカの首都が置かれたモザンビーク島に由来し、島の名前が全土を指す名前となった。独立後の1975年から1990年まではモザンビーク人民共和国だったが、1990年の憲法改正により現在のモザンビーク共和国となった。
[編集] 歴史
詳細は「モザンビークの歴史」を参照
この地域での歴史は、11世紀から19世紀の部族連合国の王の称号からアラブ人の商人が通称した、モノモタパ王国にさかのぼる。現在のジンバブエを中心に栄えたモノモタパ王国は現在のモザンビーク領のソファラを拠点にアラブ商人と香辛料や象牙、金などの交易を行っており、中国の陶磁器やインドの綿製品も手に入れていた。
[編集] ポルトガル植民地時代
1498年にポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてこの地に到達したのをきっかけに、16世紀初頭より、ポルトガルの植民が始まり、17世紀半ばにはポルトガルの植民地支配が確立し、ポルトガル領東アフリカの首都はモザンビーク島に置かれた。モザンビークからは遥か遠くのブラジルにまで黒人奴隷が連行された。1782年にロウレンソ・マルケスが建設された。
しかし19世紀に入りポルトガルの国力が疲弊してくると、1891年にポルトガル領東アフリカ総督はイギリス・フランス資本のモザンビーク会社・ニアサ会社・ザンベジア会社に開発の権利と司法権を除く自治権を与えた。このためポルトガルが旧宗主国であるにも関わらず、独立後にイギリス連邦の加盟国となっている。さらに、1858年にポルトガル領では奴隷制度が廃止されたものの、劣悪な労働環境による契約労働制により事実上の奴隷労働制度が続いた。ポルトガルの圧政に対し、1894年のロウレンソマルケス襲撃など先住民による抵抗運動が頻発したが、それらは全てポルトガル軍により鎮圧された。1898年にモザンビーク島からロウレンソマルケスに遷都され、以降ロウレンソマルケスはポルトガル領東アフリカの首都となった。
その後、第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入るとアフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の波がモザンビークにも押し寄せた。ポルトガルのアントニオ・サラザール政権は1951年にモザンビーク等のアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。モザンビークやアンゴラは形式上本国ポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、モザンビークには3,800万ポンドが投資された。さらに、リンポポ川流域へのポルトガル人の入植や、港湾の能力拡大のための鉄道建設が進められたが、モザンビーク植民地の慢性的なポルトガルへの輸入超過を補うために南アフリカ連邦の鉱山への黒人労働者の出稼ぎによって経済は支えられた。
しかし、形式上の本国との対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、モザンビークでも1964年9月に、エドゥアルド・モンドラーネを議長としたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)がタンザニアを拠点に武装闘争を開始し、モザンビーク独立戦争が始まった。マルクス主義を掲げ、ソ連の援助を受けていたFRELIMOは冷戦構造の中で西側諸国の脅威であり、そのためポルトガル軍も強権を以て解放軍に対処した。1969年にモンドラーネは暗殺されたが、サモラ・マシェルらが後を継いで独立戦争を継続し、約10年を経てポルトガル本国でのカーネーション革命がきっかけとなり、1975年6月25日にモザンビークはモザンビーク人民共和国として完全独立を果たした。
[編集] 独立と内戦
詳細は「モザンビーク内戦」を参照
独立後、出国したポルトガル系モザンビーク人に代わって権力を握ったFRELIMOは政党化し、一党制による社会主義路線を推進した。社会主義を掲げるモザンビークは1976年の国連制裁決議に従って白人国家ローデシアの国境を封鎖したが、この措置はモザンビークとローデシア双方に大打撃を与えた。1977年、ポルトガル領時代の元秘密警察を母体とする反政府組織モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)はローデシアの援助を受けて政府軍と衝突し、モザンビーク内戦が勃発した。1980年にローデシアが崩壊し、黒人国家ジンバブエが独立すると、アフリカにおける反共の砦を自認していた南アフリカ共和国はモザンビークとアンゴラの社会主義政権に対して不安定化工作を発動した。RENAMOが南アフリカをはじめとする反共勢力の支援を受けたこともあり、内戦が長期化する中で、1989年、政府は社会主義体制の放棄を決定、翌1990年、複数政党制と自由市場経済を規定した新憲法を制定した。和平交渉の結果、1992年の和平協定がローマで締結されることにより、内戦が終結した。
[編集] 内戦終結以降
内戦後の新政権樹立のため、1994年10月に国際連合モザンビーク活動(ONUMOZ)の支援の下、複数政党制による大統領選挙及び議会選挙を実施された。この結果、政府側つまりFRELIMOが勝利し、戦後の新政権が創設された。内戦終結に至ったのは、シサノ大統領の現実的外交(西側寄りに転換し、南アフリカとの交渉を進展させた)と経済政策の転換によって和平の道が開けたことが要因のひとつである。
1995年、南アフリカやジンバブエなど、周辺の英語圏諸国との経済的結びつきを深めるため、イギリス連邦に加盟した。
[編集] 政治
詳細は「モザンビークの政治」を参照
大統領を国家元首とする共和制国家である。行政府の長たる大統領は1994年1月以来、直接選挙で選出され、任期5年。
立法府たる議会は一院制であり、全250議席はすべて直接選挙によって選出される。任期5年。1994年1月に国民選挙委員会が設置された。
司法権は最高裁判所に属している。
主な政党としては、モザンビーク解放戦線 (FRELIMO)、モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE)、モザンビーク民主運動(MDM)の名が挙げられる。
[編集] これまでの選挙
- 第1回大統領・国政選挙:1994年10月。シサノ大統領再任、得票率53%。民主化の行方を占う選挙であった。
- モザンビーク解放戦線 (FRELIMO) : 44.7%
- モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE) : 37.8%
1998年6月、地方選挙が実施された。投票率はきわめて低く、33自治体の平均投票率が15%に満たなかった。この背景には、教育水準の低位と環境の不整備などが挙げられる。
- 第2回大統領・国民議会選挙:1999年12月3日から5日。シサノ大統領が再選された。 政党別の獲得議席数は、以下の通り。
- モザンビーク解放戦線 (FRELIMO) : 133
- モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE) : 117
- 第3回大統領・国民議会選挙:2004年12月1日から2日。ゲブーザ与党公認候補(FRELIMO幹事長)が大統領に選出された。政党別の獲得議席数は、以下の通り。
- モザンビーク解放戦線 (FRELIMO) : 160
- モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE) : 90
- 第4回大統領・国民議会選挙:2009年10月。ゲブーザ与党公認候補(現職大統領)が大統領に選出確実。政党別の獲得議席数は、以下の通りで与党の勝利となった。
- モザンビーク解放戦線 (FRELIMO) : 191
- モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE) : 51
[編集] 国際関係
独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるFRELIMOだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結びつき、反政府ゲリラを支援するローデシアや南アフリカ共和国などとは敵対政策が続いたが、冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。
ポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルやブラジル、カーボ・ヴェルデ、アンゴラなどポルトガル語圏の国々(ルーゾ・フォネア)とは深い絆を保っている。
周辺諸国との関係においては、特に南アフリカ共和国との関係が経済的に大きい。また、タンザニアとは独立戦争以来の友好関係が存在する。
隣接国が全て英語圏であるため、1987年からイギリス連邦のオブザーバーとなっていた。モザンビークが南アフリカとジンバブエの民主化に大きな役割を果たした功績が認められ、1995年に正式にイギリス連邦に加盟した[2]。
[編集] 軍事
詳細は「モザンビークの軍事」を参照
モザンビーク国防軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成される。2006年の軍事支出はGDPの0.8%だった[3]。
[編集] 地方行政区画
詳細は「モザンビークの州」を参照
モザンビークは、10の州(província,プロヴィンシア)、及び、州と同格の1つの市(cidade,シダーデ)に分かれる。北から順に、
- カーボ・デルガード州 (Cabo Delgado)
- ニアッサ州 (Niassa)
- ナンプーラ州 (Nampula)
- ザンベジア州 (Zambezia)
- テテ州 (Tete)
- ソファラ州 (Sofala)
- マニッカ州 (Manica)
- イニャンバネ州 (Inhambane)
- ガザ州 (Gaza)
- マプト州 (Maputo província)
- マプト市 (Maputo cidade)
[編集] 地理
詳細は「モザンビークの地理」を参照
国土はザンベジ川によって地勢上二つの地域に分かれる。ザンベジ川の北ではなだらかな海岸線が内陸部に入って丘陵や低い台地となり、さらに西に進むとミオンボ森林に覆われたニアサ高原やナムリ高原(シレ高原)、アンゴニア高原、テテ高原、マコンデ台地のような険しい高原となる。ザンベジ川の南では、低地は広く、マショナランド台地とレンボ山地が深南部に存在する。マダガスカル島とはモザンビーク海峡を挟んで向かい合う。国内最高峰はビンガ山(2,436m)。
モザンビークには五つの大きな河川が流れており、最も大きく重要なものはザンベジ川である。モザンビークにはニアサ湖(またはマラウイ湖)、シウタ湖、シルワ湖と三つの湖が存在し、いずれも北部に位置する。
ケッペンの気候区分によれば、気候は熱帯雨林気候とサバナ気候に分かれるが、首都のマプトが位置する南部は冬季は平均気温が20度以下まで下がり、5月から9月までは比較的しのぎやすい。
[編集] 経済
詳細は「モザンビークの経済」を参照
通貨は新メティカルであり(2009年現在、1USドルはほぼ27メティカルである)、1000:1のレートで旧メティカルと置き換わっている。旧通貨は2012年末までにモザンビーク銀行によって償還される見込みである。USドル、南アフリカランド、そして近年ではユーロもまた広く受け入れられ、ビジネスの取引で使われている。法定最低賃金は月60USドルである。モザンビークは南部アフリカ開発共同体(SADC)の加盟国である。
第一次産品の生産が主だが、鉄鉱石やマンガンなどの鉱産資源も多い。日本向け輸出はエビが多い。1980年代は内政の失敗に加え、内戦や旱魃などで経済は壊滅状態に陥った。内戦終結後も、1999年、2000年と続いて起きた大洪水などの自然災害などで経済は打撃を受けていたが、1990年代後半以降から経済が急速に発展しており、1996年から2006年までに年平均8%の経済成長を達成した[4]。
日本の三菱商事も出資したアルミ精錬事業のモザール社(主たる出資は南アフリカのBHPビリトン)は、2000年より事業を開始した。国内最大級企業であるモザール社は、オーストラリアのアルミナを原料として輸入した上で豊富・安価な電力のもとに精錬の後にアルミニウムとして輸出しており、モザンビークの輸出市場での位置づけは高い。また、北西部のテテ州にあるザンベジ川流域のカオラ・バッサダムの水力発電は、大量の電力を南アフリカに供給・売電している。
[編集] 鉱業
2003年に南アフリカ企業による陸上ガス田が生産開始し、南アと輸出用ガスパイプラインで結ばれるなど、同国からの投資が近年増えている。
[編集] 国民
詳細は「モザンビークの国民」を参照
[編集] 民族
マクア・ロムウェ人が40%、マコンデ人、シャンガーン人、ショナ人、スワジ人などのバントゥー系黒人の諸民族が国民全体の99.66%を構成し[3]、その他メスチーソ(黒人と白人の混血。ムラート)が0.2%、インド人(印僑)が0.08%、ポルトガル系モザンビーク人を主とする白人が0.06%とごく少数の非黒人系マイノリティが存在する[3]。2007年現在では1,500人から12,000人に達する規模の中国系コミュニティが存在するとも推定されている[5][6]。
[編集] 言語
公用語はポルトガル語である。その他、バントゥー諸語(マクア語、シャンガーナ語、ニュングウェ語、チェワ語、ショナ語、ロムウェ語、マコンデ語等)やスワヒリ語も使われる。
モザンビークの言語状況は複雑である。1997年のセンサスによれば公用語のポルトガル語を第一言語とする人々は国民の8.8%であり[3]、第二言語とする人々の27%[3]を併せても35%ほどにしかならない。バントゥー諸語も最大話者数を擁するマクア語でも26.1%程にしかならず[3]、諸言語が乱立する状態にある。
[編集] 宗教
1997年のセンサスによれば、カトリックが23.8%、ザイオニスト教会(Zionist Churches)が17.5%、イスラム教が17.8%、その他が17.8%、無宗教が23.1%である[3]。
[編集] 教育
詳細は「モザンビークの教育」を参照
1975年にポルトガルから独立して以来、学校建設と教員の訓練登録は人口増加に追いついていない。特にモザンビーク内戦(1977-1992)の後、戦後の就学数は着実な若年人口の増加のため常に高くなっており、教育の質は煽りを受けている。全てのモザンビーク人は法律によって初等教育レベルの学校に出席することを義務付けられているが、多くのモザンビークの児童は家族の生活のために農場で働かなければならないため、初等学校に通っていない。2007年には、100万人の児童が未だに学校に通っておらず、彼らの多くは農村部の貧しい地域出身である。モザンビークの教員のほぼ半数は未だに無資格である。女児の就学率は2002年に300万人だったのが2006年には410万人に増加し、一方修了率は31,000人から90,000人に増加し、修了率の著しい低さを証明した[7]。7年生の後、生徒は中等学校に通うために標準化された国家試験を受けねばならず、中等学校は8年から10年までである[要出典]。モザンビークの大学の枠は極端に限られており、そのため多くの準大学教育を終えた学生はすぐには大学の勉強を進めない。多くは教員として働くか、無職となる。職業訓練を提供する機関も存在し、農業学校、工業学校、教育学校などは10年生の後に開ける準大学である。
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は47.8%(男性:63.5% 女性:32.7%)である[3]。2005年の教育支出はGDPの5.0%だった[3]。
主な高等教育機関としては、エドゥアルド・モンドラーネ大学(1962)やモザンビーク教育大学の名が挙げられる。
[編集] 保健
「モザンビークのHIV/AIDS」も参照
出生率は女性一人につき、約5.5人である[8]。2004年の保険への公的支出はGDP比2.7%であり、一方で同年の私的支出は1.3%だった[8]。2004年の一人当たりの保険費は42USドル(PPP)だった[8]。2000年代初頭には、人口100,000人に対して医者が3人だった[8]。2005年の乳幼児死亡率は新生児1,000人に対して100人だった[8]。15歳から49歳までのHIV感染は10%を越える[8]。
モザンビークのHIV感染率は高く、2007年のHIV感染者は約150万人であり[3]、感染率は12.5%である[3]。
[編集] 文化
詳細は「モザンビークの文化」を参照
イスラームの沿岸商人とヨーロッパの植民者の影響にもかかわらず、モザンビークの人々は小規模農業に基づいた土着の文化を保っている。モザンビークで最も良く知られたアートの様式としては、モザンビーク北部のマコンデ人による木彫品とダンスが特に有名である。中流階級や上流階級はポルトガル植民地時代の遺産と、言語的影響を今も強く受けている。
[編集] 食文化
[編集] 音楽
モザンビーク特有のポピュラー音楽のジャンルとしてダンス音楽のマラベンタの名が挙げられる。モザンビーク出身の著名なミュージシャンとしては、スワヒリ語で歌い、70年代に東西両ブロックで活躍したアフリク・シモーネ(Afric Simone)や、マラベンタやキゾンバを歌う女性歌手ネイマ、マラベンタとヒップ・ホップを融合したMCロジェールなどの名が挙げられる。
[編集] 文学
「アフリカ文学」も参照
文字によるモザンビークの文学は、植民地時代の20世紀初頭にルイ・デ・ノローニャによるポルトガル語の詩によって始まった[9]。これは、アンゴラやカーボ・ヴェルデといった大西洋側のポルトガル植民地に比べ、約半世紀遅れたものだった[9]。その後植民地主義を批判する詩を残した女性詩人ノエーミア・デ・ソウザや、後の1991年にカモンイス賞を受賞し、ポルトガル語世界で最も偉大な詩人の一人とされる[9]ジョゼ・クラヴェイリーニャにより、モザンビークのポルトガル語詩は発達を続けた。独立後には、マルクス主義的なプロパガンダ詩が目立つようになった。独立後の注目される詩人としてはルイス・カルロス・パトラキンの名が挙げられる。
モザンビークの小説の歴史は、1952年にジョアン・ディアスによってポルトガル語で書かれた『ゴディド』によって始まった[9]。その後の代表的な作家としては『僕たちは皮膚病にかかった犬を殺した』(1964)で国内外からの評価を得た[9]ルイス・ベルナルド・ホンワナや、1980年代から活動し、新語の創造に励むミア・コウト、『ウアララピ』(1987)でデビューしたウングラニ・バ・カ・コーサなどの名が挙げられる。
[編集] 世界遺産
モザンビーク国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件存在する。詳細は、モザンビーク島を参照せよ。
[編集] 祝祭日
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1月1日 | 元日 | Dia da Fraternidade universal | |
| 2月3日 | 英雄の日 | Dia dos Heróis Moçambicanos | |
| 4月7日 | モザンビーク女性の日 | Dia da Mulher Moçambicana | |
| 5月1日 | メーデー | Dia Internacional dos Trabalhadores | |
| 6月25日 | 独立記念日 | Dia da Independência Nacional | |
| 9月7日 | ルサカ協定記念日 | Dia da Vitória | |
| 9月25日 | 国民解放軍記念日 | Dia das Forças Armadas de Libertação Nacional | |
| 10月19日 | サモラ・マシェル誕生日 | 初代大統領 | |
| 11月10日 | マプト市民の日 | マプトのみ | |
| 12月25日 | 家族の日/クリスマス | Dia da Família |
[編集] 著名な出身者
詳細は「モザンビーク人の一覧」を参照
- 弥助 - 織田信長の家臣
- ミア・コウト - 文学者
- アルマンド・サ - サッカー選手
- ジョアキン・アルベルト・シサノ - 元アフリカ連合議長
- ネイマ - ミュージシャン
- マリア・ムトラ - 陸上中距離選手
[編集] 脚注
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ 市之瀬敦『ポルトガルの世界 海洋帝国の夢のゆくえ』社会評論社、2001年12月 pp.164-165
- ^ a b c d e f g h i j k CIA World Factbook2009年12月12日閲覧。
- ^ http://www.iceida.is/english/main-activities/mozambique/
- ^ Jian, Hong (2007), “莫桑比克华侨的历史与现状 (The History and Status Quo of Overseas Chinese in Mozambique)”, West Asia and Africa (Chinese Academy of Social Sciences) (5), ISSN 1002-7122 2008-10-29 閲覧。
- ^ Horta, Loro (2007-08-13), “China, Mozambique: old friends, new business”, International Relations and Security Network Update 2007-11-03 閲覧。
- ^ Key facts, Department for International Development (DFID), a part of the UK Government (24 May 2007)
- ^ a b c d e f http://hdrstats.undp.org/en/countries/data_sheets/cty_ds_MOZ.html
- ^ a b c d e 市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、拓殖書房、1994年11月
[編集] 参考文献
- 「モザンビーク」刊行チーム」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』拓殖書房、1994年11月
- 市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、拓殖書房、1994年11月
- 星昭、林晃史『世界現代史13 アフリカ現代史I 総説・南部アフリカ』山川出版社、1978年
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 政府
- モザンビーク共和国政府 (ポルトガル語)(英語)
- モザンビーク大統領官邸 (ポルトガル語)
- 在日モザンビーク大使館 (日本語)(英語)
- 日本政府
- 日本外務省 - モザンビーク (日本語)
- 在モザンビーク日本国大使館 (日本語)
- 観光
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