織田信長

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織田 信長
Odanobunaga.jpg
紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵)[注 1]
時代 戦国時代(室町時代後期) - 安土桃山時代
生誕 天文3年5月12日1534年6月23日[注 2]
天文3年5月28日[1]など諸説あり。
死没 天正10年6月2日1582年6月21日
改名 吉法師(幼名)→信長
別名 通称:三郎、上総守、上総介、右大将、右府
渾名:第六天魔王[注 3]、大うつけ、赤鬼
神号 建勲
戒名

総見院殿贈大相国一品泰巌大居士
天徳院殿龍厳雲公大居士[注 4]
天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門

[注 1]
墓所 本能寺大徳寺総見院妙心寺玉鳳院
阿弥陀寺
官位 従五位下弾正少忠正四位下・弾正大弼
従三位参議権大納言右近衛大将
正三位内大臣従二位右大臣正二位
従一位太政大臣、贈正一位
主君 織田信友斯波義銀足利義昭
氏族 織田氏
父母 父:織田信秀、母:土田御前
兄弟 信広信長信勝信包信治信時
信興秀孝秀成信照長益長利
お犬の方お市の方
正室:濃姫斎藤道三の娘)
側室:生駒吉乃お鍋の方原田直子養観院養勝院
信忠信雄信孝
下記を参照。

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名三英傑の一人。

尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀嫡男[注 5]

室町幕府を事実上滅亡させ、畿内を中心に強力な中央政権(織田政権)を確立。戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の一人である。この政権は豊臣秀吉による豊臣政権徳川家康が開いた江戸幕府へと続いていくことになる。

天正10年6月2日1582年6月21日天下統一を目前にして重臣明智光秀に反旗を許し、本能寺で自害した。

目次

生涯[編集]

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。

少年期[編集]

那古野城跡(名古屋城二之丸)

天文3年(1534年)5月12日、尾張国戦国大名織田信秀嫡男として誕生。生まれは勝幡城(現在の愛西市勝幡町~稲沢市平和町六輪)[2]那古野城[3][注 6](現在の名古屋市中区)の二説があるが、近年研究者の間では勝幡城説が有力になってきている。[4]幼名は吉法師(きっぽうし)。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名斯波氏被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。

母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。『信長公記』に拠れば、幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。

まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国戦国大名斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚した[注 7]

天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという[5][注 8]

天文20年(1551年)、父・信秀が没したため、家督を継ぐ[注 9]。天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年(1554年)には、村木砦の戦いで今川勢を破っている。

家督争いから尾張統一・上洛[編集]

清洲城

当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護斯波義統が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。

斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。

弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。

こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとした。これに対して信長には森可成佐久間盛重佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。

道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだために未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは河尻秀隆とされている[注 10]

さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。

永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。

桶狭間の戦いから清洲同盟へ[編集]

尾張国統一を果たした翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。

信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞敦盛』を舞った後[注 11]、昆布と勝ち栗を前に、立ったまま、湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ、出陣し、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。現当主である氏真の実父を失った今川軍は、氏真の命で本国駿河国に退却した(桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に、信長は今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があったため、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。この織徳間の同盟は信長死後あるいは小牧・長久手の戦いまで維持された。永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す。(信長が築いた初めての城)

美濃攻略と天下布武[編集]

岐阜公園に建造された信長銅像

斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利(森部の戦い)。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年(1564年)には北近江国浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏(北勢四十八家を攻略)とも戦っている。

永禄9年(1564年から1565年)、竹中重治安藤守就稲葉山城を占拠後、加治田城佐藤忠能加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ(中濃攻略戦)、さらに西美濃三人衆稲葉良通氏家直元安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった(稲葉山城の戦い)。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を岐阜と改称している[6]

同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめており[7]、本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。11月9日、正親町天皇は信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが[注 12]、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった[8]

上洛と将軍擁立[編集]

中央幕府の情勢[編集]

中央では、永禄8年(1565年)、かねてを中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆三好長逸三好政康岩成友通)と松永久秀が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。

久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(のちの足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、越前国朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。

武田氏と南蛮貿易[編集]

美濃国において領国を接する甲斐国武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、武田信勝を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。 永禄12年(1569年)には、将軍足利義昭と共に武田氏と越後上杉氏との和睦を仲介した(甲越和与)。

天文12年(1543年)に種子島にポルトガル船が到来していた。ポルトガル船は、前年に琉球に到着していたが、琉球人はポルトガル船がマラッカを攻撃して、占領したのを知っていたため交易を拒んだのだった。一方、日本の商人はポルトガル商船との交易を歓迎したためポルトガル船はマラッカから日本に訪れるようになった。

弘治3年(1557年)にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになったのだった。

織田信長.豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を進んで行っていた。スペインはポルトガルに遅れてアメリカ大陸を経由しての太平洋航路を開拓し、ルソン島のマニラを本拠として日本を訪れるようになった。

足利義昭上洛の警護[編集]

永禄11年(1568年)9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した[注 13]

信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好家勢力のうち、三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。

足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、和泉一国の守護への任命の恩賞[要出典] だけを賜り岐阜へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。のちに、足利義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている[9]

永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた[注 14]。 もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。

1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長はに2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。

平成26年、この上洛以前にも上洛の計画があった書状が見つかっている[10]

伊勢侵攻と北畠家簒奪[編集]

同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝神戸氏の養子として送り込んだ。更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包長野氏当主とした。そして翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ(大河内城の戦い)。後に北畠具教は天正4年(1576年)に三瀬の変によって信長の命を受けた信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により伊勢攻略を終える。

第一次信長包囲網[編集]

1570年(元亀1年)の戦国大名勢力図

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。

3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した[11]

永禄12年(1569年)8月、秀吉に命じて但馬を攻め、山名祐豊を破り、生野銀山などを制圧。祐豊は、堺の商人・今井宗久の仲介で信長に降伏した。元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正明智光秀木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。

同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。

8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。

9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主顕如の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興を自害に追い込んだ。

11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した[12]。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功[注 15]。窮地を脱した。

第二次信長包囲網[編集]

『織田信長 図像』
兵庫県氷上町 所蔵

元亀2年(1571年)、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。

一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国後北条氏越後国上杉氏と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた[注 16]

元亀3年(1572年)、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。

7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の前波吉継富田長繁毛屋猪介戸田与次郞らが信長に寝返った。

10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化する。

11月、武田氏の秋山虎繁(信友)が、東美濃の岩村城を攻める。当主の遠山景任は防戦したが(上村合戦)、運悪く病死してしまう。遠山景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗したが、虎繁はおつやの方に対して虎繁に嫁することを降伏条件に提示し、結果、信長の援軍が到着する前に岩村城は降伏してしまう。

また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀は討死した。

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した[注 17]

室町幕府の事実上の滅亡と「天下」の継承へ[編集]

武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡する[注 18]。義昭は、その後も将軍の地位に留まったまま各地を経てへ移り、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出したが、次第に相手にされず、1580(天正8)年ごろには 号令を発することもほとんどなくなり、諦めている(なお、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことである)[13]。幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの数名が義昭と共に同行するが、多くは京都に残り信長側に転じた[14]。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた[注 19]

天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害した。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。

9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、大湊桑名への出船を命じたが従わず、10月25日矢田城に滝川一益を入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の林通政の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る[15]

11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏はここに滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。

三位に叙され公卿となる[編集]

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の桂田長俊一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した(岩村城の戦い)。

3月、信長は上洛して従三位参議に叙任された。このとき、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した[注 20]

長島一向一揆の制圧[編集]

7月、信長は数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めにした。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど劣勢となる。9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。この時、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は中江城屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した[16]。ちなみに『フロイス日本史』ではこの戦闘を、少し違った状況で説明している。つまり「仏僧らは、ある日伏兵によって、信長の千人の兵、信長の家族を殺した。そこで信長は(一揆衆)二万人以上を殺戮した」とし、降伏すると見せかけて伏兵を潜ませていた門徒衆が織田兵と一門衆を襲撃、多数を死亡させたので、信長はその後残存の門徒衆を全員焼き殺したと記述している。

翌天正3年(1575年)3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万兵の大軍で出軍した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は破城となる。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。

長篠の戦い[編集]

信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。

3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの火縄銃を用いた射撃を行わせるなどし[注 21]、武田軍に圧勝する[注 22]

6月27日、相国寺に上洛した信長は天台宗真言宗の争論のことを知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。

7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。

越前侵攻[編集]

この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。

これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された[注 23][注 24]。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。

右近衛大将就任・天下人公認・家督継承・安土城築城[編集]

安土城天主信長の館(安土城復元天主) 滋賀県近江八幡市安土町

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる、また、11月7日にはさらに右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)を兼任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式(陣座)の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた(足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる)。これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものと見られる[17]。同日、嫡子の信忠は秋田城介鎮守府将軍になるための前官)に、次男の信雄は左近衛中将に任官している。

11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠を濃姫の養子とし、一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国(織田直割領)を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。

天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始する[注 25]。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。

第三次信長包囲網[編集]

天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。

信長は4月、明智光秀・荒木村重・塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、主将の塙を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し天王寺砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功。本願寺軍を撃破し、これを追撃。2,700人余りを討ち取った(天王寺砦の戦い)。

その後、佐久間信盛を主将とした織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。

上杉謙信公の銅像(新潟県上越市)

この頃、越後守護で関東管領の上杉輝虎(上杉謙信)と信長との関係は悪化し[注 26]、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。

織田右府[編集]

天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ[注 27]、形式的な和睦を行い、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国手取川を越えて焼き討ちを行っている。

大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に松永を討ち取った(信貴山城の戦い)。久秀を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・籾井城笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。

11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻[注 28]。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。

11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。

天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。

3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子上杉景勝上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし信長は斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻(月岡野の戦い)、上杉軍に勝利し優位に立った。またこの勝利を利用し全国の大名へ書状を送り織田家の強さを全国に知らしめた。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。

織田方面軍団の編成[編集]

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「軍団」「方面軍」と呼称し[注 29]、または信長軍・信長機動隊ともいう[18]

尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた[18]。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。

上杉景勝に対しては柴田勝家・前田利家佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。

中国侵攻[編集]

天正6年(1578年)3月、播磨国別所長治の謀反(三木合戦)が起こる、

4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。

7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により放置された山中幸盛尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力であり東摂津に所領を持つ中川清秀高山右近は村重にはつかなかった。

同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。

天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。

11月、信長は織田家の京屋敷・二条新御所を、皇太子である誠仁親王に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・邦慶親王猶子として、この邦慶親王も二条新御所に移っている[注 30]

この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させたという。だが、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説も出ている[19][20][21]松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。

また伊勢国の出城構築を伊賀国国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した(第一次天正伊賀の乱)。

天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略した。8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。

天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。

京都御馬揃え~左大臣推任[編集]

天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した[22]。この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった[23]。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる[23]。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による[23]。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった[23]

2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行った(京都御馬揃え[23]。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …(中略)… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」とある。

3月5日には再度、名馬500余騎馬をもって信長は馬揃えを挙行した[24]。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり[23]、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという[24]

3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。

8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する大行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった[24]

高野山包囲[編集]

天正9年(1581年)、高野山荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる[24]。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党が組織する「高野大衆一揆」の関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した[24]。このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した[24]

信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令[24]。1月30日には高野聖1383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した[24]。10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした[24]。10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った[24]

天正10年(1582年)に入ると信長は武田征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した[24]。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した[24]。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了した[25]

甲州征伐[編集]

天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。7月には越中木舟城主の石黒成綱丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。3月23日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。

武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る[26]。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河から家康、相模から北条氏直、飛騨から金森長近木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した[26]。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5000人が諏訪上の原に進出する[26]

武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が2月14日に織田軍に投降する[26]。さらに織田長益、織田信次稲葉貞通ら織田軍が深志城馬場昌房軍と戦い、これを開城させる[26]。駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河から富士川を遡って甲斐に入国する[26]。このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた[26]

この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐新府に戻る[26]。しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放った[26]。勝頼は勝沼城に入った[26]。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した[26]。この時、俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた[26][27]

信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する[27]。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐の旧領を安堵した[27]。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野と信濃2郡を与え、関東管領に任命して厩橋城に駐留させた[27]。3月29日、穴山領を除く甲斐の領地を河尻秀隆に与え、駿河は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた[27]。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている[27]

4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた[27]。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける[27]。さらに江尻城、4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城した[27]。浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城[27]。4月21日に安土城へ帰城した[27]

三職推任[編集]

4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた(三職推任問題)。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが[注 31]、返答の内容は不明である。

本能寺の変[編集]

『本能寺焼討之図』(楊斎延一画、明治時代、名古屋市所蔵)

信長は四国長宗我部元親攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。

また北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

5月15日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた(家康謀殺のために招いたという説もある)。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている[注 32]

5月29日、信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが本城惣右衛門覚書からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自らを手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。享年49(満48歳没)。

光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。ゆえに、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説が後世に流布した。実際事件当時も信長の生存説が京洛に流れており、緊急に光秀と対立することとなった羽柴秀吉はこの噂を利用し、味方を増やそうとしている。


平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、寺が城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。

略歴[編集]

和暦 西暦[注 33] 日付[注 34] 内容 出典 年齢[注 35]
天文3年 1534年 5月12日 那古野城で誕生(勝幡城とも)。 1歳
天文4年 1535年 那古野城主となる。 2歳
天文15年 1546年 元服。三郎信長を名乗る。 13歳
天文18年 1549年 2月24日 濃姫と結婚。 16歳
上総介を自称する。
天文20年 1551年 父・信秀の死去により家督を相続。 18歳
天文23年 1554年 本拠を清洲城に移転。 21歳
弘治3年 1557年 11月2日 弟・信勝(信行)を暗殺。 24歳
永禄2年 1559年 2月2日 初上洛、13代将軍足利義輝に謁見。 26歳
永禄3年 1560年 5月19日 桶狭間の戦い今川義元を討つ。 27歳
永禄6年 1563年 本拠を小牧山城に移転。 30歳
永禄9年 1566年 尾張守を自称する。 33歳
永禄10年 1567年 8月15日 本拠を岐阜城に移転。 34歳
永禄11年 1568年 10月18日 義輝の弟である足利義昭を奉じて上洛し将軍職就任を助ける。 35歳
10月28日 従五位下弾正少忠 系図纂要
元亀元年 1570年 3月14日 正四位下弾正大弼 系図纂要 37歳
1571年 12月13日 勅命により浅井氏朝倉氏六角氏と和睦。
元亀4年 1573年 7月26日 義昭を畿内から追放、足利幕府は毛利家勢力範囲の備後へ遷る。 40歳
天正2年 1574年 3月18日 従三位参議 公卿補任[注 36] 41歳
3月28日 勅許を奉じ、東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る。
天正3年 1575年 11月4日 権大納言 公卿補任 42歳
11月7日 嫡男織田信忠秋田城介に就任(征夷大将軍を望むも義昭が辞職せず)
11月7日 兼右近衛大将(義昭の官位を越える) 公卿補任
11月28日 岐阜城を本拠とする織田家の家督を、嫡男・信忠に譲る。
天正4年 1576年 近江に新たな拠点となる安土城を築く。 43歳
11月13日 正三位 公卿補任
11月21日 内大臣。右近衛大将兼任。 公卿補任
天正5年 1577年 11月16日 従二位 公卿補任 44歳
11月20日 右大臣。右近衛大将兼任。 公卿補任
天正6年 1578年 1月6日 正二位 公卿補任 45歳
4月9日 右大臣・右近衛大将を辞す[注 37] 公卿補任
天正8年 1580年 3月5日 勅命により石山本願寺と和睦。 47歳
天正9年 1581年 2月28日 京都内裏東で京都御馬揃えを催す。 48歳
天正10年 1582年 6月2日 本能寺の変で自刃。 49歳
10月9日 従一位太政大臣を贈位贈官。 大徳寺文書
大正6年 1917年 11月17日 正一位を贈位。

人物[編集]

織田信長像 (神戸市立博物館蔵、重要文化財)

人柄[編集]

同時代人の証言から、その人物像や当時の評価がうかがえる。

  • 宣教師ルイス・フロイスは次のように記述している。「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲ルタールをとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。」[28]「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名な司令官カピタンとして、大いなる賢明さをもって天下テンカを統治した者であったことは否定し得ない[29]」「彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった[30]」「信長はほとんど全ての人を『貴様』と呼んだ[31]」「王[注 38](信長)は例のごとく、親切だ」「信長は生来純粋で、説得することが容易である」「その葬儀は、信長という非常に王者の風格をもつ、優れた人物に相応しいものとなった」[32]
  • 尾張の僧侶・天沢は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を橋本一巴、弓を市川大介、兵法を平田三位に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆松井友閑をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます[注 11]。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた(信長公記・首巻)。
  • 「(信長は)一段と礼儀を尽くす人だった」多聞院英俊の言[33]
  • 「吾々は徒党に加わらず、その上代々の国主に忠節を尽くしてきた(刃向かったり土地の押領などしなかった)ので、その振る舞いは誠に立派であるとして、信長公からお礼を言われた。信長公のご清意に励まされ、吾々は精進に励んだ。この時世に巡り会えたのは幸運である」『朝倉始末記』内『朝倉記』部分著者の言[注 39]
  • 「(茶器の)家宝を上様(信長)に召し上げられていたが、その理由を、上様は(使者を通して)一段と気を配ってお伝えになった。(私の素行に問題があったので)やがて返すべきと考えつつ、世間への戒めが必要なので延引しているとのことだった。そして家宝が返されたのは父の命日だった。この偶然の一致は(上様の配慮だろうか)ありがたいことだ」津田宗及の言[34]
  • 「我らは子々孫々まで、信長の尊霊拝むものなり」吉田兼見の言[35]
  • 「(信長の死は)嘆いても名残の尽きない涙である なおも慕われる亡き面影(七回忌の今)睦まじかった昔の人に向かいあう 虚しき空の紫の雲・・・」近衛前久の言[注 40]
  • 天正元年(1573年)11月、足利義昭の帰洛交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利氏の家臣・安国寺恵瓊は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、公家などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。
  • 浅井久政長政父子と朝倉義景の3人の頭蓋骨を薄濃(はくだみ。でかためて金箔などを張る事とされる)にし、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴のとして披露した(信長公記)。これは後世、髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話になっているが、こちらは一次史料にはない(「フロイス日本史」によれば信長は酒を好まなかったという)[注 41]
  • 弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信勝も一度は許している上に彼の遺児(津田信澄)の養育を手配し、元服後は一門衆として重用している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子(織田勝長)までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃して報復する(比叡山焼き討ち長島一向一揆殲滅)、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない(武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である)など、身内に手厚いともされる。
  • 信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。
  • 信長は自信家でありながらも世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたとされる(京都公家の日記などから)。
  • 長女の徳姫松平信康の妻)を除くと、生前に縁組させた冬姫らの娘達は個人的にも親交のある家臣である前田家丹羽家、若しくは少年時代から面倒を見てきた蒲生氏郷に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、女性に関する記録が少なかった当時にあって、織田家関連の女性たちの中には本名が正確に記録されている女性が多いため、信長は当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。
  • 自分の妻を尾張に残して岐阜に単身赴任した部下を叱ったり、羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁するなど、家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。
  • 『信長公記』によれば、美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ケ原町山中)に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年(1575年)6月、信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿二十反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという。信長は、自分に敵対する者に対しては苛烈を極め、家臣に対しても厳格であった一方、このように立場の弱い庶民たちに対しては寛大な一面もあった。
  • 長篠の戦いの時には、身分の低い足軽でありながらも自分の命を犠牲にして長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も愛知県新城市作手の甘泉寺に残っている。信長はこのように、身命をかけて忠義を尽くした者に対しては身分の上下に関係なく自らも最大限の礼を尽くした。
  • 最大の同盟者である徳川家康に対しては特に気を使っている。佐久間信盛を懲戒するにあたっては、家康が武田信玄に敗北した三方ヶ原の戦いを引き合いに、家臣に戦死者も出さず撤退したことを激しく非難している。また、第一次高天神城の戦いでは武田勝頼率いる武田勢の大軍に包囲された高天神城への増援が間に合わず奪われたが、2人がかりでなければ持ち上げる事も出来ない程の量の黄金を詰めた革袋を二つも家康に贈与して謝意を示している。天正10年、武田氏滅亡後に信長は東海道から帰京しているが、その際に家康から富士見物や大井川の舟橋など巨費を投じた盛大な接待を受けており、本能寺の変直前の家康上洛の際には、街道の整備や通過地の大名に接待役を命じ、後述のように信長自ら食膳を用意するなど、盛大な接待を行っている。
  • 荒木村重の説得に向かった黒田孝高(官兵衛)が帰還せず、同時期に孝高の主君・小寺政職が離反したことから、孝高も政職に同調して裏切ったものと考え、孝高の息子・松壽丸(後の黒田長政)の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていた事が判明した時には「官兵衛(孝高)に合わせる顔が無い」と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が竹中重治(半兵衛)に匿われていた事が分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。
  • 『信長公記』などの逸話によると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭を取る際などにはその姿を庶民の前に直接現している。天正9年7月15日のお盆では安土城の敷地全体に明かりを灯し、城下町の住民たちの目を楽しませるといった行動をとっており、「言語道断面白き有様」と記述され、後述の相撲大会の逸話などからも祭り好きであったと考えられ、自身が参加・主催することを好んだようである。その中でも特にユニークな逸話として、天正10年の正月に安土城の内部を一般公開し、武士・庶民を問わず大勢の人々を城内に招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客一人につき銭百文ずつ見物料を取り立てたという記録が伝わっている。
  • 重要なことを他人に任せず自身で直接何かを行った逸話が多い。
    • 桶狭間の戦いをはじめ、稲生の戦いでは自ら敵将を討ち取り、長良川の戦いでは殿軍をつとめ、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大将でありながら自らが先頭に立って奮戦している。大名自身が最前線に立って戦うことは異例であった。
    • 自ら刈田を行った。(高屋城の戦い[36]
    • 馬借が荷物の重さで言い争っているのを見て、馬から下りて自分で荷物の重さをチェックした。(本圀寺の変の出発前[37]
    • 客をもてなすために自らの手で食膳や茶皿を運んできた。(ルイス・フロイス[38]フランシスコ・カブラル[39]、徳川家康と穴山梅雪の一行[40]に対して)
  • 当時武士たちの間で一般的であった衆道も嗜んでおり、男色相手として前田利家については本人の証言が残っている[41]
  • 人を信用する心を持った武将と知られ、それに真っ向から応えた人物が、豊臣秀吉徳川家康である。

苛烈と云われる所業[編集]

  • 信長は宗教勢力が世俗の権力と一体化し、宗教としての意義を忘れていた事や僧侶の腐敗ぶりを厳しく批判した。この行為が後世苛烈と評されたが、当時は宗教勢力が自ら軍事力を持ち敵対勢力に対し軍事行動も取っていた時代であり、現に延暦寺も本願寺を焼討ちにしている。信長と同時代の史料では「ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『御湯殿上日記』にある程度で、それほど批判はない。また仏を信仰する事自体は禁止しておらず、武装解除した宗教勢力に対しては宗教としての本分を弁える様になったとして、信徒の信仰の自由を保障している。
  • 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの乳母乳首を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる(弁慶など)。
  • 観内という茶坊主に不手際があり、信長が激怒した。観内は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に観内を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀(長谷部国重作)は切れ味の良さから「圧切長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという(福岡市博物館蔵、国宝)。
  • 元亀元年(1570年)5月6日、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、天正元年(1573年)に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製ので首を挽かせ、長期間激痛を与え続け処刑した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に[42]徳川家康も家臣の大賀弥四郎に対して行っており、江戸時代公事方御定書には極刑の一つとして紹介されている(鋸挽き)。
  • 天正2年(1574年)の長島一向一揆では、信長は長島城の一揆衆を「偽装和睦で」討った、と『信長公記』に記されている。ただその一方で『フロイス日本史』では、偽装和睦で密かに兵を隠しおき、信長の兵や家族を討ったのは仏僧らの方であったと記している。しかし現在フロイスの記述は無視されることが多い。
  • 天正9年(1581年)、畿内高野聖1383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復だったという。また高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動だったともいわれている。
  • 天正6年(1578年)12月13日、尼崎近くの七松で、謀反を起こした荒木村重の一族郎党の婦女子122人を、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『信長公記』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。
  • 天正10年(1582年)4月10日、信長は琵琶湖竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは[注 42]桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したという。また侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、やはり殺されたという。ただし桑実寺の長老に関する記録が信長の死後である本能寺の変以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。この逸話の典拠は『信長公記』だが、そこには信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが「殺した」とは書かれていない。当時「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗(処罰)の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある[注 43]
  • 信長の敵勢力に対する行為の大半は当時の戦国大名の間で行われていたもので、信長だけが行ったわけではない。豊臣秀吉が天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国美作国播磨国の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は)した行為[43]武田信玄上杉謙信等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を奴隷として売却すること(ルイス・ソテロ等の日記)や敵方の女性を競売にかけたり(小田井原の戦い)といった行為もあり、戦国時代の道徳や常識の差異を念頭においてその行為を判断する必要がある。

交友関係[編集]

  • 上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深く、特に昵近する公家衆もいた。特に近衛前久とは最初は敵対していたにも拘らず、鷹狩りという趣味の一致などと相まって一際仲が良かったようである。
  • 天正3年(1575年)に京都相国寺今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらった。
  • 戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い。主に森成利(蘭丸)の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』では、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている。

南蛮への関心[編集]

  • 南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した「京都御馬揃え」にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年には戦場に赴く時にも南蛮胴を身に付けていた。
  • 好奇心が強く、まだ鉄砲が一般的でなかった頃から火縄銃の性能を重視し、長じて戦国最強の鉄砲部隊を編成するに至った。長篠の戦いでは3000丁もの鉄砲を用いて武田勝頼の軍に壊滅的な被害を与えたとされている。
  • アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、弥助と名付けて側近にした。記録によると、この黒人は身長六二分(約182.4cm)の大男で、「十人力」と称されるほどの怪力であったとされ、信長は単なる好奇心だけでなくこの黒人を実戦の役に立つ兵としても重用していたようである。信長は弥助を気に入り、ゆくゆくは弥助に領地と城を与えて「殿(との、城主)」にするつもりであったが[44]、その計画は本能寺の変により頓挫することとなった。なお、弥助は本能寺の変の際にも信長に同行しており、明智の軍勢を相手に最後まで奮戦したと伝えられる。
  • イエズス会の献上した地球儀時計地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようである。信長はローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年(天正13年)であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。ちなみにフロイスはバナナも献上しており、記録に残っている中では信長がバナナを初めて食べた日本人となっている。
  • 南蛮品の中でも興味のない物は受け取らず、フロイスから南蛮の目覚まし時計を献上された際には、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。

文化への関心[編集]

  • 当時の多くの戦国大名と同じく囲碁を愛好しており、囲碁の「名人」という言葉は信長発祥と言われている。(本因坊算砂の項を参照)
  • 幸若舞『敦盛』の「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。」という一節をよく舞った[注 11]
  • 大の相撲好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』から散見される。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという[注 44]。信長にとって相撲大会は単なる娯楽ではなく、有能な人材を外部から登用するための選抜試験も兼ねていたようである。
  • 和歌の教養もあり、上京した際に連歌師里村紹巴から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させたという(『信長記』)。
  • 茶の湯にも大きな関心を示した。これについては、「堺の商人との交渉を有利にするため茶の湯を利用していた」「茶器を家臣への恩賞として利用する目的があった」などといった説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている(信長公記より)ことから、もともと信長自身が純粋に茶の湯を楽しんでいたようである。
  • 三好義継が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた[45]。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったとは考え難い。単なる嗜好の問題の可能性もある。

肖像画[編集]

三宝寺所蔵の、信長を描いた肖像画とされるものを写した写真
  • 信長の肖像は、現在肖像画23点、肖像彫刻5点が確認されている[46]。代表的作品としてとして、狩野永徳の弟・宗秀が信長一周忌に描いたとされる、愛知県豊田市長興寺所蔵のもの(重要文化財)、同じく一周忌に描かれた古渓宗陳讃をもつ衣冠束帯姿の神戸市立博物館本(重要文化財)[47]、狩野永徳筆の可能性が濃厚で信長三回忌に描かれた大徳寺の肖像[48]近衛前久が信長七回忌に描かせ、追善のため六字名号を書き出しの一字に加えた和歌の賛がある京都市上京区報恩寺所蔵のもの[49]、および兵庫県氷上町が所蔵する坐像(「#第一次信長包囲網」参照)などが、信長の肖像画として伝えられている。
  • 天童藩織田家の菩提寺であった三宝寺仰徳殿には細密な肖像画とされるものの写真が残っている。太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、男らしくたくわえられた(ひげ)などが特徴である。1995年に作家の遠藤周作が「たかが信長されど信長」という対論集で紹介して以来著名となった[50]。遠藤によると信長の死後に宣教師が描いた絵を、明治になってから複写したものであるという[50]。三宝寺に現存するものは写真師大武丈夫によって明治中期に撮影されたものとみられている[50]
  • 青年の頃は、女子と見まがう美男子であったとする記録もある。身長は約170cm程度で[51]、500m向こうから声が聞こえたという逸話があるほど、かなり甲高い声であったという。

政策[編集]

日本統一政策[編集]

江戸時代以降、講談などによって「戦国時代の大名はすべて天下統一を夢見ていた」という歴史観が流布されてきた。しかしこれは誤りで、実際に日本を統一しようと考えていた者は信長と同時代にはいなかったか、いたとしても今川義元や武田信玄などごく少数だったと考えられる(もとの日本の主である天皇・将軍や、信長以後の人物を除く)。

なお、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であるとされ、現代では「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に解釈されることが多い。だが一方で中国の史書からの引用で、七徳の武という為政者の徳を説いた意味だったとも解釈される。そして信長が日本の統一を発想したのはこれを使い出した頃か、それより前であると考えられる。ちなみに中世後期において「天下」とは、現在の「日本、世界」といった意味のほかに、「畿内の領域」という意味もあった[52]

宗教政策[編集]

  • 基本的に不輸不入の権などの特権を認めているが、敵対行為をとったり、罪人をかくまったりした寺社に対しては厳しい措置をとった。天正9年(1581年)には、和泉槙尾山施福寺検地の指出を拒否したため、焼き討ちにした。
  • 宗門は法華宗を公称していたが、一向一揆や延暦寺に対する政策や、安土城の石垣に石地蔵や墓石を用いたこと、ルイス・フロイスの記載などから唯物論的思考法を身に付け、当時の僧侶についてはその横暴を非難し、キリスト教の宣教師を誉め、神仏の存在や霊魂の不滅を信じることはなかったとされる。ただし、織田信長が仏教勢力に対して厳しい姿勢で臨んだとする史料のほとんどは、仏教勢力と対立関係にあったイエズス会のものであることに注意する必要がある。さらに、信長が一向一揆を滅ぼそうとしたとする史観は、江戸時代に本願寺教団によって流布されたものであるとの研究もある。
  • 桶狭間の合戦の際に途中で熱田神宮に立ち寄って必勝を祈願し、大勝したので、その御礼として奉納した塀が信長塀として今でも残っている。祈願自体が戦意高揚のための手段との説もあるが、戦勝の礼として塀を寄進しているのは信長自体が宗教を否定せず、少なからず神仏の信仰心がある証拠とも取れる。また荒廃していた石清水八幡宮の修復に巨費を投じたり、120年間途絶えていた伊勢神宮式年遷宮を復活させるなど、神道復興への功績が大きい。
  • また一方では安土城天主内の天井、壁画に仏教道教儒教を題材とした絵画を使用したり、浄土真宗本願寺教団や天台宗山門派の宗教活動自体は禁止しなかった。
  • あるキリシタンの家臣(馬廻)が愛人と同居している事を知ると、教えに従っていない事を指摘し、宣教師たちが彼を咎めた事を知ると非常に喜んだ。この家臣が再び愛人と同棲すると、俸禄を没収し追放した。(フロイス日本史)
  • 1573年、武田信玄が敵対した際に(西上作戦)、民衆は比叡山などを焼いたために神仏の罰がくだったのだと噂したが、信長は「日本においては信長自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではない」と言ったという[53]
  • 摠見寺、もしくは安土城内に信長に代わる「梵山」と称する大石を安置して御神体とし、家臣や領民に礼拝するよう言ったと伝えられる(『日本史』)。
    • これら自己神格化については、朝廷(天照大神)と仏教勢力への対抗や、後に秀吉や家康が自分を神として祀らせていることとの関連などの学説がある。

朝廷政策[編集]

信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)がある。正親町天皇と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代以降は、今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇』を上梓し、桐野作人立花京子らが本能寺の変「朝廷黒幕説」を提示するなど論争が活発になっている[注 45]谷口克広は、各説を以下のように分類している[54]

以下、論点と双方の説について述べる[55]

正親町天皇との譲位問題[編集]

天正元年(1573年)12月に信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受け入れた。が、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。

  • 対立説(朝尾、今谷、奥野、藤木等)の解釈では、信長は朝廷に対しては金を出すだけでなく、口も出し、信長の言いなりにならない天皇と対立したとされる。また朝尾は、誠仁親王への譲位と足利義尋足利義昭の子)への将軍宣下を同時に行うことで、信長が両者を包摂した権力者になることを天皇が拒絶したとみている。
  • 融和説(谷口、橋本、堀、脇田等)では、天皇が譲位を望みながら、信長の経済的事情により実現しなかったとみている。これまで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった[注 46]。天皇の譲位は、信長の経済的助成によりはじめて可能となる。天皇側が譲位を希望しても、信長が同意しない限り譲位は不可能であった。天正9年(1581年)の京都御馬揃え直後、正親町天皇から退位の希望が信長に伝えられて、朝廷の内部資料である『お湯殿の上の日記』には同年3月24日に譲位が一旦決定して「めでたいめでたい」とまで記載されたにも関わらず、『兼見卿記』4月1日には一転中止になったと記されている。

天正9年京都御馬揃え[編集]

信長が天正9年(1581年)に行った京都御馬揃えについて、

  • 対立説(朝尾、今谷、立花、藤木ら)では、織田軍の力を見せ付けると同時に、朝廷への圧力、示威行動であったとされる。朝尾、今谷らは、譲位に応じない天皇を譲位させるための圧力とみ、立花は左大臣推任への圧力とする。
  • 融和説(谷口、橋本、堀、脇田ら)では、正親町天皇は馬揃えにおける信長側の好待遇に喜んで信長に手紙を送って御服を下賜し、信忠にも褒賞を与えている。また、馬揃えには太閤近衛前久ら公家も参加していた。そのため、朝廷を威圧する目的はなく、京都の平和回復を宣伝するとともに天皇を厚遇して朝廷尊重の姿勢を見せる政治的な目的があったとする。橋本は、織田家中の士気の高揚と畿内制覇を天下に誇示するためとし、堀は誠仁親王の生母である万里小路房子の死去に伴う沈滞した朝廷の雰囲気を払拭するために、朝廷から依頼され、信長が安土城で行わせた大規模な左義長を再現したとみる。

信長と官職(三職推任問題)[編集]

信長は尾張時代には上総介を称していたものの、直接朝廷より任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って官を得た父信秀とは対照的である。信長は、将軍義昭の追放後、天正2年に参議に任官、のち従二位右大臣に昇進。しかし天正6年に右大臣兼右近衛大将を辞した後、官職に就かず散位のままであった。

天正10年(1582年)5月、武家伝奏勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この際、信長が征夷大将軍太政大臣関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある(三職推任問題)。信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長の本心は不明である。

信長の官位奏請
信長の家臣のうちで正式に叙位任官された者はそれほど多くなく、修理亮(柴田勝家)や筑前守(羽柴秀吉)など従五位前後のものに留まった。また一族でも嫡子・信忠は従三位近衛中将まで昇ったが、その他の者の官位も高くはなかった。一方で、徳川家康佐竹義重といった同盟大名や家臣への官位奏請も行っている。

その他史料で見る両者の関係[編集]

  • 正親町天皇はある時、信長に対して左義長(火祭り)を共に見物することを誘った。「お湯殿の上の日記
  • 正親町天皇は信長が行った馬揃えを照覧し、「今度のことは筆にも言葉にも尽くしがたく唐の国にもないでしょう」と仰せになり、信長は「忝ない」と御礼を言上した。この時、天皇の皇子誠仁親王は、女房衆に紛れ、御忍びで馬揃えを見物した。「立入左京亮入道隆佐記
  • 誠仁親王は信長が死んだ際、自分はどうするべきか(信長の後を追って)切腹するべきかどうかを、明智(光秀)に質問した。「フロイス日本史
  • 誠仁親王の子、後陽成天皇は、直筆で総見院(信長の法名)と書いた額を、信長を弔う仏殿に恩賜した。「阿弥陀寺由緒之記録
  • 内裏で長年、御蔵職を務めた立入家は、その功績を評価しない徳川将軍に対し、「かつて信長公は、我家の天皇家への忠勤を高く評価して下された」と記し、不満を訴えた。「立入家文書」 

商業政策[編集]

  • 楽市楽座は信長が最初に行った施策と言われることが多いが、現在確認されている限りでは、近江南部の戦国大名であった六角定頼(信長に滅ぼされた六角義賢の父)が最初に行った施策である。
    • 信長は楽市楽座令を出す一方、座に安堵状も出している。ただし座の安堵状の内容が「これまで通りの権利を認める」というものにとどまっているのに対し、楽市だった美濃・加納を楽市楽座に、安土は新しく楽市楽座にするなど、信長の政策はどちらかといえば「楽」寄りである[56]
  • 不必要な関所を撤廃して経済と流通を活性化させた(当時は寺社も関所を持って税金を取り立てており、これが仏教勢力との対立にもつながっていると思われる)。
  • 質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた撰銭令を発令し、経済の基盤を安定させた。
    • 他大名や室町幕府の出した撰銭令と比べ、信長の撰銭令の特徴は「全ての銭に価値比率を定めている」点である[57]
  • 日本の中央政権としては初めて金銀に貨幣価値を定め、高額品の取引には金銀を使うことを推奨した[58]。その上で信長自身も茶器の購入や家臣への褒美に金銀を多用した。

人事政策[編集]

  • 能力主義を重視して、足軽出身の木下藤吉郎(羽柴秀吉)牢人になっていた明智光秀忍者出身とされている滝川一益などを登用する一方で、譜代の重臣である佐久間信盛林秀貞らを追放した。佐久間や林にはそれなりの実績があったが、同様の譜代家臣ながら北陸方面軍の指揮官として活躍する柴田勝家などと比すと物足りないものがあった。謀反を起こしながらも長年、汚名返上の姿勢が見られず、それでいて重臣として織田家に居座りつつ、活躍以上の利権を自己主張する佐久間に対し、懲罰的粛清を断行した。佐久間信盛には19ヶ条の折檻状を出した。それを要約するとただ有無を言わさず追放したのでは無く、隠棲するか命を懸けて手柄を立てるかを選ばせている。この折檻状や前田利家の復帰から、失敗を上回る功績を立てれば許したり、天正4年(1576年)北陸戦線で秀吉が勝家と作戦で仲違いしで戦線離脱した重大な違反行為を許したりする部分もあった。
追放した佐久間信盛・信栄に関しては、信盛の死後、信忠付きでの信栄の帰参を許した。信栄が反省したと判断したのかは不明だが、放置せず一定の復帰処置をしている。
松永久秀に対してもその実力を評価し、二度も反乱からの降伏を許している。このように、有能であれば、その罪を許し重用もしていた。
以上のように能力主義ではあるが、よく言われるような身分を超えた抜擢ということは行っていない。武士階級出身者とそれ以下(小者、町人、農民等)、または文化人などはほぼ明確に分けて登用、運用している。相撲大会の勝者や強者を登用したのは有名だが、この際も武士出身者は武士として、それ以外は厩番などの武士ではない職に登用している。
  • 本能寺の変の際、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来弥助がいた。彼は光秀に捕らえられたものの後に放免、以降は消息不明となった。この黒人もまた召使・小者として登用されていたが、宣教師の記録では信長は弥助を将来的に城主にするつもりである、ともある。ただし、信長の真意は不明。
  • 天正8年(1580年)、信長は佐久間信盛の追放時に家老の林秀貞を昔の謀反の罪で追放した。これは、24年前の信長家督相続に対する罪を問うたものだが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。これは大きな知行と重い地位だけで役に立たないものは佐久間と同等して追放する決心をしたものらしい。この時は準譜代の安藤守就とその子定治(武田家への内通嫌疑)、尾張の国人丹羽氏勝が同時追放されている[59]
  • 当時流行した茶の湯を家臣団掌握の手段など、政治的に活用し、一国に値する程の価値があった「名器と称される茶道具」を領地、金銭に代わる恩賞として与えたりもした。恩賞と領地加増の関係については、どの大名にとっても多かれ少なかれ頭の痛い問題であったのだが、信長はそれをうまく改善してのけたと言える。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号と上野一国の加増でがっかりしたという逸話がある(従来なら、土地の加増のほうが茶器よりもはるかに価値のあることのはずである)。
  • また、前記の通り誰でも参加できる相撲大会をたびたび開催し、武士・庶民の身分に関係なく成績の優秀な者を織田家の家来として登用していた。
  • 人事においては厳しい一面があったとされるが、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、秀吉を呼び出して厳しく叱責し、ねねに対しては励ましの手紙を送るなど、人間味を見せている。
  • 信頼性の高い史料には「家臣が信長に提言し、信長がそれを受け入れた」という話はほとんどない。逆に「信長が1人で戦場を視察し、布陣や作戦を決めた」という話は「信長公記」に数多く書かれている。信長の家臣の中に参謀的な人物は史料では見当たらない。
  • 信長はよく家臣の裏切りに遭遇しているが、(織田家譜代の臣ではないが)松永久秀、別所長治荒木村重らの反乱は、信長の性格に起因しているという説もある。上述にもあるが職務怠慢とされた女房衆を成敗し、彼らを庇った桑実寺の長老にも手が及んだとされるような、苛烈ともされる性格がその一因である、とする。(その一方で情を示すこともあった。)己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者がいる。[60]ただし、柴田勝家や松永久秀の裏切りを許容するなど、むしろ寛大という面も存在する上、戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事ということも考慮する必要がある。譜代の家臣であるなしを問わず、自身や我が家を第一として情勢が有利な方につく者がいても当然の時代であり、心情などが原因ではなく、信長包囲網などの情勢を不利とみて状況判断から信長と敵対した(陣営を離反した)などの解釈も十分考えられる。
  • 二条城築城のとき、信長は自ら工事現場の監督を担当していた。このとき、人夫が女性にちょっかいを出していたのを見て、有無を言わさずこの人夫の首を刎ねた、と伝わる[61]
  • 信長は斎藤道三の婿に当たるため、道三の近親の斎藤利治を取り立て、佐藤忠能の養子として加治田城主に命じ、領地と家臣団(加治田衆)を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある[62]

軍事[編集]

  • 精強な馬廻(直属部隊)を組織していた。この馬廻は数々の合戦で活躍している。
  • 500人の長槍隊と500人の鉄砲隊という、武装の統一された直属部隊を組織していた。
    • 毛利家にも旗本鉄砲という直属の鉄砲隊がいたが、大名権力の問題で各地の国人などに分散して配備せざるを得なかった。信長のそれはある一ヵ所の戦場に集中して運用できたことに特徴があったといえる[63]
  • 日本で初めて国産の大砲を鋳造し、船に搭載して使用した(第二次木津川口の戦い)。なお、陸上の戦いでも大砲を使用した形跡がある[64]
  • 多くの兵士を動員できるようになるにつれ、大量の付け城(砦)を築いて敵を包囲する、という方法を多くとるようになった。
  • よく根切り(皆殺し)を命じたように思われているが、実際に相手の降伏も許さず殲滅したのは寺社勢力との戦ぐらいで、甲州征伐・第二次天正伊賀の乱等の戦いでも一部の相手の降伏を受け入れている。寺社勢力との戦いでも、先に武力を行使したことは無く和睦を申し出たり仏法に則っての中立を促すなどをしていたが、相手がそれを一蹴したり破るなどをしていた。長島・越前の戦い等では相手を殲滅したが、その大元である顕如率いる本願寺との和睦も何度か受け入れている。また、高天神城の戦いでの家康方への手紙を見ると相手への威圧や敵の調略を容易にする行為として駆使していたことが窺える。
  • 信長の軍団は機動力に優れており、例えば六条合戦では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し、摂津に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。部下の秀吉も、いわゆる「中国大返し」や賤ヶ岳の戦いなどで高い機動力を見せている。
  • 織田家の軍役は明智光秀の家中軍法以外に見つかっていない。これを「これ以外には存在しなかった」[65]とみるか、「他にもこれと同じようなものが存在していた」[66]とみるかは、研究者の間でも見解の分かれるところである。

内政[編集]

  • 永禄6年(1563年)7月、信長は突然、居城と家臣の屋敷を二宮山に移すと宣言した。いきなりの命令であり、しかも山深い山間部への移転であったため、大半の家臣は不満を抱いたが、信長は「お前の屋敷はここ」などと次々と決めていってしまった。だがそれから数日後、信長は家臣に改めて居城を小牧山に移すと宣言した。小牧山なら二宮山ほど遠くなく、麓に川が流れていて物も運びやすかったため、家臣団は大喜びして賛意を示したという。そもそも当時は犬山城の織田信清と対立していたため、犬山に近い小牧山にも戦略上の反対意見があったが、信長は二段階の発布を行うことで、「二宮山よりはマシ」と家中の小牧山反対派の意見を巧みに封じた[67]
  • 織田政権による領域支配においては信長が上級支配権を保持し、領国各地に配置された家臣は代官として一国・郡単位で守護権の系譜を引く地域支配権を与えられたとする一職支配論がある。
  • 足利義昭と共に上洛した際、京の町で「銭一文でも掠奪した者は斬首する(一銭切り)」という厳正な取り締まりを行った。同時に当時荒れていた京の掃除などの整備も行っており、京の民衆はこれを歓迎したという。
  • その後、元亀4(1573)月の上京焼き討ちの際も同じ事を命じている。
  • 天正2年(1574年)から大規模な街道整備を行っている[注 47]。単に広く平らでまっすぐな道というだけでなく、一定間隔で飲食店が存在し、また工事範囲は織田家の領国全てと同盟者の徳川家康の領国にまで及ぶという画期的なものだった(征服した諸国にも順次敷設された)。これにより、自軍の行軍速度が速くなり、また街道における治安が向上し人の往来が容易となり、結果として商業が活性化する、などといった効果をあげた。民衆には大好評だったらしい。反面、敵の行軍速度も速くなるという短所があったので、他国では限定的にしか為されていなかった(武田家の棒道など)。
  • 当時全国でばらばらであったの統一規格として、織田領国では京枡を統一採用した。この枡は豊臣政権 - 徳川幕府にまで受け継がれた。この事により、年貢や物流の管理が正確に、かつし易くなった。また、地方地方でその地域の枡を認可していた商人や「座」(主に大商人の集団や寺社)の権益を奪い、弱体化させることに成功した。


偏諱を与えた人物[編集]

実現されなかった計画・構想[編集]

信長が構想していた計画・予定が、関連諸史料や豊臣秀吉の行跡から読み取る事ができる。

中国・九州平定計画
天正10年(1582年)5月17日に羽柴秀吉の援軍要請に応じて明智光秀や池田恒興、高山重友、中川清秀ら畿内の諸大名に動員令を出し、中国の毛利氏、九州の大名も屈服させる予定でいた[68]
四国平定計画
三男の信孝を三好康長の養子にして四国に渡海させようとしていた[69]。5月7日付の信長の朱印状には、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えようとしていた。伊予国土佐国に関しては、信長は四国平定後に戦後処理として淡路まで赴き、その際に残り2カ国の仕置も決める予定であった[70]
安土行幸計画
天正10年元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の御幸の間を見せている[71]。1月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている[72]。このため、天正10年かそれ以降に、天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる。
大坂築城
信長は石山本願寺と和睦したのち、大坂に城を築いていた。本能寺の変の時点では「千貫矢倉」が津田信澄に預けられていたという[73]。これはフロイス日本史の「本能寺の変の折、津田信澄は大坂城の塔(torre)を見張っていた」という記述と符合する。
大陸侵攻計画
ルイス・フロイスによれば、信長は日本を統一した後、対外出兵を行う構想を持っていた。フロイスの記述では、信長は「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して(中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え[74]」を持っていたという。なお堀杏庵『朝鮮征伐記』では、豊臣秀吉が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。秀吉はのちに明・天竺南蛮を征服せんとして文禄・慶長の役を行う。
その他
信長は本能寺の変のほぼ1ヶ月前に征夷大将軍太政大臣関白の三職推任を受けている(三職推任問題)が、フロイスは「予(信長)がいる処では、汝等(イエズス会宣教師ら)は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が(天)皇[注 48]であり、内裏である[75]」と記述しており、信長は足利義満のように自ら天皇になろうとしていたのではないかと推理する研究者もいる[誰?]

後世の評価[編集]

江戸時代初期では次のような記録が残る。

  • 「信長は勝って兜の緒を締める方で、余勢で一気に押さない方だった」「信長の因果は即座に現れ、岩村の城衆や甲州の高僧を焼殺したすぐ後に、自らも焼殺された」(大久保忠教[76]
  • 「信長は(光秀に)城を与えたら首を切られた」「与えれば破られる(裏切られる)ことを信長は知らなかった」(竹中重門[77]
  • 「信長卿は非常に義理堅い人だった」(神戸良政[78]
  • 「偉人信長の死は、彼の勇気、寛容、それに気がまえの気高さなどで、等しく全ての人々に惜しまれた」(アビラ・ヒロン[79]

また加賀藩前田利長泉野菅原神社を造営し、ひそかに信長を神として祀っており[80]肥後藩細川忠興(三斎)なども信長の菩提を弔うため、その法号「総見院殿泰巌信齢大居士」にちなんで泰巌寺を建立した[81]。 しかし一般的には小瀬甫庵の『信長記』での酷評に代表されるように[注 49]、江戸幕府の創始者として「神君」扱いされた徳川家康や『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉に比べると、庶民の間での評価はそれほど高くなかった。

そして中期以降になると、批判の論調がより強まっていく。

  • 「そのことは残忍なりと雖も、長く僧侶の凶悪を除けり。これもまた、天下の功有事の一つと成すべし」「すべてこの人(信長)、天性残忍にして、詐力をもって志を得られき。されば、その終りを 善くせられざりしこと、自ら取れる所なり。不幸にあらず。」(新井白石読史余論』)
  • 「信長は猜忌、(源)頼朝とり勝れり、その残暴は、頼朝の為さざるところなり。局量の狭小なるは、遥かに諸将に劣れり。 」(太田錦城梧窓漫筆』)
  • 「(直接の部下であった豊臣秀吉の言葉という形式で)信長公は勇将なり。良将にあらず。剛の柔に克つことを知り給いて、柔の剛を制することを知られず。一度敵せる者は、その憤怒ついに解けずして、ことごとくその根を断ち、その葉を枯さんとせらる。故に降を誅し、服を戮せられ、寇讐絶することなし。これ量狭く器小なるが故なり。人のために憚らるれども、衆のために愛せられず。」[82]などと評し、狭量さにより人望を得られなかったとしている。
  • また批判とは別にその人柄を表すとして 「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥(ホトトギス)」 という歌もある。これは江戸時代後期松浦静山の『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である[83]。ちなみにこの歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判したものだった。

その後明治時代になり勤皇思想が強まると、信長は御料所回復等を行っていたために勤皇家として評価され、明治2年(1869年)に明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した。明治3年(1870年)、天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が東京の自邸内と、藩内にある舞鶴山に織田信長を祀る社を建立した。信長には明治天皇から建勲神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。その後、明治13年(1880年)には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている。大正6年(1917年)には正一位を追贈された[注 50]。一方、神仏分離を推し進めていた明治政府や国学者は、各地の祇園信仰の神社(祇園社、天王社等)の祭神から牛頭天王を引き離すため「これらの神社は信長による社寺破壊の難を免れるために織田氏の信仰が篤かった牛頭天王を祀っていると称していただけであり、本意ではなかった」という説を作り上げ、祭神や社号を改めさせた。

戦後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。またルイス・フロイスが記した『日本史』の研究が進み、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動や「(信長が)自ら手紙に第六天魔王と記した」[注 3]という記述から「無神論者」、「破壊者」といったイメージが生まれ、1990年代には軍事・政治面で西洋に先駆けた発想が見られた事などが指摘され、そこから、信長がさらに存命すれば世界史的にも多大な影響があったのではないかという見方が生じ、その設定を利用したフィクション作品が数多く生まれている。 後の天下人である秀吉・家康が信長の臣下[注 51]であったことからその影響は計り知れず、日本史上、極めて重要な人物である。秀吉も家康も、後継者にそれぞれ織田の血を引く者を当てており、死後もその影響力は大きかったようである。

系譜[編集]

「織田は越前に在り。平氏の子孫、織田明神の神主となる」と江戸時代初期の史料には記されている[78]。これによると織田氏平氏で、元来神社の宮司をしていたことが窺われ、福井県丹生郡越前町織田にある劔神社の関係から古代豪族の忌部氏とも考えられる。

また織田氏藤原氏も自称し、越前に地盤を築いた後、守護大名斯波氏に従って尾張に派生した。朝倉氏とは当初からのライバル関係。祖父・信定から古渡城主で父の信秀の代で守護代を務める本家と同等に渡り合える力を持った。

先祖[編集]

兄弟[編集]


姉妹[編集]

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息子[編集]


庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。

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養女[編集]

猶子[編集]

一門衆[編集]

織田信定
織田信勝(織田信行)系
織田信張
織田信光
織田信康
他系


家臣[編集]

他に有力重臣として九鬼嘉隆細川藤孝荒木村重池田勝正松永久秀筒井順慶森長可毛利長秀西美濃三人衆などもいる。

墓所・霊廟・寺社[編集]

本能寺廟(本能寺 信長公廟)
本能寺廟(本能寺 信長公廟)
安土城廟(安土城址 織田信長公本廟)
安土城廟(安土城址 織田信長公本廟)
中京区廟所(京都市)
中京区廟所(京都市)
  • 「信長公廟」:京都市中京区本能寺[注 52]にある石造宝篋印塔入母屋造の廟屋。
  • 「織田信長公本廟」:京都市上京区寺町の蓮台山阿弥陀寺にある石碑。当時の住職清玉が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇しその遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝える。秀吉に遺骨の差し出しを求められており、信憑性が高い。
  • 「織田信長墓所」:高野山奥の院の五輪塔。明治以後忘れ去られていたが、1970年に再発見。
  • 京都市北区大徳寺塔頭の総見院の五輪塔。一周忌に秀吉が建立した寺院といい、遺骸が見つからなかったため、木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。名称は信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」による。
  • 「織田信長公本廟」:安土城二の丸跡
  • 「織田信長公御分骨廟」:富山県高岡市の高岡山瑞龍寺にある石造宝篋印塔。
  • 「織田信長父子廟所」:岐阜県岐阜市の神護山崇福寺の石碑。市指定史跡。信長の側室お鍋の方が遺品を贈り、位牌を安置したという。
  • 「信長公廟」:愛知県名古屋市中区の景陽山総見寺の石造宝篋印塔。子、信雄が清洲城下に菩提を弔うために立てた寺院。清洲越しにより名古屋に移る。
  • 「織田信長供養塔」:愛知県清須市の興聖山総見院
清洲越しで名古屋に移った34年後、総見寺跡に再建立された寺院。
  • 「織田信長信忠公供養塔」:大阪府堺市の南宗寺本源院
  • 明治時代には、信長を主宰神とする建勲神社が東京と天童に創建された。
  • 越前二の宮 剣神社」:福井県越前町(旧・織田町):信長は織田家発祥の地として氏神の社と崇め、神領を寄進し神社を保護した[84]
  • その他、各地に供養塔・伝承を持つ旧跡がある。
    • 岐阜市若宮町の橿森神社では、信長が美園で開いた楽市楽座市神が橿森神社の御神木に祀られたという伝えがある。
    • 愛知県清須市清洲古城跡に信長を祀る神明造の小祠がある。
    • 「南蛮寺の鐘」:京都市右京区にある臨済宗大本山妙心寺の塔頭寺院、春光院所蔵。(南蛮寺は信長が京都に建てたキリスト教会堂。)
    • 天正寺:山崎の戦い後、秀吉は信長を弔うため、京都船岡山に寺建立を計画、天正寺という寺号を朝廷から賜るが、天正16年(1588年)、建立責任者の蒲庵古渓が秀吉の怒りを買って追放、建立には至らなかった。のちに建勳社の社地として船岡山が選定された。
    • 伝織田信長の首塚:静岡県富士宮市西山本門寺: 第18世住職、日順上人の父、原宗安(原志摩守)が本能寺の変の際、戦死した自分の父原胤重と兄原清安(原孫八郎)の首と本因坊算砂の指示で信長の首を本門寺まで持ち帰り柊を植え首塚に葬ったという。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ a b 余語正勝が天正11年6月2日1583年6月21日)に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。
  2. ^ ルイス・フロイス説「フロイス日本史」より。 ただしこの日付は歴史研究家松田毅一が算出したもの。松田は「フロイス記事の『信長は己の誕生日を祝ってから、わずか19日後に死亡した』が事実であれば信長生誕は5月12日になる」としている(『回想の織田信長』中公新書1973年)
  3. ^ a b 「日本耶蘇会年報」より、ルイス・フロイスが1573年4月20日(=天正元年3月19日)付けでイエズス会に送った書簡から。武田信玄が西上作戦にあたって信長へ送った書状に「天台座主沙門信玄」と記してあったため、信長は返書に「第六天魔王」と署名したというもの。この時期、信玄は比叡山焼き討ち後に逃れた天台座主覚恕法親王を甲斐に保護していた。これらの自称について他の史料はない。また、信玄はこの書簡の後にほどなく没している。
  4. ^ 天正10年9月11日柴田勝家夫妻が妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
  5. ^ 異母兄が2人いるとする説がある。この説は小和田哲男によるもので、『武功夜話』などに基づくことから信憑性が薄い。この異母兄とされるのが庶兄・信広と異母弟・信時(秀俊)であるが、信時は他史料や系譜では五男または六男とされているため、織田氏研究者の間で議論になっている。
  6. ^ 一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。
  7. ^ 井原今朝男の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である甘露寺親長の妻(南向)を輩出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の口入(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され(『親長卿記』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条)、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される(井原『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年)P203)。
  8. ^ 正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。
  9. ^ 信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。
  10. ^ 信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。
  11. ^ a b c 幸若舞の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは謡曲の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている(詳細は敦盛 (幸若舞)を参照)。
  12. ^ 前者は綸旨、後者は女房奉書によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる(藤井譲治「天皇と天下人」)。
  13. ^ ただし、六角氏嫡流は別にあり、嫡流の六角義秀六角義郷は信長に庇護されたとする異説もある。
  14. ^ 信長公記によれば、当時、岐阜から京都までは3日はかかったという。
  15. ^ 大久保忠教の記した『三河物語』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。
  16. ^ 近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2009)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007)。
  17. ^ 元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「西上作戦」と通称され、信玄は上洛を目指していたとされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2007年)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など
  18. ^ 室町幕府の事実上の滅亡により、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている(神田千里「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002)
  19. ^ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている(『御湯殿上日記』)。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある(神田裕理「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年)。
  20. ^ これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が朝廷からも認められていることを知った諸大名、特に奥州からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。
  21. ^ 信長公記』による。佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人。ただし、この部隊以外の部隊が所有した火縄銃の数は不明。また、徳川方の鉄炮衆もいる。さらに、鳶ヶ巣山砦攻撃別働隊には馬廻鉄炮衆五百が付けられている。いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説もある。
  22. ^ この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より偏諱を賜り信昌と改名している。
  23. ^ このとき、信長は村井貞勝に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。
  24. ^ このとき従軍した前田利家の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。
  25. ^ 「安土」という地名は信長が命名したとも(「細川家記」)、元々あった地名だとも言われる。
  26. ^ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
  27. ^ 本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった
  28. ^ 織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した(手取川の戦い)というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。
  29. ^ 無論当時にはそのような名称は無かった。
  30. ^ 「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである(藤井譲治『天皇と天下人』より)。
  31. ^ 「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(天正十年夏記5月4日条 立花京子「信長権力と朝廷」)
  32. ^ この時の献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される(江後迪子『信長のおもてなし』2007)
  33. ^ ユリウス暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
  34. ^ 宣明暦長暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
  35. ^ 数え年
  36. ^ 但し『歴名土代』は従五位下・同日昇殿とする。
  37. ^ このとき織田家の家督・信忠は従三位左近衛中将。
  38. ^ 当時西洋人は日本の大名たちを王と呼んだ(豊後の王、薩摩の王など)
  39. ^ 執筆者不明、おそらく越前の住人。
  40. ^ 原句:惣見院前右大臣東岳融泰(信長)の七廻(七回忌)に六字の名号を句ことのかしらにすへて(据えて)追善の和歌をよみけり 准三后龍山(近衛前久)
    • なけきても名残つきせぬなみた哉 猶したはるるなきかおもかけ むつましきむかしの人やむかふらむ むなしき空のむらさきの雲 あたし世のあはれおもへは明くれに あめかなみたかあまるころもて みても猶みまくほしきはみのこして みねにかくるるみしかよの月 たつねてもたまのありかは玉ゆらも たもとの露にたれかやとさむ ふくるよのふしとあれつつふく風に ふたたひみえぬふるあとの夢  天正十六年六月二日
  41. ^ 髑髏を薄濃にするというのは、「史記」にも記載されている「戦で討ち取った敵に敬意を表してその勇気を自分に取り込む」という意図のもと死者への敬意を表す古代中国からの習慣であるとされる。
  42. ^ 安土城と竹生島の間は往復で約30里(約120km)の距離がある
  43. ^ 「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちのひとりかふたりは処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日にはひとりも生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」(『完訳フロイス日本史2 信長とフロイス』第32章より)
  44. ^ 具体的な例として、天正6年(1578年8月15日に行われた相撲大会には約1500人が参加し、信長はその中から優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ百石で召し抱え、彼らには家まで与えたという。
  45. ^ ただし、今谷は「朝廷黒幕説」については全面的に否定しており、桐野も「朝廷黒幕説」をのちに撤回している。
  46. ^ 後花園天皇までの中世の歴代天皇は譲位して上皇ないしは法皇となり、治天の君として院政を敷くのが基本であった。しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている)。このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。
  47. ^ *天正2年(1574年)末、信長は坂井文介・高野藤蔵・篠岡八右衛門・山口太郎兵衛を御奉行として、諸国に道を作るよう朱印状で命じた。道の広さは三間半に定め、険しい道をならし、石を取り除いた。また、道の左右に松と柳を植え、その土地の人々に水をやり、掃除をするよう命じた。陸だけでなく、川・入り江には舟橋を作らせた。工事は翌天正3年(1575年)の正月中に完成した。これと以前から行っていた諸関・諸役の免除とが合わさり、旅の障害が無くなったので、人々は牛馬を使い、安心して行き来し、民の生活は安定した。皆「ありがたい事である」と両手を挙げて感謝し、信長が東方朔西王母のように長寿で、須達(=スダッタ)のように裕福になるようにと望んだ。(信長公記・巻8)
    • 安土の町から都まで陸路十四里の間に、彼は五、六畳の幅を持った唯一の道路を造らせ、平坦で真っ直ぐにし、夏には陰を投ずるように両側には樹木を植え、ところどころにホウキを掛け、近隣の村から人々が常に来て道路を清掃するように定めた。また彼は全道のりに渡り、両側の樹木の下に清潔な砂と小石を配らせ、道路全体をして庭のような観を呈せしめた。一定の間隔を置いて休息できる家があって、旅人はそこで売っている豊富な食料品を飲食して元気を回復した。そして以前その諸国では、少なくとも道連れのない一人旅の場合には、日中でもあまり安全ではなかったのであるが、彼の時代には、人々はことに夏には常に夜間旅をした。彼らはその荷物をかたわらに置き、路傍で眠り込んでも、他の人々が自宅においてそうできたほど安全となった。彼は道中のこの秩序と設備をその統治下の多数の諸国において実施させた。(フロイス日本史)
    • (安土と京都の間にある比叡山の山岳を)全て手で切り通させ、以前には人々が苦労をし、馬も非常な困難を嘗めてようやく登り得たひどく険しい道をまったく平らにし、なんらの障害がないようにした。かくてそれは快適な道路、広大な通路となり、牛車も婦人の駕籠もなんらの困難なしに通行している。
    • 近江の湖が狭くなり、激流と急流を伴う瀬田というところに、四、五千クルザードを費やしたといわれる立派な木材の橋を架けさせた(=瀬田の唐橋)。それは四畳の幅で、百八十畳の長さがあり、形は極めて完全であった。彼はそのほとんど中央の片側に一軒の非常に快適な休憩所を自分のために作り、そこを通行するとき休息できるようにした。(信長の)この好意と民衆の賛意のため、一般の人々はますます彼に心を惹かれ、彼を主君に持つことを喜んだ。(同上)
    • また1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇Ⅰ 第34章』)。
      • このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章
  48. ^ 松田毅一が翻訳した「日本巡察記」(ヴァリニャーノ著)では、「予が国王であり~」となっているが、松本和也はこれは誤訳であると指摘している。なぜなら原文の当該部分には、ポルトガル語で国王を意味する「rei」ではなく、宣教師たちが天皇の意味で用いていた「Vo(オー)」が使われているからである。ちなみに原文は「elle era o mesmo Vo & Dairi」であり、直訳すると「彼が正にオーでありダイリなのだ」となる。(『歴史評論』680号所収、松本和也「宣教師史料から見た日本王権論」より
  49. ^ ただし大久保忠教は「信長記は嘘が多い」と断じている。(『三河物語』)
  50. ^ 同位階を贈られたのは現時点では信長が最後となっている
  51. ^ 家康は同盟者であるが、実質的には信長の方が勢力・立場的にも上であった
  52. ^ 本能寺の変で焼失後、場所を移して再建。

出典[編集]

  1. ^ 寒川辰清説「近江国與地史略」より。
  2. ^ 尾州古城志
  3. ^ 国史大辞典』 織田信長の項目 吉川弘文館
  4. ^ 中日新聞2014年7月4日信長生誕地「勝幡城説」播磨中京大教授が愛西で講座
  5. ^ 「国友鉄砲記」
  6. ^ 信長公記
  7. ^ 林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁
  8. ^ 藤井譲治「天皇と天下人」
  9. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、50頁。
  10. ^ 信長、幻の上洛計画=足利義昭の書状発見―熊本
  11. ^ 藤井譲治「天皇と天下人」
  12. ^ 林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁
  13. ^ 『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変謀略説を嗤う』鈴木眞哉、藤本正行 P.125-126 洋泉社新書y 2006年
  14. ^ 『信長軍の司令官 武将たちの出世競争』谷口克広 P.94-95 中公新書 2005年
  15. ^ 『織田信長合戦全録』谷口克広 P.129-131 中公新書 2002年
  16. ^ 信長公記
  17. ^ 『信長と家康―清須同盟の実体』谷口克広 P.201・202 学研新書 2012年
  18. ^ a b 藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁
  19. ^ 典厩五郎『家康、封印された過去』(PHP研究所 1998年)
  20. ^ 盛本昌広『松平家忠日記』(角川選書 1999年)
  21. ^ 谷口克広『信長と消えた家臣たち』(中公新書 2007年)
  22. ^ 西ヶ谷恭弘『織田信長事典』P205
  23. ^ a b c d e f 西ヶ谷恭弘『織田信長事典』P206
  24. ^ a b c d e f g h i j k l 西ヶ谷恭弘『織田信長事典』P207
  25. ^ 西ヶ谷恭弘『織田信長事典』P208
  26. ^ a b c d e f g h i j k l 西ヶ谷恭弘『織田信長事典』P210
  27. ^ a b c d e f g h i j k 西ヶ谷恭弘『織田信長事典』P211
  28. ^ 完訳フロイス日本史2 32章(本来の第1部83章)
  29. ^ 完訳フロイス日本史3 58章(本来の第2部43章)
  30. ^ 完訳フロイス日本史2 34章(本来の第1部85章)
  31. ^ 完訳フロイス日本史2 36章(本来の第1部87章)
  32. ^ 耶蘇会士日本通信』『フロイス日本史
  33. ^ 多聞院日記
  34. ^ 津田宗及茶湯日記
  35. ^ 兼見卿記
  36. ^ 信長公記・巻8
  37. ^ 信長公記・巻2
  38. ^ 『完訳フロイス日本史2』第38章(本来の第1部89章)
  39. ^ 『完訳フロイス日本史2』第42章(本来の第1部95章)
  40. ^ 信長公記 巻15 家康公 穴山梅雪、奈良境御見物の事
  41. ^ 近代デジタルライブラリー「利家夜話三巻」pp.7
  42. ^ フロイス日本史より
  43. ^ 同年12月5日の羽柴秀吉書状
  44. ^ 『イエズス会日本年報』より
  45. ^ 『武辺咄聞書』より。『常山紀談』にも同様の記事が見られる。
  46. ^ 田村英恵 「織田信長像をめぐる儀礼」黒田日出男編『肖像画を読む』 角川書店、1998年、176頁。ISBN 978-4-04-821057-7。ただし、その内訳や所蔵先などの記載はない。
  47. ^ 文化庁オンラインに画像と解説あり[1]
  48. ^ 山本英男 「大徳寺所蔵の狩野永徳筆織田信長像について ─修理で得られた知見を中心に─」、『京都国立博物館學叢』所収、2011年。なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。
  49. ^ 藤本正行 『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』(洋泉社、2010年 )口絵参照、ISBN 978-4-86248-638-7。また、これに忠実な模本が東京国立博物館に所蔵されている(画像)。
  50. ^ a b c 「織田家の菩提寺に残る信長の肖像画について」 - 『中学校 歴史のしおり』2006年1月号(帝国書院
  51. ^ 比較資料:1 E0 m#脚注・出典
  52. ^ フロイス日本史など。
  53. ^ 1573年4月20日付け、ルイス・フロイス書簡 「イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第4巻」所収
  54. ^ 谷口克広 『検証本能寺の変』 138-139頁、ISBN 978-4642056328
  55. ^ 谷口克広 『検証本能寺の変』 103-141頁。
  56. ^ 「増訂 織田信長文書の研究」
  57. ^ 鈴木公雄「銭の考古学」p.136
  58. ^ 永禄十二年 上京宛て精銭追加条々。「増訂織田信長文書の研究」所収
  59. ^ 『信長と消えた家臣たち』谷口克広 P.124-128 中公新書 2007年
  60. ^ 『信長と消えた家臣たち』谷口克広 P.256-259 中公新書 2007年
  61. ^ ルイス・フロイス『日本史』
  62. ^ 富加町史編集委員会 「第二代加治田城主斎藤新五」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、227頁。
  63. ^ 『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力 戦国最強の兵器図鑑』新人物往来社,2010
  64. ^ 桐野作人「織田信長 戦国最強の軍事カリスマ」
  65. ^ 池上裕子「織豊政権と江戸幕府」など
  66. ^ 桐野作人「織田信長 戦国最強の軍事カリスマ」
  67. ^ 信長公記 首巻
  68. ^ 「今度間近に寄合ひ候事、天の与ふる所に候間、御動座なされ、中国の歴々討果し、九州まで一篇に仰付らるべきの旨上意「信長公記」巻15」
  69. ^ 「三七郎殿(=信孝)、阿州三好山城守(=三好康長)の養子として御渡海」と石山本願寺顕如の右筆・宇野主水の日記より。
  70. ^ 「其儀、淡州(淡路国)に至れり時に申し出すべき事」(信長公記)
  71. ^ 「信長公記」巻15
  72. ^ 晴豊公記
  73. ^ 細川忠興軍功記
  74. ^ ルイス・フロイス 日本史 第55章
  75. ^ 1584年12月13日付け、ルイス・フロイス書簡。「フロイス日本史 五畿内編Ⅲ」53章 脚注より
  76. ^ 三河物語
  77. ^ 『豊鏡』
  78. ^ a b 勢州軍記
  79. ^ 日本王国記』第4章「彼は体格のよい、背の高い、よく均整のとれた人物で、眼は大きく、鼻の高い、小麦色の肌で、神経の強靭な、やせて、毛深い、素晴らしい武士で、しかも気さくで、面倒くさい儀式ばったことを極端に嫌った。日本では屋形や大身の領主たちは、地面の足をつけたり、徒歩で歩くということはできないというのが風習であった。しかしこの武張った王者は、国王や太守(セニョール)は武人でなくてはならぬ、決して家の中に閉じこもった上臈ではないはずだと、いつも言っていた、だから、彼は草履だの藁でつくった履物をはいて、支柱を歩いたり、馬に跨って行った。またいずれかの城とか宮殿を造営している時には、その工事現場へ着くと馬から降りて、一枚の虎の皮をとって、これを腰の周りにまとった。そうして、その必要があったり、その方が便宜だという時には、地面にそれを敷いてその上に座ったし、自分の造営している工事に出かけて行くばかりでなく、彼に仕えている殿や家臣が造っている邸宅を見に行くことを楽しみにして、よく設計図を所望した。そしてそれが彼の気に入ると、結構だと是認したが、それがお気に召さないと、けなしつけて、それを手に入れて直したものである。」「世間で言われているように、信長は礼儀に厚い人だった。そんな彼だから、礼を怠ることはなかっただろう」「彼は度量の広い、勇壮な人物がおのずから具えている性質、つまり人の好意に感謝することもできる人だった」「信長は生来やさしい人柄だったし、彼の人に対する扱い方のおかげで、彼の声望は、この王国の多くに伝わった」
  80. ^ 「信長像、10年ぶり確認 金沢・泉野菅原神社」北国新聞HP [2]
  81. ^ 「織田信長菩提所の泰巌寺廃寺跡(市指定)」八代市公式HP[3]
  82. ^ 『名将言行録』1854年(安政元年)〜1869年(明治2年)に作成。
  83. ^ q:時鳥#川柳
  84. ^ 越前二の宮 劔神社(剣神社)

参考文献[編集]

関連事項[編集]

史料[編集]

行事、祭礼[編集]

関連作品[編集]

小説[編集]

  • 『信長』坂口安吾、筑摩書房、1953年。宝島社〈宝島社文庫〉、2008年。
  • 「桶狭間」(『異域の人』収録)井上靖、講談社、1954年。
  • 『織田信長』山岡荘八、講談社〈山岡荘八歴史文庫〉、1961年。
  • 『炎の柱 織田信長<上・下>』大仏次郎、徳間書店〈徳間文庫〉、1962年。学陽書房、2006年。
  • 国盗り物語司馬遼太郎、1967年。
  • 『寸法武者 八切意外史5』八切止夫、講談社、1967年。作品社、2002年。
  • 『安土往還記』辻邦生、筑摩書房1968年。新潮社〈新潮文庫〉、2005年。
  • 『天目山の雲』井上靖、角川書店〈角川文庫〉1975年。
  • 下天は夢か津本陽、1989年。
  • 『決戦の時』遠藤周作、講談社、〈講談社文庫〉、1991年。
  • 『織田信長<全六巻>』鷲尾雨工、富士見書房〈時代小説文庫〉、1991年。
  • 『鬼と人と<上・下>』堺屋太一、PHP研究所〈PHP文庫〉、1993年。
  • 『炎の人 信長<1 - 6>』桑原譲太郎、徳間書店、1995年、1996年。電子書籍館 桑原譲太郎の世界、2009年。
  • 「峻烈」(『忠直卿御座船』収録)安部龍太郎、講談社〈講談社文庫〉、2001年。
  • 『信長燃ゆ<上・下>』安部龍太郎、新潮社〈新潮文庫〉、2004年。
  • 信長の棺加藤廣、2005年。
  • 女信長佐藤賢一、2006年。
  • 織田信奈の野望春日みかげ、GA文庫、2009年。
  • 『信長私記』花村萬月、2012年。

漫画[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

以下は織田信長が主人公の場合。重要な人物なので脇役や準主役となると作品も演じた役者も膨大な数にのぼる。

コンピューターゲーム[編集]

ボードゲーム[編集]

カードゲーム[編集]

アニメ[編集]

歌謡曲[編集]

  • 織田信長 (三波春夫
  • 長編歌謡浪曲 信長 (三波春夫)
  • 敦盛2011 (信長と蘭丸) -『戦国鍋TV』における、信長(村井良大)と蘭丸(鈴木拡樹)のデュエット曲。
  • 敦盛2013 (信長と蘭丸) -『戦国鍋TV』における、信長(村井良大)と蘭丸(鈴木拡樹)のデュエット曲。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]